夕礼拝

わたしに向けられた光

「わたしに向けられた光」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書第7章14節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第2章1-20節
・ 讃美歌: 259、263

 今日の昼に行われましたクリスマス礼拝を、教会全体で、大変な喜びをもって守りました。わたし個人は、このクリスマス礼拝を28回続けてまいりました。その28回のクリスマスを振り返ってみると、「なんだか自分のクリスマスの守り方がこのようでいいのか」と思ってしまうことがあります。この間考えておりまして、ふと、マッチ売りの少女の童話を思い出しました。これはわたしたちがよく知っている話ですが、大晦日の晩に、一人の貧しいマッチ売りの少女が、町でマッチを売っているうちに、最後には凍え死んでしまうという話です。他人の家の中では楽しい大晦日のパーティーが行われている。わたしはそのことを思い出しまして、自分たちがこうして今、幸せにクリスマスを守っている時に、窓の外には、悲しみや苦しみ、不安の中で生きている人たちが居るということを、忘れて居るのではないかなあ、そんなことを思わされるのです。今、世界には、本当に大きな悩みや苦しみがあちこちにあります。この間、パキスタンの子どもたちが銃撃されたということがニュースで流れました。そのテロを行ったと考えられているパキスタン・タリバンを生む土壌は、パキスタン国内の貧困と関係があるとされています。パキスタンの子どもたちは、小学校の中退率が世界で2位であり、それは学校の費用が払えないだけでなく、子どもたち働かないと暮らしていけない現状があります。そのため、費用のかからない学校に入学する。すると、それがタリバン教育をする学校であり、タリバンの戦士として育てられるということがあるそうです。貧しさからの苦しみを利用され、集められ、その集まった力を用いて、他者を傷つける。そこで悲しみが生まれ、また、その力への恐怖が不安を生み、その不安の中で、ビクビクしながら生きていく。パキスタンは隣国とはいえませんが、そのような世界がこの地球上にあるのです。そういう世界の中で自分たちが守っているクリスマスは、本当のクリスマスだろうかということを、あらためて思わされたわけです。

 また、もう一つの事は、このクリスマスを守るに当たって、本当に自分が感動しているだろうかということを思わされました。毎年恒例の行事になっている、慣れっこになっている、そういう自分を思わされたのです。わたしは、日本代表がW杯出場を決めた時、錦織圭が全米をオープンの準決勝を勝った時、熱狂しながらテレビを見たのですが、わたしたちのために救い主がお生まれになったということは、間違いなく日本代表がW杯出場するよりも、(まだしていませんが)日本代表がW杯を優勝するということよりも、もっと大きな重要な、感動的な出来事です。しかし、想像しかできませんが日本代表がW杯を制覇するような感動をも超えるような感動が、わたしの中にあるだろうか。そんなことを考えていますと、どうもクリスマスに対して、自分がちゃんと向き合っていなかったのではないかと思わされました。しかし、そういうことをいろいろ考えておりました時に、あらためて、もう一つの事を思わされました。

 それはこのルカによる福音書の、2章の1節から7節のところに書いてあることです。クリスマスの礼拝の時に、このルカによる福音書2章のところがよく読まれますけれども、たいてい8節からあとに中心を置いて、考えられることが多いと思います。わたしも今朝2章の8節から20節までを教会学校の礼拝で説教しましたが、この2章の初めの方を説教したことはありません。しかし、先ほど考えていた問題を持って、ここを読んでおりました時に、あらためてこの2章の1節から7節のことを考えさせられたのです。

 それは何かというと、イエス・キリストの誕生が、歴史的な事実であるということです。ここに二人の名前が出てきます。一人は、ローマの最初の皇帝でありますアウグストゥス。それからその次に、シリヤ州の総督であったキリニウス。こういう人たちのことは、キリスト教以外の世界の歴史の中、世界史の中で、ちゃんと記録が残っております。この福音書を書いたルカは、そのイエスさまの誕生を書くに当たって、わざわざこういう人たちの名前をここへ出しています。わたしも今まで、あまりそのことを気にしなかったのですけれども、あらためて考えさせられました。わたしたちが中学生の時の世界史で習い、ローマの最初の皇帝はアウグストゥスということはよく知らされたわけですけれども、イエス様は、そのアウグストゥスの時に、お生まれになられたのです。

 よく童話などを聞く時にわたしたちは、「昔々ある所に」というような出だしをよく聞きます。しかしイエス様は、「昔々ある所に」ではなくて、ちゃんと「アウグストゥスの時代だ」と、そしてそれは「ユダヤのベツレヘムで起こったことだ」、としっかりと「時代と場所」がここで語られているということは、イエス様の誕生という事は、何かこう宗教的な真理を伝えるための、「寓話や例え話」ではなくて、まさに一つの歴史的な出来事であったということを、示しているのです。

 それがどういう意味があるかと言いますと、このイエス様は、わたしたちの救い主として生まれました。そのわたしたちのための「救い主の誕生」が、わたしたちの生きる歴史の中に出来事として起こったことであるということ。そのことを、わたしたちが、感動をもって受け取るということができれば、それは大変幸いなことだと思います。しかし、たとえ、わたしが年中行事みたいな甘さで、今年も来たかというような、そういう、まことに申しわけないような守り方をしていても、「イエス・キリストがわたしたちの救い主として、この歴史の中に来て下さったという事実は、動かない。」これが本当に重要なことであると思います。

 今のように世界が暗い問題を抱えている。世界の動き、行く先を考えて見ますと、本当に暗い思いがします。どうなるだろうか、胸が痛みます。そういう時に、神様がこの世界の救いのために救い主を送って下さったということが、事実、歴史的な出来事なのだ。そういうことを思い返すことは、わたしたちに取って、まことに大きな慰めであります。わたしたちがそれに十分応えることが出来ないとしても、神様はちゃんと救いのために手を打って下さったのです。わたしたちの住んでいる世界が暗ければ暗いほど、この事実の重さというものを、あらためて思わされます。

 もう一つのことは、この8節以下に書かれていることでありますが「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。 」とあります。羊飼いと言いますと、わたしたちは大変牧歌的な、のどかなものを想像します。しかし、羊飼いというのは、決してそんなのどかなものではなくて、まことに厳しい生活をしていたという現実があります。ここに書かれておりますように「野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。」とあります。ほかの人たちがみんな家の中で安らかに眠っている時に、彼らは羊の番をするために、野原で野宿をしている。一晩中、羊の番をしていなければならない。そこにいるすべての羊飼いが寝るわけにはいきません。みんなが寝ているときは、自分が起きる。それを順番で行う。これは結構辛いことです。わたしもこれと同じような経験を最近しました。息子が生まれて、夜中、妻と交代で、息子にミルクを与えて寝かしつけるということをしていました。ミルクを飲まして抱っこして、目を閉じたので、布団に寝かすと直ぐ起きてしまう。だから抱っこしたままで、ソファーに座り、ひと時うとうとしながら起きているということがありました。それを妻と交代で行う。これはなかなか辛いですね。しかし、わたしたちの場合は、息子が小さい時までで、大きくなればがそのことをしなくてよくなるような一時的なことだけれども、羊飼いは毎晩毎晩、一生、そういう生活をして生きる。さらに家の中で安らかに眠ることはないという生活、それは大変厳しい生活でありました。

 そして収入は、まことに少なかったと言われます。さらに、野宿していますから服も汚れるし、からだを洗うということもできないという状態です。そのような生活が毎日です。そんなに苦労して、しかも報酬も少ない。しかし、世間からは尊敬されているのなら、それならばいいですけれども、そのようでもない。この時代のユダヤ人たちの間では、きよめの規定という大変重大なものがありました。イエス様の弟子が、きよめの儀式に、手を洗わないで食事をしたというので、厳しく咎められたということも書かれています。これが当時の世間の常識です。

 そういう身をきよめなければならない、そうでなければ神の民ではないという、そういう常識が一般で認められておりました時に、土の上にそのまま寝て、汚れきっている。そういう羊飼いというのは、アムハーレツと呼ばれていました。これは地の民、訳し換えると、土の人という意味です。いうなれば、泥まみれの人間、というような感じです。アムハーレツ、これは神の国が来ても、とても入る資格はない。そういう、みんなから軽んじられる存在でありました。そういう人のことが、ここに出てきます。彼ら自身は神様の救いの中には入れないのではないか、自分たちはもうだめではないか、というそういう思いが心の中にあったのではないかと思います。ところが、ここに主の使いである天使が現れるのです。

 『すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」』

 天の使いがこのように語りました。わたしたちは、ここでもう一度考えて見たいと思います。このクリスマスの晩に、救い主の誕生を告げられた者は、この羊飼いだけなのです。先程申しましたように、わたしたちがどうあろうと、神様がわたしたちの救いのために、救い主を送って下さったという、この事実こそ重要と申し上げました。そして福音書でもマルコによる福音書は、全く誕生のことなど書いていません。イエス・キリストが活動を始められるその直前、洗礼者のヨハネのことから書いています。しかし、ルカはここに、羊飼いに対して、天の使いがイエスの誕生を告げたということを、実に丁寧に書いています。このことは、何を言おうとしているのでしょうか。

 たくさんの人が、救い主の誕生を待っていました。しかし、誰もそのことを知らない。ただ、この人々から軽んぜられ、自分たちでも希望はないと思っていた羊飼いに、わざわざ神様は、このキリスト誕生の知らせを持ってきて下さったのです。この今の天の使いの言葉の中に、こうあります。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」あなたがたのためにと、天の使いは言いました。あなたがたとは、まさにこの羊飼いたちのことです。あなたがたのために、救い主がお生まれになられたのですよと、天の使いは語ったのです。昔、私は、熱海の方にある海の近くの旅館に泊まったことがありまして、夜、部屋から海の方を見ますと、防波堤の所から、サーチライトか何かが、違う岸に向かってか、遠くにある舟のためにか、照らされていました。そこには、ぼんやりと、光の筋がこうあったのです。しかし、あのサーチライトが、もし自分の方へ向けられたらどうだろうか。それはぼんやりした光りでなくて、ものすごいまぶしい光りだろうと思いました。わたしたちは聖書を読む時に、ああ羊飼いはこうだったとか、あるいはマリアさんは最初大変だったとか言うふうにして、いわば横から話を見ています。しかし、天の使いは「あなたがたのために救い主が生まれた」と言われる。それは、実は、その光りがまっすぐに自分の方を向いているということです。人の話ではなくて、このわたしが、もしそこでわたしたちが本当に行き詰まってもうだめだと思っているならば、そのわたしたちに向かって神様は、あなたたちのために救い主が生まれた。そう言われれているのです。

 何かこう、わたしたちは何気なく読んでおりますけれども、この「あなたたちのために」わたしのために救い主が生まれたのだという、このメッセージを受け取るということは、わたしたちに取っては、まことにむずかしいことです。しかし神様は、羊飼いのような、行き詰まって望みを失っているその人のために、わざわざこのメッセージを伝えに来られました。わたしたちがどういう気持ちであろうと、神様の救いのみわざは動かないと申しましたが、しかし、神様はこの礼拝に来ていますわたしたちに、今ここで、この事実を知らせようとしておられます。そして、今ここで苦しんでいるその悩みの中で、救いの恵みを経験させようとして、神様はわざわざこういうメッセージを伝えて下さったのです。これは、ただの理屈ではなくて、実際にこの「あなたのために救い主が生まれた」ということを聞いた人は、今まで思いもかけなかった新しい世界を、自分のために受け取ることができます。

 「あなたがたのために救い主がお生まれになった」これは本当にわたしたちにとって大きな喜びの知らせであります。この知らせを、神様は恵まれた人にではなくて、だめだと思っている人のために、わざわざ語って下さったということは、何よりの恵みです。教会へ来ておられる方々は、恵まれた方もいるし、苦しい思いをしている人もいます。体に弱さを持っておられる方もいる。重度の病を患っている方もいる。いろいろな重荷を負っている人もいます。そのような方々も、この救いのメッセージに生きています。それは大変な恵みの出来ことです。

 しかし、この「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉は、今だめだと思っている人だけに向けられた言葉ではありません。これは、まったくわたしはダメだなんておもっていない人にも、向けられた言葉です。これは、自分はあまり苦労もしていないし、健康であると考えている、そのような人にも向けられている言葉です。健康であり、食べるに困るわけでもない。しかし、何だか満たされない、幸せとは言い切れない。無理して小さな幸せを見つけ出し、自分を満足させている。そのような現状はないでしょうか。しかしそれでいいのかなあと、どこか心の隅で思っていることはないでしょうか。わたしは、「あなたがたのために救い主がお生まれになった」という言葉はそのような人にも向けられた言葉だと思っています。体は元気だけど、心や魂は渇いている状態にある人。それを「小さな幸せを見つける」という自分の術で、渇きを潤そうとしているけど、またすぐ渇いて苦しる。そのような心の渇きという苦しみを負っている人にも、神様は、目に留めてくださっています。神様はそのようなわたしたちの状態からも、救ってくださろうとされているのです。そこから救い出してくださる方が来て下さった。それを神様は、「あなたのために救い主がお生まれになった」という言葉で告げてくださっているのです。そしてその知らせを受け取った時に、今日わたしたちは、そのしるしを見ることができます。

 「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」わたしたちに与えられた、しるしは、ある意味ではまことに小さなもので、決して誰もがあっと驚くような、なるほど神様の救いが現れたなあと思うような、そんなものではありません。しかし、この馬小屋の中の飼い葉桶に寝かしてある、この一人の小さな赤ちゃんが、神の救いのしるしであるということを見なさいと、神様はわたしたちに教えて下さいました。

 この天使たちのお告げを聞いた羊飼いたちは、何と言ったかと言いますと「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」ということです。イエス様の生まれた場所は、何丁目何番地とは分かりませんから、これを見つけるのは大変だったと思います。「そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた」と書いてあります。探し当てたということから、一生懸命探したということがわかります。探して行って、そこで何を見つけたかというと、一人の幼子が布にくるまって寝ている。しかし、天使が言っていたように、飼い葉桶に眠っているという、普通では無いことを見たのです。本来は赤ちゃんが生まれて寝ているというのは、何も珍しいことではない。けれども、飼い葉桶に眠っているという出来事をみて羊飼いは喜びました。「羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。 」赤ちゃんが飼い葉桶に寝ていた。神様の言われたとおりであった、すごいと言って、帰って行ったのです。

 どうしてこの赤ちゃんの寝ているのを見て、そんなに喜んだか。それは神様の約束があって、それで聞いたとおりのことがそこにあったから、喜んだのです。「天使の言っていたことがホントだった、神様の約束が成就しているということを、見ることができた。だから、この自分を救ってくださるということが、真実なんだ!」「わたしたちを救おうと考えられている神様の計画は間違いないんだ!その計画が始まったんだ!」ということを、馬小屋の赤ちゃんを見て体験したのです。羊飼いはその後、どうしたでしょうか。きっとその後は、一生、神様の知らせてくださることが、本当になるということを楽しみにして、確認しながら生きていったと思います。イエス様がお生まれになって、その後神様はどんなことを起こされるのだろうと、それを頼みに生きるようになったのではないかと思います。それはわたしたちも同じです。わたしたちも今日、神様からの知らせを受け取りました。「イエス様がわたしを救ってくださるためにお生まれになった。」羊飼いは、神様のまばゆい光に照らされる経験をし、天使に託された神様の言葉を聞き、それを信じて、飼い葉桶に寝ているイエス様を見つけました。そのような、わたしたちの想像することのできないような方法によって、神様は、イエス様との出会いを与えられ、救いへと導かれるのです。わたしたちの、いや、わたしの苦しみ、悩み、渇き、死、それらの原因となっている罪、そのすべてからお救いになるために生まれて来たイエス様。そのイエス様が、わたしたちのために生まれてくださいました。今、その救いの光はわたしたちに一人ひとりに向けられています。そのすべての苦しみ、悩み、重荷のためにイエス様はこの世に来てくださいました。その証しをわたしたちは今日この礼拝で確認いたしました。この夕礼拝に来て、ここで神様の御言葉を聞いたということが、あらためて本当に光り輝く神様の恵みの証しとなることを祈り求めて行きたいと思います。またあの羊飼いたちのように、神様はどんなことを起こされて、わたしたちやこの世界を、救いに導いてくださるのだろうということを、楽しみに待ちながら、それを希望にして、明日を歩んで参りましょう。

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