夕礼拝

人間の創造

「人間の創造」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第1章 26節-31節
・ 新約聖書; マタイによる福音書、第6章 25節-34節

天地創造のクライマックス
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書創世記からみ言葉に聞いています。その第一章を読み進めているわけですが、ここには、神様が天地の全てをお造りになった、いわゆる天地創造の物語が記されています。その25節までをこれまでに読んできました。これまでの所において示された大事なことは、天地創造は、神様が、混沌であるこの世界に秩序を与えて整え、人間が住むことの出来る世界を造り上げて下さったこととして語られているということです。つまりこの世界は、人間のために造られたのです。生き物の創造も、人間から遠い所から始めて、次第に人間に近い所へと、という順序でなされています。つまり天地創造は、人間の創造へと向かっている、人間の創造がその頂点であり、その前に語られていることは全て、人間のためのお膳立てだったのです。天地創造の物語は、この世界の成り立ちやしくみを語っているのではありません。そうではなくて、神様の、私たち人間への恵みと愛を語っているのです。そのクライマックスが、本日の26節以下の、人間の創造を語っている部分なのです。

人間の特別性
 そういうわけで、いよいよ人間の創造について見ていくわけですが、いろいろな点でこの人間の創造は特別なものとして描かれています。一番目につくのは、26節で神様が「我々にかたどり、我々に似せて」と「我々」と言っておられることです。神様はお一人のはずなのに、「我々」という複数が用いられている、これが第一に目を引く、人間の創造における特殊なことです。このことの意味は後で考えることにして、もう一つ、人間の創造において特別な語り方がなされていることがあります。それは日本語の翻訳ではわかりにくいのですが、28節の、神様が人間に「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」云々という祝福の言葉を与えておられる場面です。この祝福それ自体は、22節にもあり、水の中の生き物と翼ある鳥にも与えられていますから、人間だけに特別なものではありません。しかし28節が22節と違うのは、神様がここで人間たちに対して直接に祝福の言葉を語りかけておられる、ということです。28節は「神は彼らを祝福して言われた」となっていますが、ここを直訳すると、「神は彼らを祝福して、彼らに対して言われた」となります。それに対して22節はやはり直訳すると、「神は彼らを以下の言葉によって祝福された」となるのです。つまり神様は海の生き物や鳥に対しては、祝福を与えてはおられますが、祝福の言葉を直接語りかけてはおられないのです。神様が天地の全てをお造りになった、その被造物の中で、直接語りかけておられるのは人間だけなのです。このこととの関連で注目する必要があるのは29節です。神様は人間に、「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」と語りかけられました。そこに、「あなたたち」という言葉が二度出て来ます。神様は人間に、「あなた」と語りかけておられるのです。それは、他のどの被造物にもないことです。人間は、人間だけが、神様にとって「あなた」と呼び掛け得る者であり、そういう者として造られたのです。ここに、人間の特別性、他の被造物、特に動物たちとの違いがあるのです。

あなたと私
 人間は、人間だけが、神様にとって「あなた」と呼びかけ得る存在として造られている。それは逆に言えば、私たち人間だけが、神様に「あなた」と呼びかけることができる者として造られている、ということです。ここに、人間を人間たらしめているもの、他の動物たちとの違いがあるのです。人間だけが、神様との間に「あなたと私」という関係を持つことができます。つまり、神様を信じ、神様に祈り、神様との交わりに生きることができます。それは同時に、人間だけが、神様を信じないで、神様に背き、交わりを断ち切って生きることもできる、ということでもあるのですが、いずれにしても、この点において人間は他の動物たちとははっきりと区別された存在であることを聖書は見つめているのです。このことを無視して、人間も動物の、ほ乳類の一つの種に過ぎない、とすることは、人間の現実に即した正しい見方とは言えないでしょう。私たちは人間である限り、「あなた」と呼び掛けておられる神様の前に立つことを求められるのです。肯定するにせよ否定するにせよ、神様との関係をどうするのかを問われるのです。

「我々」
 人間はそのように、神様と「あなたと私」という関係を持ち、神様との交わりに生きる者として造られている、そのことが、先程の26節の「我々にかたどり、我々に似せて」という特殊な言い方とも結びついてきます。ここには、先程触れました「我々」という複数形の問題と、「かたどり、似せて」という二つの特別な言い方が出て来るわけですが、先ず、「我々」という方から考えてみたいと思います。この複数形の意味する所については、いろいろな学者がいろいろな考え方を述べていて、どれが正解、と言えるような状態ではありません。例えば、神様の尊厳、偉大さを示すために複数形が用いられているという説もあるし、神様が熟慮の末にこのことをなしておられる、ということを示すための複数形だという説もあります。この第二の説は、学術論文において「我々は」という言い方が用いられるのと似ているかもしれません。論文を書く時には、「私はこう考える」ではなくて「我々はこう考える」と書くのです。そのようにいろいろな説があって、どれが正解と言うことはできません。しかしいずれにしても言えることは、ここで神様が何人もおられるということが語られているのではないということです。そもそも、この第一章に出て来る「神」という言葉は、原語のヘブライ語で「エローヒーム」というのですが、それは文法的には複数形であって、正確に訳せば「神々」となる言葉です。しかしその複数形の言葉で、天地の全てをお創りになったただ一人の神様のことが意味されているのは明らかなのです。ですから、複数形が用いられていても、意味されているのは、ただ一人の神が「わたし」と言っておられるということなのです。

「かたどり、似せて」
 それよりも内容的にずっと大事なのは、「かたどり、似せて」という言葉です。神様にかたどり、神様に似せて造られた、そのように言われているのは人間だけです。そこに、人間の特別性が最もはっきりと示されているのです。「かたどり、似せて」とはどういうことなのでしょうか。先程の、神様と「あなたと私」という交わりを持つことができる、ということとこれを結びつけて考えることができます。神様が人間を「あなた」と呼び得る者として造って下さった、それは、人間が神様にかたどり、神様に似せて造られているからです。「あなたと私」という交わりが生まれ得るのは、両者の間にある共通性、類似点があるからです。全く異質な、全然類似点共通点のない者の間には、そのような関係、交わりは生まれようがありません。神様は、私たち人間を、ご自分の持っておられる、語りかけ、応答することができるという性質にかたどり、似せて、人間を、語りかけ、応答することができる者として造って下さったのです。語りかけ、応答することができる、つまり人格的な交わりを持つことができる、ということこそ、神様がご自身にかたどり、似せて私たちを造って下さった、神様の似姿であると言うことができるでしょう。

人間の素晴らしさ
 「かたどり」とか「似せて」という言葉は、「神の形」とか「神の似姿」というふうにも訳されます。人間は、神様の形、似姿として造られているのです。それは、人間というものの素晴らしさを語っており、人間をそのように素晴らしいものとして造って下さった神様の恵みを語っています。人間は、神様ではありません。あくまでも神様に造られたもの、被造物です。けれども、他のどの被造物にもない、すばらしいものを与えられているのです。それが、神様の形、似姿です。人間は神様がお造りになったこの世界の中で、造り主である神様のお姿を、十分にではないが、しかしある程度示し、現わすことができるのです。これは驚くべき恵みです。このことを驚きつつ、喜びつつ、神様を讃美して歌われている詩があります。詩編の第8編です。その4節以下を読んでみます。「あなたの天を、あなたの指の業を、わたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう、あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」。「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ」とあります。人間は、神様よりもほんの僅かに劣る者として、栄光と威光を与えられた者として造られた、「神にかたどり、似せて」という言い方は被造物の中で人間に与えられているそのような特別な地位を示しているのです。

被造物を支配する者
 そしてこの人間の特別な地位、栄光と威光には目的があります。今の詩編の言葉で言えば7節の「御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」ということです。本日の創世記で言えば26節の、「海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」ということです。人間は、神様によって造られた被造物を支配する者として立てられているのです。「神の形、似姿」はそういう意味をも持っています。人間は、神様の代理として、この世界を支配し、治める者なのです。
 聖書のこの考え方は今日大変不評を買っています。人間が他の被造物、自然を支配するという聖書の、キリスト教の考え方が、自然破壊、環境破壊を生んでいるのだ、今やそのような傲慢な考え方をやめて、東洋的、日本的な、一木一草の中にも神を見出し、自然と共に生きる思想に生きることこそ地球を救う、というようなことを言う人がいるのです。けれどもそれは聖書の一つの言葉だけを取り出して「聖書はこう教えている」と、肯定的にせよ否定的にせよ考えることによって起こる典型的な間違いです。神様が人間を、被造物を支配する者としてお造りになった、それは、人間が、自分の好き勝手に被造物を破壊することができる専制君主の地位を与えられたということではありません。天地の全てをお造りになったのはあくまでも神様であり、人間は、その神様の下で、神様との「あなたと私」という交わりの中で被造物を支配する者として造られたのです。その支配はそれゆえにむしろ「管理」であり、「守ること」です。神様がお造りになり、「良し」とされた、即ち素晴らしい所として造られているこの世界を管理し、それを素晴らしいものとして守っていく、そのために人間は全ての被造物の上に立てられたのです。それが「神の形、似姿」の持つ意味です。自然破壊、環境破壊は、人間が天地創造の神様を忘れ、この世界の本当の主人、支配者を忘れて自分が支配者になろうとしたこと、全てのものを自分の欲望のために食い尽くしていく貪欲の虜になったことの結果です。つまりそれは人間が「神の形、似姿」を失ってしまった結果なのです。ですから今本当に必要なことは、アニミズムの世界に戻ることではありません。「神の形、似姿」として造られている本来の人間の姿に立ち戻ることです。そして神様との生きた交わりの中でこの世界を、自然を、よく管理し、守っていくことこそが必要なのです。人間がそのように神の形、似姿を回復していくことによって、被造物は、自然は、神様のよいご支配、管理の下に置かれ、祝福を受けることができるのです。

降りて来て下さる神
 人間は神様にかたどり、神様に似せて造られているという教えはこのように、人間の本当の意味での尊厳を教えています。神様のもとで、神様との交わりに生きる時にこそ、人間は本当に尊厳をもって生きることができるのです。けれどもこのことには、もう一つ別の側面があります。それは、神様の自己卑下、謙遜ということです。神様は人間をご自身にかたどって、ご自身と似た者としてお造りになった、それは人間をそれだけ素晴らしいものとして造って下さったということであると同時に、神様がご自身を、私たち人間と似ている所まで、人間と類似点を持つ所まで、あるいは人間によって「あなた」と呼ばれるような所まで、引き下げて下さった、降りて来て下さった、ということでもあるのです。人間の素晴らしさとか尊厳とか言ってきましたけれども、私たちはもう一方で、人間の愚かさ、罪深さ、汚れ、弱さを、自分自身の、またこの世界の現実においていつも思い知らされているのではないでしょうか。私たち人間はそんなに素晴らしい、立派なものではありません。すぐに互いに傷つけ合い、殺し合ってさえいくものです。人を愛することよりも憎むことが多く、人の幸せを喜ぶよりも妬むことが多いものです。そのような私たち人間が、神様にかたどって、神様に似せて造られているなんて、そんなおこがましいことをどうして言うことができるか、と思わずにはおれないのです。いやそれはアダムとエバが罪を犯した後の話で、創世記第1章のこの段階ではまだそういう罪は入ってきていないのだから…、と考えるのは間違いです。何故なら、これまでにも繰り返し言っているように、この創世記第1章は、バビロン捕囚という現実の中で書かれたものだからです。国が滅ぼされ、遠い他国に捕虜として連れて行かれて、先の希望の見えない暗い日々を送っている、というのが、これが書かれた時のイスラエルの民の状況です。そしてこのようなことが起こったのは、自分たちが主なる神様に従わず、他の神々に心を向けてしまった、その罪のためなのです。自分の罪の結果としての苦しみの中で絶望している、そういう人々に対して、この天地創造の物語は語られているのです。その人々に対して、人間は神様にかたどって、神様に似せて造られていると告げているのです。捕囚の苦しみの中にいる人々にとってそれは、人間とはこんなに素晴らしいものだ、という人間の尊厳の宣言と言うよりも、こんなにも惨めな、苦しみ悲しみに打ちひしがれている、希望を失い絶望に陥っている、そのような私たちのことを、神様は、ご自分に似ている、共通点がある、あなたがたは神の形、似姿なのだと言って下さっている、神様がそこまで、私たちのところに降りてきて下さっている、近くに、共にいて下さっているという慰めの宣言として響いたのではないでしょうか。人間は神の形、似姿として造られているという教えは、人間とは本来このように素晴らしいものであるはずなのだ、という理想を語り、その理想に少しでも近付けるように努力しなさいという教訓を語っているのではありません。今、罪に満ち、その結果としての悲惨、苦しみ、悲しみの中にあるあなたが、神の形、似姿なのだ、神様はそこまで、あなたに近くおられるのだ、あなたのところに降りて来て下さっているのだ、という慰めと喜びをこそ、この教えは語っているのです。

神の形
 それゆえにこのことは、神様の独り子イエス・キリストが、まことの神でありながら、私たちと同じ人間としてこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことと相通じるものです。フィリピの信徒への手紙第2章6節以下に、よく知られた「キリスト賛歌」があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」。この「キリストは、神の身分でありながら」というところは、前の口語訳聖書では「キリストは、神のかたちであられたが」となっていました。こちらの方が原文に忠実な訳です。主イエス・キリストこそまことの神の形なのです。しかしその主イエスは、神と等しい者であることを捨てて、私たちと同じ人間になり、さらには私たちのために十字架の死に至るまでの道を歩み通して下さいました。神の形であるキリストが、私たちのところに降りて来て下さり、私たちの救い主となって下さったのです。神様が人間を、ご自分にかたどって、似せて、神の形として造って下さったという天地創造の物語は、この主イエス・キリストによる救いの恵みへの序曲であると言うことができます。神様は、私たち人間と関わりを持ち、「あなたと私」という交わりを持って下さるところまで、降りてきて下さる方なのです。そのことが既に、人間の創造において、示されているのです。いやそもそも、人間の創造を頂点とする天地創造のみ業自体が、神様が私たちと関わりを持って下さり、「あなたと私」という交わりに入って下さる、そのようにご自身を低くし、ついには独り子の命までも与えて下さる、その恵みによってなされたことなのです。神様にかたどって、神様に似せて人間が創造されたという教えには、そのような神様の大いなる恵みが示されているのです。そして、この恵みを受けて生きる時に、私たち人間は、人間であることの本当の素晴らしさを知ることができます。神の形、似姿としての人間の本当の尊厳を知ることができるのです。

思い悩むな
 本日共に読まれた新約聖書の箇所は、主イエスの山上の説教の中の、よく知られた「思い悩むな」という所です。その中で主イエスは、「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言っておられます。また、「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」と言っておられます。あなたがた人間は、価値のある、素晴らしいものなのだ、神様はあなたがたのことを、空の鳥や野の花以上に大切に思い、養い、美しく装って下さるのだ、と言っておられるのです。私たちはそのことを、天地創造の物語、人間が神様にかたどり、神様に似せて創造されたということからも教えられるのです。「だから、思い悩むな。くよくよと心配するな」という主イエスの恵みのみ言葉が、この創世記第1章にも鳴り響いているのです。

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