主日礼拝

独り子を与えて下さった神

「独り子を与えて下さった神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第9章1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書第3章16-21節
・ 讃美歌: 245、247、257

この世の苦しみの中に独り子を遣わして下さった
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。これが、クリスマスの出来事の根本的な意味です。私たちがクリスマスをお祝いするのは、後に偉大な働きをしたイエス・キリストがこの日に生まれたことを記念するためではなくて、神様がこの世に、つまり私たちに、ご自分の独り子であるイエス・キリストを与えて下さったことを喜び、感謝するためなのです。
 神が独り子を与えて下さった、そのクリスマスの出来事はどのように起ったのでしょうか。ルカによる福音書第2章によれば、生まれたばかりのイエス・キリストは飼い葉桶に寝かされたとあります。そこから、キリストは馬小屋で生まれたと言われるようになりました。馬小屋だったかどうかははっきりしませんが、いずれにせよ母マリアは、人間の寝泊まりする部屋ではなく、家畜たちの居場所で出産をしたのです。それは聖徳太子が生まれた時のようにたまたま馬小屋の前で産気づいたということではなくて、時の皇帝アウグストゥスの勅令によって住民登録のために旅をしなければならず、その旅先のベツレヘムで宿屋に泊まることができなくて…ということです。お金さえ十分にあれば、一部屋ぐらい融通してくれる宿屋もあったでしょうし、自分の家に迎え入れてくれる人もいたでしょう。しかし彼らは貧しくみすぼらしかったので、誰にも顧みられず、助けてもらえずに、馬小屋で出産をしなければならなかったのです。それは初めてお産をする母マリアにとっては勿論、支える夫ヨセフにとっても、とても惨めなつらいことだったでしょう。イエス・キリストの誕生は、今で言えば戦争のさ中での、難民キャンプでの、あるいは大震災の混乱の中での出産のような、とても悲惨な出来事だったのです。神はそのようにして、この世にご自分の独り子を与えて下さったのです。それは、様々な苦しみや悲しみ、悲惨なことを体験し、そのさ中にいる私たち人間のところに、神が独り子を遣わして下さったということです。私たちも私たちなりに、いろいろな苦しみをかかえています。権力を握っている人々の意向に振り回され翻弄されているのは、皇帝の命令で旅をしなければならなかったヨセフとマリアと同じです。また今日の日本の社会は豊かな者と貧しい者との格差が広がっています。震災の混乱の中では「絆」ということが盛んに言われましたが、基本的には人々を結び合わせる絆が切れてしまっており、お互いを思いやる心が失われています。やり場のない怒りや憎しみによる悲惨な事件が多くなっていますし、厳しい競争の中で心をすり減らされてしまう人も増えています。あの夜ベツレヘムに、今にも赤ちゃんが生まれそうになっている夫婦を自分の家に迎え入れて、人間の泊まる場所でお産をさせてあげようという人が一人もいなかったことは、今日の私たちの社会のあり様と同じだと言えるでしょう。あの晩マリアとヨセフが味わった惨めさ、悲しみを私たちもいろいろな仕方で味わっているのです。そして今この世界には、文字通り内戦の戦いの中で、難民キャンプで、あるいは自然災害の中でクリスマスを迎えている多くの人々がいます。そのように様々な苦しみ悲しみ悲惨さの中にいる私たちのところに、神はその独り子を遣わして下さったのです。

独り子の命を犠牲にして下さった
 神が独り子を「お与えになった」のは、ただ人間としてこの世に生まれさせて下さったというだけではありません。クリスマスにお生まれになった主イエス・キリストは、最後には十字架にかかって死なれました。主イエスは人々を愛し、神の救いを告げ、苦しみの中にある者を助ける奇跡を行なわれましたが、権力を握っている者たち、時の宗教的指導者たちに憎まれて、何の罪もないのに捕えられ、死刑にされてしまったのです。しかし聖書はそのことを、悪人たちの陰謀によって非業の死を遂げた、とは捉えていません。そのことによって神がその独り子を私たちに与えて下さったのだと捉えているのです。主イエスの十字架の死は、神をないがしろにして自分が主人となって、自分の思い通りに生きることを追い求めており、そのために隣人をも愛することができず傷つけてばかりいる、その私たちの罪を主イエスがご自分の上に引き受けて、私たちの身代わりとなって十字架の死刑を受けて下さったという出来事だった、と聖書は語っています。この主イエスの十字架の死によって、私たちの罪は赦され、神様との良い関係が回復された、つまり救いが与えられたのです。主イエスはその救いを私たちに与えるために人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉は、クリスマスの出来事だけでなく、主イエスの十字架の死をも踏まえているのです。独り子を「お与えになった」というのは、神が独り子主イエスの命をも、私たちの救いのために犠牲にして下さったということなのです。

神の愛を受け止め、応えていくために
 神はそれほどまでに深く、世を、つまり私たちを、愛して下さっています。主イエスの誕生と、ご生涯と、そして十字架の死は全て、神が私たちを真実に、本気で、このごろの若者言葉で言えばガチで、愛して下さっているということを示しています。私たちがクリスマスを祝うのは、その神の真実で本気な愛を、私たち自身も真実に、本気で、ガチで受け止めて、その愛に応えていくためです。それが、クリスマスを祝う教会の信仰であり、その信仰によって、今日のこのクリスマス礼拝において、洗礼、幼児洗礼、信仰告白がなされます。洗礼を受けるというのは、独り子を与えて下さった神の真実な愛が、他ならぬこの自分に与えられていることを信じて感謝し、聖霊の働きによってキリストと結び合わされて、神の愛に真実に、本気で応えていく者へと新しく生まれ変わらせていただくことです。そしてその洗礼は幼児、赤ちゃんにも授けられます。それは、神の真実な愛を受けて生きている信仰者の両親の下に神が与えて下さった新しい命は、既に神の選びの下にあり、神がこの子を、ご自分の民である教会の一員として養い、育てていって下さることを私たちは信じているからです。赤ちゃんはまだ自分で神様を信じたり、主イエスによる救いを意識することはできません。しかし私たちの信仰も救いも、私たちがどれだけ自覚的に神を信じ、救いを意識しているか、という私たちの側の条件によるのでなく、神が、独り子をも与えて下さる真実で本気な愛によって私たちを選び、召し、導いて下さっていることにこそ根拠と土台があるのです。ですから大人になって受ける洗礼も、幼児洗礼も、神が与えて下さる救いの恵みにおいては違いはありません。幼児洗礼はそれを受ける赤ちゃんとその家族にとってだけ意味があるのでなく、それに立ち会う全ての者に、神の選びと召しにこそ私たちの救いの根拠があることを確認させてくれるのです。そしてこの礼拝においては、かつてその幼児洗礼を受けた一人の姉妹が信仰告白をします。今日幼児洗礼を受ける赤ちゃんと同じように自分も、何も知らずに両親の腕に抱かれていた時から既に、独り子をも与えて下さった神様の選びの下にあり、神様が幼児洗礼において自分を主イエス・キリストと結び合わせ、教会に連なる者として今まで養い育ててきて下さったことを感謝して、そのように自分のことをガチで愛して下さっている神様を自分もガチで愛して生きていく、その信仰を告白するのです。この洗礼、幼児洗礼、信仰告白に立ち会い、見守り、これらの方々を教会の仲間として迎える教会員も、このことを通して、独り子を与えて下さった神の真実な愛を改めて受け止め直し、私たちも真実に、本気で、神を愛して生きていく、という信仰を新たにされるのです。

永遠の命を与えて下さる
 神が私たちを愛して、独り子を与えて下さったのは、その「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」です。私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった主イエスを、父なる神は復活させて下さいました。それは死の力に対する神の勝利です。神は、死の力を滅ぼして、主イエスに新しい命、永遠の命を与えて下さったのです。そのことによって神は、洗礼を受けて主イエス・キリストと結び合わされた者に、世の終わりの審きにおいて、滅びではなく救いを、主イエスに与えて下さったのと同じ永遠の命を与えて下さると約束して下さったのです。神の真実な愛は、私たちがこの地上を生きている間だけのものではありません。それは私たちの肉体の死においても失われることはないし、それを越えて私たちを支え続け、そしてこの世の終わりには、私たちにも、主イエスと同じ復活と永遠の命を与えて下さるのです。独り子をも与えて下さった神の愛は、死の力にも勝利する愛なのです。

聖餐にあずかりつつ
 独り子を与えて下さった神の真実な愛を受け止め、信じて洗礼を受けた者たちは、それを心で信じるだけでなく、聖餐のパンと杯とによって、体で味わっていきます。聖餐のパンと杯は、神の独り子であられる主イエスが、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、肉を裂き、血を流して罪の赦しを成し遂げて下さったことを覚え、その恵みにあずかるために与えられているのです。洗礼において、神が与えて下さった独り子主イエスと結び合わされ、新しくされた私たちは、聖餐において主イエスのみ体と血とにあずかることによって、主イエスとの結びつきをさらに深められていきます。独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さった神を、私たちも心から真剣に愛して生きる、その愛を深められていくのです。そしてその信仰の歩みの中で私たちは、主イエスを復活させて下さった神が私たちをも復活させ、永遠の命を与えて下さるという終りの日の救いの完成への希望をも深められていくのです。今日洗礼を受けてキリストと結び合わされ、信仰の歩みを始める方々と共に心から、神がその独り子をこの世に与えて下さったクリスマスの恵みを感謝し、喜び祝いたいと思います。

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