主日礼拝

知らなければならないこと

「知らなければならないこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 箴言 第1章7節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第8章1-3節
・ 讃美歌;317(1,3,5,7)、475、520

 
偶像に供えられた肉
 礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み進めておりますが、今私たちが読んでいるあたりは、パウロが、コリント教会から寄せられた質問に答えている部分です。1節に「偶像に供えられた肉について言えば」とあります。7章の1節にも「そちらから書いてよこしたことについて言えば」とありました。パウロはこのようにコリント教会からの質問を一つ一つとりあげて、それに答えているのです。  第8章で新たに取り上げられている質問は、「偶像に供えられた肉」についてです。これがどういう問題だったのかをまず理解しなければなりません。コリントを始めとする当時のギリシャの町々には、いろいろな神々の神殿がありました。そして町の公の行事や、個人の家の冠婚葬祭などは、それらの神殿の祭儀として行われていました。そのような祭儀においては必ず、動物が犠牲として捧げられました。その動物の肉は、一部は祭司のものとなり、一部は祭儀に集った人たちが食べ、残りは持ち帰られて町の市場で売られたのです。ですから市場には、一旦神々の神殿に供えられてそこから下げられてきた肉が売られることがしばしばありました。それはこの町の人々にとっては当たり前のことでしたが、教会の信者たちの間では、それがあるとまどいを生みました。イエス・キリストを神様の独り子、救い主と信じる教会の信仰は、旧約聖書以来のイスラエルの民、ユダヤ人の信仰を受け継ぎ、その土台の上にあるものです。その旧約の教えにおいては、主なる神様以外の他の神々を拝むことは、主に対する裏切りであり、最も大きな罪でした。特に、人間の手によって造られた偶像を神として拝む偶像礼拝を、ユダヤ人たちはまさに蛇蠍の如く忌み嫌っていたのです。教会の信仰も、このユダヤ人の、偶像礼拝を忌み嫌う感覚を受け継いでいます。そこから、一旦偶像に供えられた肉は、信仰者にとって汚れたものであって食べるべきではないのではないか、という思いが生じたのです。そういうとまどいが生じたのは、ユダヤ人のクリスチャンにおいてではなく、コリント教会にも多かった、異邦人でクリスチャンになった人々の間ででした。なぜならユダヤ人たちはもともと、異邦人の市場で売られている肉は食べなかったからです。それは、偶像に供えられた肉が混じっているからということ以前に、律法には、肉を血と一緒に食べてはならないという掟があるために、ユダヤ人たちは、血管を切って血を流し出すという仕方で屠殺した肉しか食べなかったからです。そのようにユダヤ人たちは、もともと自分たちの仲間内で、自分たちのやり方で準備した肉しか食べなかったので、こういう問題は起らなかったのです。しかし異邦人でクリスチャンになった人々は、それまで何の疑問も持たずに食べていた肉が、実は偶像に供えられた肉だった、ということに気付いたわけで、キリストの父なる神を唯一の神と信じるクリスチャンになった今、そのような肉を食べるのは相応しくないことなのではないだろうか、と考える人が出てきたのも、ある意味当然のことだと言えます。コリント教会にも、この問題をめぐってとまどいが起っていたのです。  この問題は、直接には、今日の私たちの信仰生活と何の関わりもありません。しかしここに語られていることは、全く別の形において、私たちの問題でもあると言うことができます。コリント教会の人々と同じように私たちも、キリスト教以外の異教の祭儀に取り囲まれて生きています。特に冠婚葬祭において、そのような祭儀との関わりが必然的に起ってきます。キリストを信じる信仰者として、そこでどのようにふるまったらよいのか、例えば仏教のお葬式に行った時に焼香をしてもよいのかどうか、仏壇や位牌などをどう扱ったよいのか、といった具体的な問題にしばしば直面するわけです。この第8章に語られていることは、そういう意味で私たちの身近な問題と関係があるのです。

我々は知識を持っている
 ところで、コリント教会において何が問題となっていたのかについては、もう少し注意深く考えなければなりません。コリント教会からの質問は、「偶像に供えられた肉を食べてもよいのでしょうか」ということではどうもなかったようです。そのことは1節のパウロの言葉から伺えます。彼は、「この問題について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」と言っています。この括弧に入れられている「我々は皆、知識を持っている」ということが、コリント教会において盛んに語られており、パウロに届いた問いにも記されていた言葉であると思われるのです。その知識とはどのような知識だったのかはこの後の4節に語られています。先取りして読んでおきますと、「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」とあります。「偶像の神は人間が作った像に過ぎないのであって、そんなものは神でも何でもない、唯一の主なる神様以外に、この世にいかなる神もいないのだ」というのがこの知識です。つまりこれは、学問的知識や、世間の人々が共有している一般的な知識ではなくて、イエス・キリストを信じる信仰によって与えられる信仰的知識なのです。その知識の内容については、来週さらに詳しく見ていきたいと思いますが、この知識に基づいて、偶像に備えられた肉の問題を考えるならば、得られる結論は、偶像に供えられたといっても、それは神でも何でもないただの像の前にしばらく置かれたというだけのことであって、肉屋のカウンターに置かれていたのと何も違わない、だからそれを汚れたものとして避ける必要などない、気にせず食べたらよい、ということになります。信仰によって与えられる知識によって我々は、偶像に供えられた肉だろうと気にせず食べることができる、と言っている人がコリント教会には沢山いたのです。ですからパウロのもとに寄せられた質問もむしろ、「偶像など神ではないし何の力もない、というのが正しい信仰の知識であって、偶像に供えられた肉だからといって避けようとするのは、信仰の知識が乏しい者の不適切な考えではないのか」ということだったと思われるのです。
 パウロはその質問に対して、彼らの言ってきた知識を正しいものと認めています。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」、というのはそういうことです。確かに偶像は神ではない、神は主イエス・キリストの父なる神お一人だ、だから偶像が私たちの生活に影響を及ぼしたり、それに供えられた肉を食べることによって私たちが汚れた者になってしまうなどということはない、ということをパウロ自身も認めているのです。「ただ」、とパウロは続けます。ここからが、パウロが言おうとしていることの中心です。「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」。あなたがたが語っている知識は正しい。確かにその通りだ。しかしあなたがたには、一つの問題がある、とパウロは言っているのです。 知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる  パウロがここで見つめているコリント教会の問題が具体的にはどのようなことだったのかは、この章の後の方に語られていきますので、その時に詳しく触れたいと思いますが、本日の箇所には、その問題の根本が示されています。それは、「知識が人を高ぶらせる」ということです。それ自体は正しい、真理である知識を持つことによって、高ぶりが起こるのです。高ぶりというのは、他の人との関係におけることです。人に対して、自分がより高いところにいるように思って誇り、裏返して言えば人を見下す、ということが起るのです。パウロはコリント教会に今、そういう問題が起っていることを見つめており、教会の人々の目をそこに向けさせようとしているのです。つまりパウロは、コリント教会から寄せられた質問に答える形をとりながら、質問してきた人の意図とは全く別のことを語ろうとしています。質問してきた人の思いは、信仰における正しい知識とは何かを確認しようということです。自分たちが持っている知識をパウロにも認めてもらい、いわば御墨付きをもらって、まだその知識に到達していない人々に対して、「ほら、パウロ先生もこう言っているではないか」と主張していこうとしているのです。しかしパウロはそのような人々の思いに「高ぶり」を見ています。そして、今あなたがたが本当に見つめるべきことは、「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」ということだ、と言っているのです。「造り上げる」という言葉のもともとの意味は、家を建てる、建設するということです。この場合の家とは、信仰者の群れである教会のことです。教会を建て上げていくのは、知識よりもむしろ愛だと言っているのです。知識は人を高ぶらせ、その裏返しとして人に対する軽蔑を生みます。正しい知識を主張するという一見正しい、批判の余地のないことにおいて、実際になされているのは自分を誇り、他の人を見下すということでしかない、ということが多々あるのです。そのようなふるまいが、教会における信仰者の交わりを引き裂き、教会という家を破壊します。それ自体は正しい知識も、それをふりかざして人を裁き、批判していくなら、教会は建設されていかず、むしろ破壊されていくばかりだ、とパウロは言っているのです。

愛を伴って働く知識
 パウロがここで語っていることは、知識か愛かという二者択一の話ではないでしょう。パウロは、信仰における正しい知識が大切であり、またそれが神様の恵みによって与えられるよいものであることを語っています。たとえばこの手紙の1章4、5節にこうありました。「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」。信仰における正しい知識は、私たちを豊かにし、この世のいろいろな束縛や、得体のしれない力への恐れから解放します。唯一の神以外にいかなる神もおられない、という知識によって私たちは、いろいろな迷信、占いや運勢、方角や姓名判断などに惑わされることなく生きることができるようになります。偶像の神は神ではない、という知識は、確かに信仰者を、偶像に供えられた肉についてのとまどいや不安から解き放つのです。しかしその知識が、高ぶりや誇りを生むならば、つまり愛が見失われて、自分を誇り、人を批判したり裁いたりするために用いられてしまうなら、要するに知識が自己主張の道具になってしまうなら、それは教会を破壊するものになってしまうのです。つまり言われているのは、知識などなくてよい、それよりも愛こそが大事だ、ということではなくて、知識が、愛を伴って働くこと、愛の中で知識が用いられていくことが必要だ、ということなのです。知識と愛がしっかりと結び合っているような歩みが、教会には、教会に連なる信仰者には必要なのです。そのような歩みはどうしたら実現していくのでしょうか。

知らなければならないこと
 2、3節がそのことを教えています。2節には「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」とあります。私たちはこれを読むと、「自分は何かを知っている」などとうぬぼれてはいけない、まだまだ知らないことが沢山あることをわきまえて謙遜にならなければいけない、という教訓が語られていると考えてしまうかもしれません。しかしパウロが言っているのはそんな安っぽい教訓ではありません。知っているのに知らないふりをせよ、などということではありません。知識とは確かに、私たちが何かを知ることです。そういう意味でそれは私たちが持つものです。「知識を持っている」と言うことができるのです。そういう意味で知識には常に、高ぶりを引き起こす要素があります。高ぶりとは、自分が持っているものを人に対して誇り、その裏返しとして人を見下すことです。自分の持っている知識を、持っていない人に対して誇り、人を見下すなら、その知識は人を高ぶらせるものとなっており、愛を伴わなくなっているのです。愛を伴わない知識は自己満足に過ぎず、自己満足には、他者と共に共同体を建設する力はありません。むしろ交わりを破壊するばかりなのです。つまり、信仰における知識は、自分が何かを知っている、ということだけでは不十分なのです。どんなに正しい立派な真理を知っているとしても、それが教会を造り上げるものとなるためには、愛を伴うものとならなければなりません。そのためには、自分が何かを知っている、ということの他に、知らなければならないことがあるのです。むしろそちらの方が、本当に知らなければならないことなのです。「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならぬことをまだ知らないのです」ということでパウロが言おうとしているのはそういうことでしょう。私は何も知りません、と謙遜して言っていれば事が解決するのではないのです。むしろ私たちには、本当に知らなければならないことがあるのです。それはいったい何でしょうか。

神を愛する
 そのことが3節に語られているのです。「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」とあります。自分が何かを知っている、というだけでは、知らなければならないことをまだ知らない、という2節を受けて、しかし、神を愛するならば…、と言われているのです。つまり、本当に知らなければならないこととは、神様を愛することだ、とパウロは語っているのです。私たちは、聖書を読み、礼拝に通ってみ言葉を聞いていくことによって、次第にいろいろなことを知っていきます。聖書について、キリスト教の信仰についての知識が深まっていくのです。しかしそういう知識がどんなに蓄積されても、それだけではまだ、本当に知らなければならないことを知ることはできていないのです。知識が信仰になるためには、神様を愛することが必要なのです。神様を信じるとは、神様を愛することです。言い換えれば、神様のことを知ろうとしてどれだけ学び、知識を蓄積していっても、それで信じることはできない、神様を愛することができて初めて、信じることができるのです。あるいは、神様のことを本当に知ることは、神様を愛することによってしかできない、と言ってもよいでしょう。「知る」ことと「愛する」ことの違いは、このように言うことができるでしょう。「知る」ことは、自分が知識を得ることであり、自分一人で出来るのです。それは先程申しましたように、自己満足や高ぶりに陥ってしまいがちなのです。しかし「愛する」ことは、自分一人では出来ません。相手が必要なのです。愛するとは、相手との関係に生きることです。私たちと神様との間に、そのような「関係」が生じることこそが、神様を愛することであり、それこそが神様を信じることなのです。神様を信じるとは、神様を愛することです。そこにおいてこそ、私たちは本当の意味で神様を知ることができるのです。

神に知られている
 理屈っぽい私たちは、「まず神様のことを知らなければ、愛することができるかどうか分からないではないか」と思います。しかし、私たちが神様を信じるように、つまり愛するようになる時に起ることは、私たちがまず神様のことを知り、そして愛するかどうかを決める、ということではありません。信仰は神様との出会いによって与えられます。神様との出会いは、神様ご自身が私たちに出会って下さることによって起ります。神様が私たちに出会って下さるのは、主イエス・キリストにおいてです。神様は、大自然の神秘の中でではなく、よくテレビでやっているような超常現象や奇跡においてでもなく、聖書を通して、聖書に語られている主イエス・キリストにおいて、そのみ言葉が語られるこの礼拝において、私たちに出会って下さるのです。主イエス・キリストは、神様の独り子、つまりまことの神であられるのに、私たちのために人となり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。そして復活して今も生きておられ、今この礼拝において私たちと出会い、語りかけておられる方です。その主イエスによって私たちは、独り子の命を犠牲にしてまで、罪に満ちたこの私を愛して下さっている神様と出会うのです。主イエス・キリストによって私たちは、自分が既に神様に知られていることに気付かされます。私たちが神様のことを知るよりも前に、神様が私たちのことを知っていて下さり、見つめていて下さり、徹底的に愛して下さっていることに、つまり神様が既に私たちとの間に、愛するという関係を築いて下さっていることに気付かされるのです。そのことに気付いた者は、神様との関係に生きる者となります。つまり自分も神様を愛する者となるのです。「神を愛する人がいたら、その人は神に知られているのです」というのはそういうことを言っているのです。神をしらなければ愛することはできない、という理屈から言えば、「神を愛する人がいれば、その人は神を知っている」ということになるはずです。しかし、私たちが神様を愛する者となる、つまり信仰に生きる者となる時に起るのは、そういう理屈を超えた、出会いなのです。  別の言い方をすれば、神様と私たちとの関係を支えているのは、私たちが神様を知っていることではない、ということです。私たちが神様を知るのではなくて、神様が私たちを知っていて下さるのです。愛していて下さるのです。そこに、私たちと神様との関係の、つまり信仰の、土台があるのです。私たちが神様を愛する、つまり信じる、つまり本当の意味で神様を知ることができるのは、神様が私たちのことを知っていて下さり、愛していて下さるからです。この、自分は神様に知られており、愛されているということこそ、信仰者として生きるために、私たちが本当に知らなければならないことなのです。

主を畏れることは知恵の初め
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、箴言第1章7節に、「主を畏れることは知恵の初め」という言葉があります。信仰における知恵、言い換えればまことの知識は、主を畏れることから始まる、と言われているのです。「主を畏れる」というのは、何か粗相があったら大変だと怖がってビクビクすることではありません。主なる神様との関係を本当に大切にすることです。心からの尊敬と信頼をもって、それゆえにまた喜びをもって、主のみ前に膝まづき、礼拝をすることです。それは本日の所で「神を愛する」と言われていたのと同じことなのです。主を畏れ敬い、愛しつつ、礼拝をすることこそが、信仰における知恵、知識の初めなのです。そういう意味で、この箇所は、コリントの信徒への手紙の本日の箇所と同じことを語っていると言うことができます。そして私たちが主を畏れ敬い、愛しつつ礼拝をすることができるのは、主が先ず私たちを知っていて下さり、愛して下さり、私たちのために独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活によって罪を赦して下さったからなのです。この、本当に知らなければならないことを知ることによって、私たちは主を畏れ敬い、礼拝しつつ生きる者となることができるのです。

新しくされて
 本当に知らなければならないことを知った時に、私たちは変えられます。新しくされます。どのように新しくなるのか。一つには、自分が何を知っているかということ、つまり自分の知識が、もはや大した問題ではなくなるのです。信仰における知識は、確かに神様の恵みによって与えられるよいものです。それを求めて学ぶことはよいことです。大いに学んでいったらよいのです。しかし、信仰に生きるために一番大切なのは、自分が何を知っているかではありません。主イエス・キリストの父なる神様が、私を知っていて下さり、愛していて下さるということなのです。そこにこそ、私たちの救いがあり、平安があり、信仰の拠り所があるのです。  私たちの知識が、人を高ぶらせるものではなく、愛を伴って働くものとなるということが実現するのも、本当に知らなければならないことを知ることによって私たちが新しくされることによってです。自分が何を知っているか、つまり自分の知識が信仰の拠り所ではなくなり、神様に知られ、愛されているということこそが拠り所となる時に、私たちは、人と知識を比べ合い、高ぶったりひがんだりする思いから解放されるのです。それによって、共に教会に連なっている兄弟姉妹を見つめる私たちの目が変えられるのです。誰がより正しい知識を持っているか、正しい知識に基づいて信仰者としてより相応しい生活をしているのは誰か、という目で人を見るのではなくて、あの人もこの人も、自分と同じように、神様に知られ、愛されている者だ、という目で人を見つめることができるようになるのです。そのようになっていくならば、私たちに与えられている知識の賜物は、高ぶりを生み、教会を破壊していくのではなく、愛の中で用いられ、主イエス・キリストの体である教会を造り上げていくために生かされていきます。具体的に言うならば、信仰の知識が不足している人、それゆえに信仰生活がしっかりと送れていない人に対して、「あんなことではだめだ」と批判し、裁くのではなくて、神様が、自分をもその人をも知っていて下さり、独り子イエス・キリストの命を与えるほどに愛して下さっていることを、その人と共に喜び、感謝し、共にその恵みに応えて歩むためにはどうしたらよいか、共にキリストの体である教会を造り上げていくことはどうすればできるか、ということを祈りつつ真剣に考えていくことができるようになるのです。

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