夕礼拝

賛美し、祈る囚人

「賛美し、祈る囚人」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第91編14-16節
・ 新約聖書:使徒言行録 第16章16-40節
・ 讃美歌:361、447

<神を賛美する生き方>
 本日の聖書箇所では、キリストの福音を宣べ伝えるためにフィリピにやってきたパウロとシラスが、訴えられ、鞭打たれ、牢獄に捕えられる場面が出てきます。パウロとシラスは、真夜中、その牢の中で賛美の歌を歌い、神に祈ります。他の囚人たちがこれに聞き入っている。印象的な場面です。不当な逮捕と、鞭打ちの後の痛み、苦しみの中、パウロとシラスの態度は常識外れで、通常では考えられないものです。どうして彼らは、このような状況で神を讃え、祈ることが出来たのでしょうか。そこには、この使徒言行録において語られ続けている聖霊のお働きを、見ることが出来るのです。

<占いの霊>
 これまでの所を少し振り返りますと、神の導きによって、小アジアから海を越えてヨーロッパ大陸にやってきた、パウロの一行は、フィリピという地に入りました。パウロたちは、どこへ行ってもまずユダヤ人の会堂に行って、主イエスが救い主であるということを教えましたが、フィリピにはユダヤ人の会堂はなかったようです。しかし、16:13にあるように「祈りの場所」があり、パウロたちは婦人たちと出会いました。その中の一人、リディアという婦人が、神に心を開かれ、パウロの話を聞いて主イエスを信じ、彼女も家族も洗礼を受けました。
 その後もパウロたちは、祈りの場所へ行っては、集まっている者たちに主イエスを信じるようにと、伝道をしていたのでしょう。そして、今日の箇所に入るのです。

 ある時、パウロたちは占いの霊に取りつかれている女奴隷に出会いました。
「占い」という単語は「口寄せ」や「腹話術」という意味があります。この女奴隷は、ギリシャの神々の神託を受けて、運命や運勢を言い当てる、というようなことをしていたようです。多くの人々が、この女から自分の運勢を聞きたがりました。そしてこの女奴隷の占いによって、彼女の所有者である主人たちが、多くの利益を得ていた、とあります。この女奴隷は、占いの霊にも、主人たち人間にも支配され、利用されていたのでした。

 「占い」は、今現在でも頼る人がとても多いものです。星占いとか、血液型占いとかは毎日テレビで流れていたり、雑誌に載ったりしていますし、またお金を払って運勢を見てもらったり、何かラッキーアイテムのようなものを買って、自分の運命を良くする、悪いことを遠ざける、ということをします。その根底にあるのは、将来への不安や、自分の満足のいかない現状を変えたい、という思いでしょう。そうして自分の人生を何とか良いものにしたい。自分の未来を自分の思うように支配して、運命と呼ばれる見えない力をコントロールして、幸せを手に入れたい、という切実な願いがあるのではないでしょうか。
 ところが実は、そのように自分の未来を支配しようとすることによって、自分の人生を自由に、思い通りにしたいと願うことによって、結局は占いによって言われたことに不安を覚え、こうしなさい、ああしなさい、ということに、心も、考えも、行いも支配されてしまったり、何かに頼らずにはいられなくなって、逆にそのことに捕らわれたりしているのではないかと思うのです。そして、その依り頼んでいるものは、この世のものであるならば、簡単に倒れたり、失われたりしてしまうものです。

 本当にわたしたちの人生に良いものを与えて下さるのは、唯一の神だけです。まことの神のみに信頼し、神のもとにいることでこそ、わたしたちの人生、命は、まことの平安、安心を得られるのです。なぜなら、この方だけが、わたしたち一人一人の命をお造りになった方であり、人生のすべての歩みをご存知の方だからです。わたしの人生を、命を、守り、導き、支配して下さる方だからです。

しかし、その神の御手から離れて、神を忘れて、自分で自分の未来も命も思うように支配したいと願うこと。そのために、占いに頼ったり、何かを拝んだり、他のものに支配されていくこと。それはまさに、神から引き離そうとする力、悪霊の力が、そこに働いているのであり、悪霊たちの思うツボなのです。
占いの霊とは、そのように、人を支配し、神から引き離そうとする霊です。それが女奴隷に取りついており、そしてパウロたちの後ろについてきて、ずっと叫ぶのです。「この人たちは、いと高き神の僕で、皆さんに救いの道を宣べ伝えているのです」。

これは一見、パウロたちにとって良いことを言ってくれているかのようです。しかし、聖書には、これが幾日も繰り返され、パウロは「たまりかねた」と書いてあります。
なぜなら、これは、まず「占いの霊」、神から引き離そうとする霊が叫んでいるからです。これは神に敵対する霊です。また、「いと高き神」という言い方は、異教の人々が、ユダヤ人の神を呼ぶときに使う言い方で、彼らにとっては他の数多くいる神々の中の一人の神として名前を呼んでいるにすぎません。「救いの道」というのも、決して主イエスの救いのみ業を告げ知らせようとしているのではありません。そうして声高に叫ぶことによって、自分たちがそのようなことを見分けられる占いの力があるんだぞ、ということを、パウロたちを利用して宣伝しようとしたのかも知れません。表面的に良いことを言っているからと言って、喜んでいてはいけないのです。占いの霊によって人を集めても、それによって集まった人々は、パウロが本当に伝えたい主イエスの福音を素直に受け入れることは出来ないでしょう。一見、自分に都合が良さそうに思えることも、本当にそれがまことの神のみ心によってなされていることなのか、神からのものなのか、しっかりと見極めなければなりません。

それを見極めさせて下さり、わたしたちを正しく、まことの神の方向へ、主イエスの救いのもとへと導いて下さるのが、聖霊なる神なのです。聖霊によらなければ、主イエスを知ること、救い主だと信じることはできませんし、また主イエスの福音を証しすることはできないのです。
パウロは、この神に敵対する霊をはっきりと退けます。「イエス・キリストの名によって命じる。この女から出て行け。」すると即座に、霊が彼女から出て行った、とあります。そしてそれと同時に、彼女の占いによって利益を得ていた主人たちは、金もうけの望みがなくなってしまったのです。

<投獄>
そのことに腹を立てたのか、恨んだのか、この主人たちはパウロとシラスを捕え、広場へと引き立てていき、高官に引き渡します。そして、「この者たちはユダヤ人で、わたしたちの町を混乱させております。ローマ帝国の市民であるわたしたちが受け入れることも、実行することも許されない風習を宣伝しております」と訴えました。広場というのは、町の中心にある公共の場所で、市場であり、議論の場であり、また裁判をする場所でもありました。そこで、パウロとシラスを訴えたのです。群衆も一緒になって責め立てたとあります。このローマ帝国の異邦人社会では、ユダヤ人は反感を持たれやすい立場にありました。
高官はちゃんと調べもせず、二人を鞭打ちにして、牢に投げ込み、看守に厳重に見張るように命じました。しかし、これらの罪は、女奴隷の主人たちのでっち上げです。パウロたちは町を混乱させたわけではありません。しかも後の37節で分かることですが、パウロは確かに正統的なユダヤ人でありながら、生まれつきローマ市民権を持っていました。本来ローマ市民権を持っている者は法律で手厚く保護されており、パウロたちからすれば、裁判もなく鞭打たれ投獄されるような扱いを受けるのは、大変な権利侵害だったのです。

しかしこのようにして、女奴隷を占いの霊から解放したパウロとシラスは、反対に今度は自分たちが人の手によって自由を奪われることになりました。高官に命じられた看守は、二人を一番奥の牢に入れ、足には木の足枷をはめ、厳重に閉じ込めました。

何度も鞭打たれ、二人の体はボロボロになり、大変な苦痛の中にあったでしょう。ところが、ここに不思議な光景が描かれています。真夜中ごろ、牢の奥で、パウロとシラスが賛美の歌を歌って、神に祈っていたというのです。本来は痛みで呻き、泣き言を言ったり、また不当な扱いに怒ったり、恨み言を言いそうなものです。しかも、主イエスを宣べ伝えようとする旅の途中です。神のために、福音のためにと仕えているのに、どうしてこうなるのか、こんな目に遭わなければならないのか、と文句を言いたくなりそうなものです。

しかし、パウロとシラスは、そこで賛美の歌をうたい、神に祈っていたのです。真夜中の牢の中です。痛みと苦しみの中で、とても弱々しい、小さい声だったかも知れません。でも、そこには賛美と祈りがありました。恨み言や呪いの言葉ではなく、神をほめたたえる歌、神へと心を向ける祈りでした。体は縛られ不自由であっても、彼らは神と共にあって、喜び、賛美する自由を持っていました。
「ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」とあります。誰もうるさいとか、黙れとかいう人はなく、彼らの賛美に耳を傾け、祈りの言葉を一緒に聞いていました。彼らにとって、パウロとシラスの言動はとても不思議で、驚くべきものであったでしょう。このような状況でも、パウロとシラスが賛美と祈りを献げる神とは、一体どんな神なのだろうか、と心を引き付けられたのではないでしょうか。そしてそこには、周囲の囚人たちの心をも静め、一緒に平安を感じさせるような、牢の中には似つかわしくない、癒しと慰めが満ちていたのだと思うのです。それはまさに、聖霊によって、復活の主イエスが二人と共におられたからです。

<救われるためにはどうすべきでしょうか>
その時、突然大地震が起こります。牢の土台が揺れ動き、牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖が外れてしまった、とあります。この地震に目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとしました。当時のローマ帝国では、囚人を逃がしたなら、その責任者は死刑にされることになっていました。看守は状況をよく確かめもしていませんが、しかしその責任を負わなければならない恐ろしさ、処罰の厳しさを思って絶望し、自殺しようとしたのでしょう。
パウロは大声で叫びました。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」
看守にとって囚人たちが逃げなかったということは、考えもつかなかった驚くべきことでした。また死刑になるならと自分で絶とうとしていた命を救われたのでした。看守は、明かりを持ってこさせて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出して、「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」と尋ねたのです。

鞭打たれ、牢に繋がれ、不当な理由でまったく体の自由を奪われていながら、神を見上げて賛美し、祈り、また鎖が外れて自由になっても、そこに留まっているパウロたち。その一方で、一人の役人であり、捕らわれているわけでもない自由な市民でありながら、しかし、突然の災害や、自分の失敗や落ち度によって、人生が左右され、絶望して死のうとした看守。一体どちらの人生が本当に自由で、どちらが捕らわれているのでしょうか。

さて、囚人たちは一人も逃げ出していなかったのですから、看守は罰を受ける必要もないし、そういう意味では最悪の状況から、死ぬことから救われました。
しかし、ここで看守はさらにパウロに、「救われるためにどうすべきでしょうか」と問うのです。彼は自分に起こったこと、そしてパウロたちの姿を見て、自分は根本的に救われなければならない、今のままではいられない、と強く心を揺さぶられたのです。

「どうすべきでしょうか」という問いは、使徒言行録の最初の方でも出てきました。主イエスが十字架から復活し天にあげられた後に、信じる者たちに聖霊が降ったペンテコステの出来事の時です。この時、聖霊が降り、主イエスを信じる群れ、証しする群れである教会が誕生しました。その時、ペトロが説教をして、主イエスが救い主であることを聞いた人々が言ったことです。2:37に「人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、『兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか』と言った」とありました。この時ペトロは、「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と言いました。
看守の「救われるためにどうすべきでしょうか」との問いに、パウロは「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」と答えました。そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉、主イエスの救いを語りました。
この時にも、ペンテコステの時からずっと続く、聖霊なる神のお働きがあったのです。聖霊こそ、主イエスを証しして下さる方、そして、主イエスと出会わせて下さり、主イエスはわたしの救い主であると告白する信仰へと、導いて下さる方なのです。

<主イエスを信じる>
パウロが言った「主イエスを信じなさい」の「主イエスを」という言葉は、もとのギリシャ語を読むと、「主イエスの上に」と書かれています。この言葉からある人は、信仰とは、主イエスを信じるとは、主イエスの上に乗ってしまうことだ、と言いました。自分をすべて委ねてしまうことです。主イエスに自分の人生をお委ねすることです。イエス・キリストを自分の主人とし、自分が主イエスに所有されて、この方のご支配の許で、歩んでいくということです。

主イエスという主人は、女奴隷を支配し利用して搾取していた主人たち、自分の利益を奪われて、罪のない者を訴える主人たちとは、全く対照的です。
この方は、人々にご自分の命を与え、弱い者、小さい者を担い、守り、慈しみ、愛によって支配して下さる主人です。わたしたちに仕えて下さる主人です。罪がない方なのに、わたしたちの罪のために訴えられ、わたしたちの罪ために、苦しみ、悩み、十字架につけられた方です。神に逆らい、イエスを十字架につけろと叫ぶわたしたちのために、祈り、父なる神に執り成して下さった方です。
そして、十字架の死から父なる神がこの方を復活させられ、天に上げられた主イエスは、今は神の右に座し、天も地もすべてを支配しておられるのです。
この方が主人になって下さるなら、この方のご支配の許にいて、この方に担われているのなら、世の何者も、どんな苦しみも、恐れも、死も、わたしたちを支配することはできないのです。牢の中においても、パウロとシラスは、まさに苦しみ悩みを担って下さり、罪と死に勝利された復活の主イエスのご支配の許にいました。この方に身を委ね、その信頼と平安の中にあるからこそ、二人は神を賛美し、祈ることが出来たのです。

パウロは、「救われるためにはどうすべきでしょうか」と問うた看守に、この主イエスに信頼して、あなたも自分を委ねなさい、罪の赦しを信じ、自分の人生を、命を、すべて神にお任せしなさい、と語ったのです。

<聖霊のお働き>
パウロとシラスが、牢の中にいながらも賛美し、祈る姿は、まさに主イエスに支えられ、担われている者の姿であり、主イエスが共にいて下さることを証しする姿です。
パウロたちの上には、天におられる主イエスが遣わして下さった、信仰を励まし、力を与えて下さる聖霊なる神のお働きがあります。主イエスは天に上げられる前に、弟子たちにこのように約束なさいました。使徒言行録の1:8にあるように、「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。そのようにして、主イエスは聖霊を送ってくださり、ご自分の弟子たちといつも共におられるのです。
使徒言行録が、聖霊言行録とも言われるように、主イエスを宣べ伝える伝道の業は、聖霊なる神の導きとお働きによって、力強く進められていくのです。
神ご自身によって、救いの御業は前進していきます。パウロたちが捕えられ、鎖に繋がれても、痛めつけられ、閉じ込められても、聖霊は彼らに力を与え、主イエスの恵みに与らせ、賛美と祈りへと導きます。主の言葉は語られ、神の救いのみ業はなされていきます。そうして、終わりの日の、神のご支配の完成へと、向かっているのです。

主イエスを信じ、看守と、その家族が救われました。フィリピの地で、キリストを信じる者の群れが作られていきます。教会が立てられていきます。人の妨げをものともせず、罪から解放し、死にも勝利して下さる主イエスの救いの恵み、神の愛のご支配は、ますます広がっていくのです。そしてそのみ業は、今も続いています。

わたしたちも、同じ聖霊のお働きによって、信仰を導かれ、主イエスと出会い、自分の体も、心も、命も、すべてを主イエスにお委ねすることが出来ます。復活の主イエスのご支配の中で、この方が主人となって下さるところで、本当に自由な人生を生きることが出来ます。そしてどのような時も、聖霊によって共にいて下さる復活の主イエスの平安と慰めに与ることが出来ます。
皆、そのような神の恵みに、神の愛のご支配に招かれており、わたしたちも、パウロとシラスのように、良い時も悪い時も、賛美の歌をうたい、神に祈るものとして歩んでいくことが出来るのです。

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