主日礼拝

神の慈しみと厳しさ

「神の慈しみと厳しさ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章27-31節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第11章13-24節
・ 讃美歌:19、145、481

9-11章の主題
 今私たちは主日礼拝においてローマの信徒への手紙の第11章を読み進めています。毎回申していますが、ローマの信徒への手紙は、9-11章において一つの主題を扱っています。それは、神の民であったはずのユダヤ人が今、救い主イエス・キリストにつまずいており、救いから落ちてしまっている、そのユダヤ人のつまずきをどう受け止めたらよいのか、そして彼らはこれからどうなるのか、ということです。自分もユダヤ人であるパウロは、同胞のつまずきを深く嘆き悲しみ、彼らの救いを切に祈り求めつつ、この問題と向き合っています。そしてこの11章で彼が語っているのは、ユダヤ人が今キリストにつまずいているのは、それによって、本来神の救いとは縁のなかった異邦人にもキリストによる救いがもたらされるためだった、そしてそのことを通して、ユダヤ人たちももう一度目覚めさせられて、キリストによる救いにあずかっていく、そういう神のご計画がその背後にあるのだ、ということです。だから今つまずいているユダヤ人も、神に見捨てられてしまったわけではない、パウロはまさに祈るような思いでそのように語っています。そのことを私たちはこれまでの所で読んで来たのです。

異邦人たちへの手紙
 さてここで私たちはもう一度、このローマの信徒への手紙が、ローマの教会の人々に宛てて書かれた手紙であるということを思い起こしたいのです。つまりパウロは、この手紙を受け取るローマの教会の人々のことを思い浮かべながらこれを書いているのです。ローマの教会に連なる人々の多くは、ユダヤ人ではなくて異邦人でした。「全ての道はローマに通ず」と言われるように、ローマ帝国の首都であるローマには、当時の世界の様々な地域から人や物が流れ込んでいました。その中にはキリスト信者となったユダヤ人たちもおり、彼らがローマの教会の礎となったことは間違いないでしょう。しかしこの教会に連なっている人々の多くは、ユダヤ人ではない異邦人でした。本日の箇所の最初の13節でパウロが「では、あなたがた異邦人に言います」と言っていることからもそれが伺えます。パウロは、異邦人が主たるメンバーであるローマの教会に宛ててこの手紙を書き送っているのです。11章13節以下はそのことを改めて思い起こさせる箇所だと言えます。特に17節以下で「あなた」と言われているのは、異邦人のキリスト信者のことです。この部分は、異邦人とユダヤ人の違いを意識しつつ、異邦人であるキリスト信者たちに「あなた」と呼びかけているところなのです。

私たちの問題ではない?
 ユダヤ人のつまずきと、彼らの救いの希望ということは、パウロにとって同胞の救いの問題であり、切実な祈りの課題だったことはよく分かります。しかし彼がこのことを、異邦人が主たるメンバーであるローマの教会に宛てた手紙において、これほど力を込めて語っているのは何故なのでしょうか。異邦人であるキリスト信者たちにしてみれば、それは我々には関係のないことだ、ということにならないでしょうか。ユダヤ人がキリストにつまずいて救いから落ちてしまっていることは確かに残念なことだが、しかしそれは我々の問題ではなくてユダヤ人の問題だ、パウロ先生は自分がユダヤ人だからこのことが頭から離れないのだろうが、我々にしてみればそれは自分の事柄ではない、と思われても不思議はないのです。私たちも彼ら以上にそう思うのではないでしょうか。私たちもユダヤ人ではなく、異邦人です。そして私たちの教会の仲間には、ローマの教会とは違ってユダヤ人であるメンバーはいません。ユダヤ人の知り合いがいる、という人も私たちの中には数えるほどしかいないでしょう。ユダヤ人は私たちにとって、ローマの教会の人々の場合よりもはるかに遠い存在です。だからユダヤ人のつまずきと救いのことを語っている9-11章は、私たちにとって関わりのない話のように感じられるのではないでしょうか。9-11章はさっさと切り上げて次の12章に進んだ方がいい、と思っている人もいるのではないでしょうか。
 しかし私たちはここで、パウロが、異邦人が主たるメンバーであるローマの教会に宛てたこの手紙において、ユダヤ人のことをこれほど力を込めて語っていること、特に本日の13節以下で「あなたがた異邦人に言います」と前置きをして、特に異邦人に対してこのことを語っていることを重く受け止めなければなりません。パウロがこのように語っているのは、このことが異邦人たちの信仰にとっても大切なことだからです。ユダヤ人のつまずきの現実の背後にある神のみ心、ご計画を知ることは、異邦人の信仰においても、ということは私たちにとっても、欠かすことのできない大切なことなのです。それゆえに私たちも、9-11章から、私たちに対する大切なメッセージを聞き取っていきたいのです。

接ぎ木された野生の枝
 ユダヤ人が主イエス・キリストにつまずいたことによって、救いが異邦人にも及んだ、ということがこれまでの所で語られてきたわけですが、パウロは17節において、そのことは救いにあずかったあなたがた異邦人の側から言うとこうなる、と語っています。「しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになった」。「ある枝が折り取られた」というのが、ユダヤ人がキリストにつまずいて救いから落ちたことです。その後に、「野生のオリーブであるあなたが接ぎ木された」、それが異邦人が救いにあずかったことです。異邦人は「野生のオリーブ」だと言われています。野生のというのは、神によって手入れされていない、ということであって、そのままでは良い実を結ぶことなどあり得ないということです。そういう枝である私たち異邦人が、神の救いの木に接ぎ木されて「根から豊かな養分を受けるようになった」のです。このたとえによってパウロが言おうとしているのは、あなたがた異邦人が救いにあずかったのは、あなたがた自身の力や素質によることではなくて、根から豊かな養分を受けたことによってなのだ、ということです。その根に元々つながっており、養われていた枝はユダヤ人たちです。ユダヤ人たちは神によって大事に手入れされ、養われていた枝なのです。しかしイエス・キリストにつまずいたことによって彼らは折り取られ、その代わりに本来はそのような恵みを受けるに値しない野生の枝であるあなたがた異邦人が根に接ぎ木され、神の救いにあずかっているのです。異邦人の信仰者はこのことをしっかりわきまえておかなければならない、とパウロは言っているのです。

誇ってはならない
 自分たちは根に接ぎ木されて救いにあずかった、そのことをわきまえるとは具体的にはどういうことでしょうか。それが18節に語られています。「折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」。折り取られた枝、つまりユダヤ人に対して、接ぎ木された野生の枝である異邦人が誇ってはならないのです。異邦人がユダヤ人に対して誇って語る言葉が19節です。「すると、あなたは、『枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった』と言うでしょう」。ユダヤ人が折り取られ、救いから落ちたのは、私が接ぎ木されるためだった、つまり神は私たち異邦人が救いにあずかることをお望みになったのであって、ユダヤ人のような頑なな、自分たちだけが選ばれた民だなどと奢り高ぶっている連中は見捨てられるのだ…、そういうことを思い、語っている異邦人の信者たちがいたのです。パウロは、異邦人の信仰者がそのような誇りに陥ることがないように戒めているのです。

不信仰と信仰
 パウロは今の19節の異邦人の誇りの言葉を受けて20節で「そのとおりです」と言っています。「ユダヤ人が折り取られたのは異邦人が接ぎ木されるためだった」というのはその通りだ、神のそういうみ心があったのだ、と認めているのです。けれども、あなたがたはそのことの意味を正しくわきまえなければならない。それが20節の後半です。「ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。パウロが異邦人の信仰者たちに語りかけていることの中心はここにあります。ユダヤ人がつまずいて救いから落ち、代ってあなたがた異邦人が救いにあずかっている、それは、彼らの不信仰とあなたがたの信仰とによって生じたことだ。ユダヤ人が折り取られたのは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みを信じなかったからであり、それ以外の、彼らの何らかの資質や悪い行いによることではない。逆にあなたがた異邦人が接ぎ木されたのは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みを信じたからであり、それ以外の、あなたがたの何らかの資質や良い行いによることではない。だから思い上がってはならない。自分が神の救いにあずかったことを、自分の何らかの資質や努力によることのように考え、自分が神の前で何か手柄を立てたかのような思い違いをしてはならない。自分がユダヤ人と比べてより立派な、優れた者であるかのように思って誇り、ユダヤ人を見下してはならない。そのようにパウロは戒めているのです。

私たちの陥る誇り
 私たちは、ユダヤ人に対して誇ったり思い上がったりすることはありません。それは、私たちの周囲にはユダヤ人がいないからです。しかし私たちも、自分が信仰者となり、救いにあずかったことを、何か自分の手柄であるかのように思い、信仰をもって生きている自分が他の人々より立派な良い人であるかのように勘違いしてしまうことはあるのではないでしょうか。そして信じていない人を自分よりダメな人であるかのように上から目線で見てしまうことがあるのではないでしょうか。そのことは、自分は信仰者なのに立派になれていない、と落ち込み、もっと頑張らなきゃと焦るとか、「あの人あれでも信仰者?」と人のことを批判する、という形でも現れます。要するに信仰や救いが人に対する誇りや自負のネタとなってしまうのです。しかし間違えてはなりません。信仰者である私たちは、自分の力で立っているのではありません。根に支えられているから立っていられるのです。20節には「あなたは信仰によって立っています」とあります。それは信仰というあなたの良い行いによって自分の足で立派な者として立っているということではなくて、神の恵みという根によってこそ支えられていることをあなたは信じている、神の恵みという根の支えがなくなれば、自分がたちまち倒れてしまことを知っている、ということです。だから、信仰によって立っている者は、思い上がるのではなくてむしろ恐れなければなりません。神を恐れることこそ、信仰による救いにあずかっている者のあるべき姿なのです。

神の慈しみと厳しさ
 神を恐れるとはどういうことでしょうか。それが21、22節に語られています。「神は、自然に生えた枝を容赦されなかったとすれば、おそらくあなたをも容赦されないでしょう。だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう」。私たちが神の救いの根に接ぎ木され、豊かな養分にあずかっているのは、私たちが自分の手柄によって獲得した権利ではないのです。私たちも、ユダヤ人と同じように切り取られることがあり得るのです。自分はもう切り取られることはないと安心し、緊張感を失ってしまうことはできないのです。元々自然にこの根に繋がっていた枝であるユダヤ人たちが折り取られたならば、接ぎ木された枝である私たちがもはや折り取られることはないと言うことはできません。そのことを自覚して、私たちは、思い上がることなく、恐れを抱かなければならないのです。けれども、神を恐れるとは、自分がいつ折り取られてしまうかもしれない、といつもビクビクしていることではありません。パウロは22節で「神の慈しみと厳しさを考えなさい」と言っています。神を恐れるとは、その厳しさのみを見つめることではなくて、その慈しみを見つめることでもあるのです。慈しみの方が厳しさよりむしろ先に語られています。神の慈しみを見つめ、同時にそこに厳しさをも見つめていく、それが神を恐れることです。私たちは、慈しみと厳しさのどちらかだけを見つめてしまう傾向があります。慈しみだけを見つめ、厳しさに目を塞いでしまう、そうすると、憐れみ深い、やさしい方である神しか受け入れられなくなります。少しでも厳しいことが語られたり、そういうことを体験したりすると、そんな厳しい神にはついて行けない、とへそを曲げてしまうのです。それは要するに神に対する甘えです。慈しみだけで厳しさを見つめようとしない信仰は神への甘えに陥り、神を侮ることにつながるのです。また逆に、厳しさだけを見つめて慈しみを見ないということもあります。そうなると、信仰は、常に神の厳しい試験を受けているような歩みになり、神による試験で自分は何点取れているか、合格点を取れているだろうか、落第してしまわないだろうか、といつも気にしているような歩みになります。そういう目で、自分自身をも、また他の人をも見つめ、裁いていくのです。そういう信仰は喜びを生みません。信仰をもって生きることはそこでは窮屈な、不自由な、縛られた生活になるのです。私たちはこのように、神の慈しみだけを見つめるか、厳しさだけを見つめるか、そのどちらかの間違いに陥りやすい者です。両方の間違いの間を行ったり来たりしているというのが現実かもしれません。しかし本当に神を恐れるというのは、神の慈しみと厳しさを一つのこととして見つめることなのです。

神の慈しみに留まる
 パウロは、ユダヤ人がつまずき、異邦人が救いにあずかっているという現在の事実に、この神の慈しみと厳しさが同時に現れている、と言っているのです。「倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがある」という言葉にそれが語られています。ユダヤ人がつまずいた、そこには、ご自分の民であっても、信じない枝は折り取られるという神の厳しさがあります。神は人間の甘えを何でもよしよしと認めて下さるような方ではないのです。緊張感を失い、神を侮ってはならないのです。しかし、慈しみに留まる限り、あなたに対しては慈しみがある。今キリストの救いにあずかっている異邦人たち、つまり私たちには、神の慈しみが注がれているのです。それは私たちがそれに相応しい良い行いをしているからとか、特別に優れた信仰深い者だからではなくて、私たちが「慈しみに留まっている」からです。慈しみに留まっていることが、慈しみが注がれるためのただ一つの条件なのです。これは論理としてはおかしなことです。しかし神の救いにあずかるというのはまさにこういうことなのです。私たちが何らかの条件を自分の中に整えることによって救いを獲得するのではありません。救いを得るためのただ一つの条件は、神が示し与えて下さっている慈しみの中に留まり続けることです。それが信仰なのです。「あなたは信仰によって立っている」という20節の言葉は、もっと正確に言えば、あなたは神の慈しみに留まっているがゆえに立っている、ということなのです。この慈しみに留まらないなら、あなたも切り取られるのです。神の救いの木から切り取られ、倒れてしまうことは、何か悪いことをするとか、間違いを犯すことによって起るのではなくて、神が示し与えて下さる慈しみの下に留まり、それに依り頼もうとせず、自分の足で、自分の力で立っているように思い込んでしまうことによって起るのです。ユダヤ人が不信仰のために折り取られたのはそのためです。彼らは、主イエス・キリストによって示し与えられた神の慈しみを受け入れず、それに依り頼もうとせず、自分の正しさによって立とうとしたのです。

主に望みをおく人は
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、イザヤ書第40章の終わりのところです。ここを選んだのは、信仰によって、即ち神の慈しみの下に留まることによってこそ力強く立つことができる、ということがここにも語られているからです。28節以下をもう一度読んでみます。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。「若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れる」、若者や勇士は人一倍強い力を持っている人です。自分の足で立ち、元気に生きていけそうな人です。そのような者も倦み、疲れ、つまずき倒れていく、しかし主に望みを置く人は、即ち主なる神の慈しみに留まり、それを常に求めていく者は、主の慈しみによって新たな力を得、鷲のように翼を張って上ることができる、走っても弱ることなく、歩いても疲れない、そのように支えられ、生かされ、力づけられていくのです。「信仰によって立っている」とはそういうことです。パウロは、異邦人の信仰者たちに、また私たちに、このことをしっかりとわきまえさせようとしているのです。このことをわきまえているならば、私たちの信仰生活は、思い上がったり誇ったりすることから解放されます。そしてむしろ、自分がただひたすら、神の慈しみによって救いにあずかっていることを、感謝と恐れをもって受け止め、神の慈しみの下にしっかりと留まる信仰の歩みが与えられるのです。

ユダヤ人の救いの希望
 そしてそこには、今はつまずいており、救いから落ちてしまっているユダヤ人の救いの希望もまた見えてくるのです。それが23節以下です。「彼らも、不信仰にとどまらないならば、接ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう」。野生の枝だった異邦人が、その持っている性質によってではなく、ただ信仰によって、つまり神の慈しみに留まることによって接ぎ木されたならば、元々この木の枝だったユダヤ人も、不信仰に留まりさえしなければ、つまり神の慈しみの下に帰って来るならば、たやすく、元の木に接ぎ木されることができる。神はそうすることがおできになるのだし、そのことを願っておられるのだ。そのことをパウロは希望をもって見つめているのです。

洗礼と聖餐
 不信仰に留まるのでなく、神の慈しみを受け入れ、その下に留まるならば救いにあずかることができる。それはユダヤ人のみのことではありません。私たちの周囲に今、主イエス・キリストを信じていない多くの人々がいます。私たちの感覚においては、それらの人々がキリストの救いを信じ受け入れる可能性はない、と思われるような現実があります。しかしそれらの人々も、私たちの場合と同じように、彼らがどんな人かによってではなくて、主イエス・キリストによって示された神の慈しみを受けるなら救われるのです。私たちが神の慈しみによる救いにあずかっていることが、彼らの救いの希望なのです。だから私たちは、自分自身が先ず、神の慈しみにしっかり留まって生きる者でありたいのです。そのために、これからあずかる聖餐が備えられています。洗礼を受け、神の慈しみの中に留まって生きる者となった者が、聖餐においてその慈しみを常に新たに受けつつ生きていくのです。洗礼を受けた者が聖餐にあずかる、そこに、神の慈しみと厳しさが示されています。まだ聖餐にあずかることのできない方々が、洗礼を受けて、神の慈しみを体をもって味わう聖餐の交わりに加えられることを、私たちは希望をもって待ち望んでいるのです。

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