「送られた救いの言葉」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: 詩編 第2編7-9節
・ 新約聖書: 使徒言行録 第13章16-41節
・ 讃美歌:245、255、271
パウロの説教を通して
アドベントクランツの四本の蝋燭の全てに火が灯り、クリスマスを祝う週となりました。申すまでもなく、クリスマスは、主イエス・キリストの誕生を喜び祝う時です。父なる神様の生みたもうた独り子、まことの神であられた主イエスが、一人の人間となってこの世に来て下さり、この世を生きる私たちの救い主となって下さったのです。神様が人間となってこの世に、私たちのところに来て下さった、私たちはこのことを今日ご一緒に喜び祝うのです。
この礼拝でご一緒に読む聖書の箇所として、使徒言行録第13章16節以下を選びました。ここはクリスマスの出来事を語っている箇所ではありません。使徒パウロが、第一回伝道旅行の中で、ピシディア州のアンティオキアという町のユダヤ人たちに語った説教です。パウロはこの説教においてイエス・キリストこそ私たちの救い主であると宣べ伝えたわけですが、その中で、主イエスの誕生について触れています。それは23節です。「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。これが、主イエスの誕生、クリスマスの出来事です。本日はこの23節を入り口として、パウロのこの説教を味わいたいと思います。そのことを通して、主イエス・キリストがこの世にお生まれになったことの意味と、それによって私たちに与えられている神様の恵みを見つめていきたいのです。
神の約束の実現
「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。主イエス・キリストはダビデ王の子孫としてお生まれになりました。主イエスがベツレヘムでお生まれになったことの意味はそこにあります。ベツレヘムはダビデの出身地です。主イエスの母マリアとその夫ヨセフはガリラヤのナザレに住んでいました。ところが主イエスはそこから100キロ以上離れたユダヤのベツレヘムで生まれたのです。それはローマ皇帝アウグストゥスによる人口調査の勅令のためだったとルカによる福音書は語っています。世界を支配している権力者、皇帝の命令によって、若い貧しい夫婦が苦しい旅を強いられ、その旅先のベツレヘムで、しかも宿屋に泊まることができずに馬小屋で、主イエスは生まれたのです。権力者の横暴によって弱い者、貧しい者が苦しみを受けるという悲惨な状況です。しかしそのことによって、救い主がダビデの町ベツレヘムで生まれる、という神様の約束が実現したのです。世界を支配する皇帝アウグストゥスも、そんな気は全くなかったけれども、神様の約束の実現のために用いられたのです。このように、主イエスの誕生は、神様の約束の実現でした。神様は、ダビデ王の子孫として救い主を送る、という約束を旧約聖書の中でしておられ、それを主イエスの誕生において実現して下さったのです。
ダビデの子孫として
主イエスがダビデ王の子孫として生まれたと聖書が語っていることの意味を私たちは正しく捉えなければなりません。これを、主イエスは由緒正しい家柄の出なのだと言っているのだと理解してはならないのです。パウロはこの説教の冒頭において、ダビデが神様によって王として立てられるまでのイスラエルの民の歴史を振り返っています。主イエスはダビデ王の子孫だ、と箔を付けようとしているだけなら、この部分は不要のはずです。しかしパウロは、主イエスがダビデの子孫として生まれたことの意味を知るための背景として、イスラエルの歴史を語らなければならないと思ったのです。それは何故でしょうか。パウロはイスラエルの歴史をどのように見ているのでしょうか。パウロの説教に従って、イスラエルの歴史を振り返ってみたいと思います。
17節の冒頭に「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し」とあります。「わたしたちの先祖」とは、イスラエルの民の先祖アブラハム、イサク、ヤコブのことです。主なる神様が彼らを選び、語りかけて下さったのです。彼らはその神様の語りかけに応えて旅立ち、神様の導きによって歩んだのです。イスラエルの歴史は、彼らの信仰による旅立ちから始まりました。
この民は後にエジプトに住むようになり、そこで大きな民となりましたが、そのことによってかえって奴隷の身分に落され、苦しめられていたのを、神様がモーセを遣わして解放し、エジプトから脱出させて下さいました。それが17節後半の「民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました」というところです。
エジプトを出たイスラエルの民は四十年の間荒れ野を彷徨いました。それは彼らが主なる神様を信頼せず、その命令に従わなかった罪のためであると聖書は語っています。そのことを言っているのが18節の「神はおよそ四十年の間、荒れ野で彼らの行いを耐え忍び」というところです。ここは前の口語訳聖書では「荒野で彼らをはぐくみ」となっていました。この違いは元になっている写本の違いですが、事柄としてはどちらも当っています。つまり神様はイスラエルの民の背きの罪を耐え忍びつつ彼らをはぐくんで下さったのです。そしてついに約束の地カナンを与えて下さいました。それが19節「カナンの地では七つの民族を滅ぼし、その土地を彼らに相続させてくださったのです」というところです。カナンの地に定住してからも、この民には長く王はいませんでした。20節にあるように、神様がその都度遣わして下さる「裁く者たち」つまりいわゆる士師たちによって治められていったのです。
この民に王が生まれたのは預言者サムエルの時代であり、最初の王はサウルでした。それは21節にあるように、「人々が王を求めたので」神が与えて下さった王でした。このサウルに代わって王として立てられたのがダビデでした。22節にそのことがこう言われています。「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う』」。
このようにアブラハムからダビデに至るイスラエルの歴史を簡単に振り返ることによってパウロが示そうとしているのは、この民が神様の選びによって歩み出し、常に神様の導きによって歩んできたことであり、それにもかかわらず常に神様に背き逆らってきたことです。荒れ野を彷徨ったのもそのためだったし、カナンの地に入ってからも、士師たちが遣わされたのは、民が神様に背いて他の神々を拝むようになり、そのために敵に攻められて危機に陥った時でした。人々が王を求めたのも、神様のみ心に逆らうことでした。神様こそがイスラエルの王として支配し、守り導いて下さっているのに、民は目に見える人間の王を求めたのです。しかしそのように繰り返し神様に背き逆らうイスラエルの民を、神様は常に耐え忍び、士師たちを遣わし、王を与えて彼らを守り導いてきて下さったのです。そのような歩みの果てに、ついにダビデが王として立てられました。22節で神様は、「わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした」と言っておられます。イスラエルの民をどのように導こうかと苦労して来られた神が、ついにダビデという人物を見出したという感じです。神様がダビデに期待しておられたのは「彼はわたしの思うところをすべて行う」ということです。イスラエルの民を、神様の思うところに従って治め、導いていく、そういう者としてダビデは王の位を与えられたのです。しかし聖書を読むと分かるように、ダビデもまた罪ある人間でした。ダビデとその子ソロモンの時代に、イスラエルは最も繁栄しますが、彼らの王朝にも様々な罪がからみついており、その後王国は南北に分裂し、ついにはアッシリア、バビロニアによって滅ぼされていきます。神様の思うところをすべて行うことは、ダビデにもまた出来なかったのです。そこで神様はこのダビデの子孫として救い主を遣わすという約束を与えて下さったのです。主イエスがダビデの子孫として生まれたことは、このような文脈の中で語られていることです。つまりそれは、王家の血筋を引く由緒正しい人だということではなくて、神様に背き逆らう人々の罪の中で、この主イエスによってこそ、神様のみ心がすべて行われる、罪人であるイスラエルの民に対する神様の救いのご計画がこの主イエスによって実現する、ということなのです。
送られた救いの言葉
神様の救いの約束の実現のことが26節にはこのように言い表されています。「兄弟たち、アブラハムの子孫の方々、ならびにあなたがたの中にいて神を畏れる人たち、この救いの言葉はわたしたちに送られました」。「この救いの言葉」とは、パウロがこれまで語ってきたイスラエルの民の歩みにおいて示された神様のみ心に基づく救いの約束の言葉のことであると言えるでしょう。その約束の言葉がわたしたちに送られたというのは、その約束の実現である主イエス・キリストがこの世に送られ、遣わされたこと、つまり主イエスの誕生のことを言っていると言うことができます。つまりクリスマスの出来事とは、神様の救いの言葉が私たちに送られたという出来事なのです。その送られた救いの言葉である主イエスに対して、人々が何をしたかが27節以下に語られていきます。27~29節「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、また、安息日ごとに読まれる預言者の言葉を理解せず、イエスを罪に定めることによって、その言葉を実現させたのです。そして、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求めました。こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後、人々はイエスを木から降ろし、墓に葬りました」。これは主イエスの受難、十字架の死のことを語っています。送られた救いの言葉である主イエスを、人々は受け入れず、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、十字架にかけて殺してしまったのです。しかしそのことが29節で「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後」と言われていることに注目しなければなりません。主イエスが人々に受け入れられず、十字架につけられて殺されることはすべて、旧約聖書において書かれていたこと、預言されていたことだったのです。つまりそれは神様のみ心、ご計画の一部だったのです。主イエスの十字架の死において、神様のみ心が実現したのです。ここは口語訳聖書では「イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから」となっていました。つまりエルサレムに住む人々やその指導者たちが、主イエスを十字架につけることによって、本人たちはそんな気は全くなかったけれども、神様の救いのご計画を自分たちの手で成し遂げたのです。それは先ほどのローマ皇帝アウグストゥスの場合と同じです。神様のことを知らず、ただ自分の思いに従って生きている人間、また神様のみ心を理解できずにそれに背いている人間、神様はそういう者たちのそれぞれの思惑や行動を用いて、私たちのための救いのご計画を実現して下さるのです。
復活と永遠の命
神様の救いのご計画はさらに続いていきます。30節以下です。十字架にかけられて殺され、葬られた主イエスを、父なる神様は死者の中から復活させて下さったのです。33節には「つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです」とあります。主イエスの復活もまた、神様の約束の実現、つまりご計画の成就でした。そのことによって何が実現したのか。それが34節以下に語られています。34節に「また、イエスを死者の中から復活させ、もはや朽ち果てることがないようになさったことについては」とあります。復活というのは、一旦よみがえったけれどもじきにまた死んでしまった、という話ではありません。死者の中から復活した者は、もはや死者とはならないのです。死んで朽ち果てることのない者とされるのです。そこに、ダビデと主イエスの違いがある、と36、37節が語っています。「ダビデは、彼の時代に神の計画に仕えた後、眠りについて、祖先の列に加えられ、朽ち果てました。しかし、神が復活させたこの方は、朽ち果てることがなかったのです」。ダビデは、自分に与えられた人生の限られた期間において、神様のご計画に仕えて歩み、そして死んで朽ち果てました。それが、私たち人間の普通の姿です。しかし主イエス・キリストだけは、父なる神様によって死者の中から復活させられたのです。それが神様のご計画でした。このことによって私たちのための神様の救いの約束が実現したのです。それは、私たちにも、主イエスと同じ復活の命、朽ち果てることのない永遠の命を与えて下さるという約束です。神様の救いのご計画の目的は、私たちに、新しい命、肉体の死によっても朽ちてしまわない永遠の命を与えて下さることだったのです。それが、主イエスの十字架の死と復活によって実現したのです。
罪の赦しと義
38、39節においては、この新しい命、永遠の命を与えられることがこのように言い換えられています。「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。この方、つまり主イエス・キリストによって罪の赦しが与えられ、義とされる、永遠の命を与えられるとはそういうことでもあるのです。つまり、永遠の命とは、私たちの命がどれだけ長持ちするか、というような話ではないのです。私たちに命を与え、それを導いて下さる神様との関係がどうなっているか、が問題なのです。イスラエルの民の歴史が示しているように、私たちは、神様によって生かされ、導かれていても、その神様に背き逆らい、み心を理解しようとしない罪人です。つまり神様との関係が断絶してしまっているのです。そのままでは、神様が与えて下さる永遠の命に生きることはできません。私たちと神様との関係を妨げている私たちの罪が取り除かれなければならないのです。そのことを、神様は独り子イエス・キリストによって、その十字架の死によって成し遂げて下さいました。主イエスが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちの罪が赦され、帳消しにされたのです。神様が罪人である私たちを義として下さったのです。「モーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」とあります。私たちは、自分の力で神様の掟である律法を守り、よい行いに励み、罪に打ち勝って立派な人間になる、という仕方で義となることはできません。イスラエルの民はそれができなかったし、神様が「彼はわたしの思うところをすべて行う」と言って立てたダビデだってできなかったのです。イスラエルの歴史は、人間が自分の力で義となることができないことを証明しています。しかしその人間のために神様は、独り子イエス・キリストを救い主として遣わして下さり、主イエスの十字架の死と復活によって、罪の赦しと新しい命を実現して下さり、そして主イエスを信じる者が皆、この方によって義とされるようにして下さったのです。これこそが、パウロがこの説教で語っている「救いの言葉」です。
聖餐の恵み
この救いの言葉は私たちに送られました。それが主イエスの誕生、クリスマスの出来事です。この救いの言葉を喜び祝うのがクリスマスです。つまりクリスマスは、主イエスの誕生のみを見つめる時ではなくて、そのご生涯の全体、そして何よりも十字架の死と復活によって、神様が私たちの罪を赦し、義として下さり、主イエスの復活にあずかる朽ちることのない永遠の命の約束を与えて下さったことを喜び、感謝し、その恵みに共にあずかる時なのです。この救いの言葉を味わわせてくれるのが、これからあずかる聖餐です。聖餐において私たちは、神様の独り子、まことの神であられる主イエスが、私たちと同じ肉と血からなる一人の人間としてこの世に来て下さった、その恵みを目の当たりにし、味わいます。そしてさらに、その主イエスが肉を裂き、血を流して十字架の上で死んで下さり、私たちの罪の赦しを実現して下さったことを示され、その恵みを味わいます。そしてさらに、その主イエスが肉体をもって復活して天に昇り、今は父なる神様のもとで、朽ちることのない永遠の命に生きておられることを思いつつ聖餐のパンと杯をいただくことによって、私たちも主イエスの復活にあずかり、神様のもとで朽ちることのない永遠の命に生きる者とされる、その約束への確信を強められていくのです。私たちの復活と永遠の命は、主イエスが天からもう一度来られることによってこの世が終わり、神様のご支配があらわになり、私たちの救いが完成するその時に実現します。その時までは私たちは、主イエスが最初にこの世に来られたことによって送られた救いの言葉を聖餐において味わいつつ、もう一度来られる主イエスを喜びと希望をもって待ち望みつつ生きるのです。