主日礼拝

主に引き寄せられて

「主に引き寄せられて」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; エゼキエル書 第37章15-28節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書第12章27-36a節
・ 讃美歌; 51、503、573

 
時が来た
 十字架につけられるためにエルサレムにお入りになってからの主イエスのお言葉に耳を傾けています。ここに来て主イエスが強調してお語りになるのは「時が来た」ということです。私たちは誰しも時間の中で生きています。漫然と生きていても、時間は流れて行きます。私たちはその流れを受け止めつつ歩んでいくのです。そのような歩みの中には、特別な時があります。それが自分にとって嬉しいことであれば、その時がやって来るのが待ち遠しいと思い、早く来るように願うでしょう。逆に、それが自分にとって嫌なことであれば、なるべく来てほしくないという思いになり、その時が来るのを遅らせるための対策を考えるかもしれません。いずれにしても、私たちは時間の流れの中で、時に身を任せたり、時に立ち向かったりしながら歩んでいます。
 主イエスも、この世に肉をもってお生まれになり、時間の中を歩まれました。そのような中で、主イエスは、はっきりと、一つの時に向かって、その時を目指し、あるいは、その時を待ちながら歩んで来ました。ヨハネによる福音書が主イエスの歩みを記す中で、これまで度々語られていたことは、「主イエスの時はまだ来ていない」ということです。主イエスの待っていた時は、今まで来ていなかったのです。しかし、ついに、その時が来たというのです。

栄光を受ける時
 本日お読みした最初の箇所、12章の27節は鉤括弧で始まっています。小見出しによって区切られてしまっていますが、この主イエスのお言葉は、前回お読みした直前の箇所の23節から続いているのです。主イエスはそこで次のように語り始めておられます。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば多くの実を結ぶ」。「人の子」とは世に来られる救い主を意味する言葉で、主イエスはご自身を人の子と呼んでいるのです。つまり、ここで、主イエスご自身が栄光を受ける時が来たとおっしゃっているのです。「栄光を受ける」というのは、喜ばしいことに違い在りません。「栄光」と言うと、なじみがないかもしれません。しかし、これを「栄誉」と言い換えてみると身近になるのではないでしょうか。人々から誉められ称賛されるようなことがあれば誰だって嬉しいでしょう。しかし、主イエスにとって栄光を受ける時は、そのような喜びの時ではありませんでした。主イエスは確かに、その時を待ち、そこに向かって歩んでいました。けれども、その時は、喜びや嬉しさとは程遠い苦しみの時だったのです。主イエスはここで、麦のたとえを用いて、一粒の麦は地に落ちて死ぬことによって多くの実りが与えられるのだとお語りになります。「一粒の麦」とは主イエスご自身のことです。つまり、主イエスが栄光を受ける時とは、主イエスが一粒の麦として、十字架につけられて死ぬ時だというのです。

心騒ぐ
この時を向かえた主イエスの思いが27節に記されています。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現して下さい」。主イエスは、栄光の時を前にして、心を騒がせているのです。「心騒ぐ」という言葉はヨハネによる福音書で度々用いられる言葉ですが、これは、嬉しくて心が躍るということではありません。混乱させるとか不安にするという意味がある言葉で、恐れや動揺、興奮が要り混ざった複雑な思いを表しているのです。
 この箇所は、ヨハネによる福音書におけるゲツセマネの祈りと言われています。ヨハネによる福音書以外のマタイ、マルコ、ルカ、三つの福音書は、主イエスが十字架の死を目前にひかえて、ゲツセマネの園で祈られたことを記しています。その時、主イエスは、ひどく恐れてもだえ始め、弟子たちに共に祈るようにと言われるのです。そして、「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ったのです。杯とは、十字架での苦しみのことです。出来ることならば十字架の苦しみを取りのけてほしいと願ったのです。ルカによる福音書では、「汗が血の滴るように地面に落ちた」とあります。ご自身の死を前に苦しまれつつ真剣に祈っているのです。ヨハネによる福音書は、主イエスの苦しみつつ祈るお姿を描写することはありません。十字架が栄光の時であることを強調しているのです。しかし、主イエスの内的な動揺に全く目を向けていないかと言えば、そうではありません。十字架を前に味わわれた苦しみを、「心騒ぐ」という言葉で表しているのです。神の子であるはずの主イエスがどうしてここまで苦しみ悶えるのでしょうか。どうして、まるで人間が死を前にして動揺するかのように心を騒がせるのでしょうか。主イエスは確かに、まことの神である方ですが、同時にまことの人でもあるお方です。つまり、人として苦しみを経験されたのです。そして、苦しみを経験しつつも、神様の御心が行われるようにと願っているのです。ヨハネによる福音書においても、主イエスは、「この時から救ってくださいといおうか」とご自身の思いを吐露しつつも、「しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」とお語りになるのです。苦しみを前にして、心騒がせつつ、救ってほしいという自分の思いではなく、神さまの栄光が現されることを願っているのです。

人々の無理解
 ゲツセマネの祈りにおいて、私たちが主イエスのお姿と共に目を向けなければならないことは、弟子たちの姿です。主イエスが苦しみの中、御心を求めて真剣に祈っている間、一緒に祈ってほしいと言われていた弟子たちは、共に祈るのではなく眠りこけてしまいました。主イエスは、ご自身の苦しみを誰からも理解されることもなく、お一人で悶えながら祈っておられたのです。この主イエス以外の人々の無理解ということは、このヨハネによる福音書にも記されています。28節の後半では、「御名の栄光を現してください」という主イエスの言葉の後、天からの声が聞こえたとあります。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」、父なる神は、これまで常に主イエスを通して栄光を現して来たのです。主イエスがお語りになった御言葉や様々な御業はすべて、神の栄光を現すためのものなのです。しかし、その栄光が最もはっきりと完全に現されるのは、この、主イエスの時になって起こる十字架の死と復活によってなのです。天からの声は、人々に対して、主イエスの十字架にこそ神の栄光が現される、それに目を向けよと語っているのです。しかし、人々は、そのことが分かりませんでした。「雷が鳴った」と言ったり、「天使がこの人に話かけたのだ」と言ったりしたのです。何と言われたか聞き取れなかったというのではありません。人々は、ここで語られていることの意味が分からなかったのです。主イエスの身に起ころうとしている十字架によって神の栄光が現されるということも、そして、そのことを告げる言葉が自分たちに向かって語られていることも分からなかったのです。自然現象だと思ったり、自分たちにではなく主イエスに向かって語りかけている言葉だろうと思いこんでいるのです。自分たちのための救いの時を告げる御言葉が語られているのに、それを全く理解していないのです。主イエスは、人々のために、ご自身が十字架にかかり、神の栄光を現そうとしていることを誰からも理解されない中で、お一人で心騒がせておられたのです。

主イエスが味わった死の苦しみ
 この「心騒ぐ」という言葉に表されている主イエスの苦しみはどのようなものだったのでしょうか。主イエスはここで、御自分が十字架刑という残酷な死刑によって自分の命が奪われることを恐れているのではありません。主イエスが心騒がせているというのは、死刑を宣告された人が自らの刑が執行されるのを直前にひかえて、恐れもがいているということとは違います。主イエスが十字架で死ぬというのは、肉体の死ということ以上のことであり、神の子である主イエスが心を騒がせる程の苦しみには特別な意味があるのです。その意味は、30節以下に記された主イエスの言葉から分かります。天からの声が聞こえた後、主イエスは次のように仰っています。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される」。ここで、主イエスは、天からの言葉語っていることが、主イエスのためではなく、それを聞いていた人々のためであることを告げた上で、ご自身の死の意味をお語りになっています。
この栄光の時は裁きの時であるというのです。ここで裁かれる世というのは、主なる神に敵対して歩む 人間たちのことです。又、世の支配者とは、人々を主イエスに敵対して歩ませる悪の力が見つめられているのです。そのような罪人と、悪が裁かれて追放されると宣言されているのです。裁きの時というのは罪に支配された人々が、神の御前に立ち、その罪が断罪される時です。聖書が見つめている死とは、神によって罪が裁かれるという裁きとしての死なのです。そこに死の本質的な意味があるのです。この世にあって、神を愛するのではなく、神から離れ、自分勝手に歩む中で、隣人を愛することが出来ない。そのようにして、神の御心から遠く離れて歩んでいる人間の罪が裁かれるのです。そして、その裁きに耐えられる者は誰もいないのです。しかし、主イエスが、その裁きを十字架で受けて下さっているのです。主イエスが十字架で死ぬというのは、ご自身は罪の無い神の一人子であるにも関わらず、神から離れて歩んでいる罪人に対する裁きを、罪ある人々に代わって受けられたという出来事なのです。ですから、主イエスが心を騒がせる程の恐れとは、罪人に怒りをもって臨まれる主なる神の裁きとしての死を身に負うことに対する恐れなのです。

心を騒がせるな
 私たちも「心騒ぐ」というような経験をすることがあります。それは死と直面する時ではないでしょうか。この世の歩みの中で、愛する者の死を経験する中で、嘆き悲しみます。又、様々な病や肉体の衰えを経験する中で、自分自身が今日一日を生きることが確実に死ぬ時に近づいていることを感じて不安を覚えます。そのような時、「心騒ぐ」のです。私たちは、日々心騒がせていると言って良いかもしれません。しかし、私たちは、日々の生活の中で、自分が経験する苦しみや困難の中で心騒がせることが多いわりに、主イエスの苦しみに目を向けることは少ないのではないでしょうか。私たちは罪におおわれているが故に、主イエスが受けた神の裁きとしての死の苦しみに対しては鈍感でいられるのかもしれません。しかし、大切なのは、本当の死、聖書が見つめている罪の結果、命の源である神から切り離されるという意味での死の苦しみは、主イエスが受けて下さっているのです。そこでの苦しみ、そこから生じる不安は、主イエスが十字架によって担って下さっているのです。そして、そのことによって既に乗り越えられているのです。つまり、本当に心を騒がせて下さっているのは主イエスなのです。主イエスは、十字架に向かっていく過程で、度々「心騒ぐ」と仰いました。しかし、一方で、人々に対しては、繰り返し「心を騒がせるな」とお語りになりました。この後、14章からは主イエスの告別説教が始まります。その始まりは、次のような言葉です。「心を騒がせるな。神を信じなさい」。主イエスが心を騒がせ、真の死の力と戦って下さったが故に、主イエスを信じ、従う者たちは、心を騒がせる必要はないというのです。

自分のもとに引き寄せる
32節では、続けて、次のように語られています。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。ここで、「地上から上げられる」というのは、主イエスが十字架に上げられて死ぬことです。その主イエスの十字架によって、すべての人をご自身のもとへ引き寄せるというのです。主イエスの十字架が闇の世界を歩む者の罪を赦し、神との和解を成し遂げて下さっているのです。更に、この地上から上げられるというのは、主イエスの昇天をも示しています。主イエスは、十字架で死なれた後、三日目に復活して天に昇られました。主イエスが、十字架の死を克服して、天に昇って下さったがために、私たち自身の復活を確かなものにし、天における永遠の命を約束して下さっているのです。
 そして、ここで大切なのは、私たちが、この十字架の死から昇天に至る、私たちのために主イエスによって示された神の救いの御業によって、私たちが引き寄せられているということです。私たちは、主イエスを自分の下に引き寄せる、自分の救いを自分で引き寄せるのではありません。私たちは、この世にあって常に神さまから離れていこうとしているのです。私たちの生活は神様の御許から引き離そうとする闇の力に追われていると言っても良いでしょう。その闇の力の中で命の源である神を見失い、そこから生じる不安の中で、心を騒がせているのです。しかし、そのような私たちのために十字架に上げられて死なれ、復活して天に昇られて、闇の力に完全に勝利して下さった主イエスが、私たちを引き寄せようとして下さっているのです。

光りを信じて
 主イエスのお言葉に対して、群衆は疑問を持ちます。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか」。ここにも、主イエスによる救いがどのようなものかはっきりと理解していない人々の姿が示されています。人々は、救い主とは、いつも自分の下にいて、自分の願いを叶えてくれる人であるかのように思っていたのです。自分の下に引き寄せて留めておくことが出来る救い主を求めているからです。しかし、そのような救い主は真の救い主とは言えません。25節で主イエスは次のように語っています「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」。自分の命を愛するとは、自分の願う救いを求めて歩み続けることです。自分の願いに神を引き寄せて歩むことです。それに対して、自分の命を憎む人とは、自分の思いに留まるのではなく、主イエスの十字架によって引き寄せられつつ、主イエスの後に従う人のことです。そのような歩みの中で、私たちは世の光である主と共にいるのです。主イエスは、35節で次のように仰います。「光りは、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光りのあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい」。今、世の光りとして来られた主イエスを通して、神の栄光が示されている。この時に、世の光りである主イエスを信じなさいと仰るのです。ここには、地上を歩む者に対する主イエスの勧めが語られていると言って良いでしょう。私たちは、この世にあって、主イエスの救いを知らされています。しかし、もう一方で、主イエスが来られる救いの完成の時を待ち望んでいます。そのような中で常に、罪の力に翻弄され続けるのです。しかし、暗闇の力に追いかけられながら繰り返し、主イエスの十字架を示されるのです。その時、私たちは、真の光である主イエスに立ち返り、主イエスを信じる思いを新たにされるのです。

礼拝において
 この救いの時を、私たちは主日毎の礼拝によって体験しています。私たちは日々流れる時間の中で歩んでいます。そのような歩みの中で、繰り返し主の日がやって来るのです。その時、私たちは日々の生活を止めて、御前に進み出て、御言葉を通して、栄光の主のお姿を知らされます。それは、罪と闇の力に翻弄されて、神から離れて歩もうとする者に代わって神の裁きを受けるために十字架に上げられた主イエスのお姿です。そのお姿を示される時、私たちは、自身が、常に、真の神の下を離れて、闇の中を歩もうとしていること、先が分からない闇の中で罪の力に翻弄されながら、心を騒がせる歩みを止めるのです。この時、私たちのために、真に心を騒がせながら十字架について私たちの罪に対する裁きを受けて下さった主イエスが、暗闇の中から真の光であるご自身の下に、引き寄せて下さっているからです。そこで、主の救いの恵の豊かさを知らされつつ、その恵に与りながら、光の子とされるのです。私たちは、繰り返し、礼拝において、この救いの時を経験しながら、いずれやって来る終わりの日に、主の前に立つ時を待ち望んで歩むのです。終わりの時、それは裁きの時、最後の審判の時です。しかし、そこでの裁きは、主イエスが受けて下さっているが故に、私たちにとって、それは救いの時なのです。

光りをかかげて
 終わりの日を待つという時に思い起こすのは、主イエスがお語りになった十人のおとめのたとえです。夜中に婚礼の宴が始まろうとしている。花嫁の下に、花婿がやって来るのです。十人のおとめたちが、灯火をともして花婿を出迎えるという大切な役目を与えられるのです。その時、愚かなおとめたちは、ともし火だけしかもっていなかったのに対し、賢いおとめたちは、いつになるか分からない花婿の到着の時に備えて、ともし火と一緒に、壺に油を持っていたのです。真夜中に花婿が到着した時、愚かなおとめたちが油を買いに行かなくてはならなかったのに対して、賢いおとめたちだけが、花婿を迎えるためにともし火をともすことが出来たのです。そして、共に婚宴の席に迎えられたのです。このおとめ達の姿には、私たちが終わりの時を待つ姿勢を示されたのです。婚礼の宴に花婿が来るように、真の光である主イエスが来る。その時が来るのを、毎週、礼拝に集い、主の救いの恵に引き寄せられながら、祈りつつ待ち続ける。救いの時が来るのを繰り返し体験しながら、その時を待つのです。そのような主に繰り返し引き寄せられつつ、歩むことこそ、私たちの備えなのです。そして、終わりの日に、私たちは主イエス・キリストの故に罪赦された者として主なる神の御前に立つのです。今、この時、私たちに栄光の主のお姿が示されています。世の光りである主イエスの下に引き寄せられて、再び光の子として歩み出したいと思います。

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