主日礼拝

むしろ、不義を受けよう

「むしろ、不義を受けよう」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第45章3―8節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第6章1-11節
・ 讃美歌 ; 10、361、505

 
問題に満ちた教会
 礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み進めていますが、この手紙を読めば読む程私たちは、コリント教会とは何と問題の多い教会だったのだろうか、と思わされます。これまでのところには、この教会に党派争いがあったこと、性的な不道徳行為をしている人がいたことが語られていました。本日から入る6章には、それに加えて、この教会の中に、個人的対立、争いがあり、相手を裁判に訴えるようなことが行われていたことが語られていきます。このようにこの手紙では、この教会の問題が次から次へと指摘されていくわけで、読んでいる方はいいかげんうんざりしてきます。しかしこのことは、この手紙が、また聖書が、教会の赤裸々な姿、罪人の群れとしての現実をはっきりと見据えていることを示しています。聖書に出てくる、最初期の教会の姿がこうだったのです。だから私たちは、教会で何が起っても驚くことはありません。「こんなことで教会と言えるの」と思うようなことが起った時には、「ああ、コリント教会と同じだ」と思えばよいのです。この手紙はそのためにあると言ってもよいかもしれません。自分の理想を教会に押しつけて、教会は、クリスチャンはこうあるべきだ、それなのに…、と人を批判する思いが起ってきた時には、コリント教会が、これだけの問題、罪をかかえながら、なお教会であり、神様によって選ばれ、召された者の群れであったことを思い起したいのです。

兄弟が兄弟を訴える
 さて1節に「あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起したとき」とあります。つまりこの争いは、教会の仲間どうしの間のことです。信仰者どうしの間に争いがあり、6節にあるように、「兄弟が兄弟を訴える」ということが起っているのです。何についての争いだったのかはわかりませんが、2節には「ささいな事件」とあります。この言葉は「最も小さいもの」という意味です。つまり、その人の人生が大きく左右されてしまうような重大なことではない、ささいな事柄についての争いなのです。4節には「日常の生活にかかわる争い」とあります。そういうささいな対立が、しかし案外尾を引いてしまう、ということを私たちは体験しているのではないでしょうか。このようなことはコリント教会だけの特殊事情ではなくて、どの教会にもある、私たちのこの群れにもしばしば起ることです。
 パウロがここで問題にしているのは、もめ事があること自体よりも、そのことが、教会の外の、一般社会の裁判に訴え出られている、ということです。1節後半に「聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです」とあります。「聖なる者たち」というのは、教会の信仰者のことです。その者たちに訴え出るというのは、教会の中で、教会員どうしの間で、その問題を解決することです。そうではなくて、「正しくない人々に訴え出る」、それは一般の社会の裁判、具体的には当時のローマ帝国の裁判所に訴え出ることです。この「正しくない人々」というのは、教会の外の、信仰者でない人々を指している言葉です。6節の「信仰のない人々」と同じ意味です。つまりこの「正しくない」は、倫理的に正しくないということではなくて、神様との関係において義とされていない、神様の救いにあずかっていない、ということです。それに対して、教会員、信仰者たちは「聖なる者たち」と言われています。それは、信仰者が倫理的に清く正しい生活をしているということではありません。コリント教会はまさにそうではなかったのです。これも神様との関係におけることです。神様のものとされ、神様の救いにあずかっている、それが聖書における「聖なる」の意味であり、コリント教会もそれゆえに「聖なる者たち」なのです。
 このようにパウロは、教会の兄弟姉妹の間の争いは、一般社会の裁判に訴えるのではなく、自分たちの中で、教会の中で解決すべきだ、と言っています。それは彼が第5章で語ったことでもあります。5章には、みだらな行いをしている人に対して、教会はその罪をうやむやにするのではなくて、きちんとそれを指摘し、悔い改めを求めるべきだと語られていました。主イエスによる罪の赦しの恵みに生きている教会は、自分たちの中で起った罪の問題を自分たちで処理し、解決することができるはずだ、と言っているのです。そのことが6章では、教会員どうしの争い、もめごとの解決にまで広げられているのです。5節でパウロはこう言っています。「あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」。ここにはパウロの深い思いが込められています。コリント教会の人々は、自分たちの知恵を誇って高ぶっていたのです。パウロはそのことを思いつつ、しかしあなたがたには、自分たちの間のもめごとを仲裁する知恵がなく、それを教会の外の人に頼んでいる。あなたがたの誇る知恵はどこにあるのか、恥ずかしく思え、と言っているのです。

聖なる者たちが世を裁く
 パウロが、教会の中のもめごとは教会において解決すべきだと言うのは、一つには、そのようなことは教会とその信仰についての、世間の人々の印象を損ねるからでしょう。私たちの言葉で言えば、そんなことをしていたら伝道にならない、証しにならないのです。6節の「兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で」という言葉にその思いが表れています。私たちもこの感覚はよくわかります。初代の教会の人々も、私たちと同じように、圧倒的に多数の異教徒たち、キリストを知らず、教会と無縁な人々の中で、また社会の制度や慣習も全くキリスト教とは関係のない中で生きていたのです。そのような中でキリストの福音を宣べ伝えている教会は、周囲の人々がどう見ているかということに敏感にならざるを得ないのです。
 しかしパウロがここで言っていることには、もっと大事な、本質的な理由があります。それが語られているのが2節です。「あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか」。「あなたがたは知らないのですか」というのは、非常に大事なことを語ろうとする時のパウロの口ぐせです。その大事なこととは、「聖なる者たちが世を裁く」ということです。「聖なる者たち」とは、先程申しましたように、教会の信仰者たちです。信仰者は世を裁く者だ、その信仰者が、信仰のない人に裁いてもらおうとするとはどういうことか、とパウロは言っているのです。

神の裁きにあずかる約束
 私たちが世を裁く者であるとはどういうことでしょうか。裁くことは支配することと結びついています。当時の世界はローマ帝国が支配していたから、裁判もローマ帝国によって行われていたのです。「聖なる者たちが世を裁く」とは、教会がローマ帝国に代わってこの世を支配し、裁く者となろう、ということでしょうか。そうではありません。パウロが言っている裁きは、この世の、人間による裁きではないのです。そのことが3節の「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」という言葉からわかります。天使たちとは、人間を越えた存在です。その天使たちをも裁く権威は、この世を造られた神様のみが持っておられます。パウロがここで見つめている裁きは、その神様による裁きです。つまり世の終わりにおける最後究極的な裁きのことです。その神の裁きにおいて、聖なる者たち、信仰者たちも、神様と共に裁く者とされるのです。神様の裁き主としての権威に、私たちが共にあずかる者となる、という恵みが約束されているのです。この恵みは、神様の独り子イエス・キリストによって私たちに与えられています。主イエスは神の独り子であられるのに、私たちと同じ人間となり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さいました。そこに、私たちの罪を赦して下さる神様の恵みがあります。そして主イエスは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着かれました。それは、主イエス・キリストがこの世を支配し、裁く者となられたということです。主イエスは世の終わりにそこからもう一度この世に来られ、全ての者をお裁きになるのです。主イエスを信じて洗礼を受け、キリストの体である教会に結び合わされた信仰者は、終わりの日に、そのキリストと共に世を裁く者とされているのです。そのように最終的には世を裁く者とされているあなたがたが、自分たちの間のささいな事柄を裁くことができず、世の人々に裁いてもらおうとするのでは、あまりにも情けないではないか、とパウロは言っているのです。

なぜ、むしろ不義を受けないのか
 このようにパウロは、聖なる者たち、信仰者に、キリストと共に世を裁く者とされていることを覚えて、その恵みに相応しく歩むことを求めています。それはどのようや歩みなのかが7節以下に語られていきます。7節の前半に「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」とあります。この「負け」は、誰かとの間での勝ち負けではなくて、信仰における敗北、信仰が破綻してしまっている、ということです。争いがあり、お互いを訴え合っていくような関係は、信仰における敗北なのです。それでは信仰が本当に生きているならどのような歩みになるのか。それが7節後半です。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」。裁判ざたというのは、相手の不義によって自分の権利が侵害された、相手が自分のものを奪った、それを取り戻そうということです。しかしパウロはここで、相手の不義をなぜ甘んじて受けないのか、相手に奪われたものをなぜ奪われたままにしておかないのか、と言っています。相手の不義を受け入れ、奪われたもの、それは物であったり権利であったり、名誉や誇りだったりするわけですが、それを取り戻そうとするなというのです。自分の権利を守り、自分のものを取り戻そうと争うこと自体が、信仰の敗北なのだとパウロは言っているのです。

主イエスの教え
 それはめちゃくちゃだ、と私たちは思うかもしれません。そんなことでは悪いやつが得をするだけではないか…。しかし同時に私たちは、これは主イエス・キリストご自身の教えでもあることを思い出すのではないでしょうか。主イエスは、マタイによる福音書第5章38節以下でこのように教えられました。「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」。パウロの教えは決して突拍子もないことではありません。主イエス・キリストご自身がそのように教えられたのです。
 主イエスの教えは、「目には目を、歯には歯を」という律法に対して語られたものです。目をつぶされたら相手の目をつぶす、歯を折られたら相手の歯を折るという復讐、仕返しについての掟です。それに対して主イエスは、一切復讐をするなとお命じになりました。それは、自分に加えられた悪に対して、同じ悪をもって仕返しをするのでは、あなたも同じ悪に陥ることになる。悪に対して悪、憎しみに対して憎しみをもって返しても、根本的な解決にはならない、ということです。大切なのはそこに和解をもたらし、愛の関係を回復することです。そのためには、マタイ福音書の続きのところに言われているように、「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈る」ことが必要なのです。パウロがここで言っていることもそれと同じです。裁判を起こして、奪われたもの、権利を取り戻そうとすることは、相手に復讐をすることと同じです。それは、不義に対して不義をもって報い、奪い取るものから逆に奪い取ろうとすることです。8節に、「それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています」とあるのは、そういうことでしょう。それは、主にある兄弟姉妹、キリストの救いに共にあずかる信仰者の交わりではない、とパウロは言っているのです。

古い生き方を洗い落とされ
 9節10節には、いろいろな罪のリストがあげられています。「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません」。これを分類するならば、9節は自分自身を汚す罪、10節は人に害を与える罪であると言うことができます。しかし大切なのは、この罪のリストを詳細に検討することではなくて、これらの罪が、争いを起こし、裁判に訴えて自分の権利を守ろうとすることと同列に並べられていることです。私たちは、相手の不義によって侵害された権利を守り、奪われたものを取り返すことは当然のことだと思います。それが世の常識です。しかし、主イエス・キリストを信じる信仰者においてはそれは、不義をもって不義に対抗し、自分も不義を行い、奪い取る者になることであって、ここに並べられている罪に陥ることと同じなのです。そして、これらのことをしている「正しくない者」は神の国を受け継ぐことはできない、と言われています。つまりそれは、キリストによってもたらされた神様の救いの恵みから落ちてしまう生き方なのです。11節にはこうあります「あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています」。つまりそのような生き方は、洗礼を受けてキリスト信者となり、教会に連なる者となる以前の、過去の姿だ、とパウロは言っているのです。私たちは、神様の霊の働きによって洗礼を受け、このような古い生き方を洗い落され、新しく生きる者となったのです。不義をもって不義に対抗せず、むしろ不義を受ける、それが、洗礼を受けた私たちの、信仰による新しい生き方なのです。

神の支配への信頼によって
 この新しい生き方は、神様のご支配と導きに対する深い信頼のある所にこそ生まれます。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記45章、そこをクライマックスとするヨセフの物語は、そのことを私たちに教えています。ヨセフは父ヤコブの最愛の息子でしたが、兄たちの嫉みのために奴隷に売られてしまいます。まさに、兄たちの不義によって、自分の権利、自由、持ち物の全てを奪われてしまったのです。しかしヨセフは神様の導きによって、売られて行った先のエジプトで総理大臣になります。そこに、飢饉で食料に困った兄たちが食物を買いにやってくる。ヨセフは今は絶大な権力を持っているわけですから、兄たちに、昔の恨みを晴らし、復讐をすることはいくらでもできるのです。しかし彼はそうはせずに、兄たちを赦し、和解します。それがこの45章の場面です。そこで彼はこう言っています。「しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです」。つまり自分が兄たちの不義によって奴隷に売られ、不当な苦しみを受けた、そのことの全てが神様のご支配の下にあり、神様が救いのみ業のためにそのように導いておられたのだ、ということです。彼はその神様のご支配、導きを信じたから、兄たちを赦し、和解することができたのです。不義を甘んじて受け、奪われるままでいるという新しい生き方は、人間の道徳心や、人を許そうという努力によって得られるものではありません。神様のご支配と導きへの信頼、つまり信仰によってこそそれは可能となるのです。

キリストを見つめて
 しかし、神様のご支配と導きを信じる信仰に生きているつもりでも、私たちは、「なぜ、むしろ不義を受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」というパウロの言葉に抵抗を覚えます。そしてこのように思うのではないでしょうか。「私は俗物で信仰心が足りないから、パウロのような立派な信仰の境地にはとても達することができそうにない」。しかし、それは違うのです。これは、信仰心が深いか浅いか、俗物であるか聖人であるか、という問題ではありません。問題は、私たちが信仰において誰を見つめているか、です。信仰心が深いとか浅いとか、自分は俗物だというのはすべて、自分を見つめている言葉です。自分がどれだけ立派な、信仰者らしい生き方ができるか、ということを見つめているのです。しかしそれは本当の信仰ではありません。本当の信仰とは、自分自身を見つめるのではなくて、主イエス・キリストを見つめることです。見つめるべきものは、自分の信仰心、自分がどれだけ信仰者らしい生き方ができるか、ではなくて、主イエス・キリストと、その救いのみ業です。主イエス・キリストとはどのような方であり、私たちのために何をして下さったのでしょうか。ペトロの手紙一の第2章21節以下(431頁)を読みたいと思います。 「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです。『この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。』ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。あなたがたは羊のようにさまよっていましたが、今は、魂の牧者であり、監督者である方のところへ戻って来たのです」。 主イエス・キリストは、何の罪もない神の独り子であられたのに、その身に私たちの罪を担って下さり、十字架にかかって死んで下さいました。つまり主イエスは、神の独り子としてのご自分の権利や、当然受けるべき誉れ、栄光を放棄して、私たちの不義のための苦しみを受けて下さったのです。その主イエスの苦しみと死とによって、私たちは「罪に対して死んで、義に生きるようになった」、つまり、罪を赦されて、神様の恵みの下で新しく生きる者とされたのです。羊のようにさまよっていた私たちが、魂の牧者、監督者のもとに戻って来ることができたのです。信仰とは、この主イエス・キリストをこそ見つめ、その十字架の死による救いを信じて生きることです。そこにおいてこそ、あのヨセフの物語に語られている、神様のご支配と導きに対する深い信頼が生まれるのです。その信頼の中で私たちは、主イエスの足跡に続いていく者となるのです。主イエスが私たちの不義のゆえに受けて下さった苦しみの歩みに倣い、私たちも、隣人の不義のゆえの不当な苦しみを身に負って、忍耐して生きることができるのです。それは信仰深い特別な人々の話ではありません。今読んだペトロの手紙一の言葉は、2章19節以下の、召し使いたちへの勧めの中で語られています。召し使いというのは要するに奴隷のことです。奴隷の身分で信仰者になった人々への勧めが語られているのです。その人々に、自分の主人に従いなさい、しかも、無慈悲な主人にも従いなさい、と教えられているのです。無慈悲な主人の下にいる奴隷は不当な苦しみを受けます。善を行ってもなお苦しみを受けるようなことになるのです。しかしその苦しみを神様のみ心として受け入れ、担いなさいと勧められているのです。なぜそんなことが言われるのか。それは、主イエス・キリストが、神様のみ心に従って、私たちのために、まさにそのような不当な苦しみを負って下さったからです。主イエスが受けて下さったその苦しみによって私たちは救われたのです。このキリストを見つめ、キリストの苦しみによる救いを信じて生きる信仰者は、不当な苦しみを拒み、自分の権利に固執し、不義に対して同じ不義をもって対抗していくことはもはやできないのです。この召し使いへの教えを受けて、次の3章の1節には、「同じように妻たちよ」とあり、夫に対する妻のあり方が教えられていきます。7節には、「同じように夫たちよ」とあり、妻に対する夫のあり方が教えられていきます。妻として、夫として生きることにおいても、同じように、キリストの苦しみの足跡に従って生きることが教えられているのです。イエス・キリストを見つめ、信じて生きる信仰者は、それぞれが置かれたあらゆる場面、立場、境遇において、キリストの苦しみの足跡に従っていくのです。それは信仰心の深い浅いの問題ではありません。私たちのために不当な苦しみを引き受けて下さった主イエス・キリストによる救いを信じ、そのキリストを見つめ、キリストに従っていくかどうか、が問われているのです。「なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです」というパウロの言葉は、この世の常識からすれば全くナンセンスです。しかし、主イエス・キリストをこそ見つめ、信じて生きる私たちには、「むしろ、不義を受けよう」ということこそ、新しい常識なのです。

関連記事

TOP