主日礼拝

神を愛する人は兄弟を愛する

「神を愛する人は兄弟を愛する」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記 第6章4-15節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一 第4章13-21節
・ 讃美歌:344、149、483

ペンテコステを喜び祝う  
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。この日に何が起ったのか、私たちは今日どのようなことを記念しているのか、そのことは、週報の表の主日礼拝のプログラムの上のところに印刷されている「今月の聖句」を読むと分かります。使徒言行録第2章33節のみ言葉ですが、「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」とあります。これがペンテコステの出来事です。復活して天に昇り、父なる神の右に上げられた主イエスが、父なる神から聖霊を受けて、それを弟子たちに注いで下さったのです。その聖霊のお働きによって弟子たちは力を受け、主イエス・キリストによる救いを人々に宣べ伝え始めました。それによって、主イエスを救い主と信じる者の群れである教会が誕生したのです。私たちは今日この出来事を覚え、記念するわけですが、それは単に昔こんなことがあった、と確認するためではありません。このことは私たち自身にも、またこの教会にも既に起ったことだし、今も、そしてこれからも起ることなのです。私たちが主イエスを信じる信仰を与えられ、洗礼を受けて教会に連なっているのは、主イエスが私たちにも約束された聖霊を注いで下さったからです。そしてそもそも私たちのこの教会がこうして存在しているのも、主イエスが注いで下さった聖霊が力強く働いて下さり、主イエスを信じる者たちを召し集めて下さっているからなのです。そしてこれから先、私たちが主イエスを信じる信仰をもって生きていくことができるとしたら、それは聖霊がこれからも私たちに注がれ、私たちの内でみ業を行って下さることによるのだし、この教会がこれからも主の教会として歩み続けることができるのは、聖霊が働いて下さることによってこそなのです。聖霊が既に私たちに注がれ、救いのみ業を行って下さったことを感謝し、これからもそうして下さることを祈り求めるために、私たちはこのペンテコステを記念し、喜び祝っているのです。

聖霊によって与えられる恵みとは  
 この礼拝においてご一緒に読む新約聖書の箇所は、ヨハネの手紙一の第4章13節以下ですが、その最初の13節において、この手紙を書いた人も、ペンテコステの出来事が自分たちにも起った、と語っています。「神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました」とあるのがそれです。主イエスが父なる神から受けた聖霊を弟子たちに注いで下さったあのペンテコステの日と同じように、神は御自分の霊をわたしたちにも分け与えて下さった、と彼は言っているのです。そしてそれに続いて、聖霊を与えられたことによってわたしたちにはどのような恵みが与えられているか、どのように新しくされ、喜びをもって生かされているか、を語っています。この箇所の「わたしたち」は、そのまま私たち一人ひとりでもあります。神は私たちにも、御自分の霊を分け与えて下さっているのです。そしてこれからも分け与えて下さることを私たちは祈り求めているのです。神の霊、聖霊が注がれることによってどのような恵みが与えられているのか、聖霊は私たちをどのように新しくし、どのような喜びに生かして下さるのか、そのことを本日の箇所から聞き取っていくことこそ、ペンテコステの出来事を覚え、記念するのに相応しいことだと言えるでしょう。

神との、双方向の交わり  
 13節の後半には、「このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります」とあります。神の霊を注がれ、分け与えられたことによって、自分が神の内にとどまり、神も自分の内にとどまって下さっていることが分かる、つまり、神との間に、お互いがお互いの内に留まっていると言えるような深い交わりが与えられていることを知ることができる、というのです。私たちが神の内にとどまり、神も私たちの内にとどまってくださるという交わり、それは言い方を換えれば、神と私たちの間の双方向の交わりです。一方通行でない、つまり神が私たちに恵みを与えて下さり、私たちはそれをただ受けるだけで何もしないというのではない、あるいは私たちが神に一方的に自分の思いや願いを訴えているだけでもない、お互いの間に対話があり受け答えがあるような生きた交わりです。聖霊が与えられ、み業を行って下さることによって私たちは、神との間にこのような交わりをもって生きることができるようになるのです。  
 私たちは礼拝に集い、聖書のお話しを聞いて、天地を造られた父なる神のこと、救い主である独り子主イエスのこと、そして聖霊なる神のことを知らされます。まことの神は父と子と聖霊なる三位一体の神なのだと知らされ、その神を信じて生きようか、という思いすら抱くようになります。でもそこでは神はまだ、言ってしまえばショーウインドウの中の商品と同じです。これを買おうか、やめようか、と私たちが品定めをしているのです。しかしそこに神の霊、聖霊が注がれる時、神はもはや私たちが品定めをするモノではなくなります。生きておられる神との間に、お互いがお互いの内にとどまっているという双方向の交わりが与えられ、その神と共に生きるようになるのです。それこそが信仰をもって生きるということであり、聖霊が私たちの内に注がれ、与えられることによってこそ私たちはその信仰に生きることができるようになるのです。

主イエスによる救いを知り、信じて、証しする者となる  
 14節には、「わたしたちはまた、御父が御子を世の救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています」とあります。これもまた、聖霊を分け与えられたことによって起っていることです。つまり聖霊のお働きによってこそ私たちは、父なる神が御子イエス・キリストを世の救い主として遣わして下さったという救いのみ業を見つめることができるようになるのです。主イエス・キリストが私の救い主だと本当に信じることができるようになるのです。主イエスが私の救い主だという信仰は、聖霊によって与えられる神との双方向の交わりの中でそのことを体験し、納得することによって得られるものです。そしてそのことを本当に信じた人は、それを証ししていくのです。他の人々に、父なる神が独り子主イエスを私たちの救い主として遣わして下さったことを語り伝えていくのです。聖霊を与えられた人はこのように御父が御子を世の救い主として遣わされたことを証しし、伝道していくのです。そのことが15節にも語られています。「イエスが神の子であることを公に言い表す者はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります」。御父が御子を世の救い主として遣わされたことを証しするとは、言い換えれば「イエスが神の子であることを公に言い表す」こと、つまり神の子である主イエスが私たちの救いのために人となって下さったという信仰を告白することです。その信仰を告白した者は洗礼を受けて教会に連なる信仰者となり、神がその人の内にとどまり、その人も神の内にとどまるという神との深い交わりを与えられるのです。それは最初の13節で語られていた、聖霊を分け与えられることによって実現する交わりです。つまりここで見つめられているのは、聖霊を注がれて神との双方向の交わりを与えられたことによって、父なる神が御子主イエスを遣わして下さった救いのみ業を知り、信じた者は、その救いのみ業を証しし、イエスは神の子であるという信仰を言い表していく。するとそこに聖霊がますます豊かに働いて、神との間の双方向の交わりがさらに深まっていく、そのようにぐるぐる周りながら信仰が深まっていくという恵みなのです。

神は愛であることを知る  
 そのことを受けて16節には「わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」とあります。聖霊のお働きの中で信仰が深まっていくことによって私たちは、自分に対する神の愛を本当に知り、信じる者とされるのです。罪人であり、弱さや欠けだらけの、神の栄光を表すどころか、むしろみ名を汚してばかりいるような私を、神が本当に愛して下さっていること、その私のために独り子を遣わして、その十字架の苦しみと死による罪の赦しを与え、主イエスと結び合わせてこの私をも神の子として下さっているということを、私たちは聖霊の働きによってこそ実感をもって知り、心から信じることができるようになるのです。それは一言で言えば、「神は愛です」ということです。「神は愛なり」というのが聖書を代表する言葉としてよく語られますが、それはここに出てくる言葉です。神は愛であり、しかもその愛は自分に向けられている、愛である神によってこの自分が愛されている、そのことを本当に知り、信じる信仰を私たちの内に起して下さるのが、私たちにも分け与えられている聖霊なる神なのです。つまり聖霊が注がれ、与えられることによって私たちは、私たちが神の内にとどまり、神が私たちの内にとどまって下さるという神との深い交わりを与えられ、その中で、自分が神に愛されていることを本当に知り、愛である神を人々に証ししていく者となるのです。

神を愛し、兄弟を愛して生きる者となる  
 この16節の後半からは、聖霊を注がれたことによって「神は愛である」ということを知り、信じた私たちは、愛する者として生きていくのだ、ということに話がシフトしています。そこで大事な働きをしているのが16節後半の「愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます」というみ言葉です。「神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださる」という神との深い交わりは、愛にとどまる人こそが持つことができるのだと言われています。なぜならば、神は愛だからです。神は愛なのだから、神の内にとどまる人は愛にとどまる人なのです。このようにして、本日の箇所の後半には、神の内にとどまる者は愛にとどまり、兄弟を愛する者として生きるのだ、ということが強調されています。20、21節にそのことが印象深く語られています。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」。神との双方向の交わりに生きているというのは、言い換えれば、神を愛しており、自分も神に愛されている、ということです。聖書が教えている信仰とは、この愛に生きることなのです。信仰は、神の定めたあれこれの掟に従って生きることではありません。規則に従ってきちんと生きることが信仰ではないのです。信仰とは、愛する者として生きることです。私たちが信仰において追い求めるべきことは、掟や規則を守る者になることではなくて、愛する者となることです。そして「愛する」とは抽象的ではなくて具体的なことです。そのことを語っているのがこの20、21節なのです。ここには、神を愛することと兄弟を愛することは一つであって分けることができないと語られています。神を愛していると言いながら兄弟を憎んでいる者は偽り者であって、神を愛しているというのも偽りでしかないのです。「目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません」という言葉も私たちはよく味わう必要があります。目の前の具体的な一人の兄弟を具体的に愛そうとしないなら、目に見えない神を愛することもできないのです。だから21節にあるように、「神を愛する人は、兄弟をも愛すべき」なのです。神を愛し、それゆえに兄弟をも愛することこそ、神を信じて生きることの神髄です。「これが、神から受けた掟です」と言われていますが、それは守るべき規則としての掟ということではなくて、神が私たちに求めておられるのはまさにこのことなのだ、という意味です。神は私たちが、神を愛し、それゆえに目の前の具体的な兄弟を愛して生きることを心から願っておられる、そのために聖霊を注いで下さっているのです。  
 このように、聖霊が私たちの内に働いて下さり、救いのみ業を行って下さり、新しく生かして下さるならば、私たちは、神を愛し、それゆえに目の前の具体的な兄弟を愛して生きる者となるのです。ですから兄弟を愛する者となることこそが、神の霊によって私たちに救いが与えられていることのしるしなのです。兄弟を愛することができずに、妬んだり、憎んだりしてしまっているなら、聖霊による救いのみ業が私たちの内にまだ十分になされていないのだから、それをもっともっと願い求めていかなければならないのです。

神が先ず愛して下さったから  
 しかしそこにおいて確認しておかなければならない大事なことが19節に語られています。そこには、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」とあります。私たちは、神を愛しているからこそ、目に見える具体的な兄弟を愛することができるのです。神を愛することと兄弟を愛することは切り離すことのできない一つのことです。そして私たちが神を愛するのは、神が先ず私たちを愛して下さったから、そのことを私たちが知っているからなのです。神は愛であり、その神が私たちを愛して下さっているから、私たちも兄弟を愛する者となることができるのです。そのことを勘違いしてひっくり返してしまってはなりません。つまり、私たちが兄弟を愛することができるようになると、神をも愛することができるようになり、そして神に愛されることができる、と思ってしまってはならないのです。それは全く逆です。神が先ず私たちを愛して下さっているから、私たちも神を愛することができるのだし、そして神を本当に愛する者は兄弟をも愛する者となるのです。

「神は愛である」と「愛は神である」  
 このことを少し別の角度から言うと、「神は愛である」という、本日の箇所に出て来る聖書を代表する言葉は、「愛は神である」と言い替えることはできない、ということです。神が愛に生きておられる方であり、私たちを具体的に愛して下さっているのです。その愛を受けているから、私たちも具体的な愛に生きるのです。目に見える兄弟を愛する者となるのです。それが「神は愛である」という聖書の信仰です。ところが「愛は神である」と言ってしまうと、私たちの中にある人を愛する気持ち、親切心、思いやり、そういった善意、つまり人間の良い心、ということは良心、それを理想化した存在が神である、ということになります。そして、誰の中にも愛する心がある、良い心がある、それが自分の中に宿っている神なのであって、その愛の心を養い育てていって、より愛の深い者となっていくことが神を愛することであり、信仰に生きることだ、ということになります。それは一見励ましに満ちた教えのように感じられますが、そこでは結局、自分が兄弟を愛する者となれるかどうかに救いがかかっている、ということになるのです。

聖霊を信じて祈り求める  
 しかし聖書が語っている救いはそれとは違います。聖書の語る救いは、私たちが愛することからではなく、神が愛であることから始まっているのです。神が先ず私たちを愛して下さった。その私たちは、神に背き逆らってばかりいる罪人です。神によって命を与えられ、生かされていながら、神のみ名を汚している者です。しかし神はその私たちを愛して、御子イエス・キリストを救い主として遣わして下さり、その十字架の死によって私たちの罪を赦し、復活によって私たちにも、死を越えて与えられる永遠の命を約束して下さったのです。神はこのように独り子主イエス・キリストによって、私たちに対する具体的な愛のみ業を行って下さったのです。そしてそれだけでなく、神は私たち一人ひとりが、この主イエスによる具体的な愛を知り、それが自分に与えられていることを体験し、それを信じることができるようにと、ご自分の霊を分け与えて下さったのです。ペンテコステの日に弟子たちに注がれた聖霊を私たちにも注いで下さっているのです。聖霊のお働きによって私たちは、主イエスによって与えられている神の愛を知り、信じて、神がまず私たちを愛して下さったことを体験して、私たちも神を愛する者となるのです。そしてこの神の具体的な愛、私たちの罪を背負って十字架の苦しみと死へと歩んで下さった主イエスの愛を本当に味わった者は、目の前にいる具体的な兄弟を、その人が自分にとって好ましくない、愛したくない、受け入れたくない人であっても、憎むのではなく愛する者となるのです。聖霊を注がれ、主イエスを遣わして下さった父なる神との間に双方向の交わりを与えられていくことによって、私たちは、「神を愛する者は兄弟をも愛する」者へと新しくされ、変えられていくのです。その聖霊を信じて祈り求めることによって、私たちはペンテコステを喜び祝うのです。

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