「中からのものが人を汚す」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第85編1-14節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第7章14-23節
・ 讃美歌 ; 15、521
群衆を呼び寄せて
「それから、イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた」。主イエスは群衆をご自身の周りに集められます。本日の箇所の直前には、主イエスが、当時の宗教的指導者である律法学者やファリサイ派の人々と議論をされたことが記されています。この時、主イエスの周りには、主イエスの弟子達、ファリサイ派の人々や律法学者達がいました。主イエスは、その人々に加えて群衆をご自身のもとに呼び寄せたのです。福音書は、主イエスの周りに集まる群衆の姿を記します。けれども、今までのマルコによる福音書の記述の中で、主イエスが群衆を「呼び寄せた」と言われることはありませんでした。「呼び寄せた」という言葉が使われるのは、たいてい、主イエスの弟子達に対してです。福音書が「群衆」を描く時に使われるのは、「集まってきた」という言葉です。群衆は、主イエスの噂を聞きつけて、自分から主イエスのもとにやってくるのです。自ら主イエスを求め、主イエスのもとに集まり、主イエスに触れるのです。主イエスの弟子とは、主イエスが呼び寄せ、それに応えた人々であるのに対し、群衆とは、自ら主イエスの下に集まって来る人々であると言っても良いかもしれません。しかし、本日の箇所では、主イエスの方が群衆を呼び寄せたのです。ここで、主イエスは自ら主導権を取って、御言葉を語り聞かせようとされるのです。「呼び寄せる」という行為は、主イエスがまさに主となって、ご自身を示される時になされる行為なのです。それは、これから語られることの大切さを現しています。ここで語られることを、弟子達や、ファリサイ派、律法学者だけでなく、群衆を含めた皆に聞いてもらいたかったのです。
外からの汚れを避けていた人々
主イエスは、ここで何を語られたのでしょうか。「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。人を汚すものは外からのものではなく、中から出るものだと言われるのです。ただ聞くようにと命じるのではなく、聞いて悟れと命じるのです。ここで語られていることは大切なことであると共に、人々がなかなか悟ることが出来ないことでもあったのです。
この言葉は、これまでなされてきた、律法学者やファリサイ派の人々との議論の続きです。この議論は、一言で言えば、「昔の人の言い伝え」を守るか守らないかをめぐる議論です。この人々は、言い伝えを厳格に守っていました。そのため、主イエスの弟子達が、言い伝えを守らすに、手を洗わないで食事をしているのを見て、主イエスを責めたのです。それに対して、主イエスは、「あなたがたは自分の教えを大事にして、神の掟をないがしろにしている」と言われたのです。この昔の人の言い伝えをめぐる議論は、汚れということと深く結びついています。律法学者やファリサイ派の人々が言い伝えを守るのは、自らが汚れないようにするためでした。彼らは、外から入るものによって、人間は汚れるのだと考えていたのです。そのために、汚れるとされるすことを避けて、自らを清く保つことに必死になっていたのです。律法には、汚れについての規定があります。レビ記11章以下には、食べ物について、産婦の出血について、皮膚病について等の様々な汚れについての規定が記されています。その中で、最初に記されているのが、食べ物についてのことです。食べ物は口から入るものであるだけに、より注意を払ったことでしょう。この人々は、律法に加えて、言い伝えられて来た教えをも守っていたのです。彼らは食事の前に念入りに手を洗っていました。食べ物と一緒にバイ菌を体内に入れてしまい、体調を壊すのを防ぐということではありません。ここで、清いか汚れているかというのは、生理的に害があるかないかということではないのです。むしろ神の救いに与るかどうかということなのです。清さを保つということは、救いに与ることであり、汚れるということは、救いから遠ざかることなのです。彼らは、そのように宗教的に汚れることを警戒して、事細かく定められた人間の掟を守って、食事の前には手を洗い、汚れているとされているものを食べるのを避けたのです。そのような人々に対して主イエスは、外からのものは人を汚すのではないと言われるのです。
弟子達との問答
群衆と別れた後、この教えについて質問した弟子達に対する主イエスの答えが、18節に記されています。「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか、すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことが出来ないことが分からないのか。それは人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出される。こうして、すべての食べ物は清められる」。ここで、「すべての食べ物は清められる」と言われている言葉は、「すべての食べ物は清いのだ」と宣言されているとも取れる言葉です。こちらの方が文脈に合っていると考えられます。
人々は、自らの清さを保つために、外からのものに注意を払っていました。特に、口から入るものによって汚れないように掟を守っていたのです。そのような人々の行いに対して、主イエスは、口から入るものというのは、胃袋に入り、栄養が体に吸収された後は体の外に出されるのであり、それは人間を汚すことはないと言われるのです。心ではなく胃袋に入って、外に出されるものが人を汚したり出来るはずがないではないか。食べ物を汚れているとしているのは、人間が勝手に作った掟であって、汚れるとされる食べ物を口にしても、救いから外れることはないと言われるのです。ここで、「外にだされる」と言われている箇所は「便所に出ていく」という表現がなされています。直訳的すれば、「食べ物はトイレに排泄される。つまり、全ての食べ物は清いのだ」と言っているのです。皮肉を込めて語っているようにも聞こえます。排泄されるものというのは、誰もが汚いと感じるものです。しかし、主イエスは、食べ物はトイレに排泄される、それだからこそ、すべての食べ物は清いと言われるのです。本来、人間を汚すことがない清いものを、自らの掟によって人間を汚すものと決めつけ、それを避けることによって、自分は清いと思いこんでいる人々の勘違いを指摘しているのです。
中からのもの
主イエスは、「人から出てくるものこそ、人を汚す。中から、つまり人間の心から、悪い思いが出てくるからである」と言われます。人間が、自らの外にあるもので、「汚れる」と決めつけているものではなく、むしろ、人間の心から出てくるものが汚していると言うのです。
人間の中から出てきて、人を汚す悪の例が挙げられています。「みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別」です。このようなものは、人間の心の中から出てきて、人を汚すのです。
様々な汚れを避けていた、律法学者やファリサイ派の人々はこれらの悪から自由であったのでしょうか。決してそうではありません。むしろ、彼らは、これらのものに支配されていました。律法学者やファリサイ派の人々は、人間の立てた掟によって、汚れている人を退け、汚れるとされる行為を避けて歩んでいました。しかし、そのように自らの清さを保とうとする反面、それを保つことが出来ない人を汚れたものとして見下していたのです。そこには、人々に対する悪意や悪口が生まれました。自分は汚れを避けている清いものであるという傲慢な思いに支配されていました。又、他者の歩みと自分の歩みを比べることによる、ねたみもあったことでしょう。そして、彼らは、自らの汚れ、罪を指摘する主イエスに対する殺意をも抱いていたのです。自ら掟を作り、清いとか汚れているということを決めつけて歩みつつ、心の中は、ねたみ、や悪口、傲慢な思いに満ちていたのです。主イエスは、このような悪を生み出す人間の心こそ人間を汚している、つまり、人間を救いから遠ざけていると言われるのです。
ここで主イエスが言われていることは、ファリサイ派や、律法学者だけのものではありません。現代を生きる私たちの中にもあることです。私たちは、この時のユダヤ人と同じような律法や言い伝えを固く守る生活をしているわけではありません。食べるものや、食事の前に手を洗うかどうかということで、自らが汚れる等とは考えていないでしょう。しかし、私たちは、無意識の内に「汚れ」を作っているのではないでしょうか。それは、必ずしも「汚れ」という表現はされないかもしれません。しかし、心の中で、自分にとって好ましくないことを決めて、それを避けるということがあります。現代でも特定の病や、自分と異なる民族に対する差別はあります。又、自分の倫理観に従って他人の行いを判断して裁きつつ歩みます。そのような時、私たちは、自分の中にある掟に従って、あの人は救われる人だとか、あの人は救われるような人ではないとの思いに縛られているのと同じなのです。そのような歩みの中で、ねたみ、悪意を抱き、悪口を言い、傲慢になるということが起こるのです。
自分で自分を救おうとする思い
何故、人々は、汚れや清さについての掟を立てて、それを守ろうとするのでしょうか。しかも、主イエスから見れば、呆れてしまうような見当違いな掟を立てるのでしょうか。それは、人々が、自分で自分を救うことが出来ると思っているからです。その背後には、人間の自分で自分を清めなくてはいけないという思いがあります。もしくは、自分で自分を清めることが出来る、自分のことを救い得るという思い上がりがあります。このような思いと、掟を立てることとは深く結びついています。自分で自分の清さを保とうとする時、何が清くて、何が汚れているのかということを知らなくてはなりません。ですから、自分で守るべき掟を立てるのです。それは表面的には、「昔の人の言い伝え」であったり、「その時代の倫理や道徳」であったり、「聖書の言葉」であったりします。しかし、実際、そこで、自ら清いということを主張するための人間の掟が立てられているとういうことがあるのです。その掟によって、汚れとされているものを避けたり、それを守れない他人を裁くことによって、自ら救われたものであることを主張しようとするのです。救いに関して、自分の中に何か人と比べて良い点、や誇るべき点を持とうとしているのです。人間が自らを救おうとする時には、自ら「汚すもの」を作り出し、周りの人間を見回して裁くことによって、自らの清さを確かめるということが起こるのです。
しかし、そこで、把握されている、「汚れ」や「清さ」は、人間の思いが作りだしたもので、主イエスから見れば、全く見当はずれのものなのです。そこで確かめられる清さは真の清さではなく、真の救いではないのです。
外のものによって
私たちの心の中から出てくるものが人間を汚すとなれば、何によって、私たちは清くなるのでしょうか。私たちは、その救いを、自分自身に求めることは出来ません。それは、人間の外に求めなくてはなりません。人間の外から来るというのは、神から来るということです。そして、ここで中からのものが人を汚すと語る主イエス・キリストこそ、私たちの心が生み出す汚れを清めるために、神のもとから来られた方なのです。私たちは、主イエス・キリストの十字架に、この外から来る救いを見出します。私たちが、様々な汚れを定め、それを避けて歩もうする時に、必ず裁く思いが生まれ、悪口、傲慢が生まれます。それは殺意にまで発展するのです。主イエスは、この人間の心から出る罪による殺意によって十字架につけられるのです。人々は、自らが立てる掟によって、真に清いお方である主イエスを、十字架の死に値する罪に定めたのです。十字架の死というのは、呪われた者が負うべき刑罰を意味しています。それは、当時の律法によれば救いから最も遠い、汚れたものでしかありません。人々は全く汚れのない神の子を救いから最も遠い十字架の死に追いやり、汚れたものとすることしたのです。しかし、この十字架は人間の手によってなされたことであると共に、人間を救うために、神のご計画によってなされた業なのです。私たちが汚れたものとして十字架に追いやった真の神の子が、その十字架において、私たちの汚れを担って下さっているのです。このことにおいて、私たちは罪赦され、真に清くされるのです。
この十字架が示される時に、私たちは、私たち自身の真の清さと汚れ、救いと罪を知らされるのです。そもそも、人間は、自らの救いがどのようにして実現されるのか、何が自分を汚しているのかということが分かっていないのです。私たちの汚れを生み出す心の中に主イエスの十字架を受け入れることによって、私たちの罪が明らかにされると共に、その罪が赦されていることを知らされるのです。その時に、自分で自分を清くしようとする歩みではなく、外から来る罪の赦しに生かされつつ歩みをなす者となるのです。
主イエスに呼び寄せられて
主イエスは群衆に向かって語られました。主イエスの下に集まってくる群衆もまた、主イエスによる外からの救いを真に求めていませんでした。確かに、律法学者やファリサイ派の人々のように、人間の立てた掟によって自分自身の清さを誇ってはいませんでした。むしろ、彼らの多くは、律法によって汚れているとされている人々でした。人間の立てた掟によって、自分の汚れを意識していたのです。律法学者やファリサイ派の人々と逆の立場にありながら、そこで得ようとしていたのは、自分の思いによる汚れからの清めであったのです。律法学者やファリサイ派の人々が主張していた清さが、真の清さでないのと同じように、群衆が、意識していた汚れも、主イエスが見つめていた人間の心の中から生じる真の汚れではなかったのです。彼らも又、主イエスの十字架によって示される、外からの救いを必要としている者たちなのです。その意味で、この人々も、自らの汚れと、外からの救いを知らされなければならなかったのです。ですから、主イエスは、この人々を「呼び寄せて」、真の救いがどこから来るのかを示そうとされたのです。
マルコによる福音書の第8章には、主イエスが弟子達にご自身の死と復活をはっきりと予告されたことが記されています。その時、弟子の一人、ペトロは主イエスをいさめはじめた。ここで示された主イエスの姿が、自分の考えていた救い主の姿とは異なっていたからです。ペトロに対して、主イエスは「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」と語られるのです。そのすぐ後の34節に、「それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」とあります。主イエスは再び、群衆を呼び寄せて語られるのです。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」。主イエスのために命を失うというのは、主イエスの十字架の死に与ることです。自分で自分を救おうとする罪の中にある者が死に、外から来る主イエスの救いに委ねて歩むことです。その時、神を裁き、隣人を裁く歩みから自由にされて歩むものとなるのです。
私たちは、今、主イエスのもとに共に集っています。これは、私たちは、自分の考える清さを得ようしているのかもしれません。しかし、そのような者を、主イエスは呼び寄せて下さっているのです。この方が、外から私たちのもとに来て下さり、自分を救おうとする者の罪を、身をもって赦して下さることを示して下さるのです。そこにこそ、私たちを真に清めるものがあるのです。この方の御言葉を聞く耳を持ち、外から来る真の救いに生かされて歩むものでありたいと思います。