主日礼拝

主イエスの復活 神の愛

「主イエスの復活 神の愛」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第118編1-7節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
・ 讃美歌:

御子をさえ惜しまず死に渡された方
 私たちは先週一週間、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死を特に覚える受難週を歩んで来ました。その中で、一人の姉妹の葬儀も行いました。そして今日、主イエスの復活の記念日、イースターを迎えました。神の独り子であられる主イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さった、そこにこそ、神が恵みによって与えて下さった救いがあります。その救いをはっきりと告げているみ言葉を本日のこのイースターの礼拝でご一緒に読みます。このみ言葉から、主イエスの十字架と復活による救いを改めて示され、2021年度を歩み出したいのです。
 そのみ言葉とはローマの信徒への手紙第8章31節以下です。その32節にこうあります。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。ここに、主イエス・キリストの十字架の死の意味と、それによって神が私たちに与えて下さった救いがはっきりと示されています。主イエスの十字架の死は、父なる神が、私たちすべての者のためにその御子を死に渡して下さった、という出来事だったのです。それは、ヨハネによる福音書3章16節に語られているのと同じことです。私たちは今、主の日の礼拝において基本的にはヨハネによる福音書を連続して読んでいますが、そのヨハネ福音書の中心的なメッセージが3章16節でした。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。32節はこれと同じことを語っているのです。神は「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」、それが「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」ということです。主イエスの十字架の死は、神がその独り子の命をすら惜しまず与えて下さるほどに、私たちを愛して下さったという出来事だったのです。

本当に必要なものを与えて下さる
 32節はそれに続いて、御子をさえ惜しまず死に渡して下さった神は、御子と一緒に全てのものを与えて下さらないはずはない、と語っています。そこに、主イエスの十字架によって与えられた救いが示されています。最も大事な御子をさえ与えて下さった神は、私たちに全てのものを与えて下さるのです。そこに私たちの救いがあるのです。全てのものを与えて下さるというのは、欲しいものは何でも与えてくれるということではありません。これは、神が私たちを本当に、心から、愛して下さっている、ということです。欲しいものを何でも与えてくれるなんていうのはむしろ胡散臭い話であって、私たちを本当に、心から愛して下さっている神は、私たちに本当に必要なもの、最も大事なものを与えて下さるのです。神が与えて下さる本当に必要なもの、最も大事なものとは何でしょうか。ヨハネ福音書の先ほどの言葉によればそれは「永遠の命」です。独り子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得る、そういう救いのために神は独り子をすら惜しまず与えて下さったのです。

永遠の命こそ救い
 神が与えて下さる「永遠の命」こそが私たちに本当に必要なもの、最も大事なものであり、そこにこそ救いがあります。でも私たちにはそのことがなかなか分かりません。私たちは、永遠の命なんて、死んだ後の話で、今この人生の役には立たない、人生にはもっと大事な、必要なものがある、と思っているのです。でも、永遠の命というものを捉える上で大事なのは、ヨハネ福音書の言葉にあった「滅びない」ということです。永遠の命を得るとは、滅びない者となることなのです。逆に言えば、永遠の命を得ていない私たちは、死んで滅びていくのです。死ぬということは、今持っているものを全て失うことです。命を失い、人生を失い、愛する者と共に生きる生活を失い、夢や希望を失うのです。それは滅びであり、それをもたらすのが死です。だから死は私たちにとって恐しい敵です。その死が今、新型コロナウイルスによって私たちに迫ってきており、隙あらば虜にしようとしています。このウイルスだけではありません。死は様々なものを用いて私たちを滅ぼそうとしており、私たちの人生は、日々の生活は、死の力によっていつも脅かされているのです。そしてひとたびこの死の力に捕えられてしまうと、私たちはもうそこから抜け出すことができません。死と戦って勝利することは誰にもできないのです。だから私たちは死という敵のことを普段なるべく見ないようにしています。しかしいくら見ないで済まそうと思っても、それは確かに私たちに迫って来ます。そのことを私たちは、親しい者の死に直面する時に感じるし、また今は特に、新型コロナウイルスによっていやが上にも意識させられているのです。
 その私たちに神が永遠の命を与え、滅びない者として下さる、という救いを聖書は告げています。それは、私たちを滅ぼそうとしている死の力を、神が打ち破って下さるということです。私たちは決して打ち勝つことのできない死に、神は勝利して下さるのです。それによって私たちは滅びから解放され、死を恐れずに生きる者となるのです。それが永遠の命です。ですから永遠の命は、この世の人生が終わって死んだ後の話ではありません。私たちが今のこの人生を、もはや死に脅かされることなく、死を恐れずに生きる者となる、それが永遠の命です。それこそ、私たちに本当に必要なもの、私たちがこの世の人生を喜んで生きるために最も大事なものだと言えるでしょう。

主イエスの復活、私たちの復活
 父なる神はその永遠の命を、独り子主イエス・キリストに与えて下さいました。それが主イエスの復活です。私たちは今日のイースターに、そのことを喜び祝うのです。それは「イエス様よかったですね」ということではありません。主イエスの復活は、私たち自身に与えられる復活と永遠の命の先駆けなのです。主イエスを復活させて下さることによって神は、主イエスを信じる者たちをも復活させ、永遠の命を与えると約束して下さったのです。主イエスの復活は私たち自身の復活の約束であり保証です。私たちが主イエスの復活を喜び祝うのはそのためです。主イエスを復活させて下さった神が、私たちにも復活と永遠の命を約束して下さっていることを信じる時に、私たちは、私たちを脅かし、滅ぼそうとしている死の力から解放されるのです。それは要するに、人生死んだらおしまい、ではないことが分かるということです。死によって全てが失われても、その先に、滅びることのない永遠の命を神が約束して下さっていることを信じて生きることができるようになるのです。主イエスの十字架の死と復活によって、神は私たちにこういう救いを与えて下さっています。だからイースターは、私たちにとって素晴らしい喜びの日なのです。

神との正常な関係の回復
 永遠の命を得ていない私たちは、死んで滅びていくのだと申しました。私たちが滅びるのは、死んで肉体が滅びるからではありません。私たちが滅びるのは、罪によってです。罪とは、神に背き逆らうこと、神を神として崇めず、礼拝しないことです。つまり罪とは、私たちに命を与え、人生を導いておられる神と、正常な、良い関係を持っていないことです。その罪によって私たちは滅びる。それは神が罪人に対して厳しい方だからではありません。私たちに命を与えて下さり、またそれを取り去られるのは神です。その神と良い関係を持っていなければ、ちゃんとお付き合いをしていなければ、生きることには常に不安がつきまとうし、死ぬことは滅びでしかないのです。つまり私たちが神によって与えられたこの人生を本当に喜んで生きるためには、その人生の導き手であられる神との、失われてしまっている正常な関係を回復されること、つまり罪が赦されることが必要なのです。神との間の正常な関係を回復されることを聖書は「義とされる」と言います。滅びない者とは、神によって罪を赦され、義とされた者です。主イエス・キリストは私たちの罪を赦し、義として下さるために、神との正常な関係を回復して下さるために、私たちの罪をご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架の死によって私たちは罪を赦され、義とされました。それだけではありません。その主イエスを父なる神は復活させて下さいました。私たちの先駆けとして復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、天に昇り、父なる神のもとで今、私たちのために執り成して下さっているのです。つまり罪人である私たちを、ご自分の十字架の死に免じて赦して下さり、罪に定めないで下さるようにと、父なる神に願って下さっているのです。主イエスの十字架の死による償いと、復活した主イエスによるこの執り成しのゆえに、私たちはもはや、罪人として訴えられ、罪に定められることはないのです。そういう救いが主イエスの十字架と復活によって与えられています。そのことが、33、34節に語られているのです。
「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義として下さるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。
 私たちは、神に背き逆らっている罪人であり、神をも隣人をも、愛するよりもむしろ憎み、傷つけてしまっている者です。だから訴えられ、罪に定められ、滅ぼされるしかない者です。でもその私たちを神は恵みによって選び、独り子イエス・キリストの十字架の死によって罪を赦して下さり、義として下さいました。それだけでなく、復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、父なる神のもとで、私たちのために執り成して下さっています。主イエスの十字架の死と復活によって私たちは、神との正常な、良い関係を回復されているのです。神が私たちを義として下さっているのです。だからもう、私たちを罪に定めることができる者はこの世にいません。私たちは、父なる神が独り子主イエスにお与えになったのと同じ復活と永遠の命を与えられ、もはや滅びることのない、死に支配されることのない者とされることを約束されているのです。私たちの人生も、そしていつか必ず迎える肉体の死も、この神の救いの約束の下にあります。だから私たちは、この世の人生で持っているもの全てを失う死をもしっかり視野に置いて、いたずらに恐れ悲しむことなく、死んだらおしまいではないという希望をもって生きていくことができるのです。

苦しみにおける神の愛の勝利
 この救いが35節では、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」と語られています。それは最初の31節の「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」と同じことです。キリストの愛から私たちを引き離すことができるものは何もない、それは神がどんな時にも味方であって下さるということです。神が愛して下さっており、味方となって下さっているから、私たちに敵対できるものはもはや何一つないのです。それは人間どうしの間にしばしば起こるトラブルや対立において、神がいつも自分の味方をしてくれるということではありません。神が味方となって戦って下さる敵とは、35節の後半に語られているように「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」です。敵対する人間との戦いにおいてではなくて、これらの苦しみとの戦いにおいて、神は私たちの味方であって下さるのです。でも神はどうやって苦しみの中にいる私たちの味方であって下さるのでしょうか。神は苦しんでいる私たちに向かって、天から、「私が味方だから頑張れ」とエールを送ってくれているのではありません。そうではなくて、神はその独り子主イエスを遣わして、その主イエスが、私たちの受けている「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」などの苦しみをご自分の身に引き受けて下さったのです。神が味方であって下さるというのは、神の独り子主イエス・キリストが、私たちの体験するあらゆる苦しみをご自分の身に負って死んで下さったということなのです。36節には「『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです」という謎のような言葉があり、それは詩編44編23節からの引用ですが、この引用は、主イエスが私たちの苦しみを負って死んで下さったことを語っているのでしょう。主イエス・キリストは、私たちの受ける「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」の全てを背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そして父なる神は、その主イエスを復活させて下さいました。主イエスの復活は、神の愛が、主イエスが受けた苦しみを打ち破って、新しい命を与えて下さったことを示しています。主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかる者は、この神の愛の勝利の中を生きることができるのです。37節に「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」とあるのはそういうことです。「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」の中で私たちは輝かしい勝利を収めている。それは私たちが勝利しているのではなくて、「わたしたちを愛してくださる方によって」、つまり独り子をさえ惜しまず死に渡して下さったほどの神の愛が勝利して下さっているのです。

死においても
 38節以下には、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことができるものはこの世には何もない、という確信が語られています。そこにいろいろと並べられているものの最初に、「死も、命も」とあります。死の力も、主イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないのです。なぜなら、死の苦しみも、それによって全てが失われる滅びも、主イエスが既に私たちのために、私たちに代って引き受けて下さったからです。死においても、主イエスが共にいて下さり、私たちを義として下さっているのです。私たちの人生を終わらせ、命を取り去られる神との良い関係を与えて下さっているのです。要するに神の愛を注いで下さっているのです。そして父なる神は死の力を打ち破って主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それによって私たちにも、復活と永遠の命の約束を与えて下さいました。さらに復活した主イエスは今、父なる神の右に座っていて、私たちのために、罪人である私たちが一人も滅びないで永遠の命を得るために、執り成して下さっているのです。これらの、幾重にも重なる救いの恵みのゆえに私たちは、自分が死においても、キリストによって示された神の愛から引き離されることはない、と確信することができるのです。

命においても
 死と並んで「命も」とあります。この世を生きていく命、人生もまた、苦しみに満ちているものです。死ぬことの苦しみもあれば、生きていくことの苦しみもまた大きいのです。だから私たちは、死んでしまった方が楽だ、と思ってしまうことがあります。しかしその生きていくことの苦しみも、主イエスが既に私たちのために引き受け、味わって下さっているのです。私たちがこの世の人生を、苦しみを負いつつ生きていく、そこにも主イエスが共にいて下さり、私たちを義として下さっているのです。私たちは、神に従おうとせず、自分が主人となって生きている罪人です。命を与えて下さり、人生を導いて下さっている神との良い関係を失っているのです。つまり自分を生かして下さっている神を愛することができず、それゆえに自分で自分を愛し喜ぶことができず、それゆえに隣人をも愛することができず、不安と恐れに満ちた人生を生きているのです。しかしその私たちのために、主イエス・キリストは十字架の死と復活による救いを与え、神との良い関係を回復させ、私たちをもご自分と共に神の子として下さり、神に愛されている者として生きることができるようにして下さいました。この主イエスを信じ、主イエスと共に生きる時に私たちは、自分の人生が、キリストによって示された神の愛から決して引き離されることはない、と確信することができるのです。

主イエスの復活を喜び祝いつつ
 主イエス・キリストは、私たちの救いのために、十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さいました。それによって、神の愛が私たちに豊かに注がれています。この世を生きていくことにおいても、その人生を終えて死ぬ時にも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことができるものは何一つありません。主イエスの復活を喜び祝う本日のイースター、私たちはこの神の愛を注がれて、新しい年度を歩み出すのです。そして毎週の主の日が、小さなイースターです。私たちは毎週主の日に、主イエスの復活を喜び祝う礼拝をささげつつ、私たちを決して離すことのない神の愛の中でこの人生を歩み、そしてその神の愛の中で死を迎えるのです。

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