主日礼拝

虚無からの救い

「虚無からの救い」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:創世記 第3章1-19節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章18-25節
・ 讃美歌:2、117、573

今のこの時の苦しみ
 ローマの信徒への手紙第8章18節に「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います」とあります。「現在の苦しみ」と「将来現されるはずの栄光」とが比べられており、将来の栄光に比べれば現在の苦しみは取るに足りない、とパウロは言っているのです。その「現在の苦しみ」は、私たちがそれぞれに今かかえているいろいろな苦しみのことではありません。そういう苦しみならば、事情が変われば、例えば病気が治るとか景気が良くなるなどして苦しみの原因が取り除かれれば、その苦しみは過ぎ去って幸せになれるでしょう。パウロが「現在の苦しみ」と言っているのはそういう苦しみではないのです。ここは以前の口語訳聖書では「今のこの時の苦しみ」となっていました。「現在の」と訳されている言葉は原文においては「今のこの時の」なのです。パウロは、私たちが生きている今のこの時は苦しみの時なのだ、と言っているのです。ですからここに語られている「現在の苦しみ」は、今幸せだと思っている人には関係のないことなのではありません。たまたま今何らかの苦しみ、不幸をかかえている人だけではなくて、今のこの時を生きている私たち全ての者が苦しみの時を生きているのです。そのことは、およそ二千年前を生きていたパウロの時代の人々も、今日の私たちも変わりはないのです。

将来現される栄光の希望
 この「現在の苦しみ」に対して、「将来わたしたちに現されるはずの栄光」がある、とパウロは語っています。「現される」という言葉は、「隠されていたものが明らかにされる」という意味です。今は隠されている栄光が、将来明らかにされ、私たちに与えられるのです。その栄光は現在の苦しみとは比べものにならないほど素晴しいものなのです。そういう栄光が、今は隠されているけれども、将来必ず明らかになり、私たちのものになる、そのことを信じて生きるのが「わたしたち」つまり主イエス・キリストを信じる信仰者の歩みなのだとパウロは言っているのです。
 現在の苦しみの中で、将来現されると約束されている栄光を信じて生きる、それは、苦しみの中で忍耐しつつ待ち望む歩みです。信仰に生きるとは、苦しみの中で、将来現される栄光を待ち望みつつ忍耐して生きることです。それは言い換えれば、苦しみの中でも希望を失わずに生きることです。しかもその希望は、私たちが苦しみの中で、「こうなってほしい」と願っているというだけの単なる願望ではありません。将来の栄光を神が約束して下さったのです。信仰者は、神の約束によって与えられた希望を信じて、その実現を待ち望むのです。その希望が、現在の苦しみの中で私たちを支え、忍耐してそれと戦う力となるのです。苦しみを忍耐し戦っていく力は、希望の確かさから生まれます。神が約束して下さっている栄光は現在の苦しみとは比べ物にならないほど大きい、という確かな希望を見つめることによって、現在の苦しみを忍耐し、それと戦っていく力が与えられるのです。

神の子とする霊を受けて
 このように主イエス・キリストを信じる信仰者とは、将来現されるはずの栄光を待ち望む希望に支えられて、現在の苦しみを忍耐して、それと戦っていく者です。このような信仰者としての歩みは、私たちが自分でそのように生きようと決意することによって得られるものではありません。私たちの信仰者としての歩みは神の霊の働きによって与えられるのです。そのことを私たちはこれまでこの第8章において読んできました。これまでの所に語られていたのは、信仰者とは、神の霊を受け、神の霊によって導かれる者だ、ということです。私たちが主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会の一員となることは、私たちが自分の意志で新しい生活を始めるということではなくて、神の霊が私たちに宿り、新しく生まれ変わらせて下さるということなのです。神の霊は私たちを神の独り子であられる主イエス・キリストと結び合わせることによって私たちをも神の子として下さる霊です。その霊によって私たちは、主イエスがなさったように、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけて祈る者とされるのです。「アッバ」とは小さい子供が父親を親しく呼ぶ言葉です。子供が父親の愛を信じて疑うことなく「お父ちゃん、パパ」と呼びかけるように、私たちも神が私たちの父となって下さり、私たちを子として愛して下さっていることを確信して、信頼をもって父である神に祈ることができるのです。そのような神との間の父と子としての信頼の関係は、私たちの努力や頑張りによって得られるものではなく、神の霊、聖霊が私たちに宿って下さって、独り子イエス・キリストを信じる者として下さることによってこそ与えられる恵みなのです。

キリストと共に栄光を受ける
 そして先週読んだ所の最後の17節には、神の子とされた私たちは、キリストと共に神の相続人とされたのだ、と語られていました。「相続」という譬えが用いられているのは、本来子供にしか与えられないはずのものが自分にも与えられる、ということを意識させるためです。主イエス・キリストは、将来神の栄光を受ける方です。神の独り子であられるのだから、それは当然のことなのです。ところがその栄光が、聖霊によって神の子とされた私たちにも今や約束されている、それが、私たちも神の相続人、キリストと共同の相続人とされている、ということです。この17節を受けて、本日の18節が語られているのです。聖霊によって神の子とされ、キリストと共に神の相続人とされた私たちには、本来キリストのみがお受けになるはずの栄光が約束されているのです。「将来わたしたちに現されるはずの栄光」は、神の独り子であられるキリストがお受けになるはずの栄光なのです。その栄光に比べれば、人間である私たちが現在この世で味わっている苦しみなど取るに足りないものなのです。

虚無に服した被造物
 その「現在の苦しみ」は、私たちが個人個人で味わっているあの苦しみこの苦しみのことではなくて、今のこの時を生きている全ての者が共通して負っている苦しみなのだ、と先程申しました。それはどのような苦しみなのでしょうか。この「現在の苦しみ」のことをパウロは20節で、「被造物は虚無に服していますが」と言っています。21節にも「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて」とあります。被造物、つまり神によって造られたこの世界の全てが、虚無に服し、滅びに隷属してしまっているのです。22節には「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています」とあります。被造物全体が虚無に服し、滅びに隷属しているためにうめき苦しんでいるのです。被造物全体が陥っているこの苦しみをパウロは見つめているのです。
 神がお造りになった被造物全体が虚無に服してしまっているとはどういうことでしょうか。「虚無に服している」という言葉の意味は、「不毛になっている」とか、「目的を達成できていない」ということです。被造物全体が、その本来の目的を達成できなくなっているのです。被造物の本来の目的とは何でしょうか。それは、神によって造られた物として、造り主である神の栄光を表し、それをほめたたえることです。この世界の全てのものは、自然も人間も本来、造り主である神の栄光を表し、ほめたたえるように造られているのです。ところが今、自然も人間も、その本来の姿を失っています。自然も人間も、神の栄光を表しほめたたえることができなくなっているのです。それは何故でしょうか。20節にそのヒントがあります。20節には「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり」とあります。被造物が虚無に服しているのは、服従させた方、つまり神のご意志によるのです。神が被造物を虚無に服させたのです。それはどういうことなのでしょうか。そのことを語っているのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第3章1~19節なのです。

人間の罪の結果としての苦しみ
 創世記第3章には、神に創造された人間の最初の罪のことが語られています。最初の人間アダムとその妻が、蛇の誘惑によって、神の命令に背いて、食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木」の実を食べてしまった、その罪によってエデンの園、楽園を追放されたという、いわゆる「失楽園」、楽園喪失の話です。彼らがあの「禁断の木の実」を食べたのは、蛇の言葉によって彼らが、神の下で、神に従って生きていることを窮屈な、不自由なことと思うようになり、神に従うことをやめて、自分が主人となって、神なしに、自分の思いによって生きていこうとした、ということです。その罪の結果人間は、神の下で守られていた楽園、エデンの園から追放され、荒れ野のようなこの世を、苦労して生きなければならなくなったのです。それが現在私たちが生きているこの世です。パウロが「現在の苦しみ」と言っているのは、このアダムの罪の結果として私たち全ての者が負っている苦しみのことなのです。

人間の罪による被造物全体の苦しみ
 この罪の結果としての苦しみは、罪に対する神の裁きによってもたらされたものです。3章16節以下で神は罪を犯した人間への裁きを告げておられます。その17節に「お前のゆえに、土は呪われるものとなった」とあります。この言葉は直接には、楽園を失ったアダム、男が、荒れ野のようなこの世界で、生涯食べ物を得ようとして苦しみ、顔に汗を流して働かなければ自分も生きていけないし家族を養うこともできない、ということを意味していますが、しかしそれだけでなく、人間の罪の結果、土に代表されるこの世界の被造物の全体が呪われ、その本来の目的を達成できなくなり、虚無に服した、ということをも意味しています。人間の罪のゆえに神が被造物全体に呪いを宣言なさったのです。これが、神のご意志によって被造物が虚無に服した、ということです。パウロは創世記3章17節を受けて本日の箇所を語っているのです。
 このことによってパウロが見つめているのは、被造物全体が虚無に服しているのは人間の罪のゆえである、ということです。人間が、自分を含めてこの世界を造って下さった神に背き、神なしに、自分の思いによって生きようとする罪に陥ったことによって、人間が楽園を失って苦しむようになっただけでなく、被造物の全てが、創造主の栄光を表しほめたたえるという本来の目的を達成できなくなり、虚無に服してしまったのです。しかしどうして人間が罪に陥ると、被造物全体が虚無に服してしまうのでしょうか。それは、神が人間を、被造物全体を神のみ心に従って管理するべき者として造って下さったからです。創世記1章28節に、神が人間を造り、祝福して「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」とおっしゃったことが語られています。「地を従わせよ」とか「生き物をすべて支配せよ」というのは、人間が被造物を自分の思い通りに好き勝手に従わせ、支配することを許されているということではありません。この世界は、神がお造りになった被造物であり、神のものなのです。神のものであるこの世界を、被造物全体を、神のみ心に従って管理し、守るべき者として、神はご自分に似せて人間をお造りになり、このような権威をお与えになったのです。ですから、被造物全体が造り主である神の栄光を表し、ほめたたえるように管理し整えることこそが、地を従わせ、生き物を支配する人間の使命なのです。そのためには先ず人間自身が造り主である神をほめたたえ、み心に従って歩む者でなければなりません。ところがその人間が罪に陥り、神に従うことをやめ、自分が主人になって歩み出しました。そして被造物をも、神の栄光のためではなくて自分のために、自分の豊かさや富のために支配し、コントロールするようになったのです。人間の罪のために被造物がその本来の目的を達成できなくなったというのはそういうことです。私たち人間は、自分の罪のために楽園を失い、苦しみの中を生きなければならなくなったと同時に、被造物全体の管理を誤り、虚無に服させてしまったのです。そのために今、被造物がすべてうめき苦しんでいるのです。

被造物のうめき
 人間が管理を誤り、自分の利益のために利用し支配するようになったために被造物がうめき苦しんでいる、私たちはそのことを今日至る所で体験しています。地球温暖化に代表される環境破壊は、人間が、特に高い技術と経済力を手に入れた先進国の私たちが、自らの欲望に任せて被造物である自然を破壊してきた結果です。原発の事故による放射能汚染などもまさに、人間が豊かなエネルギーを得るために自然をコントロールしようとして失敗した結果です。また戦争も、人間の命を奪うだけでなく、被造世界を大規模に破壊する行為でもあります。それらは全て、人間の罪によってもたらされた被造物の苦しみであり、それが人間自身の生存をも脅かす結果となっているのです。現代を生きている私たちは、この被造物の深刻なうめき苦しみを肌で感じています。しかしパウロがこの手紙を書いたのはおよそ二千年前です。当時は、環境問題などもなければ、原発もありません。戦争は当時からありましたが、今日のように大規模な破壊と殺戮をもたらすようなものではありませんでした。しかしパウロは、まさに今日の世界の状況をお見通しであったかのようにこれを語っています。彼は、今私たちが目にしているようなことを全く知らずに、しかし被造物全体のうめき苦しみを聞き取っていたのです。それは彼が、創世記に語られている、人間の罪とそのもたらした結果としての人間と世界の悲惨さを、つまり被造物全体が虚無に支配され、神の呪いの下に置かれてしまっていることを深く見つめていたからです。つまり彼は、聖書に記されている神の言葉によって、被造物全体のうめき苦しみを聞き取ったのです。私たちも、このパウロと同じ洞察力を持たなければなりません。つまり、被造物全体が虚無に服しているという事実を、環境破壊や原発や戦争などにのみ見ていてはならないのです。虚無の力はもっと根本的に、深いところで私たちを捕えています。私たちは、神に造られ、命を与えられ、神の恵みによって生きている者であるのに、その神を造り主として敬わず、従おうとせず、神と共に歩もうとせず、自分が主人となって、自分の思いと願いによって生きています。それは私たちが、造られた者としての本来の姿を失い、虚無に支配され、不毛な者となってしまっている、ということです。そしてこの罪に陥っている私たちは、他の被造物に対して適切に振る舞うことができなくなっています。他の被造物は自然だけではありません。他の人間、隣人に対する私たちのあり方が問われているのです。欲望のために、豊かさを得るために自然を破壊してしまう私たちは、隣人をも自分の欲望のために利用し、自分にとって益になる時だけ愛し、利用価値がなくなったら無視し、捨ててしまう、そのようにして隣人を傷つけ、破壊してしまっているのではないでしょうか。私たちが愛して共に生きるべき隣人が、私たちのゆえに虚無に支配され、うめき苦しんでいるのではないでしょうか。神との関係を断ち切り、破壊してしまう罪のゆえに、私たち自身も、そして他の被造物も、本来のあり方を失い、神の祝福を失い、虚しくなり、うめき苦しんでいるのです。それが、パウロがここで見つめている「現在の苦しみ」なのです。私たちが味わっている様々な具体的な苦しみの根本に、この罪による苦しみがあるのではないでしょうか。

将来の栄光による虚無からの救い
 しかしその「現在の苦しみ」は、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると取るに足りない、とパウロは言っています。今は隠されていて、将来明らかにされ与えられる栄光は、私たちの罪の結果である現在の悲惨さ、うめき苦しみとは比べ物にならないほど大きいのです。その栄光が現される時、現在のこのうめき苦しみ、虚無に支配されている悲惨さは解消されるのです。私たちにはそういう将来の栄光が約束されているのだから、現在の苦しみの中で、希望を失わずに、忍耐して、その苦しみと戦っていくことができる、それがここでのパウロのメッセージなのです。

被造物は神の子たちの現れを待ち望んでいる
 将来私たちに現されることが約束されている栄光、それは先ほど見たように、聖霊によってキリストと結び合わされ、神の子とされた私たちに与えられる、神の子としての栄光です。神の子とする霊を受けたことによって、キリスト信者は既に神の子とされています。しかしその栄光にあずかるのは将来です。私たちが神の子とされていることは、今はまだ隠されている事実なのです。つまりそれは信じるしかないことであり、誰の目にも明らかなことにはなっていません。しかし将来、その隠されている事実が明らかにされる時が来るのです。それは、復活して天に昇った主イエスが、父なる神のもとからもう一度来られる時です。その時、今は隠されている主イエス・キリストの神の子としての栄光が明らかになり、そのご支配が完成し、この世界は終わって神の国が完成するのです。主イエスの神の子としての栄光が明らかになるこの終りの時に、私たちが主イエスと共に神の子とされていることも明らかになり、誰の目にも明らかになるのです。19節に「神の子たちの現れるのを」と言われているのはそのことです。将来、主イエスが神の子としての栄光をもってもう一度来られるこの世の終りの時に、私たちも、神の子としての栄光を与えられて現れるのです。被造物はそのことを切に待ち望んでいる、とこの19節は語っています。同じことは21節においては、「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」と言い表されています。私たちが神の子とされていることが明らかになり、神の子としての栄光を与えられて現れることが、被造物全体の希望であり、そのことによって滅びへの隷属からの、つまり虚無からの解放が実現するのです。なぜならばそれは、私たちが主イエス・キリストによる罪の赦しにあずかって、罪によって失ってしまった本来のあり方、神に造られた者として造り主の栄光を表し、神の下で、神に従って、神をほめたたえて生きるという、神との良い関係を回復されることだからです。私たちが神の子とされ、神に愛され、神を愛して生きる者となる時に、他の被造物との関係も正されていきます。神のみ心に従って被造物を管理し、自らも含めた全ての被造物が造り主なる神の栄光を表し、ほめたたえるようにしていくという、本来神が私たちに求めておられたことを私たちがしていくことが出来るようになるのです。そのように私たちが罪を赦されて神の子とされることは、罪に支配されてしまった私たちの救いであると共に、虚無に服してしまった被造物の解放であり救いでもあるのです。
 被造物全体は、うめき苦しみつつ、私たちが神の子とされることを待ち望んでいます。それゆえに私たちが、現在の苦しみの中にありながらも、神の子とする霊を受け、主イエスと共に「アッバ、父よ」と祈る者とされ、神の子としての栄光が将来与えられることを信じて、忍耐して救いの完成を待ち望みつつ生きていくことは、私たちにとって恵みであるだけでなく、被造物全体の希望でもあるのです。

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