「福音に共にあずかる」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: 詩編 第107編1-9節
・ 新約聖書: フィリピの信徒への手紙 第1章1-11節
・ 讃美歌 : 6、483
感謝、喜び、祈り
獄中書簡と言われる、使徒パウロがキリストを宣べ伝える働きにたずさわる中で捕らえられ、獄の中から記した手紙を読み始めました。パウロは、この手紙を記すに当たって、時候の挨拶を記した後、最初に神への感謝を記します。3~4節には次のようにあります。「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなた方一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」。パウロは、獄の中にあって、教会の人々のことを思い出すと感謝をせずにはいられないのです。更に、教会の人々について祈ると、喜びに満たされるのです。
ここには「感謝」、「祈り」、「喜び」と言う言葉が出てきます。これらの言葉を聞くと、テサロニケの信徒への手紙一第5章に記された「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」との御言葉を思い出すのではないでしょうか。この御言葉は、パウロが、信仰者の大切な姿勢を伝えている言葉です。教会の信仰は、神に感謝を捧げ、祈りと喜びに満たされる歩みを生んでいくのです。つまり、ここで、パウロがテサロニケの教会の人々に語った信仰者の姿勢の実践が、フィリピ教会に向けた手紙において示されていると言うことが出来るでしょう。事実、牢獄と言う苦難の中にあって、パウロは感謝を記すのです。
このようなことを聞くと、私たちは、「さすが使徒パウロだけあって、自分とは違う」と思うかもしれません。なぜなら、私たちは、しばしば悲しみや絶望に捕らえられ、祈ること少なく、不平や不満を漏らすことが多いからです。実際、私たちは、苦しみの中にあって誰かに手紙を記す時に真っ先に感謝を記すように、どんな時にも感謝することが出来るでしょうか。もちろん、手紙の最初に決まり切った挨拶を記すようにして、表面的に神に感謝すると言うことはあるかもしれません。しかし、心からの感謝に生きることは難しいのではないでしょうか。様々な困難に直面しては、不満をもらし、苦しみの中で嘆きの言葉を発するのではないでしょうか。
感謝の理由
もちろん、パウロは、喜び、祈り、感謝する信仰者の姿勢を、それを守らないと救われないと言うような掟として示しているのではありません。そうすることが出来ない時に、自分の思いに反して、やせ我慢してでも、喜び、祈り、感謝しろと勧めているのではありません。又、パウロ自身も、単純に、これらのことを自らの努力によってのみ励行していると言うのではありません。そのような努力や心がけはしていたにせよ、根本的には、自然とわき出てくる感謝を表現しているのです。つまり、ここでの喜び、祈り、感謝には、それを支えている根拠があるのです。
ここで、注意したいことは、パウロは、何故、感謝を捧げずにはいられないのかと言うことです。ただ単に、フィリピ教会の人々との間にある人間的な親しさ故に、感謝を捧げ、祈り、喜んでいるのではありません。もちろん、パウロとフィリピの教会の人々の間には、親しい交わりがあったと言えます。この手紙の最後、4章10節には「贈り物への感謝」が語られていますが、フィリピ教会の人々は獄中にいるパウロに贈り物をし、苦難の中にあるパウロを支援していたのです。しかし、そこに、ただ人間的な親しさだけを見つめてしまうのであれば、それは間違いです。例えば、フィリピの教会に集まった人々の多くはギリシア人でした。一方のパウロはユダヤ人です。そこには民族的な違いがあります。人間的に考えれば、国籍、民族の違いは、しばしば、緊張関係を生むものです。しかし、そのような事情を越えて、両者は強く結びつけられている。両者の間には、人間が生み出す親しい関係を越えた関わりがあるのです。
パウロは感謝の理由を次のように記します。「それは、あなたがたが最初の日から今日まで、福音にあずかっているからです」。ここで「最初の日」と言われているのは、フィリピの教会の人々がキリストによって救われた日、キリストの救いを信じる信仰を与えられてキリスト者とされた日です。ここでは、フィリピの教会の人々がキリストに救われた時に新しく始まり、手紙を記している現在まで続いている、新しい事態が見つめられているのです。それは「福音にあずかっている」と言うことです。人間的な親しさを越えて、パウロと教会の人々の間には、共に、福音にあずかっていると言う関係がある。そして、そのことが、教会のことを思う度に、パウロが感謝し、喜び、祈っている理由なのです。
あずかる=交わり
それにしても、「福音にあずかっている」とは非常に面白い表現です。福音と言うのは、喜びの知らせと言うことです。もう少し具体的に、その中身を説明するならば、主イエス・キリストが私たちのために世に来てくださり、十字架で死に復活して下さった。そのことによって、私たち人間の罪が贖われ、罪と死の力から解放されるという形で、神様の救いの御業が成就したと言うことです。それは、全ての人に伝えられるべき良い知らせであり、私たちは、それを聖書の御言葉を通して聞くのです。そのようなことを考えると、ここでパウロが、「あなたがたが福音に聞いているからです」と記していたならば、遙かに分かりやすいのです。しかし、ここでパウロは「あずかっている」と言うのです。この「あずかる」、と言う言葉はコイノニアと言う言葉で、「交わり」とも訳されます。この「交わり」と言う言葉は、教会では良く使われる言葉で、「主にある交わりを深める」と言ったりします。しかし、社会において同じような文脈でこの言葉を用いることはありません。ですから、初めて教会に来た人が聞けば一体、何のことかと思うかもしれません。つまり、この言葉で表現されていることは、聖書に特別なことであり、聖書が記す信仰において、大切な意味があることなのです。 教会に既に集っている人にしてみれば、この言葉の意味を説明しなくても、自身の教会生活の中での経験を思い起こして、この言葉が意味していることがどのようなものなのかを、それぞれが思い浮かべることが出来るかもしれません。しかし、具体的な教会生活を知らない方が、この言葉を聞けば、次のようなことを思い浮かべるかもしれません。「はっきりとは分からないけれども、親しい交わりと言う意味での親交を深め、教会に集まった者同士が仲良くなろうと言うようなことだろう」。そして、案外、既に信仰生活を送っている人であっても、この「交わり」と言うことで、サークルや同窓会における仲の良い仲間同士が、より親しくなろうと言うような意味で捉えているかも知れません。しかし、ここで大切なことはそのようなことではありません。
神様への奉仕
もちろん、教会の交わりには、人間の間での親しい関係を深めると言う側面があります。しかし、それだけではありません。もっと決定的に大切な意味があるのです。そのことを詳しく知るために、コイノニアと言う言葉が、「交わり」とも、「あずかる」とも訳されており、事実、そのような意味があることに思いを留めなくてはなりません。つまり、福音とは、ただ聞くものではなく、あずかるものであり、それによって、交わりが生まれていくものなのです。そして、教会において「交わり」を深めるとは、まさに、ここでパウロが語る「福音に共にあずかる」と言うことに他ならないのです。この言葉は、新約聖書には19回用いられていますが、その内、13回が、パウロが書いた手紙の中に出てきます。そして、この言葉をパウロが使う時、この言葉によって、信仰者相互のいわゆる人間関係を表現するために用いることはありませんでした。パウロにとって「交わり」とは何よりも、「神の恵みにあずかる」ことであり、つまり、それは、何等かのかたちでの神様への「奉仕」と関連して用いられているのです。つまり、教会における交わりとは、福音に捕らえられた者たちの神様に対する奉仕によって結ばれているのです。例えば、フィリピ教会の人々は、パウロに贈り物をしましたが、それは、私たちが親しい人にプレゼントを贈るようなものとは異なります。パウロは、教会の人々が贈り物を送ってくれたことに対して感謝を述べますが、その中で、その贈り物が、「香ばしい香り」であり「神が喜んで受けてくださるいけにえ」であると言っています。つまり、それは、表面的には、パウロに送られた物に違いありませんが、根本的には、教会が主なる神に捧げたものであり、パウロもそのようなものとして受け取っていると言うのです。だから、そこでの贈り物は、私たちが、お世話になった人にお歳暮を贈ると言うようなものではありませんし、もらったものには、同等のお返しをしなくてはならないと言うような発想も生まれないのです。ここで語られている「交わり」の深さとは、人間同士の横のつながりにおいて、どれだけ親しいかと言うことによって決まるのではありません。むしろ、真っ先に、福音にあずかった者が神様に対して奉仕をすると言う縦の関係が見つめられているのです。そして、そのことに根拠づけられて、共に奉仕に生きる人々の横の関係も生まれているのです。パウロは、彼自身も、教会の人々も、共に神様に救われた者として、神様の御業、福音を宣べ伝えるために立たされている。そして、全てのこと神様への奉仕として、御業のために用いられていると考えているのです。
善い業の完成に向けて
そのことは、パウロが、続けて6節で語る言葉に明確に表されています。「あなたがたの中で良い業を始められた方が、キリスト・イエスの日までに、その業を成し遂げてくださると、わたしは確信しています」。これも面白い表現です。ここで「良い業」と言われていることを行う主体は、人間ではなく神様ご自身です。「良い業」とは、福音が宣べ伝えられ、主イエス・キリストが証しされていくことです。まさに、私たちの奉仕によって起こることです。しかし、その業を行っているのは神様だと言うのです。福音にあずかった者は、その始めの時から、神様によって始められた「良い業」に生きる者とされるのであり、その神様の御業は、最終的には神様によって成し遂げられることなのです。ここではっきりするのは、私たちの信仰生活は、自分が真理や善を追究して、それに到達しようとしたいりするようなものではないと言うことです。それは、こちらが探し求めると言うよりも、向こうからやってくるものなのです。福音に捕らえられ、それにあずかり、そこに形成される特別な交わりに生きることを通して、神様の良い業に用いられていくのです。
パウロは、罪や、様々な苦しみに満ちた、この世にあって、主によって始められ、完成させられる良い業が進められていている。そして、キリスト者として生きると言うことは、罪に翻弄され、様々な欠けの在る人間が、この良い業に連なる者として用いられていくことなのだと言う信仰があるのです。
私たちは、自らが、神様の良い業に用いられていると聞くと、どう考えても、自分はそんな大それたことはしていないと思うかもしれません。福音を宣べ伝えると言っても、心のどこかで、それは、そのために立てられた特別な伝道者の仕事だと思う方もあるかもしれません。そのような思いでいると、私たちは、信仰生活と言うのは、牧師、伝道師と言った御言葉の教師が語る説教を聞くことを通して、少しでも良く聖書を理解して、聖書の真理をしっかりとつかめるように努力していくことであるかのように感じるようになります。確かに信仰には、そのような側面があります。しかし、そこで、自分自身も又、福音の宣教を担っていると言うことを忘れてはならないでしょう。ここで、福音宣教を担うと言うことで、何か、特別な働きを思い描く必要はありません。誰であっても、キリスト者として、この地上に生きることによって、この業に仕えているのです。そこで、人間的に見た時に大きな働きや、明確に福音を伝えるような伝道の業をしているかどうかは問題ではありません。たとえ、大きな働きを何もしていないように見えても、事実、福音にあずかって教会の群れの一員として信仰生活を送っていると言う事自体が、ここで言う福音を宣べ伝えることなのです。例えば、自分の身近な人に、教会に行こうと声をかけられなかったとしても、キリスト者として信仰生活を送っていれば、それは証となるでしょう。そこで、確かに、それぞれに、神様が進めておられる伝道の働きの中に置かれているのです。ですから、キリスト者とされていること自体が証しなのであり、そのように生きる人の姿は、他のキリスト者が、それを知って、祈り、喜び、感謝せざるを得なくなるようなものなのです。
恵みにあずかる者として
パウロは、続く7節では次のように語ります。「わたしがあなたがた一同についてこのように考えるのは、当然です。というのは、監禁されているときも、福音を弁証し立証するときも、あなたがた一同のことを、共に恵みにあずかる者と思って、心に留めているからです」。パウロは、今、福音を伝え、そのことの故に監禁されています。自由に活動出来ないのです。しかし、そのような苦難の中で、教会の交わりに連なる人々、主イエス・キリストの福音にあずかる人々を思い起こすことが出来るのです。ここで恵みにあずかっていると言うのは、主イエス・キリストによって成し遂げられた救いの恵みにあずかっていると言うことです。同じ主イエスが十字架で成し遂げて下さった、救いの恵みを受け、その恵みを一緒に証しする働きに神様によって用いられているのです。パウロにとって、フィリピ教会と言う、福音にあずかり、自らを主に捧げる群れがあることは、苦難の中で大いなる励ましです。一方、パウロが、牢に捕らえられて何も出来ない苦難の中でも、自らを捧げてキリスト者として生きていると言うことが、フィリピ教会の群れに属する人々を強め、励ますこなのです。教会の群れの交わりは、主なる神様の恵みによる救いを証ししています。教会が建てられていると言う事実は、神様の御業が具体的に進められており、自分自身もその中に入れられていることの証拠なのです。ですから、そのような共に恵みにあずかる者の交わりを思うと、たとえ、牢に捕らえられると言うような苦難に直面したとしても、そこで喜び、祈り、感謝せずにはいられないのです。
横の関係、人間同士の親しさだけを根拠に交わりをもつ時、それは、あやふやな交わりになります。なぜなら、私たちの人間関係における親しさと言うもの程、不確かなものはないからです。ついこの間まで親しかった者が、ほんの些細なことをきっかけにして、親しくなくなってしまうと言うこともあるのです。しかし、福音に共にあずかっていると言う信仰に基づく縦の関係に根拠づけられた交わりは、様々な、人間関係のトラブルや、躓きを経験する時にもゆらぐことはないのです。むしろ、人間の欠けや、罪の中にあってこそ、共にキリストの十字架と復活による罪の赦しによって生かされ、キリストのものとされていると言うことを受けとめつつ共に歩むことが出来るのです。
良い業を担いつつ
そのことを深く受けとめる時に、教会に連なる者たちの歩みは、本当に恵みに満ちたものとなって行きます。私たちは、時に、教会の「交わり」も、人間的なつながりにおいてのみ見つめてしまう、つまり横の関係のみで考えてしまうことがあるのではないでしょうか。そのような時、教会の交わりが根本的に福音に共にあずかると言う縦の関係において支えられていることを忘れてしまうのです。そのような時、私たちは、教会の中でさえ、人と自分の信仰生活を比べたり、そのことによって、他人をうらやんだり、自分を誇ったり、又、他人を批判したり、自分を卑下することになるのです。そして、そこには必ず、躓きが生まれます。教会の人々を思い起こして感謝し、喜びをもって祈ることもなくなってしまうのです。
本日、教会創立134周年をお祝いしました。神様が、この地においても、良い業を始めて下さり、その御業に多くの人々を用いて下さって来たのです。そして、それを完成させるために、現在、私たちをも教会の枝として下さっているのです。ですから、ここで起こるどんなことでも、神様の大きな御業の中で導かれていることであり、私たちは、その働きに仕えているのです。私たちは、繰り返し、ここでパウロが語る信仰に立ち返らなくてはなりません。それは、福音に共にあずかっていると言う信仰です。少し大袈裟な言い方をすれば、主イエス・キリストの十字架と復活と言う救いにあずかり、その中で自らを主イエスに捧げた者として生かされていると言う信仰です。そのような信仰に生かされる時に生まれるものこそ、教会における真の「交わり」です。その交わりの中には、私たちの苦しみや悲しみを越えて、必ず、喜びと祈りと感謝に満ちた歩みが生まれるのです。