「神の偉大な業を語る」 伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:創世記 第11章1-9節
・ 新約聖書:使徒言行録 第2章1-13節
・ 讃美歌:346、390
五旬祭
ペンテコステ、聖霊降臨日を迎え、主日礼拝ではペンテコステ礼拝が守られました。私たちの教会だけではなく全世界の教会が、この日、聖霊が降り教会が誕生したことを記念してペンテコステ礼拝を守っています。夕礼拝ではルカによる福音書を初めから読み進めてまいりましたが、本日は使徒言行録が告げるペンテコステの出来事に耳を傾けたいと思います。
使徒言行録2・1節に「五旬祭の日が来て」とあります。この五旬祭のことをギリシャ語でペンテコステと言います。五旬祭に、つまりペンテコステに聖霊が降ったので、私たちは聖霊降臨日をペンテコステと呼ぶのです。このペンテコステという言葉は「五十番目」を意味します。なぜ「五十番目」なのか。それは、この祭が過越祭から五十日目に行われたからです。過越祭は、神さまがエジプトで奴隷であったイスラエルの民を救われたことを記念する祝いです。神がイスラエルの民に行ってくださったみ業を思い起こす祭りなのです。この祭りはもともと穀物の鎌入れを祝う収穫の祭りでした。その祝いから50日目に五旬祭が行われ穀物の刈り入れが祝われたのです。つまり穀物の収穫の初めに祝われたのが過越祭で、収穫の終りに祝われたのが五旬祭なのです。五旬祭では「あなたの神、主より受けた祝福に応じて、十分に、あなたがささげうるだけの収穫の献げ物をしなさい」と申命記16・10節に記されています。収穫の実りは神さまから与えられた祝福であり、その祝福にふさわしい献げ物をすることが命じられていたのです。また五旬祭についての規定の締めくくりである16・12節に「あなたがエジプトで奴隷であったことを思い起こし、これらの掟を忠実に守りなさい」とあります。この祭りもイスラエルの歴史に結びつけられているのです。この五旬祭を祝うためにユダヤ人はエルサレムへ巡礼しました。「五旬祭の日が来て」とは、そのようなユダヤ人にとって特別な祭りの日であったことが告げられているのです。
ユダヤ人にとって特別な日に
私たちにとって特別な聖霊降臨の出来事が、ユダヤ人にとって特別な祭りの日に起こったことは偶然ではありません。それは、主イエスの十字架と復活がユダヤ人にとって特別な祭りであった過越祭と分かちがたく結びついているのと同じです。ルカによる福音書の最後の晩餐の場面で、主イエスは弟子たちに「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と言われました。このルカによる福音書の続きとして書かれた使徒言行録で、著者ルカは主イエスの復活から五十日目に起こった聖霊降臨の出来事を五旬祭と結びつけているのです。ルカ-使徒言行録は、十字架の死と復活と昇天と聖霊の降臨がばらばらの出来事ではなく、ひとつながりの神の救いのみ業であることを告げています。そしてこの神の救いのみ業はユダヤ人の祭りと結びつけられているのです。このことによって、旧約聖書と新約聖書で語られている神のみ業が別々のことではなく、ひとつながりの救いのみ業、救いの歴史であることが告げられているのです。私たちは聖霊が降った出来事を旧約聖書と切り離して考えることはできません。本日の聖書箇所に続く14節以下で、使徒ペトロの説教が語られていますが、そこで彼は聖霊降臨の出来事を旧約聖書ヨエル書の預言の成就として解き明かしているのです。
一同が一つになって集まって
この五旬祭の日に「一同が一つになって集まって」いたと語られています。先ほど申した通り、五旬祭にユダヤ人はエルサレムへ巡礼しました。5節には「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」とあります。「住んでいた」と言われていますが、おそらく巡礼のために一時的にエルサレムに滞在していたのだと思われます。9、10節に挙げられている地域や国に住んでいたユダヤ人たちがエルサレムに帰って来て、一時的に滞在していたのです。エルサレムはそのようなユダヤ人でごった返していたに違いありません。祝いの祭りですから、エルサレム神殿を中心としてとても賑わっていたでしょう。そのように賑わい騒々しい街の中で「一つになって集まって」いた人たちがいました。その人たちを1節では「一同」と呼んでいます。「一同」とは誰のことか、という疑問が浮かびます。この疑問に答えるためには1章に戻る必要があります。13節まで遡ると次のようにあります。「彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった」。ここに挙げられているのは、主イエスの十二人の弟子たちから主イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除いた十一人の弟子の名前です。14節にあるように「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のです。この人たちに加えて1・15節以下で語られているユダの代わりに使徒として選ばれたマティアも「一同」に含まれるでしょう。五旬祭の日にも、彼らは1・13、14節で語られているのと同じ場所で同じ目的のために「一つになって集まって」いたに違いありません。エルサレムが祭りの喧騒の中にあっても、そこから離れて家の中で彼らは心を合わせて熱心に祈っていたのです。
共に祈る中で
主イエスは弟子たちに1・4、5節で「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と告げ、また天に上げられる直前に1・8節で「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と告げていました。この神さまが約束されたもの、つまり聖霊を待ち望んで、彼らはエルサレムの家の一室で共に祈っていたのです。聖霊が自分たちの上に降って、力が与えられ主イエスの証人となれるように祈り願っていたのです。しかしそれは、聖霊が降らなければ、彼らは力を失っていて主イエスの証人となれなかったからだとも言えるのです。それは無理もないことでしょう。彼らはわずか50日ほど前に主イエスを見捨て、逃げ出したのです。そのような弟子たちが自分たちに主イエスを証しする力などないと思っても不思議ではありません。三度主イエスを知らないと言ったペトロは、主イエスが振り返り自分を見つめたとき、主の言葉を思い出し激しく泣きました。自分の取り返しのつかない罪に完全に打ちのめされたのです。それはほかの弟子たちも似たり寄ったりです。しかしそのような自分の罪の現実に力を完全に失っていた者たちに、力が与えられるのだと告げられていたのです。主イエスを知らないと言った者たちが、主イエスを証しする者になると告げられていたのです。彼らはそのことを一人で祈っていたのではなく、一緒に心を合わせて祈っていました。まさにそこにおいて聖霊が降ったのです。聖霊が降ったのが一人で祈っているときではなく、共に祈っているときであったのは大切なことです。聖霊が降る出来事は個人的なことではなく、約束された聖霊を待ち望み共に祈る群れに起きたことなのです。だからこそそこに最初の教会が生まれたのです。教会はその初めから、神の約束を待ち望み祈る群れだったのです。
二つのしるし
聖霊が降ったことを2節、3節では二つのしるしによって告げています。一つは「激しい風が吹いて来るような音」であり、もう一つは「炎のような舌」です。「激しい風が吹いて来るような」とか「炎のような」とか言われているようにどちらも聖霊が降ったことの比喩として語られています。聖霊が風そのものであるとか炎そのものであるのではありません。それらはあくまでも聖霊のしるしなのです。とはいえなぜ聖霊が降ったことのしるしとして、風や炎が用いられているのでしょうか。風が用いられているのは、ギリシャ語で聖霊という言葉が風をも意味するからであり、炎が用いられているのは、聖書で炎は神さまがそこに現れてくださることを表現しているからです。ですから「激しい風が吹いてくるような音が天から聞こえた」とは、天から聖霊が降ったことのしるしであり、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とは、聖霊なる神さまがそこに臨んでくださり、聖霊の賜物を注いでくださったことのしるしなのです。ここでもう一つ目を向けたいことがあります。それは、聖霊は一つになって集まっているところに降りましたが、その賜物は一人ひとりそれぞれの上に留まったことです。私たちが共に祈るところに確かに聖霊は働きます。しかしその聖霊の働きによって私たちに与えられる聖霊の賜物は、すべての人に同じなのではなくそれぞれに異なるのです。聖霊なる神さまの働きと、その働きによって与えられる豊かな賜物によって教会は誕生し、また作り上げられていくのです。このことは、「舌」が「言葉」を意味することからも示されています。「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とは、「異なる言葉が一人一人に与えられた」ことを意味するのです。そして彼らはそれぞれに与えられた賜物である異なった言葉で語り出したのです。
一同は聖霊に満たされ
1節に「一同が一つになって集まって」とあり、4節に「一同は聖霊に満たされ」とあります。同じ「一同」とありますが、彼らは2、3節のしるしで示されている聖霊降臨の出来事によって、聖霊が降るのを待ち望む者から、聖霊に満たされた者へと変えられたのです。4節には聖霊に満たされた彼らが「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」とあります。ここでは彼らがなにを話し出したか記されていません。しかし11節を見ると、彼らが話していることを聞いたユダヤ人たちは次のように言ったとあります。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」彼らは聖霊に満たされて「神の偉大な業」を語り出したのです。わずか50日前に主イエスを知らないと言い、自分の罪に打ちのめされ無力さを感じ、主イエスを証しすることなどできないと思っていた者たちが、聖霊が降ることによって「神の偉大な業」を語る者へと変えられたのです。その聖霊の働きは弟子たちに限ったことではありません。聖霊は今を生きる私たちにも働きかけています。私たちは、自分が主イエスを証しするのにふさわしくない者だと感じます。そのように感じるのは私たちの罪、弱さ、欠けのためです。私たちの誰一人として主イエスを証しするのにふさわしい者ではありません。あのペトロと同じように私たちはかつて主イエスを知らないと拒んだ者であり、今もしばしば主イエスを拒む者です。主イエスを証しする力などないのです。ただ聖霊の働きによって、罪、弱さ、欠けがあるにもかかわらず、主イエスを証しするのにふさわしくない者であり、またそのような力などない者であるにもかかわらず、私たちは弟子たちと共に「神の偉大な業」を語る者へと変えられていくのです。
ディアスポラのユダヤ人
さて、5節には「エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいた」と述べられていることをすでに見ました。旧約聖書が語っているように、ユダヤ人はダビデによって建てられた王国が滅亡した後、多くが捕らえられイスラエルから諸外国へ連れていかれました。そのようなユダヤ人を故郷から離れ散らされた民、離散の民、ディアスポラのユダヤ人と言います。新約聖書ではそのようなディアスポラのユダヤ人の存在はあたりまえのこととして語られています。たとえばタルソス出身のパウロもディアスポラのユダヤ人の一人です。9、10節に彼らが住んでいた地域のリストがあり、ディアスポラのユダヤ人が実に広い範囲に散らばっていたことが分かります。しかし彼らは遠く離れた地にあっても信仰を失ったわけではありませんでした。いやむしろ遠く離れているからこそ彼らは律法を大切にしていましたし、エルサレム神殿への思いは強かったのです。「信心深いユダヤ人」とは、そのような強い思いによって五旬祭の日に諸外国からエルサレムへ巡礼のために来ていたユダヤ人を指しているのです。
混乱と驚きと疑い
「激しい風が吹いて来るような音」は家中に響いただけでなく、家の外にも伝わりました。聖霊は、家の一室で一つとなって集まっていた群れに降りましたが、この出来事は家の中にとどまらず家の外へと広がっていったのです。この物音を聞いて大勢の人が集まってきました。集まってきた人たちは「だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった」と6節にあります。「あっけにとられた」とは「混乱させられた」ことを意味します。さらに7節で「人々は驚き怪しんで言った」とあり、12節にも「人々は皆驚き、とまどい」とあります。この12節の「とまどう」という言葉は「疑う」ことを意味します。つまり彼らは聖霊に満たされた人たちが様々の言葉で神の偉大な業を語っていることに、混乱し驚き怪しみ疑ったのです。それは、彼らに理解できない矛盾が起こっていたからです。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。」この言葉が、彼らが感じた矛盾を示しています。ガリラヤの人がなぜほかの国の言葉を話しているのか。あるいはガリラヤの人なんかがなぜほかの国の言葉を話せるのか。「人々は驚き怪しんで言った」とは、そのようなどこか見下すような思いから出た言葉かもしれません。しかし聖霊が降ること、それは人の理解を越えた出来事です。人間の論理で矛盾なく語れるようなことではないのです。そして人の理解を越えた出来事であるからこそ、聖霊が降ることによって弟子たちが、また私たちが自分の力では決して成しえないことが起こるのです。私たちが主イエスを証しする者へと変えられるのは、自分の熱意や努力によるのではありません。私たちは主イエスを知らないと言ってしまう罪や弱さの中にあります。しかし人の理解を越えた神さまのみ業によって、聖霊の働きによって変えられるのです。聖霊が降った出来事に創世記のバベルの塔の物語との関わりを見ることもできます。世界中で同じ言葉を使っていた人間は天まで届く塔のある町を建てようとしました。天まで届く塔を建てるとは、人が神になろうとしていることにほかなりません。神は、そのような人間の言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられないようにしました。そして神は彼らを全地に散らした、と創世記は語っています。一方、聖霊が降ったのは全地に散らされたユダヤ人がエルサレムに帰ってきたときでした。しかしこのとき起こったのは、バベルの塔の物語で語られているのと逆のことというわけではありません。聖霊が降ったことによって、別々の言葉が一つの言葉となったのではないのです。むしろ聖霊で満たされた者たちは、自分たちの言葉ではなく世界中の言葉で語り始めました。異なる言葉が話されたという点ではバベルの塔の物語も聖霊が降って起こった出来事も変わらないのです。しかし同時に、聖霊が降ったことによってバベルの塔の物語の逆転が起こっていることも確かです。バベルの塔の物語において、言葉が混乱することによって互いの言葉が聞き分けられなくなり意志の疎通ができなくなって塔の建設をやめたのでした。しかし聖霊に満たされた者たちが世界中の言葉を語ることで、異なる言葉を使う人たちと意志の疎通ができるようになったのです。そのことによって、世界中の人たちに神の偉大な業を語ることができるようになったのです。それは伝道の始まりであり、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ことの始まりでもあるのです。使徒言行録は、この主イエスの言葉が実現していくことを語っていきます。しかしこの主イエスのお言葉は使徒言行録の終りで完成したのではありません。2000年を経た今もなお途上にあり、私たちは聖霊が降ったことによって始められた出来事の続きを歩んでいるのです。
神の偉大な業を語る
人々の混乱と驚きと疑いの中で、嘲りも生まれてきます。嘲る者たちは「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言いました。「新しいぶどう酒に酔う」とは、直訳すると「新しいぶどう酒に満たされる」となります。聖霊に満たされることと対照的に言われているのです。しかしこの「酔う」という訳に注目するならば、聖霊に満たされるとは聖霊に酔うことだとも言えるのです。体中が聖霊で満たされて、聖霊に酔って、彼らは神の偉大な業を語りました。神の偉大な業とは主イエス・キリストご自身にほかなりません。地上を歩まれ、神の国を宣べ伝え、奇跡を行い、十字架で死なれ、復活し、天に上げられた方を語ることこそ、神の偉大な業を語ることです。ペンテコステの日に起こった出来事とは、主イエスが宣べ伝える方から、弟子たちによって宣べ伝えられる方となったことです。天に上げられるまで主イエスご自身が神の国の到来を宣べ伝えてきました。しかし今や弟子たちが主イエスを宣べ伝え始めたのです。この方こそ救い主であると証ししたのです。それは教会の誕生にほかなりません。教会は主イエス・キリストを証しします。そのことは最初の教会も、私たちの教会もまったく変わりません。教会はいつの時代も神の独り子である主イエス・キリストが私たちの罪のために死なれ復活されたことを神の偉大な業として語ってきたのです。しかしそれはなにか私たちに特別な力があるから語れるのではありません。聖霊が私たちを満たしてくださっているのです。聖霊の働きによって教会は神の偉大な業を語ることができるのです。使徒言行録は確かに使徒たちの働きを通して神の偉大な業が語られ、福音が広がっていくことを語ります。しかし福音が前進していくその物語の主人公は使徒たちではありません。聖霊なる神さまこそ主人公なのです。使徒たちはその聖霊の注ぎと導きによって神の偉大な業を語ったに過ぎないのです。私たちの教会が神の偉大な業を語るとき、その主人公も聖霊なる神さまにほかなりません。聖霊の働きによって、聖霊に満たされ、教会は神の偉大な業を語り続けていくのです。