主日礼拝

あなたの父と母をうやまえ

「あなたの父と母をうやまえ」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:箴言 第23章22-25節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章6-13節
・ 讃美歌:6、470,507

十戒の第五戒  
 毎週日曜日の朝9時から行われている教会学校の礼拝では、毎週十戒をみんなで唱えています。教会学校の礼拝で子どもたちが唱えている十戒の言葉を大人の皆さんにも知っておいていただきたいので、それを先ずここでお読みします。
 「わたしはあなたの神、主であって、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。あなたの神、主の名を、みだりにとなえてはならない。安息日を覚えてこれを聖とせよ。あなたの父と母をうやまえ。あなたは、殺してはならない。あなたは、姦淫してはならない。あなたは、盗んではならない。あなたは、隣人について、偽証してはならない。あなたは、隣人の家をむさぼってはならない。」  
 この十戒は、神さまが私たちに、「あなたがたはこのように歩みなさい」とおっしゃって道を示して下さった、大切なみ言葉です。子どもの頃からこのみ言葉をしっかり心に刻みつけておくことはとても大事なことだし、神さまの大きな恵みだと思います。そして今、教会学校の礼拝では、この十戒を一つずつとりあげて礼拝のお話しを聞いています。今日はその五番目の教え「あなたの父と母をうやまえ」です。これはとても分かりやすい教えですね。お父さん、お母さんを大切にしなさい、ということです。とても分かりやすいですが、その通りにすることはとても難しい教えでもあると思います。教会学校の生徒の皆さんの中には、自分にはお母さんはいるけどお父さんはいないという人や、逆にお父さんだけでお母さんはいない、という人もいるでしょう。そしてさらに、お父さんもお母さんもいるけれども、とても「うやまう」気にはなれない、なぜあんな人をうやまわなければならないのか分からない、むしろこの親のもとから早く離れたいと思っている、という人もいるでしょう。親が子どもをほったらかしにしたり、虐待して死なせてしまう、というような事件が増えています。親は子どもを愛して大切に育てており、子どもは親を愛してうやまっている、ということがもう当たり前とは言えないような社会になってきています。そういう中で私たちは、「あなたの父と母をうやまえ」という神さまの教えをどう受け止めたらよいのでしょうか。神さまはこの第五の教えによって何を私たちに求めておられるのでしょうか。

誰に対して語られているのか  
 さっき読まれた旧約聖書の言葉、箴言23章の22節にはこうありました。「父に聞き従え、生みの親である父に。母が年老いても侮ってはならない」。これは「父と母をうやまえ」という教えの言い替えです。「父に聞き従え」、つまりお父さんの言うことに従いなさい、というのです。これを読むと、お父さんの言うことには何でも従わなければいけない、というのが聖書の教えなんだろうか、と思います。そんなのおかしい、お父さんだって変なことを言うことがあるし、と思う人も多いのではないでしょうか。でもその次には「母が年老いても侮ってはならない」とあります。これは、年を取ったお母さんを大事にしなさい、ということです。ここから分かるのは、この教えは、子どもたちに、お父さんやお母さんをうやまいなさいと言っているだけではないということです。もう大人になって、自分にも子供がいるような年になった人たちに、年を取って弱ってきた父や母を大切にしなさいと教えているのです。つまりこの教えが語られている相手は、教会学校の生徒である子どもたちだけではなくて、ここに集まっている大人の人たちみんななのです。そのことを見つめるなら、「父と母をうやまえ」という教えは、お父さんお母さんの言うことには従いなさい、ということだけを言っているのではないことが分かります。もう大人になった人たちにも、お年寄りになった親を「うやまいなさい」と教えているのです。「うやまう」というのは「大切にする」ということです。重要なもの、重たいものとする、ということでもあります。裏返して言えば、無視しない、軽んじない、侮らないということです。子どもはだんだん大人になっていく中で、親と思いが食い違って対立することがあります。親のことを「何て分からず屋なんだ」と思うことがあります。そんな時にともすれば、こんな親なんてもう無視して、関わりを持たずに自分の思い通りに生きていこう、と思うことがあります。そういう子どもたちに対して神さまは、あなたのお父さんやお母さんのことを無視しないで、しっかり向き合いなさい、と言っておられるのです。それは決して、親の言うことには何でも従いなさいということではありません。どうしても従えないこともある、親に逆らっても神さまに従うという決断をしなければならないこともあるのです。でもその時にも、親のことを憎み、無視して捨ててしまうのでなく、出来る限り大切にして、親とちゃんと関わることを神さまは求めておられるのです。  
 そしてそのようにして人生を歩んでいくうちに、親が年老いて弱っていく、という時が来ます。年取った親を支えなければならないようになるのです。今、超高齢化社会と言われる中でそのことが大きな問題となっています。この第五の教えは、そういう問題に直面している私たちに対して語られているみ言葉でもあります。年老いて弱ってきた親を侮ってはならない、軽んじてはならない、大切にしなさい、と神さまは語りかけておられるのです。今日のこの礼拝は総員礼拝で、子どもたちから九十代のお年寄りまで、幅広い世代の人たちが一緒に礼拝をしていますが、十戒の第五の教えは、その全員が、自分に対する神さまの語りかけとして聞くことができるし聞かなければならない大切なみ言葉なのです。

「生んでくれた恩」ではなく  
 でもどうして親のことを大事にしなければならないのでしょうか。父と母をうやまわなければならないのは何故なのでしょうか。生んでくれた恩があるからだ、とよく言われます。親が生んで、育ててくれたから自分は生きているのだ、父と母のおかげで生きているのだから、親をうやまわなければならない、と言われるのです。でもそれに対して私たちは、「別に生んでくれと頼んだ覚えはない」と言いたくなります。「生んでくれた恩」などは感じない、という人もいるでしょう。親子の関係がうまくいっていない人ほどそう感じます。親子関係が良い場合には、「生んでくれた恩」などということはそもそも持ち出す必要がありません。それがことさらに言われなければならないような関係においては、そんな恩は感じない、ということになるのです。しかし神さまが「あなたの父と母をうやまえ」とおっしゃるのは、生んでくれた恩を感じなさい、ということではありません。神さまがなぜ「父と母をうやまえ」とおっしゃるのか。「新・明解カテキズム」の問45の答えは、この教えについてこのように語っています。「神さまがわたしたちの父母を与えてくださり、神さまのご支配の中で育ててくださったので、父母を尊び、うやまい、助けるようにするということです」。ここに、聖書が私たちに教えてくれているとても大事なことが示されています。それは、私たちのお父さんやお母さんは、神さまが私たちに与えて下さった人たちなのだ、ということです。それは、神さまが、お父さんとお母さんを通して私たちに命を与え、また私たちを育てて下さっている、ということです。つまりこの教えが見つめさせようとしているのは、生んでくれた親の恩ではなくて、親を導いて私たちを造り、生かして下さっている神さまの恵みなのです。

神のみ心を受け止められずに悩む私たち  
 私たちは、親に生んでくれと頼んだわけではありません。同じように、親だって、私たちを選んで生んだわけではありません。私たちは、生まれてみたらこの親の子だったのだし、親だって、こういう子を生もうと思って生めるわけではありません。生まれてみたらこういう子だったのです。それは全て神さまのみ心です。神さまが、この父母を私たちに与えてくださったのだし、父母たちにこの子どもを与えて下さったのです。それは神さまが、あなたはこの父母の下で育ちなさい、あなたはこの子どもを親として育てなさい、とおっしゃったということです。私たちには、その神さまのみ心が分からなかったり、納得できないことがあります。神さまはなぜ自分をこんな親の下に置かれたのか、と反発することがあります。また子どもを与えられ、親となった私たちも、弱く罪深い者ですから、神さまが与えて下さった子どもを育てる責任をしっかり果たすことができないこともあります。親も子も、どちらも罪のある者ですから、自分に与えられている神さまのみ心を受け止められずに悩み、苦しむのです。その私たちに神さまは、「あなたの父と母をうやまえ」と語りかけておられます。私があなたに、この父と母を与えた、あなたがこの父と母と共に生きることを私は願っている、その私の思いを受け止めて、父と母を無視したり軽んじたり侮ったりせずに、しっかり関わって歩みとなさい、と言っておられるのです。そして父や母である人たちには、私があなたにこの子を与えた、あなたがこの子の親となって、育てていくことを私は願っている、その私の思いを受け止めて、子どもを大切に育てていきなさい、と言っておられるのです。

神をうやまうことによってこそ  
 ですから「父と母をうやまえ」というこの第五の教えは、実は根本的には、神さまをこそうやまえ、という教えなのです。神さまをうやまい、従うことの中でこそ私たちは、神さまが自分の親として与えて下さった父と母を本当に大切にしていくことができるのだし、神さまをうやまい、従うことの中でこそ、神さまが与えて下さった子どもたちをみ心に従って育てていくことができるのです。箴言23章の24節には「神に従う人の父は大いに喜び踊り、知恵ある人の親は、その子によって楽しみを得る」とあります。子どもが神さまに従う人であることこそがお父さんの喜びなのだ、ということです。知恵ある人というのは、勉強ができる人のことではなくて、神さまに従う人です。神さまを信じて生きることこそが、本当に知恵のある生き方なのです。子どもがそういう人になることによってこそ、親は楽しみを得るのだ、と言われているのです。つまり私達は神さまに従う人になることによってこそ、本当に親を喜ばせることができるのです。それによってこそ、本当に父と母をうやまうことができるのです。

神を愛することと人を愛すること  
 十戒は前半が神さまに対してなすべきこと、後半は人間に対してなすべきことを教えています。この第五の教えはその前半と後半を結び合わせています。父と母をうやまうことは、私たちに父と母を与えて下さった神さまをうやまい、愛することです。そのことによってこそ、神さまが一番身近な人間として与えて下さった父と母から始まって、人間を大切にして、愛して生きることができていくのです。神さまを愛することと、自分の目の前にいる人を愛することは切り離すことができません。「あなたの父と母をうやまえ」という教えはそのことを私たちに教えています。でも私たちは、神さまを愛し、うやまうことができない罪人です。だから、お父さんお母さんをもなかなか本当に愛し、うやまうことができないのです。その私たちのために、神さまの独り子であるイエスさまが人間となって下さって、十字架にかかって死んで下さいました。神さまが愛する独り子の命を与えて下さるほどに私たちを愛して下さっていることを、イエスさまが教えて下さったのです。イエスさまを信じる時に私たちは、あのお父さんお母さんを与えて下さった神さまが私たちのことを愛して下さっていることを信じることができます。そしてあのお父さんお母さんを与えて下さった神さまのみ心を、それが今すぐには分からなくても、尋ね求めていくことができるのです。その時私たちは、神さまの教えに従って、父と母をうやまう者となることができるのです。

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