夕礼拝

大いなる光

「大いなる光」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第9章1-5節
・ 新約聖書: ヨハネによる福音書 第1章14-15節
・ 讃美歌 : 231、403

肉となった 
本日はヨハネによる福音書第1章14-15節を通して神様の御言葉に耳を傾けたいと思います。ヨハネによる福音書においては、主イエス・キリストの誕生の物語であるクリスマスの出来事は直接的には記されてはおりません。けれども、本日の箇所はクリスマスの出来事を告げております。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)クリスマスの出来事とはこの一言に尽きると言えるのではないでしょうか。言は肉となった。言が肉となる。言と肉とは全く別々のものであります。全く別々の性質のものが一つにされるということです。一つとなるということです。ここでの「言」とは、世界の造られる前に神様と共にあった、永遠なる神様の言です。先ほどお読みしませんでしたが、ヨハネによる福音書第1章1~4節で繰り返されております「言」です。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、始めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」(1-4節)このように記されている「言」です。この「言」というのは、キリストと言い換えて良いでしょう。初めからあり、神と共にあり、神である言です。全てのものを造った言であり、そこには命があり、光がある言です。神の独り子であるキリストが「言」と言われるのでしょうか。キリストが神様の御心そのものを現しているお方です。この「言」、ロゴスという単語は、単に言葉という意味だけではなくて、理性とか、論理とかいう意味もあります。この世界を造られた神様の御心そのものをロゴスという言葉で表現しています。神様の御心そのものとは、神様の独り子御子イエス・キリストであると告げているのです。その永遠に神と共におられた、神そのものであられたキリスト・キリストこそが言であるということです。ですから、このヨハネによる福音書に記されている出来事こそクリスマスの出来事であると言えるのであります。
そして「肉」とは、永遠の世界にあるものとは全く別のもの、神様の言とは対極に立つものです。永遠なる神様の言がそのような肉になった、肉をとったという驚くべき事実を告げています。このような事は人間の考えが作り出したものではありません。永遠なる神様の言が肉となった。それは神のご決意によるものです。今その光の世界を出られ、御自身の憩いを後にして、この世界へと来られ、肉となって私たちの間に宿られというのであります。
「肉となった。」という時に、この肉という言葉は、この世における「私達人間のあり方」を表しています。私たちは体を持っています。肉体を持って生きています。この体は感覚を持っており、その感覚を通して私たちは暑さや冷たさを覚えます。飢えや渇きを覚え、疲れを覚え、痛みを感じます。私たちはこの肉体が、どんなに弱いものであるか、どんなに脆いものであるか良く知っています。どんなに一生懸命体を鍛えたとしても、肉体の力には限界があります。ちょっとしたことで調子を崩すならば、病になるのであります。私たちは肉の弱さ、脆さを知っております。ここで言う「肉」とはそのようなことであります。このクリスマスを大きな痛みを抱えながら過ごさなければならない方も大勢おられることも私たちが覚えなければならないことであります。弱さを覚えるのは肉体においてばかりではありません。心においても、この肉の弱さという、脆さというものを、私たちは本当に経験をするものです。忙しさによって余裕が無くなり、疲れ、苛立ち、心が擦り切れてしまうことがあります。そのような心においても、私たちはこの肉の弱さを知っているのであります。

肉とは
 これらの「肉」という言葉の意味と同時にヨハネによる福音書において、この「肉」という言葉で示そうとしていることがあります。「肉」なる体、心を持つということ以上のことであります。それは私たち人間が「言」であるイエス・キリストの対極にある罪人であるということです。神様の愛から離れて生きようとしてしまう人間であるということです。神様を神様としないと時、私たちは自分が世界の中心になります。自分を神とし、自分を絶対化してしまいます。本当に神様との出会い経験をしないならば、私たちは気付かない内に自分を絶対化する立場に身を置いてしまうのです。その結果、平気で正しくないことをしたり、表では良い顔をして裏でこっそりと悪いことをしたり、また自分とは異なる他者の意見に理解したり、配慮したりする思いやりをどうしても持つことがなくなってしまうのです。毎日を対立や争いの中で過ごしてしまうのです。許し合えず、憎しみを抱いて人生を送るということになってしまうのであります。このような姿こそ神様なしに生きる人間の罪の姿であります。そして、時に私たちは周囲において取り返しの付かない大きな悲劇を生み出してしまうのです。自分の身の回りにはないかもしれない。けれども人間の罪が作り出すこの現実の社会の悲惨な姿を私たちは見ております。その中を生きております。これが「肉」なる人間の姿であります。そのような人間はまさに神様の良き光、大いなる光を知らずに暗い闇の中で何とか生きているようなものであります。暗い闇とは、この人間の姿、人間の罪の姿を現しているのではないでしょうか。私たち自身がその暗い闇のような人間になってしまう生き方をしているのであります。それが私たちの肉なる姿であります。神様を知らない、罪の姿であります。
ですから、言は肉となったと言うことはとても驚くべきことであります。永遠の光の中に住まわれている神様の御子が、その世界を後にして、この弱さ、脆さ、痛みを抱える私たち、罪の世界に来て下さったということです。神様の御子がこの世に来られ、私たちの肉の持つ問題を取り去り、神様との関係を取り戻して下さる救いの御業を始められたのです。神様は罪の中にある人間のために御子イエス・キリストをこの世に送られたのです。

宿られた
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」(14節)この「宿られた」という言葉は、砂漠で牧畜を営む者たちが、天幕を張って住むという時に使う言葉です。特に天幕を張る、張って、住むという時に使う言葉です。羊の群れを飼う人々は、牧草地や水辺を求めて砂漠を移動しながら生活をしておりました。彼らは砂漠を旅する民であり、天幕を張って住みます。凍てつくような冬の星空の下で天幕を張って住み、また灼熱の炎のような暑さの下でも天幕を張るという生活です。そのような移動の生活をしていきます。そのような民の間に、天幕を張るという意味です。そのような人間の世界に御子が住まわれた、宿られました。人々がこの地上に住むのと同じように、神様が人の間に天幕を張って住まわれたということです。言はわたしたちの間に宿られたとは、言なるキリストがこの地上に住まわれたということです。人生という荒れ野を旅する人々のただ中に御子イエス・キリストが宿られました。神様が共に旅を続けて下さるのです。クリスマスの出来事とはこのようなことです。神様が我々と共におられる方となって下さったのです。神様はイエス・キリストにおいて人生の荒れ野を共に旅して下さる方となったのです。主イエス・キリストはこの私たちの住む世界に来られた、宿られたのであります。私たちは肉なる者であります。罪の現実におり、神様に背き、隣人を傷つけてしまう存在であります。それゆえに人生の荒れ野において適切な道を見出すことができない闇の中を歩む者であります。そのような闇の中を歩む私たちに、進むべき道を示すために、共に歩んで下さる神となるために主イエス・キリストはこの世に来られたのです。暗闇を歩む私たちを照らし出す大いなる光として主イエス・キリストが来られたのです。主イエスがこの世に来られたという事実は光が闇の中で輝き始められたということです。
それは主イエスの誕生の様子においてよく示されております。主イエスの父ヨセフも母マリアもベツレヘムのあらゆる宿屋から締め出されました。小さな居場所さえ与えられなかったのです。そして与えられた場所は寒空の下にある小さな馬小屋でありました。そのような場所は救い主はお生まれになりました。御子がいた場所は馬小屋の飼い葉桶の中であります。その様子を見た最初の証人たちは、その救い主に光を見たのです。最初の証人たちは、そのようにして私たちの間に宿った光を見て、そこに「わたしたちはその栄光を見た。」と語ります。
「わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」とあります。父なる神様は私たちの救い主となるために、主イエス・キリストとしてこの世に来られたのです。私たちの間に宿ったということです。主イエス・キリストは父なる神の独り子として大いなる光としてこの世に来られました。人々は救い主が確かにそこにあることを見たのです。主イエスは贅沢な宮殿でお生まれになったのではなく、ベツレヘムの寒空の馬小屋という場所でお生まれになったのです。それは地上で最も低き場所、人間によって締め出されたお姿です。けれども、そこに私たちは栄光を見出したのです。そのお方こそ、父なる神の独り子であり、恵みと真理とに満ちておられたのです。主イエス・キリストのご生涯は最初から最後まで低きところにおられました。肉なるお姿を取られた。それは肉なる人間、罪人なる人間の罪を贖うためでありました。主イエス・キリストは肉なるお方となられたのです。そして徹して「貧しく」なられたのです。人間を罪から贖う、買い取るために主イエス・キリストは人間の罪の現実、闇の現実に御自身を献げられたのです。御自身を十字架に献げられたのです。それは最も低きにところに神様が降られたということです。この低きに降られた神である、主イエス・キリストこそ十字架と復活の出来事において私たちの栄光となって下さいました。そのお方は恵みと真理とに満ちておられたのです。

愛の満ち溢れる出来事
16節にこのようにあります。「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。」主イエス・キリストがこの世に来られたことは主イエス・キリストの恵みと真理と満ちる豊かさの中から私たちが恵みを受けたということです。主イエス・キリストがこの世に救い主として来られたこと神様の愛の出来事であります。神様は人間のために独り子を遣わした。そしてそのお方は私たちのために御自身を差し出して下さったのです。私たちは、この方の満ち溢れる豊かさの中から、恵みの上に更に恵みを受けたのであります。クリスマスの出来事は神様の恵みが満ち溢れている出来事なのです。その恵みは父なる神様が御子を私たちに与えて下さる、私たちに差し出す愛であります。クリスマスの出来事とは奪うことではなく、差し出す、与える愛の出来事であります。私たちはこれよりこの礼拝堂を後にしてそれぞれの場所へと遣わされます。神様が主イエス・キリストを与えて下さったことを覚えて歩みましょう。

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