夕礼拝

覚めて祈る

「覚めて祈る」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第42編1-12節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章32-42節
・ 讃美歌 ; 130、440

 
ゲツセマネの祈り
本日お読みした箇所は、十字架を前にした主イエスがゲツセマネの園で祈られたという箇所です。この祈りのすぐ後には、弟子の一人ユダの裏切りによって主イエスが逮捕されるという出来事が記されています。自分の弟子に裏切られ、その結果、逮捕されようとしている。いよいよ十字架の死が近づいてきているのです。主イエスは、十字架を目指して歩んできました。そのような歩みの中で繰り返し父なる神様に祈って来たはずです。しかし、今、捕らわれる直前に、主イエスは今まで以上に真剣に祈りをお捧げになられたのです。
32節には、「イエスは弟子たちに、『わたしが祈っている間、ここに座っていなさい』と言われた」とあります。そして、弟子の中から、ペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを伴って行き、ひどく恐れて、「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、目を覚ましていなさい。」とおっしゃったのです。十字架の苦しみを前に、父なる神に祈るに際して、弟子たちも目を覚ましていてほしいとおっしゃったのです。苦しみの中にあって祈っている時、何よりの励ましとなるのは、その苦しみを覚えている人がいるということです。主イエスも弟子たちに目を覚ましていることをお求めになられたのです。

主イエスの苦しみ
 もちろん、主イエスは、十字架を見据えていました。十字架と復活に神様の御心があることを分かっていたのです。だから、弟子たちに三度も予告したのです。しかし、だからと言って、主イエスにとって十字架が大した苦しみではなかったと言う訳ではありません。主イエスは、「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃっているのです。この悲しみとはどのようなものなのでしょうか。この言葉は、本日お読みした旧約聖書詩編42編を念頭に置いて語られている言葉です。6節、12節には「なぜうなだれるのか、わたしの魂よ」とあります。ここに記されている魂がうなだれてしまう状態が、この時の主イエスの悲しみなのです。この詩人は、詩の最初で、自らを鹿にたとえます。「涸れた谷に鹿が水を求めるように/神よ、わたしの魂はあなたを求める」。しかし、神はそのような求めに応じて下さらないのです。そのような中、周囲の人々は嘲って「お前の神はどこにいる」と言うのです。主イエスの苦しみは、神に求めても、神がそれに応じて下さらないという、神に見捨てられる苦しみなのです。主イエスは、神の一人子でありながら、十字架という神から呪われた者が受けるべき死を身に受けなくてはならないのです。しかも、その死は、自分に何か問題があったのではなく、人間の罪のために受けなければならない死だったのです。 ここでの主イエスの悲しみは、愛によって結ばれていた関係が切断されてしまう悲しみと言って良いでしょう。しかも、それは、わたしたち人間の間の愛の交わりが引き裂かれる悲しみと同質なものと考えてしまう訳にはいきません。わたしたち人間の関係には破れがあり、愛は不完全だからです。父なる神と主イエスの間の愛の関係は完全なものです。そのような愛の交わりが引き裂かれることの悲しみを、「死ぬばかりに悲しい」とおっしゃりながら、経験しておられるのです。

眠ってしまう
この祈りの時、主イエスと、三人の弟子との距離はそれほど離れていなかったはずです。この記事は、マタイによる福音書やルカによる福音書にも記されていますが、ルカの記述を見ますと、主イエスと弟子たちの間は、石を投げて届くほどの距離であったことが記されています。当然、弟子たちからは、主イエスが祈られるお姿は見えていたでしょうし、祈りの言葉も聞こえていたかもしれません。
主イエスは、ここで地面にひれ伏し、祈り始められます。ルカによる福音書は、この時の祈りの様子を「汗が血の滴るように地面に落ちた」と記します。顔を地面につけるようにして汗を滴らせながら真剣に祈ったのです。弟子たちも、その姿を見、主イエスの祈られる声を聞きながら、その祈りに心を合わせようとしていたはずです。誰でも、死ぬばかりの悲しみを訴えられれば、それがただごとではないことが分かるはずです。おそらく、その人によりそって一緒に祈ろうとするでしょう。まして、その人が、自分が尊敬し従って来た人であればなおさらのはずです。
しかし37節にあるように、主イエスが戻ってみると、弟子たちは眠っていたのです。主イエス眠ってしまった弟子たちを御覧になって、「わずか一時も目を覚ましていられなかったのか」とおっしゃいます。わずか一時と言うと非常に短い時間かとも思いますが、この「一時」というのは2時間程の長さであるとも言われます。私たちが普段行っている祈祷会よりも長い時間です。もしかしたら、そのような中で、弟子たちは、疲れのために、眠ってしまったのかもしれません。しかし、弟子たちは、ただ肉体の疲れのみが原因で眠ってしまったといのではありません。ペトロをはじめ弟子たちは漁師でした。体力には自身があったことでしょう。寝る間も削って漁に励んだり、嵐と戦ったこともあったに違いありません。しかし、主イエスが苦しみの中で真剣に祈っておられる時、弟子たちは眠りこけてしまったのです。

苦しみを理解しない弟子たち
何故、弟子たちは眠ってしまったのでしょうか。弟子たちは、ここでの主イエスの苦しみを理解していなかったのです。主イエスが、激しく祈らなくてはならなかった理由が分からなかったのです。もし、弟子たちは、ここでの主イエスの苦しみを理解していたなら、共に目を覚ましていることが出来たでしょう。私たちは、周囲の人が苦しむ姿に直面し、その苦しみが自分のことのように分かる時、共に目を覚ましていることが出来ます。親が病の内にある自分の子供を寝ずに看病するということがあります。死を目前に控えた家族に一晩中付きそうこともあります。そのような時、肉体の疲れはそれほど問題ではありません。ここで、弟子たちが、目を覚ましていられなかったということは、主イエスが向かい合っている苦しみがどのようなものかが分からなかったということなのです。主イエスの苦しみを共にすることが出来なかったのです。
私たちは、苦しみや困難に直面している人と共に祈る時、共に祈る人の願いや苦しみが自分にも分かって思いを共有出来たとするならば、心から祈りを合わせることが出来ます。しかし、そこで祈られている祈りに心から同意することが出来ず、その人が直面している苦難が分からない時、私たちは、共に祈っていても、心から祈りを合わせることが出来ないということもあります。そのような時、祈っていながら、私たちの心は眠っているのです。
主イエスが「目を覚ましていなさい」と言われる時、それはただ肉体的に起きているということ以上のことを意味しています。又、当然、「一時もわたしと共に目を覚ましていられない」と言われているのも、肉体的に疲れていて寝ってしまったということだけが見つめられているのではないのです。弟子たちは、まさか、そこで、主イエスが自分たちを罪から救うためにご自身が身代わりになって、裁きを受けようとしておられるとは思いもしません。この時、弟子たちにとって、主イエスの苦しみは全くの他人事だったのです。

心は燃えても、肉体は弱い
主イエスは、眠っている弟子たちに対して「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い」とおっしゃいます。この「心は燃えても、肉体は弱い」という言葉から私たちが受ける印象は「人間は、心では高い志を持っているが、肉体的には弱い、疲れている時の睡魔には勝てない」ということです。このようなことは、私たちが良く心の中で呟く弁明であるかもしれません。私たちも心では志していても、肉体の限界からそれを実行できないということを経験します。そのような時、「心では実行したいと思っているけれども、肉体的な限界故にそれが出来ないのだ、肉体の弱ささえなければ、実行出来るのに」という思いになるのです。
ここでは、そのように、私たちの中での私たち自身の心と肉体の闘いのことが見つめられていると言うことが出来ます。しかし、ここで、「心」と訳された言葉は霊とも訳すことが出来る言葉です。そのようにとると、この「心」ということで、神様の霊の働き、神様の救いの御業が見つめられているとも言えるのです。そして「強い」というのは力強く推し進められている様を表します。それに対して、「肉体は弱い」というのは人間の御心を求め得ない姿を示しているのです。神様の霊による救いの御業は力強く進められている。しかし、人間の思いはそれを理解せず、むしろそれと異なることを考えてしまう。神様の御心から離れている人間の姿が肉の弱さという言葉で語られているのです。そのように読むとするならば、ここで主イエスは、単純に、肉体的な弱さを咎めて、心身共に強くなれということをおっしゃっているのではありません。ここでは、神様の御心に対する人間の鈍さが見つめられているのです。神様の御心と人間の思いの間にある隔たりを見つめ、御心が聖霊によって力強く推し進められているのにもかかわらず、人間の思いが、そこからかけ離れていることが見つめられているのです。そして、弟子たちが、主イエスが受けておられる罪との戦いの中での苦しみを理解しないのは、神様の御心から遠く離れている、人間の肉の弱さによることなのです。

御心に適うことが行われますように
そして、このように解釈することは、主イエスご自身のこの時の闘いとも一致します。39節には、主イエスのここでの祈りが記されています。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。この祈りには、主イエスの十字架の死を前にした恐れが表れています。杯とは、十字架によって受けることになる苦しみです。神の御心に従って来た主イエスが、ここでは、自らの思いを吐露している。いよいよ十字架という所まで来て、十字架の苦しみを取りのけてほしいと自分の思いを願い求め始めるのです。主イエスご自身が、ここで、霊と肉の間で戦っておられるのです。主イエスは、真の神の子として、御心がなることを求め続けました。しかし同時に真の人となられた方としての人間の思いを抱かれたのです。主イエスは、神の思いと人の思いの間で戦いつつ、祈りの中で苦闘されているのです。一方では、人間としての思いを祈られつつ、しかし、ただご自身の願いを祈られただけではなく、「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」祈られるのです。主なる神様の御心が行われることをお祈りになるのです。

人間の罪のための死
私たちは、徒もすると、十字架の死を前に恐れを抱く、主イエスの姿を、救い主らしからぬ姿であると思ってしまうかもしれません。事実、キリスト教が広まっていく中で、この祈りの姿を取り上げて、主イエスの狼狽ぶりが揶揄されたことがあったようです。ソクラテスのように、真理に従いつつ命を落としていった人々と主イエスが比較されたようです。この世の哲学者の中には死を恐れずに死んでいった人々がいるのに、この死を前にした、主イエスの恐れは何たることかと言うのです。確かに、人々の中には、死を超えたものに深い信頼をよせ、死に対する恐れを乗り越えた人がいます。自らの信仰の信念によって殉教する人もいます。又、神を信じていない人であっても自ら名誉のために進んで命を投げ出す人もいます。しかし、主イエスの死は、そのような人々との死と比べられるようなものではありません。大切なことは、主イエスの十字架は、一人の犯罪人の死刑執行ではないということです。主イエスの死は、全ての人の罪の身代わりとしての死です。全ての人間が罪の故に負わなくてはいけない罪の代償としての死をお一人で死ななくてはならないのです。主イエスは、そのことを前に苦しまれたのです。ですから、私たちは、自分が死ぬ時のことを想像して、不安に思う時のことを思い起こし、主イエスもそのような苦しみを経験されたのだと言うことは間違いです。主イエスの苦しみは、神様の御心に従って罪の死を身に受けなければならない苦しみです。それは、本来私たちが受けるものでしたが、主イエスの故に、免れている苦しみなのです。弟子たちが眠っている間に、主イエスがお一人でその苦しみと戦って下さっているのです。

立ち上がる主イエス
主イエスは、弟子たちを起こした後、同じ言葉で祈られました。苦しみの中で、繰り返して御心がなることを祈っておられるのです。一度目の祈りを終えて戻った時、この祈りを誰も共にしていない、神の御心を求めることもなく、弟子たちはまるで他人事のように眠りこけている。その事実に直面して、この罪による死という杯を自分が飲まなければならないという思いを強くされたのかもしれません。ここで、主イエスがこの杯を飲まなければ、この罪による死は過ぎ去ることなく、ここで眠っている弟子たち、又、罪の中にある全ての人々が飲むことになったでしょう。主イエスは、そのような中で、自分の思いではなく御心がなることをいよいよ強く求めるようになったのではないでしょうか。そして、主イエスは、三度目に祈られた後、弟子たちが、また眠っているのを御覧になっておっしゃいます。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」。主イエスはここで、悲しみつつうつ伏せになっていた状態から立ち上がられるのです。主の御心にご自身を委ねつつ、十字架へと歩み出されるのです。神様の御心に自らを従わせつつ、苦しみを超えて歩み出すのです。

眠ってしまう私たち
目を覚まして祈るべき所で眠っている。それが私たちの姿です。主イエスが、私たちの罪のために苦しまれながら祈っているのにもかかわらず、まるで他人事であるかのように、その苦闘する祈りに祈りを合わせることが出来ない弟子たち、又、十字架に付けられた主イエスを置いて逃げ出してしまう弟子たちの姿は他でもなく私たち自身の姿です。しかし、そのように、私たちが眠りこけている時に主がお一人で目をさまし、苦しまれたことによって、私たちは、本当の苦しみから免れているのです。わたしたちの罪との戦いは、わたしたちが全く知らないところで行われたと言って良いでしょう。その戦いは、わたしたちではなく、主イエスが戦ってくださったのです。わたしたち自身の罪が問われ、それと戦わなくてはならない時に、眠ってしまう私たちに代わって、主イエスが悲しみ、苦しみつつ、戦われるのです。

主イエスと共に目をさます
そのような私たちが、目を覚まして祈ることが出来るとすれば、それはただ、主が戦われた十字架を示されることによってです。その時、私たちは、自分自身の罪の深さを知らされます。私たちは、十字架の主の苦しみを見つめ、その苦しみのお姿に心を留める時、そこでの主イエスの苦しみ闘いが、他人事ではなく、まさに自分のためのものであることを深く知らされるのです。そして、その時に私たちは、主イエスと共に目を覚まして祈ることが出来るのです。自らの罪と、主なる神様の救いの御心に対して目が開かれるからです。そして、自分の思いに生きてしまう肉の弱さの中にあっても、尚、神様の御心を求めて歩むようになるのです。
ゲツセマネの園での主イエスの祈りを聞く時に、主の祈りの第三の祈りを思い起こします。「御心が行われますように、天におけるように地の上にも」。この祈りは、主イエスがゲツセマネでお祈りになった祈りです。そして、主がその生涯の中で、罪の中にある人々の中で常に祈り続けられた祈りでもあったことでしょう。主の祈りを祈る時に、私たちも、その祈りを共にするのです。主イエスが、私たちの罪との戦いを苦しみながら戦ってくださったことを覚えて、そこで示される神様の救いを覚えつつ、私たちも、自分の思いを超えた、神様の御心がこの地上で実現されることを真剣に祈り求めるのです。十字架を見つめつつ、目を覚まして、神様の救いの御心がなることを祈り求めるのです。

関連記事

TOP