夕礼拝

主の民として

「主の民として」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第12章1節-13章1節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第4章16-26節
・ 讃美歌:300、355

申命記の中心部分に入る  
 本日は旧約聖書申命記第12章をご一緒に読みます。繰り返し語っていますが、この申命記は、エジプトでの奴隷状態から主なる神の導きによって脱出し、四十年の荒れ野の旅を経て、いよいよ神の約束の地カナンに入って行こうとしているイスラエルの民に、彼らをここまで導いて来た指導者モーセが、神が与えて下さる約束の地においてどのように生きるべきかを語り聞かせている、という設定で書かれています。本日の12章からはいよいよ、約束の地に入ってどのように歩むべきかの具体的な教えが語られていくのです。12章1節はその導入の言葉です。「これから述べる掟と法は、あなたの先祖の神、主があなたに与えて得させられる土地で、あなたたちが地上に生きている限り忠実に守るべきものである」。この1節を読むと、ここからは掟と法の無味乾燥な文章が始まるのだろうかと思ってしまいますが、実際に語られていくのはモーセの説教です。モーセ自身は約束の地に入ることはできずに、それを目前として死のうとしているのです。ですから申命記はモーセの遺言でもあります。自分の手を離れて約束の地に入って行こうとしているイスラエルの民に、そこに入ったらこのように歩みなさい、こういうことに気をつけなさいと、切々と語りかけているのです。  
 というわけでこの12章から、申命記の中心部分に入っていくのですが、先ず真っ先に語られていくことは、約束の地においてイスラエルの民が主なる神をどのように礼拝するべきか、ということです。神への礼拝のことが先ず第一に考えるべきこととしてこの12章に教えられているのです。礼拝について二つのことが12章に語られています。第一は、どこで礼拝をするのかという場所の問題、もう一つは、どのように礼拝するのかという内容の問題です。

楽しく食事をする礼拝  
 「どこで礼拝をするのか」については後に廻すことにして、先ず、「どのように礼拝するのか」について見ていきたいと思います。ここに語られている礼拝のあり方は私たちが今教会においてしている礼拝とは全く違っていて、神に献げ物を献げることが中心となっています。6節に「焼き尽くす献げ物、いけにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、満願の献げ物、随意の献げ物、牛や羊の初子などをそこに携えて行き」とあります。これらの献げ物を携えて神のみ前に出てそれを献げることが礼拝の中心なのです。けれどもここに語られていることは、神に献げ物を献げるということで私たちが通常抱くイメージとはかなり違っています。これらの献げ物を携えて行き、という6節に続く7節にはこのように語られているのです。「あなたたちの神、主の御前で家族と共に食べ、あなたたちの手の働きをすべて喜び祝いなさい。あなたの神、主はあなたを祝福されているからである」。つまり、神のみ前に携えてきた献げ物は、祭壇にそれをささげて帰るのではなくて、それを主のみ前で家族と共に食べるのです。そのことが11、12節にも語られています。「あなたたちの神、主がその名を置くために選ばれる場所に、わたしの命じるすべてのもの、すなわち焼き尽くす献げ物、いえにえ、十分の一の献げ物、収穫物の献納物、および主に対して誓いを立てたすべての最良の満願の献げ物を携えて行き、あなたたちの神、主の御前で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に、喜び祝いなさい」。17、18節にもこうあります。「あなたは穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油などの十分の一の献げ物、牛や羊の初子、あなたが誓いを立てた満願の献げ物、随意の献げ物、収穫物の献納物などを自分の町の中で食べてはならず、ただ、あなたの神、主の御前で、あなたの神、主の選ばれる場所で、息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人と共に食べ、主の御前であなたの手の働きをすべて喜び祝いなさい」。つまりこの礼拝においては、神のもとに携えて来て献げたものを、家族や奴隷、そして後で触れますがレビ人と共に神のみ前で食べるのです。「喜び祝いなさい」と言われています。口語訳聖書では「喜び楽しまなければならない」となっていました。つまりみんなで楽しく食事をするのです。宴会をするのです。それが礼拝の重要な要素となっているのです。何とうらやましいことかと思いますが、こういうことが私たちの教会の営みにおいても生きている場があります。それは一つには、年に何回か、特別な祝祭日の午前の礼拝の後に行なわれている「愛餐会」です。昼食を共に食べ、受洗した方や転入した方の歓迎会をすることが主なプログラムとなっていますが、そこで一緒に食事をするのは、お昼抜きではお腹が空いて倒れてしまうからではありません。これは本来は、神の前で共に食事をして喜び祝い、楽しむという、信仰において意味のあることなのです。イスラエルの民が、主なる神を礼拝することの中で、神の前で食事をして喜び祝ったことがその起源なのです。

主の祝福を喜び祝い、感謝する  
 このように神への礼拝の中に喜び楽しむ宴会が位置づけられているのは何のためなのでしょうか。7節の終わりに「あなたの神、主はあなたを祝福されているからである」とありました。この食事は、主の祝福を覚え、感謝するためです。民が携えて来た献げ物は全て、神の祝福によって与えられた実りです。それを神のみ前で共に食べて喜び楽しむのは、それを与えて下さった神の恵みを味わい、喜び、感謝するためです。そのようにして神を礼拝するのです。私たちの礼拝も基本的にそういう喜び祝いの時です。礼拝は苦しい修行ではありません。救いにあずかるために必要なので苦しいけれども仕方なく礼拝しているのではないのです。礼拝において私たちは、主なる神の豊かな恵み、祝福にあずかり、それを喜び祝い、感謝するのです。そういう食事は私たちの礼拝の中でもなされています。聖餐です。先程は愛餐会のことを申しましたが、礼拝の中で守られている聖餐もまた、イスラエルの民のこの礼拝における食事に一つの起源があります。聖餐を意味する言葉に「ユーカリスト」というのがあります。その意味は「感謝」です。聖餐は、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えて下さった救いの恵みに感謝して、それを記念するためになされる感謝の食事であり、それが礼拝の大事な要素となっているのです。

自分自身を神に献げる  
 このようにイスラエルの民に求められている礼拝は、主なる神のみ前で共に食事をすることを通して神の祝福を味わい、喜び祝うというものでした。繰り返しますが、礼拝は喜びと祝いの時なのです。しかしその喜びは、私たちが宴会において仲間とおいしいものを食べ、おいしくお酒を飲んで語り合う喜びとは違います。礼拝の喜びとは、神の祝福を喜び楽しむことであり、その土台には、神のご支配の下に身を置き、神に従い、主の民として生きるということがあるのです。この喜びの食事が神の下で、神に従ってなされているものであることを明確にするために、ここには、献げ物として携えて来たものの中に、人間が食べることのできないものがあることが語られているのです。一つには「焼き尽くす献げ物」というのがあります。主に献げるべき献げ物の筆頭に繰り返しこれが出てきます。これは、まさに全てを焼き尽くして神に献げるものであって、人間が食べる分はないのです。この焼き尽くす献げ物は、自分の全てを、全身全霊を神に献げることを象徴的に表しています。礼拝で献げ物をするのは、自分自身を神に献げ、自分の全体が神のものとなるということを意味しているのです。それこそが献げ物を献げて神を礼拝することの中心的な意味です。自分自身を全て神に献げ、神のものとなることによってこそ、神の豊かな祝福と恵みを味わい、喜び楽しむこともできるのです。私たちが礼拝においてささげる献金もそれと同じ意味を持っています。それは私たちの「献身の印」です。献金は、教会の会費や礼拝の出席料金ではなくて、自分自身を神にお献げして主の民として生きること、つまりそれ自体が神を礼拝する行為なのです。

命は神に返す  
 もう一つここには、動物の肉は食べることができるが、血を食べてはならない、ということが語られています。16節と23、24節、また27節にそれが語られています。27節を読んでみます。「焼き尽くす献げ物の場合は、肉も血もあなたの神、主の祭壇にささげる。その他のいけにえは血をあなたの神、主の祭壇の側面に注ぎ、肉は食べることができる」。献げ物の肉を食べる場合には、その血は祭壇に注ぎ出さなければならないのです。何故血を食べてはならないのか、その理由は23節にあります。「ただ、その血は断じて食べてはならない。血は命であり、命を肉と共に食べてはならないからである」。血は命である。つまり昔の人は、血に命が宿っていると考えたのです。血を食べてはならないというのは、命を食べてはならないということです。人間の命であれ動物の命であれ、命は神のものであり、神が与え、神が取られるものです。動物の肉は、神が人間に食物として与えて下さっているから食べることができる、しかしその命は神のものだから神にお返ししなければならないのです。このように「血を食べてはならない」という教えは、人間の命も動物の命も、神のものであることを認め、その神のご支配の下で、返すべきものは神に返しつつ生きるべきことを教えているのです。それが、主の民として生きることです。余談ですが、「エホバの証人、ものみの塔」の人々がこの教えを、「聖書は輸血を禁じている」と解釈しているのは全く見当違いな間違いです。動物の血を食べることと輸血とを結びつけることがそもそも無理ですし、神が与えて下さった命である血を他の人の命を救うためにささげる献血はむしろ神が与えて下さった命を大切にすることなのであって、神がお喜びになることなのです。

誰と礼拝するか  
 献げ物を神の前で共に食べて喜び楽しむ礼拝について語られているもう一つのことは、その食事を共にすべき人として、12節にも18節にも「息子、娘、男女の奴隷、町の中に住むレビ人」があげられていることです。これは、礼拝は自分一人で守るものではないということを意味しています。子供たち、家族と共に神の祝福、恵みを喜び祝うことが求められているのです。さらにそこには男女の奴隷とあります。これは、自分が手下として使っている者たち、自分の支配下にある人々を意味していると言えるでしょう。今日の私たちの社会には奴隷という身分はありませんが、しかし何らかの意味で自分の下にいる人、自分が影響力を持っている人はいます。そのような人々と共に神のみ前に出て、神の祝福を味わい、喜び楽しむことが命じられているのです。それは命じられていると言うよりも、神がそれらの全ての人々を、神の祝福を味わい、喜び祝う礼拝へと招いて下さっているということです。神のこの招きを家族に、また自分の下にある人々に伝える役目が信仰者には与えられているのです。そしてさらに「レビ人」がそこに加えられています。レビ人は、イスラエルの部族の一つですが、領地を与えられていない部族です。12節の最後のところに「レビ人には嗣業の割り当てがないからである」とあるのはそのことを意味しています。彼らレビ人は、他の部族とは違ってある土地に住むのではなくて、他の諸部族の中に住んで、そこで祭司としての働き、礼拝において犠牲の動物を献げる働きをしているのです。献げ物をその人々と共に食べなさいと言われているのは、生活の糧を得るための土地を持たずに、礼拝のために専心奉仕している祭司たちの生活は、人々が自分に与えられた土地から得た収穫を神に献げる、その献げ物によって支えられるべきだ、ということです。祭司の民であるレビ族が、礼拝のために仕える部族として立てられ、彼らが礼拝を正しく整え司り、他の部族の人々が献げる献げ物によってその生活を支えられることによって、イスラエルの民は、主なる神を礼拝しつつ生きる神の民としての体制を整えられていくのです。今日、礼拝を司りみ言葉を語るために専心奉仕する牧師の生活が、教会員の献金の中からの謝儀によって支えられているということの起源がここにあります。このように、イスラエルの民にここで命じられている礼拝は、今の私たちの礼拝とは全く形が違うものですが、その本質において共通するところが多々あるのです。主なる神を礼拝することによって私たちも、主の民として生きているのです。

どこで礼拝するか  
 さて次に、「どこで礼拝をするのか」ということについて見ていきたいと思います。5節にこうあります。「必ず、あなたたちの神、主がその名を置くために全部族の中から選ばれる場所、すなわち主の住まいを尋ね、そこへ行きなさい」。13、14節にも同じように「あなたは、自分の好む場所で焼き尽くす献げ物をささげないように注意しなさい。ただ、主があなたの一部族の中に選ばれる場所で焼き尽くす献げ物をささげ、わたしが命じることをすべて行わなければならない」とあります。このように、自分の好む場所で礼拝をするのではなく、神ご自身が、ご自分の名を置くために選ばれる場所で礼拝をしなさいと教えられているのです。そのように礼拝の場所が厳しく限定されていることの意味は、2、3節との関係において分かって来ます。「あなたたちの追い払おうとしている国々の民が高い山や丘の上、茂った木の下で神々に仕えてきた場所は、一つ残らず徹底的に破壊しなさい。祭壇を壊し、石柱を砕き、アシェラ像を火にくべ、神々の彫像を切り倒して、彼らの名をその場所から消し去りなさい」。ここには、約束の地カナンに先に住んでいた人々が行なっていた礼拝、彼らが祭っていた偶像の神々とその祭壇を徹底的に破壊せよということが命じられています。それに続いて、彼らに倣うのではなく、主がお選びになった場所で礼拝をしなさい、と命じられているのです。つまりここで警告されている「自分の好む場所での礼拝」というのは、主なる神以外の、異教の神々、偶像の神々への礼拝であり、それに影響された礼拝のことなのです。その警告が29節以下にも語られています。「あなたが行って追い払おうとしている国々の民を、あなたの神、主が絶やされ、あなたがその領土を得て、そこに住むようになるならば、注意して、彼らがあなたの前から滅ぼされた後、彼らに従って罠に陥らないようにしなさい。すなわち、『これらの国々の民はどのように神々に仕えていたのだろう。わたしも同じようにしよう』と言って、彼らの神々を尋ね求めることのないようにしなさい」。礼拝の場所が問題とされているのは、イスラエルの民がこのように他の神々への礼拝に心を引かれていくことへの警戒のためなのです。

申命記の成り立ち  
 このように、イスラエルにおいては、主なる神以外の神への礼拝が行なわれてはならず、それらの神々への礼拝の場所や偶像は徹底的に破壊し、排除しなければならないと教えられています。このような教えを読むと私たちは、これでは他の宗教に対して余りにも非寛容で、独善的ではないか、自分たちの信じている信仰しか認めずに、他の教えを撲滅しようとするのは狂信的なテロリストの考えることだ、と思うのではないでしょうか。このことについて考えるためには、申命記の成り立ちを知らなければなりません。申命記は、最初に申しましたように、約束の地カナンを目前にした時点でのモーセの説教、という設定で書かれているものですが、それは設定であって、実際に書かれたのはもっとずっと後の時代です。列王記下の第22章に、この申命記と関係があるとされる出来事が語られています。列王記下22章3~13節を読んでみます。  
 列王記下22章3~13節(617頁)朗読  
 この話は、ユダ王国のヨシヤ王の時代のことです。紀元前621年頃と言われます。この時、エルサレムの神殿で律法の書が発見された、と8節に書かれています。この律法の書が、申命記の中心部分、つまり本日の12章以下だったと考えられているのです。ヨシヤ王は、発見されたこの律法の書に基づいてユダ王国の宗教改革を行いました。紀元前621年のこの頃、ダビデ、ソロモンの築いたイスラエル王国は北イスラエルと南ユダに分裂し、北イスラエルは既にアッシリアによって滅ぼされていました。北イスラエルが滅びたのは、主なる神のみ言葉に従わず、異なる神々、偶像の神々を拝む罪に陥ったからだと預言者たちは警告を発していましたが、南ユダ王国の人々も同じように主なる神への礼拝を忘れ、バアルとかアシェラなどの偶像を拝み、太陽や月や星座などに祈るようになっていたのです。そのような中でヨシヤ王は、偶像の祭壇を壊し、イスラエルの民が主なる神に立ち返り、主のみを拝み、主のための祭を行なうように宗教改革をしたのです。そのプログラムとなったのが申命記の中心部分でした。おそらくそれはこの宗教改革のしばらく前の時代に書かれたものだと思われるのです。そうだとすれば、この12章において見つめられているのは、実は、これからカナンの地に入り、先住民を滅ぼしてその土地を占領しようとしているイスラエルのことではなくて、エジプトの奴隷状態からかつて自分たちを救い出し、約束の地カナンを与えて下さった主なる神を忘れ、カナンの地の先住民が拝んでいた農耕の神々、豊かな収穫というご利益をもたらす偶像の神々を拝むようになってしまっているイスラエルの人々のことなのです。従ってここに語られている教えは、他の宗教の存在を認めるか否かということでは実はなくて、主なる神の救いの恵みによって今日あるを得ているイスラエルの民が、その主の恵みに誠実に応えて生きるための教えなのです。この12章を注意深く読むと、他の神々を信じている「人」のことは全く語られていません。語られているのは、他の神々への礼拝の「場所」や「偶像」がイスラエルの民の間にあってはならない、ということです。つまり語られているのは他の宗教への非寛容ではなくて、主の民として生きる者が、自分たちの信仰の節操を守り、主に対して誠実に生きるべきことなのです。

犠牲を求める神  
 他の神々を拝むことが禁じられているもう一つの理由があります。最後の31節にこうあります。「あなたの神、主に対しては彼らと同じことをしてはならない。彼らは主がいとわれ、憎まれるあらゆることを神々に行い、その息子、娘さえも火に投じて神々にささげたのである」。異教の神々、偶像の神々を拝むことにおいては、息子や娘をいけにえとしてささげることが行なわれていたのです。先ほどのヨシヤ王の宗教改革では、そのように子供をいけにえとするための祭壇が破壊されました。それは主なる神が断固として禁じておられることであり、異教の神々への礼拝が禁じられているのはこのためでもあるのです。異教の神々の礼拝においてこのような残酷なことがなされるのは何故でしょうか。それは、その神々は人間が考え出した、人間に利益をもたらすための神だからです。人間が考え出した神は必ず、ご利益を受けるためにはそれ相応の犠牲を払わなければならないものとなります。犠牲を払わずに利益だけを受けるなどという虫のいいことはあり得ない、というのが人間の常識的感覚だからです。そしてより大きなご利益を受けるためにはより大きな犠牲を払うことが当然必要となります。十円や二十円のお賽銭で願いを叶えてもらおうというのはずうずうしいが、一万円ぐらい入れれば聞いてもらえそうな気がするのです。そのようにより大きな犠牲を払うことによってより大きなご利益を得ようとする時に、考え得る最大の犠牲は、自分の子供をささげることです。それがつらいことであればあるほど、犠牲としての価値が高いのです。息子や娘を犠牲にすることを要求する神は、そのような人間の思いが生み出したものなのです。

独り子を犠牲にして下さる神  
 主なる神はそれに対して激しくお怒りになります。生けるまことの神は、そのようなことを決してお求めにはならないのです。そこに、人間が考え出す神とまことの神との違いがあります。まことの神は、子供をいけにえとしてささげることを人間に求め、そういう犠牲の見返りとしてご利益を与えるのではなくて、むしろ人間のためにご自身の独り子を犠牲として下さり、救いを与えて下さる方なのです。私たちが今こうして教会においてささげている礼拝は、私たちが何かを犠牲にして神にささげることによって可能となったのではなくて、神が独り子主イエスをこの世に遣わして下さり、その十字架の苦しみと死という犠牲を払って救いを与えて下さった、そして主イエスを復活させ、新しい命、永遠の命を私たちにも約束して下さった、その恵みによって支えられています。主イエス・キリストを信じる私たちは今や、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを受け、神の祝福を味わい、それを喜び楽しむまことの礼拝をする主の民として立てられています。そして神は私たちを通して、私たちの家族や、私たちの下にいる人々をも、この喜びの礼拝へと招いて下さっているのです。

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