主日礼拝

葬られた主イエス

「葬られた主イエス」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第53章8-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第27章57-66節
・ 讃美歌:306、518

主イエスは墓に葬られた
 私たちは毎週の礼拝において「使徒信条」によって信仰の告白をしていますが、そこには、私たちの救い主である主イエス・キリストが、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」たと語られています。主イエスが、苦しみを受け、十字架につけられて死んで葬られた、それが私たちのための救いの出来事だったと教会は信じており、その信仰を言い表しているのです。本日は、その最後のところの「葬られ」ということについて、聖書が語っていることを聞きたいと思います。
 十字架の上で死なれた主イエスは墓に葬られました。そのことを語っているマタイによる福音書第27章の箇所が先ほど朗読されました。主イエスの遺体を引き取って墓に納めたのは、アリマタヤ出身の金持ちでヨセフという人でした。この人もイエスの弟子だったと語られています。主イエスの十字架の死は午後3時頃だったとその前のところにあります。ヨセフはその日、日が暮れる前に、主イエスに死刑の判決を下したローマの総督ポンテオ・ピラトに願い出て、主イエスの遺体を受け取り、きれいな亜麻布に包んで、岩に掘った自分の新しい墓に納めたのです。日没になると安息日が始まってしまうので、その前に急いで埋葬をしたものと思われます。アリマタヤのヨセフが主イエスの遺体を墓に納めたことは四つの福音書の全てに語られています。主イエスが葬られたことを聖書は大切なこととして語っているのです。それゆえに使徒信条にもそのことが語られているのです。

主イエスは本当に死んだ
 しかし、主イエスが十字架にかかって死なれたことに加えて、「葬られた」ことも語られていることにはどういう意味があるのでしょうか。「ハイデルベルク信仰問答」は、問41において「なぜこの方は『葬られ』たのですか」と問うており、その答えは「それによって、この方が本当に死なれたということを証しするためです」となっています。主イエスは本当に死なれた、死んだように見えたけれども実はまだ息があったとか、仮死状態だったというのではなくて、本当に死んでしまった、そのことを、墓に葬られたことが示しているのだ、というわけです。葬られたことによって本当に死んだことが証しされている、というのはおかしなことのようにも感じますが、葬りには本来そういう意味があったと言えます。私たちの社会では今は火葬が中心となっているので、火葬に際して行われる葬式と、遺骨を墓に納める埋葬とが分離していますが、本来葬りとは遺体を墓に納めることであり、それに際して行われるのが葬式でした。葬式と墓に葬ることは一つだったのです。それを行うことによって、愛する者を失った悲しみの中にある遺族や親しかった者たちが、その人の死を事実として受け入れ、慰めを得て、その人のいない新しい現実を生き始める、そのために葬式はなされるのです。つまり葬式は、その人が本当に死んだこと、だからもう生き返ることはないのだということを確認して、その現実を受け入れて、新しく歩み出すためになされるのです。葬式と埋葬が時間的に隔たっている今でも、その基本的な意味は同じです。墓に葬ることによって、その人の死が動かし難い事実であることを確認し、受け入れるのです。

死の苦しみの具体化である葬り
 主イエスが葬られたことは、このように主イエスが本当に死んだことを証ししていると言うことができるわけですが、しかしそれは、弟子たちや主イエスを慕っていた者たち、そして私たちが、主イエスの死を事実として受け入れて生きていくためになされたのではありません。そこには別の意味があります。主イエスが本当に死なれたことを確認するというのは、肉体の死という私たち人間が誰も免れることのできない現実を、それに伴う苦しみ、悲しみ、絶望を、主イエスが本当にご自分の身に引き受け、背負って下さったことを確認する、ということです。「葬られた」ことにおいてこそ、主イエスは死の苦しみを本当に味わって下さったのです。というのは、私たち人間が死において体験する苦しみ、悲しみ、絶望は、「葬られる」ことにおいてこそ具体的、現実的となるからです。死ぬことは、命が終わること、人生が終わることですが、「葬られる」ことが、それによる苦しみを具体的なものとして示しているのです。そのことは、旧約聖書、詩編第49編に語られています。詩編49編の10?12節にこのようにあるのです。「人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。人が見ることは/知恵ある者も死に/無知な者、愚かな者と共に滅び/財宝を他人に遺さねばならないということ。自分の名を付けた地所を持っていても/その土の底だけが彼らのとこしえの家/代々に、彼らが住まう所」。ここには、人間は誰でも必ず死ぬのだ、ということが語られていますが、その死の苦しみが、墓に葬られることにおいて見つめられています。どんなに知恵のある者であっても、財宝を沢山持っていても、自分の名を付けた広大な地所を持っていても、自分が葬られる墓の土の底だけがとこしえの住まいとなる、と言っているのです。この詩の18?20節にはこうも語られています。「死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず/名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。命のある間に、その魂が祝福され/幸福を人がたたえても/彼は父祖の列に帰り/永遠に光を見ることはない」。生きている時にどんなに名誉を得ていても、墓に葬られる時にはそれを携えて行くことはできない、命のある間に持っていた祝福や幸福を、墓の中にまで持って行くことはできない、墓に葬られる時には、それらを全て失い、光を見ることのできない暗闇の中に置かれるのだ、と言っているのです。「死ぬ」という誰も避けることのできない現実が私たちにもたらす苦しみ、悲しみ、絶望が、葬られることにおいて、私たちの具体的な現実となることがここに見つめられています。つまり聖書において、墓に葬られることのイメージは、墓の中で安らかに憩う、というものではありません。詩編49編が語っているように、全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められることなのです。「墓の中で安らかに憩う」というイメージは死の苦しみを見つめたくないという人間の願望が生み出したものであって、聖書は、「葬られる」ことに、死の苦しみ、悲しみ、絶望を、誤魔化さずに正面から見つめているのです。 

死の苦しみ、悲しみ、絶望を引き受けて下さった主イエス
 そしてそこに、主イエスが墓に葬られたことの意味が見えて来ます。全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められてしまう、という死の苦しみ、悲しみ、絶望が、葬られることにおいて見つめられている、その苦しみ、悲しみ、絶望を、神の独り子である主イエス・キリストご自身が味わって下さったのです。死の苦しみ、悲しみ、絶望は、私たちが肉体をもってこの世を生きている人間だから味わうものです。それを、神の独り子が、人間となり、肉体をもってこの世を生きて下さり、そして死んで葬られたことにおいて、味わい、引き受けて下さったのです。しかもこの苦しみ、悲しみ、絶望は、私たちが神に背き逆らっている罪人だから味わうものです。私たちは神によって命と体を与えられて生きています。人生を導いて下さっているのは神です。その神との関係が正しく良いものであれば、つまり自分に対する神の恵みと愛を私たちがはっきり知っており、それに応えて自分も神を愛し、喜んで神と共に歩んでいるなら、神が「お前の人生はここで終わり」とおっしゃって命が終わる時にも、神の愛が失われることはないのであって、死ぬことは苦しみや絶望ではないはずです。しかし私たちは、神の愛を見失い、神と共に生きるのではなくて、自分が主人となって、自分の思いによって生きようとしています。自分が主人であろうとしている私たちにとって、神は邪魔な存在、なるべく引っ込んでいて欲しい存在となっているのです。でも何か困ったことがあると急に神に頼ったりもします。普段無視している神を必要な時だけ利用しようとする、神との関係がそのように歪んだ、正しくないものとなっているのです。私たちが罪人であるとはそういうことです。その罪に陥っている私たちにとって、神が命を取り去り、人生を終わらせられる死は、自分のものだと思っている命を神によって奪われるという恐しいことであり、全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められてしまうような苦しみ、悲しみ、絶望なのです。その苦しみ、悲しみ、絶望の具体的な表れが「葬られる」ことです。それを、神の独り子である主イエスが、ご自分のこととして味わい、担い、背負って下さった。だから、罪人である私たちが死に直面して、全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められるような恐れ、苦しみ、悲しみ、絶望を覚える時、そこに、死んで葬られた神の子主イエスが共にいて下さるのです。主イエスが墓に葬られたことによって、そういうことが実現したのです。

主の望まれること
 これは、父なる神のみ心によって実現したことでした。そのことを語っているのが、先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章です。全部読むと長いので8?10節を朗読してもらいましたが、この53章全体が、「彼」と呼ばれている人のことを語っています。8節には、「わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり/命ある者の地から断たれた」と語られています。神の民の背きの罪のゆえに、彼は命ある者の地から断たれた、つまり彼は人々の罪のゆえに殺されたのです。しかもそれは「神の手にかか」ってのことでした。つまり神のみ心によって彼は死んだのです。その神のみ心とは何だったのかが10節に語られています。「病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂げられる」。彼が自らを償いの献げ物とすること、彼が打ち砕かれることによって人々の罪の償いがなされることを主は望んでおられたのです。彼が命ある者の地から断たれたことによってこの主のみ心が実現し、民の背きの罪が償われ、罪の赦しが与えられたのです。しかも9節には「彼は不法を働かず/その口には偽りもなかったのに」とあります。この人自身は何の罪も犯してはいないのであって、償いをしなければならないようなことは全くないのです。それなのにこの人は、人々の犯した罪を全て背負って、償いのために苦しみを受け、命ある者の地から断たれたのです。この人の死によって、主の望まれること、民の罪の赦しと救いが成し遂げられる、そのことがこの53章に語られています。このイザヤ書53章は、主イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられる救いをはっきりと予告していると言うことができるのです。
 そしてその9節に、不法を働かず、口に偽りもなかったこの人が、「その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた」とあります。「神に逆らう者」とは罪人ということですが、それが「富める者」と言い換えられています。富める者イコール罪人と言われているわけです。聖書はしばしば、富める者を罪人と、貧しい者を正しい人と言い換えています。そこにも一つのメッセージがありますが、それは置いておくとして、何の罪もないこの人が、「命ある者の地から断たれた」だけでなく、罪人と共に「葬られた」ことがここに語られているわけです。つまりこのイザヤ書53章は、神の独り子であり、何の罪もない方である主イエスが、私たちの罪を全て背負って苦しみを受け、私たちの罪の償いのためにご自分の命をささげて死んで下さること、そして墓に葬られるという苦しみをも引き受けて下さることを予告しているのです。それによって、主なる神の望んでおられること、つまり罪人である私たちの救いが実現したのです。主イエス・キリストが「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」たことは全て、このイザヤ書53章に預言されていた、主なる神の救いのご計画の実現だったのであり、そのご計画の中には、主イエスが葬られることも位置づけられていたのです。

大きな石、封印、番兵
 アリマタヤのヨセフは主イエスの遺体を墓に納め、墓の入り口に大きな石を転がしておいた、と語られています。マグダラのマリアともう一人のマリアがそれを見届けています。マタイによる福音書はさらに、翌日、つまり安息日に、祭司長たちとファリサイ派の人々が、ピラトのところに集まり、イエスの弟子たちが遺体を盗み出さないように墓を見張るように願い出たことを語っています。それは、主イエスが「自分は三日後に復活する」と言っていたので、弟子たちが遺体を盗み出して「イエスは死者の中から復活した」と言い出すかもしれない、と恐れたからでした。ピラトがそれを認めたので、彼らは、「墓の石に封印をし、番兵をおいた」とあります。主イエスが葬られた墓は、大きな石で蓋をされており、封印もなされ、番兵も置かれていたのです。それらのことは、主イエスが死んで葬られたことが、動かし難い事実であり、誰もその事実を誤魔化したり否定することはできないこと、死の支配から主イエスを取り戻すことは誰にもできないことを示しています。主イエスは確かに死んで葬られ、その苦しみ、悲しみ、絶望を背負い、光を見ることのない暗闇の中に置かれたのです。

主イエスの墓は空になった
 しかし、主イエスの墓を塞いでいた大きな石も、封印も、番兵も、次の28章に語られている主イエスの復活においては無意味でした。主イエスが死んで葬られてから三日目の日曜日の朝、その墓は空になったのです。28章には、主イエスの埋葬を見届けたマグダラのマリアともう一人のマリアの目の前で、主の天使が墓の入り口の石をわきへ転がしたと語られています。封印も番兵もそれを妨げることはできませんでした。しかし、天使が石を転がしたので墓の中から主イエスが出て来ることができた、というわけではありません。天使は彼女らに「あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」と告げました。天使が墓を塞いでいた石を転がしたのは、墓が空であることを見せるためだったのです。主イエスはもはや墓の中に葬られてはいない、ということを、天使は明らかにしたのです。それは、主イエスが死んで墓に葬られたという、動かし難い、誤魔化したり否定することはできない苦しみ、悲しみ、絶望の現実を、神がそのみ力によって打ち砕き、そこから主イエスを解放して下さった、ということです。主イエスは確かに葬られて、全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められるという恐れ、苦しみ、悲しみ、絶望をご自分の身に引き受けて下さいました。しかし神は、その苦しみ、悲しみ、絶望を打ち破って、主イエスをそこから解放して、新しい命、永遠の命を生きる者として下さったのです。それは私たちのために成し遂げられた救いのみ業です。独り子なる神である主イエスは、本来永遠に生きておられる方なのであって、死んで葬られることなどないはずの方です。また主イエスは罪のない方であり、父である神と良い関係を持っておられるのですから、死の苦しみ、悲しみ、絶望を味わう必要もないのです。その主イエスが、人間となり、十字架につけられ、死んで葬られたのは、全て私たちのためでした。主イエスは、私たちが受けなければならない死の苦しみ、悲しみ、絶望を引き受けて下さったことによって、私たちに代って罪の償いをして下さったのです。父なる神は、その主イエスを復活させ、墓から解放して下さいました。それによって、私たちにも、主イエス・キリストを信じて、主イエスと結び合わされることによって、墓から解放され、死の苦しみ、悲しみ、絶望から救われる、その道を開いて下さったのです。
 主イエスは死んで墓に葬られました。しかし父なる神が復活を与えて下さったので、主イエスはもはや墓の中にはおられず、永遠の命を生きておられます。そのことを信じる私たちは、自分もいつか必ず死んで墓に葬られるけれども、その苦しみ、悲しみ、絶望が、もはや変わることのない最終的な現実なのではないことを示されています。主イエスを復活させて下さった神が、私たちをも復活させて、永遠の命を生きる者として下さるのです。私たちは神によるこの救いを信じて、その希望に生きることができるのです。

私たちの墓も空になる
 詩編49編は、どんな人でも必ず死んで墓に葬られる、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に彼らが住まう所だと語っていました。また、墓に下った人は永遠に光を見ることはないとも語っていました。それが、罪人である人間の死の現実であり、聖書は、葬りということにおいて、この死の苦しみ、悲しみ、絶望を誤魔化すことなく具体的に見つめています。しかし、神の独り子主イエス・キリストが、私たちのために死んで葬られ、そして復活して下さいました。主イエスの墓は空になったのです。そのことによって、主イエスを信じ、主イエスと結び合わされて生きる私たちにとって、「葬られる」ことの意味は変わったのです。私たちも、全ての人々と同じようにいつか死んで墓に葬られます。しかしその土の底が私たちのとこしえの家なのではもはやありません。死んで墓に葬られる私たちは、永遠に光を見ることがなくなるのでもありません。私たちの墓も、主が定めておられる世の終わりの救いの完成の時には、空になるのです。全てを失って光を見ることのない暗い土の底に閉じ込められるという死の苦しみ、悲しみ、絶望が、神のみ力によって滅ぼされ、主イエスと共に神のもとで永遠の命を生きる喜びが与えられるのです。主イエス・キリストが、十字架にかかって死んで下さり、葬られて下さり、そして復活して下さったことによって、この救いが、死を越える希望が、私たちに与えられたのです。

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