主日礼拝

主イエスの昇天

「主イエスの昇天」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第2編1-12節
・ 新約聖書:使徒言行録 第1章6-11節
・ 讃美歌:

主イエスは天に昇られた
 毎週の礼拝で告白している「使徒信条」に導かれてみ言葉に聞いています。今はその第二の部分、神の独り子である主イエス・キリストを信じる信仰を語っているところを読んでおり、前回までの二回は、「三日目に死人のうちよりよみがえり」というところ、つまり主イエス・キリストの復活について、聖書が語っていることを聞きました。使徒信条はそれに続いて、「天にのぼり」と語っています。復活なさった主イエスが天に昇ったと聖書は語っており、教会はそれを信仰の大切な事柄として信じ告白しているのです。
 主イエスが天に昇られたことを「昇天」と言いますが、字は本日の説教題のように「昇る」という字です。これとは別に、これは聖書にある言い方ではありませんが、「召す」という字の「召天」という言葉があり、私たちの教会でも「召天者記念礼拝」というのをしています。その「召天」は「天に召される」という意味であり、死ぬ、ということです。主イエスの昇天はこの召天とは違います。主イエスは肉体をもって復活し、もはや死ぬことのない永遠の命を生きておられる方として、天に昇ったのです。その場面が先ほど朗読された使徒言行録第1章の9節に語られていますが、このことは福音書にも語られています。使徒言行録と同じ人によって書かれたルカによる福音書の24章50、51節にはこうあります。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。「彼ら」とは弟子たちです。ルカ福音書の著者は、主イエスのご生涯を語る福音書の最後に、主イエスが弟子たちを祝福しながら天に上げられたことを語り、そしてその弟子たちが「使徒」として遣わされていったことを語る使徒言行録をそのことから始めているのです。昇天の出来事が、ルカ福音書と使徒言行録を繋げている、と言うことができます。また、マルコによる福音書の第16章19節には「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」とあります。使徒言行録第2章33節にも、「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」とあります。エフェソの信徒への手紙の第1章20節にも、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ」とあります。「使徒信条」は「天にのぼり」に続いて「全能の父なる神の右に坐したまへり」と語っていますが、天に昇った主イエスが父なる神の右の座に着いたことがこれらの箇所に語られているのです。
 使徒言行録第1章3節によれば、主イエスは復活してから四十日にわたって弟子たちに姿を現わし、ご自分が生きておられることをお示しになりました。それから天に昇られたのです。ですから主イエスの昇天は復活の日であるイースターから四十日目と考えられます。イースターは年によって日が違います。今年は4月17日です。それから四十日目の5月26日の木曜日が、主イエスの昇天を記念する「昇天日」です。そしてそれから十日目、イースターから五十日目の6月5日がペンテコステ、聖霊降臨日となります。主イエスの復活、昇天、そして聖霊が降ったことが五十日の間に起った、という使徒言行録の記述に基づいて、教会の暦は出来ているのです。

彼らの目から見えなくなった
 さてそれでは、主イエスが天に昇ったことは、私たちにとってどのような意味があるのでしょうか。それを信じるとはどういうことなのでしょうか。本日はそのことを、使徒言行録第1章から見ていきたいと思います。その9節にこうあります。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。主イエスが弟子たちの目の前で、ロケットの打ち上げのように、しかしロケットのように轟音を立てることはなく、煙を吐くこともなく、天に昇っていって、そのうち雲に隠れてそのお姿は見えなくなった、そんな光景を思い浮かべることができます。それはすごい奇跡ですが、しかし主イエスの昇天を信じるというのは、主イエスが空を飛んで天に昇って行ったという奇跡を信じることではありません。この出来事のポイントは、「彼らの目から見えなくなった」ということにあります。主イエスは天に、つまり父なる神のもとに昇った、それによって、地上を生きている弟子たちの、そして私たちの、目には見えなくなったのです。今私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできませんし、手で触れることもできません。でも主イエスは肉体をもって復活なさったのです。復活した主イエスは弟子たちに手と足をお見せになり、焼き魚を食べて見せて、肉体をもって復活なさったことをお示しになった、という箇所をしばらく前に読みました。そして主イエスの復活においてもう一つ大事なことは、一旦は復活したけれども結局最後はまた死んでしまったのではなくて、主イエスは父なる神によって、もはや死ぬことのない永遠の命を生きる者とされた、ということです。つまり主イエスは肉体をもって復活して今も生きておられるのです。だからその主イエスのお姿を、私たちもこの目で見たり、主イエスと握手をしたりできるはずなのです。しかし今私たちにはそれができません。それは何故かというと、主イエスは天に昇ったからです。天に昇ったので、地上を生きている弟子たちの目には見えなくなった、だから私たちも今、主イエスのお姿をこの目で見ることができないのです。主イエスの昇天の私たちにとっての意味はそこにあります。主イエスの昇天を信じるとは、主イエスは復活して永遠の命を生きておられる、しかし天に昇り、父なる神のもとに行かれたので、地上を生きている私たちはそのお姿をこの目で見ることはできない、そのことを信じることなのです。

弟子たちを遣わすにあたって
 本日の箇所の冒頭の6節に「さて、使徒たちは集まって、『主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか』と尋ねた」とあります。使徒言行録では弟子たちのことが最初から「使徒」と呼ばれています。彼らが、復活した主イエスに、「イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねたのです。それは、復活した主イエスがいよいよ神の国を実現し、救いを完成して下さるのではないか、という期待を込めた問いです。しかし主イエスは「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」とおっしゃいました。救いの完成はいつか、ということは父なる神がお決めになることで、あなたがたはそれを詮索すべきではない、しかしその救いの完成に向けて、あなたがたにはなすべきことがある、と主イエスはおっしゃったのです。それが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。神の国が実現し、救いが完成する前に、あなたがたは全世界へと、私の証人として遣わされる、それによってあなたがたは神の国の実現、救いの完成のために仕える者となるのだ、と主イエスはおっしゃったのです。弟子たちが「使徒」と呼ばれているのはそのためです。「使徒」とは、「遣わされた者」ということです。主イエスは弟子たちを使徒として、主イエスの証人として、全世界へと遣わそうとしておられるのです。それに続く9節に、「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられた」と語られています。あなたがたを全世界に遣わすと話し終えて、主イエスは天に昇り、彼らの目から見えなくなったのです。つまり主イエスの昇天と、弟子たちが主イエスの証人として全世界へと遣わされることは結びついています。弟子たちを使徒として遣わすにあたって、主イエスは天に昇られたのです。

昇天しなかった方がよかった?
 弟子たちを遣わすことと、主イエスが天に昇ることはどう結びつくのでしょうか。弟子たちが主イエスの証人として遣わされ、主イエスによる救いを人々に宣べ伝えていく、そこには様々な苦労が伴うでしょうし、困難なことが沢山あるでしょう。だったら、天に昇って彼らの目から見えなくなってしまうのではなくて、地上に留まって、目に見える仕方で支えて下さった方がよかったのではないか、と私たちは思います。それは弟子たちのためだけではなくて、私たち自身のためでもあります。主イエス・キリストを信じてこの世を生きていく私たちにも、いろいろな苦労があります。目に見えない主イエスを信じて生きることは簡単ではありません。主イエスが目に見えるお姿で地上に留まっていて下さったらよかったのに、と思うことがあります。また、使徒たちが遣わされたように私たちも、主イエスの証人としてそれぞれの生活の場へと遣わされています。教会には、つまり私たちにも、主イエスによる救いを宣べ伝えていく使命が与えられているのです。しかしそこにはいろいろな困難があります。主イエスによる救いを人々に語っても、信じてもらえない、かえって変な目で見られたり、馬鹿にされたりする。そんな時、主イエスのお姿をこの目で見ることができたらよかったのに、主イエスが目に見える仕方で出会って下さり、語りかけて下さり、握手やハグをして下さったら、もっともっと勇気を出して力強く伝道していくことができるのに、と思うのではないでしょうか。だから私たちは、主イエスは天になど昇らずにずっと地上にいて下さった方がよかった、と思うことがあります。また信仰を否定する人たちからは、イエスの復活なんてあり得ない。復活したと言うけれどもイエスはどこにもいないではないか。その言い訳として教会が「イエスは昇天した」という苦しい説明を考え出したのだ、などとも言われてしまうのです。

私たちと共にいて下さるために
 しかし、主イエスが天に昇ったのは、全世界へと遣わされていく弟子たちのためでした。もし主イエスが天に昇らず、地上に留まっておられたら、確かに目で見ることも握手をすることもできたでしょう。しかしその場合には、主イエスは今何処におられるのだろうか、ということになります。今はアメリカにいるのか、ロシアにいるのか、アフリカのどこかにいるのか、ということになるのです。たとえ復活した主イエスがワープとかテレポーテーションのような瞬間移動スキルを持っておられたとしても、ここにいる時にはあちらにはいないのです。だから、全世界へと遣わされていく弟子たちは、そのほとんどの時を、主イエスが共におられない中で主イエスの証人として歩まなければならなくなります。このことは、私たちのこの礼拝にも関係しています。私たちは、毎週の主の日の礼拝に、主イエス・キリストが、目には見えないけれども共にいて下さることを信じています。主イエスがこの礼拝の真ん中にいて下さり、私たち一人ひとりと出会って下さると信じて、礼拝に集っているのです。でも、主イエスが天に昇らずにずっと地上におられたとしたら、そうはいきません。主イエスは今日はどこの教会の礼拝におられるのだろうか、ということになるのです。主イエスが毎週世界中の教会を廻って下さるとしても、この教会の礼拝に来られるのは何年先のことか、ということになるのです。ひょっとしたら、一生に一度でも、主イエスが共におられる礼拝を守ることができたらめっけもので、それを一度も体験できずに生涯を終える人も大勢いる、ということになるかもしれません。しかし安心して下さい。そんなことはありません。主イエスは、私たちの今日のこの礼拝にもちゃんと共にいて下さいます。今私たちは午前と午後とに分かれて二回の礼拝をしていますが、そのどちらにも共にいて下さいます。この横浜だけでもけっこう多くの教会があって、この日曜日に礼拝をしていますが、その全ての礼拝に共にいて下さいます。それは主イエスが天に昇られたからです。天に昇って、地上を生きている私たちの目には見えなくなりましたが、そのことによって逆に、目に見えない仕方で、いつでも、どこでも、多くの場所において同時にでも、共にいて下さる方となられたのです。主イエスの昇天によってそういう恵みが私たちに与えられたのです。

聖霊を注いで下さるために
 そのことを実現して下さっているのが、聖霊なる神です。弟子たちをわたしの証人として派遣すると語られた8節の冒頭には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける」とありました。弟子たちが主イエスの証人となるのは、彼らに降る聖霊の力によってなのです。聖霊によって力を受けるというのは、天に昇り、目には見えなくなった主イエスが、聖霊のお働きによって、いつでも、どんな時にも、共にいて下さるということです。それによって彼らは力づけられ、共にいて下さる主イエスを証ししていくことができるのです。その聖霊が彼らに降ったのが、使徒言行録第2章に語られている聖霊降臨の出来事、ペンテコステの出来事でした。ペンテコステに聖霊が降ったことによって、弟子たちは力を受け、使徒として全世界へと遣わされ、主イエスによる救いを証ししていったのです。このペンテコステの出来事を、先ほども読んだ使徒言行録2章33節は、「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」と語っていました。天に昇り、父なる神の右の座に着かれた主イエスが、父なる神から受けた聖霊を注いで下さった、それが聖霊降臨、ペンテコステの出来事だったのです。ペンテコステに弟子たちに降り、彼らを使徒とした聖霊は、天に昇った主イエスが注いで下さったのです。主イエスが昇天したからこそ、聖霊降臨、ペンテコステの出来事は起ったのです。ですから主イエスの昇天は、その十日後のペンテコステ、聖霊降臨と深く結びついており、弟子たちが聖霊を受けて主イエスの証人として全世界に遣わされていくための備えだったのです。全世界へと遣わされていく弟子たちを、いつでも、どこにいても支えて下さるために、主イエスは天に昇られたのです。
 そしてそれは弟子たちのためだけではありません。私たちが、この地上を、主イエスを信じる者として歩み、主イエスによる救いを証しし、宣べ伝えていく、その信仰の歩みを支え、力づけて下さっているのは聖霊です。私たちも聖霊によって力を受けて、主イエスの証人として生きるのです。その聖霊は天に昇り、父なる神のもとに行かれた主イエスから注がれています。天に昇った主イエスは、私たちの目には見えなくなりましたが、聖霊のお働きによって、いつでも、私たちがどこにいても、共にいて下さるのです。目に見える現実がどのように苦しみ悲しみに満ちたものであっても、目に見えない主イエス・キリストが聖霊によって共にいて、私たちを支え、導いて下さっているのです。そのように私たちといつも共にいて下さるために、主イエスは天に昇られたのです。

われわれの肉を天に持つ
 主イエスの昇天によって与えられている恵みはもう一つあります。「ハイデルベルク信仰問答」にそのことが語られています。その問49は、「キリストの昇天は、われわれに、どういう益を、与えるのですか」という問いですが、その答えとして三つの益があげられているのですが、その「第二」にはこのように語られています。「われわれは、主が、かしらとして、そのえだであるわれわれを、ご自分のもとに引き上げて下さる、確かな担保として、われわれの肉を、天に持つことになるのであります」。これは一度聞いただけでは理解しにくい複雑な文章ですが、二つのことがその前提となっています。一つは、キリストが肉体をもって復活なさったこと、もう一つは、私たちはキリストの体である教会のえだ、部分とされており、その頭(かしら)は復活した主イエス・キリストである、ということです。私たちが連なっているキリストの体の頭(かしら、あたま)であるキリストが、肉体をもって復活して天に昇り、父なる神のもとに行かれたのです。それによって私たちは、自分のからだの一部を、しかもその中心である頭(かしら)を、既に天に持っているのです。私が連なっている体の頭(あたま)はもう天に昇っているのです。それは、頭(かしら)であるキリストが、そのえだ、部分である私たちを、ご自分のもとに引き上げ、天に迎えて下さることの確かな担保、保証なのです。もっと簡単に言ってしまえば、私たちの体の頭が、もう天にあって、父なる神のもとで永遠の命を生きておられるのだから、今は地上を歩んでいる私たちも、いつかその頭のもとに引き上げられて、神のもとで永遠の命を生きる者とされる。主イエスの昇天によってそのことが約束されているのです。しかも主イエスは肉体をもって復活なさって天に昇られたのですから、私たちも、肉体をもって復活し、神のもとで主イエスと共に永遠の命を生きる者とされるのです。もちろんそれは、今のこの体がそのまま生き返って墓から出て来るというような、ゾンビみたいなことではなくて、神が、死の力を打ち破って主イエスを復活させて下さったように、世の終わりの救いの完成の時には、私たちを支配している死の力をも打ち破って下さり、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さるということです。肉体をもって復活し、天に昇られたことによって、主イエスは今、聖霊によって私たちと共にいて下さるだけでなく、将来、私たちをご自分のもとに引き上げ、復活と永遠の命を与えて下さることを約束して下さっているのです。「墓場に片足を突っ込んでいる」という言い方があります。年をとって弱ってくることによって、また、苦しみの中で絶望を覚える時に、私たちはそういう感覚を抱くことがあります。しかし、主イエスが天に昇って下さったことによって、私たちはもう、「天に、神さまのもとに、頭を突っ込んでいる」のです。だから、今は地上を歩んでおり、いつか墓場に葬られてしまう私たちですが、最終的には、天に、神のもとに、引き上げられるのです。私たちにその希望を与えるために、主イエスは天に昇って下さったのです。

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