主日礼拝

献金の信仰

「献金の信仰」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 歴代誌上 第29章10-20節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第20章45―第21章4節
・ 讃美歌:3、159、521

二つの話
 本日ご一緒に読みますのは、ルカによる福音書第20章の終わりから21章の始めにかけての所です。ここには二つのことが語られています。20章の45節以下には、主イエスが弟子たちにお語りになった、律法学者に気をつけるようにという教えが、21章の始めのところには、貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を献金するのをご覧になって主イエスが語られたお言葉が記されているのです。この二つの話は、扱っている事柄は全く違いますが、しかしつながっていると言うことができます。この二つの話をこの順序で続けて語っているのはマルコ福音書が元であって、ルカはそれを受け継いでいます。ルカにおいてはこの二つの話の間に章の切れ目が入れられていますが、聖書の章や節は後から便宜的につけられたもので、マルコではそうなってはいません。ルカもこの二つの話をもともとセットとしてマルコから受け継いだのです。この二つの話がどういう意味でセットなのかを考えることが、本日の箇所を読む上での大事なポイントの一つとなります。

献金の信仰
 さて本日の説教の題を「献金の信仰」としました。これは言うまでもなく、21章1節以下の、貧しいやもめの献金の話を意識した題です。そこに、私たちも行なっている、神様への献げものとしてお金を献げる献金の意味が語られている、その献金の信仰をここから学ぼうという思いでこの題をつけました。この「献金の信仰」と、20章45節以下の、律法学者に気をつけなさいという教えの関係を考えていくことも、本日の課題です。そして「献金の信仰」という視点で本日の箇所を読むことには私たちの教会としての理由があります。私たちは今年度、この四月から、献金の報告の仕方を変更しました。これまで長年にわたって、献金した人の名前と、それぞれが献げた金額を記したプリントを毎月作成し、教会員に配布していました。つまり月定献金、感謝献金、特別献金を誰がいくらしたかが全て分かる報告の仕方をしていたわけです。それを4月から廃止し、その月に献金した人の名前と、皆が献げた献金の総額のみを発表する、ということに変更しました。そしてこの変更を機に、長老会としては、献金を私たちの信仰においてどのように捉え、受け止めるべきかということ、つまり「献金の信仰」を教会全体で改めて学ぶ必要があると考えています。そのための研修会のようなものを開く時間がなかなか取れずにいますが、本日の礼拝はその学びの一つの大事な機会となります。献金について聖書から聞いていく時に必ず取り上げられる箇所の一つがこの21章1節以下の「やもめの献金」の話なのです。

レプトン銅貨二つ
 そういうわけで、本日は先ず、21章のやもめの献金の話から見ていきたいと思います。エルサレムに来られた主イエスは、毎日神殿の境内で集まって来た人々に教えを語っておられました。19章の終わりのところ以来、舞台はずっと神殿の境内です。そこに「賽銭箱」があり、人々がそこに神様への献げものとしてお金を入れていた、ということがここに語られています。「賽銭箱」は私たちにとっては神社やお寺において見慣れたものですが、エルサレム神殿における「賽銭箱」と呼ばれるものがどのようなものだったのかはいろいろな説があってはっきりしません。とにかくここに語られているのは、立派な身なりをした金持ちたちが多くのお金を献げている様子と、貧しいやもめがレプトン銅貨二つを献げた様子とを、主イエスが見ておられた、ということです。ルカは金持ちたちの献金が「多かった」とは語っていませんが、マルコにおいては「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。誰が見ても分かる多額な献金を彼らはしていたのです。それに対して、マルコもルカも共通して、一人の貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れたと語っています。レプトン銅貨については、聖書の後ろの付録にある「度量衡および通貨」の表を見ていただくと、「ローマの銅貨で、1デナリオンの1/128」とあります。前の口語訳聖書では「レプタ」と訳されていました。「レプタ」は「レプトン」の複数形です。ですから、レプトン銅貨二枚で二レプタとなるのです。それは1デナリオンの1/64ということになります。1デナリオンが、一人の労働者の日当ですから、日当の64分の1のお金を、このやもめは献げたということです。それは確かにとても小額です。金持ちたちが献げた多額の献金に比べたら本当に取るに足りないお金です。しかし当時は、女性が男性と同じように働いて賃金を得られる時代ではありません。夫を失ったやもめは、よほどの財産を受け継いでいない限り、基本的に収入のない、貧しい生活をせざるを得なかったのであって、親戚などに頼って養ってもらうしかなかったのです。ですから聖書において、「みなしごとやもめ」は社会的弱者を代表する言葉としてしばしば語られています。このやもめにとっては、男性が普通に働いて得る日当の64分の1の金額であっても、とても大きな、貴重な、なけなしのお金だったのです。主イエスはそのことをしっかりと見て取られました。そして、「確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである」とおっしゃったのです。主イエスはここで同時に、金持ちたちの献金のこともしっかり見ておられます。つまり彼らが「有り余る中から献金した」ことを見て取っておられるのです。それに対してこのやもめが、「乏しい中から持っている生活費を全部入れた」ことを主イエスは見つめておられるのです。

自発的な献金
 主イエスのこのお言葉は、金持ちたちの献金とやもめの献金とを比較して、一番多く献金したのは誰か、ということを語っています。「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」と彼女を褒めておられるのです。そこには、たくさん献金することの大切さ、それを主イエスが、そして父なる神様がお喜びになることが示されています。私たちがたくさんの献金をすることを主イエスは喜ばれるのです。それは何故でしょうか。神殿に献金されたお金は主イエスの懐に入るわけでは全くありません。また、世の中の貧しい人々を助けるために使われるわけでもありません。そういうことに用いられる部分がある程度はあるとしても、多くは、祭司たちの生活のために、また神殿の建物や備品のために用いられるのです。その祭司たちは今、律法学者たちと結託して、なんとかして主イエスを陥れて破滅させようとしています。そういう人々が豊かな暮らしをするために、この献金は用いられるのです。そういう現実を知りながら、主イエスは、たくさんの献金をすることを喜び、勧めておられるのです。それは、これが何のために使われるのかを見つめてのことではなくて、この献金が主なる神様への信仰、信頼の表明として献げられるものだからです。献金は神様への献げものです。献金をすることは、何かの会に所属してその会費を払うのとは全く違います。あるいは国や地方自治体に税金を納めるのとも違います。会費や税金は会員や国民の義務ですが、献金は、神様を信じる信仰によって、自発的にお献げするものです。それゆえに、そこに私たちの信仰が、神様への思いの度合いが現れます。神様に何を献げているかに、その人が神様のことをどれくらい思い、信頼して生きているかが現れるのです。その人の心や生活における神様の位置づけが現れると言ってもよいでしょう。主イエスは、「あなたの富のある所にあなたの心もある」とおっしゃいました。そういう意味で、たくさん献金をしているということは、神様をそれだけ信じ、信頼し、また生活の全てにおいて神様と共に生きているということなのです。このことを別の角度から言うならばこうなります。お金は私たちの命、人生を代表するものです。それは、人生お金が全てだ、ということではなくて、私たちが例えば一日働いて1デナリオンの賃金を得るとしたら、その1デナリオンは私たちの一日の命、人生の中の一日と置き換えられるということです。ですから例えば1デナリオンの献金を献げることは、その一日の命を、生活を、神様にお献げすることを意味するのです。ですから献金は単にお金を献げているのではありません。私たちの命、生活、人生を、その一部を、神様にお献げしているのです。献金は「献身の印」だと言われるのはそのためです。献身、つまり自分の身を神様にお献げする、それは自分の命、人生をお献げするということです。お金を献げることによって私たちは、そのように、自分の命、人生、その時間の一部を神様にお献げしているのです。

たくさん献金できる喜び
 それゆえに主イエスは、たくさん献金することを喜び、勧めておられます。そのことによって、私たちが神様を信じ、信頼して生きる信仰が深まり、人生のより大きな部分において神様と共に生きる者となることができるからです。ですから、たくさん献金できることが信仰においては恵みです。義務として支払わなければならない会費や税金の場合には、なるべく少ない方が喜ばしいのは当たり前です。しかし信仰によって自発的に献げる献金においては、たくさん献金できることこそが喜びであり恵みなのです。またこれは本日の聖書箇所からは外れることになりますが、こういうことも言えます。義務として支払う会費や税金には権利が伴います。つまり自分が支払った会費や税金が適切に用いられているかどうかをチェックし、その用い方について意見を述べ、場合によっては支払いを拒否する、ということもあり得るのです。しかし献金はそういうものではありません。義務として支払うものではないと同時に権利を主張すべきものでもないのです。つまり、自分の思い通りに使われないなら献金することを拒む、などというものではない。献金は、勿論特定の目的のために募られたものは話が別ですが、基本的には、目的のためではなくて、自分自身を神様にお献げするという意味で献げるものだからです。このことについてはさらに確認しておくべきことがあります。つまり献金がこのようなものであるがゆえに、教会においてその用い方を決定する役割を負っている者たち、私たちの教会で言えば長老会ですが、その責任が重大だということです。自分自身を神様にお献げするという思いをもって献げられた献金を、神様の栄光を現す仕方で適切に用いる責任と、それをきちんと報告し、説明する責任があるのです。その報告、説明について質問がなされ、意見が述べられ、議論が行われることは良いことであり大切です。ただしその議論は、献金した者の権利の主張としてなされるべきではありません。共にキリストの体である教会を構成している者として、教会が神様の栄光を現すために歩むことへの責任を共に負い、より良い歩みを求めていくためになされるべきことです。

たくさん献金するとは
 さて本日の箇所に戻りますが、主イエスはこのように、たくさんの献金をすることを喜び、祝福しておられます。しかしこの話が語っているもう一つのことは、その「たくさん」を主イエスは、献金の金額によって判断なさらない、ということです。レプトン銅貨二枚を献げた貧しいやもめが、「だれよりもたくさん入れた」と主はおっしゃったのです。金額で考えれば、金持ちたちが献げたものの方がはるかに多額だったことは明らかです。しかしそれらの多額の献金よりも、やもめが献げた二レプタの方が「たくさんの献金」だと主は言っておられるのです。それは、その献金がその人の生活において持つ意味の違いに目を留めておられるということです。金持ちたちは、有り余る中から献げている、金額は多いけれども、彼らの生活においてそのお金の持つ意味はそれほど大きくはないのです。それに対してあの貧しいやもめにとっての二レプタは、「持っている生活費を全部」と言ってもよい額なのです。その人の生活の中で持つ意味は、この二レプタの方がはるかに大きいのです。先ほど、たくさん献金できることこそ恵みである、と申しましたが、その「たくさん」とはこういう意味での「たくさん」です。金額をたくさんできることが恵みなのではなくて、自分の生活にとってより多くの意味を持つものを、自分の命の、人生の時間のより多くを神様にお献げすることができることが恵みなのです。このやもめの話はそのことを私たちに教えようとしているのです。

生活費を全部?
 それにしても私たちは、「持っている生活費を全部」というのを読むと疑問を抱きます。このやもめは本当に生活費を全部献金してしまったのか、そうだとしたらその日の食事もできなくなるではないか、いったいどうやって生活しているのか。そしてそういう疑問の背後には、「こんなこと、私たちにはとうていできない」という思いがあります。けれどもそういう問いはこの話においては無意味です。この話が描いているのは、彼女が生活費の全部を、あるいは9割8割を献げた、という割合の問題ではなくて、彼女が自分の生活の全部において、自分の命、人生の全ての時、全ての事柄において、神様を信じ、神様に信頼し、神様と共に生きている、という姿なのです。そのことによって彼女は、乏しい、貧しい生活の中で、しかしだれよりも、どんな金持ちよりもたくさんの祝福を神様から受け、その守りと支えと養いの中で生きる平安、慰め、喜びを得ている、主イエスはそのことを見て取られたのです。このやもめの姿を、貧しい生活の中で、なけなしのお金を、でもこれは神様に献げなければならないものなのだという義務感、脅迫観念に捕えられて、今日の生活への不安に顔面蒼白になりながらささげている、というふうに捉えてしまうのは間違いです。彼女はそんな不安を覚えてはいないのです。義務感や脅迫観念で献げているのでもないのです。彼女の姿はごく自然な、平安に満ちたものです。無理をしてはいないのです。自分の生活の全てを神様に委ね、安心して、今自分が献げることができるものを全て献げている、こういう姿にこそ、献金の信仰の神髄があるのです。「こうしなければならない」という義務感に捕えられて無理をして生きるのが献金の信仰に生きることではないのです。

他の人との比較をしない
 この献金の信仰の神髄における一つの大事なポイントは、彼女が、他の人のこと、他の人の献げものを一切見ておらず、ただ神様のみを見つめていることです。金持ちたちが多額の献金をしている中で、それよりもはるかに少ない二レプタを献げることに彼女は何のためらいも、恥じらいも感じていません。いやそもそも、他の人がどれだけ献金しているかなどということに関心がないのです。それを知る必要はないのです。献金の信仰において大切なことは、他の人との比較をしないことです。私たちの日々の生活は、他の人との比較で価値判断をすることに満ちています。他の人と自分を比べて優越感を覚えたり劣等感を抱いたりすることは毎日のようにあります。また他の人から比較され、評価、査定されることも毎日です。否応なく比較の世界に生きている私たちは、信仰の生活においても、どうしても他の人と自分を比較して一喜一憂したり、あるいは他の人どうしを比較して無責任な批評、批判をしてしまいがちです。しかし、私たちの信仰の根本は、神様の前に自分が一人で立つことです。その神様との交わりなしに信仰は成り立たないし、信仰者の共同体、キリストの体である教会も成り立ちません。他の人がどうこうではなく、神様の前に自分一人で立つことにおいてこそ私たちは、他の人と自分を比較しようとする思いから解放されるのだし、また信仰に生きるとはそういう解放を求めていくことなのです。献金の信仰においても特にそれが大事です。他の人の献金と自分の献金を比較するという思いを乗り越えていくことが、献金の信仰の確立のためには必要なのです。

割合の比較でもなく
 その点において、本日の箇所で注意しておくべき言葉は、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた」という主イエスのお言葉です。「だれよりもたくさん」というのは、ある意味で他の人と比較している言葉です。ここで主イエスが「たくさん」と言っておられるのは先ほど見たように金額のことではなくて、その人の生活において持つ意味の大きさです。そうすると、献金において比較されるべきなのは金額の多少ではなくて、その献金がその人の収入、生活費、自由になるお金の中で占める割合である、ということにもなりかねません。聖書には、収入の十分の一を神様に献げる、ということが語られており、それが古来献金の重要な目安となっています。しかしこの目安は、十分の0.5の人と十分の1の人と十分の1.5の人を比較して多いとか少ないと言うためにあるのではありません。「だれよりもたくさん」と主イエスが言われたのは、あのやもめの姿にこそ神様を信じ、信頼し、その祝福の下で生きる幸いが最もはっきりと現れている、ということを言うためなのであって、収入に対する献金の割合を比較させるためではないのです。ですから私たちは、金額における比較は勿論のこと、収入に対する割合の比較ということからも自由になるべきです。そういう比較の感覚を一切献金の信仰に持ち込まないこと、比較を生じさせるような要素を極力退けていくことが大切なのです。

人の目と神の目
 人との比較という感覚から自由になる、それは人の目を意識し、人がどう思うかを気にすることから解放される、ということです。そしてそれはひたすら神様を見つめ、神様のみ前を、神様と共に生きることの中でこそ与えられます。そこに、20章45節以下の、律法学者に気をつけなさい、という主イエスの教えとのつながりが見えてきます。主イエスは、律法学者たちが、「長い衣をまとって歩き回りたがる」ことを批判しておられます。長い衣は律法学者、宗教的指導者であることの印です。それを「まといたがる」のではなくて「まとって歩き回りたがる」、つまり人々に自分は律法学者だということを見せびらかしたがるのです。「広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む」というのも皆、人々に認められ、尊敬され、下にも置かぬもてなしを受けることを好むということです。「やもめの家を食い物にする」というのは、ある程度財産のあるやもめの家に出入りしてやはりもてなしを受けることを喜んでいるということでしょう。そして「見せかけの長い祈りをする」、それはまさに人に見せるための祈り、自分はこれだけ祈っているということを、人前で、これ見よがしに示そうとすることです。律法学者たちのこのような姿に共通しているのは、人の目を意識し、人に尊敬されることで自分の地位や立場を確認しようとすること、つまり人との比較の中で自分のプライドを満足させようとしている、ということです。彼らは、神様の前に一人で立つことを失っているのです。神様の目、神様の思いよりも、他の人の目、人からの評判を気にして生きているのです。それは、人々に見える所で多額の献金を献げている金持ちたちとも通じる姿であると言えるでしょう。また、そういう金持ちの献金を「あの人はあんなに献金している」と感心したり、褒めたりしている人々も同じです。それらの人々と正反対なのが、あの貧しいやもめの姿です。彼女は、周囲の人々を見るのでなく、ただ神様のみを見つめ、信頼し、自分の生活の、人生の、一部ではなく全てにおいて神様と共に歩んでいるのです。この話が語っているもう一つのことは、そのような彼女の信仰における献げものを、主イエスがしっかりと見ていて下さり、受け止めて下さっているということです。自分の献金を人に知らせる必要はない、主イエスが知っていて下さるだけで十分ではないか、とこの話は私たちに語りかけているのです。

献金の信仰は献身の信仰
 彼女は本当の意味で自分の身を神様に献げています。献身しているのです。そのことによって彼女は、他の人と自分を比較することから全く自由にされています。他の人との比較によって一喜一憂することからの解放への道は、自分を神様にお献げすること、献身にしかありません。自分を自分のものとして保っている限り、つまり自分の主人は自分だと考えている限り、私たちは、他の人と自分を比較することから抜け出すことができないのです。しかし神様にこの身をお献げし、神様のものとして生きるなら、そこにはこの世における様々な比較、相対的な比べ合いから解放された本当の自由が与えられます。そしてそこには、神様の恵みと養いと導きの中で慰めと平安を与えられて、無理することなく、自然に、自分らしく生きる道が開かれていくのです。献金の信仰は献身の信仰です。その信仰によって、人との比較からの解放が与えられるのです。

関連記事

TOP