主日礼拝

キリストにおいて

「キリストにおいて」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 詩編 第116編1-8節
・ 新約聖書: エフェソの信徒への手紙 第1章1-14節
・ 讃美歌:50、325、511

エフェソでの伝道
 本日より、私が主日礼拝の説教を担当する日は、エフェソの信徒への手紙をご一緒に読み進めて行きたいと思います。この手紙が書かれた当時、エフェソは当時ローマ帝国のアジア州の首都で、港湾都市・商業として栄えておりました。「エフェソの信徒への手紙」はこのエフェソにある、いくつかの教会に宛てて書き送られた手紙です。時間を越え、場所を越え、空間を越えて聖書は私たち一人ひとりに語りかけます。だからこの私たちの教会にも宛てられている手紙であります。この手紙は1節には「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから」とあります。ですので、この手紙は古くから使徒パウロが書いたものであると考えられていました。今日では研究が進み、パウロの影響を受けた別の著者によるものであるとも言われております。けれども、ここでは伝統的な考えに従って、また言いやすいようにパウロの手紙として読んで行きたいと思います。
 この手紙が書き送られたエフェソの町は当時、栄えており、豊かでありました。その理由は、エフェソにアルテミス神殿という壮麗な神殿があったからです。この神殿は丘の麓にあり、女神が祭られており、多産、豊饒の神として、結婚や出産、また若者の守り神として崇められていました。この神殿のおかげでエフェソの町は繁栄をし、経済的にも豊かでした。けれども、他方で悪魔祓いの祈祷師やいかがわしい医者も多く存在しており、町の中では道徳的、性的退廃もいたるところで存在していました。
 このようなエフェソの町に主イエス・キリストの福音を伝えたのが使徒パウロでした。パウロがこの町を訪れたのは紀元56年から58年頃であったと言われており、その時エフェソの町は最盛期を迎えていました。使徒言行録第19章から20章においてその様子が伝えられておりますので、後でご覧になると良いと思います。ただ今は19章20節だけをお読みしますが、そこには伝道が成功した様子が記されています。パウロはエフェソに2年余り滞在しました。パウロにとっては、2年間1つの所に留まったのは珍しいことでしたが、伝道は成功しました。19章20節には「このようにして、主の言葉はますます勢いよく広まり、力を増していった。」と使徒言行録第19章20節に記されております。このことから、エフェソに主イエス・キリストの福音が力強く宣べ伝えられていた様子がうかがえます。

エフェソでの騒動
 全体として伝道は成功しましたが、パウロはエフェソ滞在の終わりの頃にある騒動に巻き込まれました。このことも使徒言行録第19章に記されております。エフェソは神殿によって栄えていました。ある人物がエフェソの町のシンボルとも言えるこのアルテミス神殿の模型を銀で造らせ、それを売って商売をしていました。そのような商売がなされている中で、パウロは主イエス・キリストの福音を宣べ伝えました。その商売をしていた人物たちに対して、パウロは「手で造ったものなどは神ではない」と言いました。商売をしていた者たちはパウロが自分たちの商売を邪魔していると言い出したのです。パウロはそのように言って銀細工職人達を扇動し、行動を起すように気持ちをあおったのです。人々はパウロの同行者であるマケドニア人のガイオとアリスタルコを捕えました。そして、2人を痛めつけようとして劇場に集まり、大混乱に陥りました。パウロは弁明に群衆の中に自ら入っていこうとしました。けれども、弟子たちに止められました。更に知り合いの身分の高いローマの役人にも止められて、それ以上の混乱はいったん回避されることになりました。
 パウロが批判したアルテミス神殿の模型を銀で造らせ、それを売って商売をしていた人物はパウロの言動を問題にしていました。この人物はパウロが「手で造ったものなど神ではない。」(使徒言行録第19章26節)と宣べ伝えていると言っております。パウロが伝えていた信仰の内容をこの人物は、この人なりにはっきりと捉えていました。人が造った神は「偶像」と呼ばれます。どんなに立派に銀で造られたものでも、どんなにご利益があると言われても、それは主なる神ではありません。まことの神ではないのです。人間の願望が投影に過ぎないのです。パウロはそのような偶像が蔓栄している中で、人々に主イエス・キリストの福音を宣べ伝え、伝道をしたのです。その福音は人々にとって新しい教えでした。それまでとは全く違う教えでした。ですので、異質な教えとして受け止められたのでしょう。少し先になりますが、エフェソの信徒への手紙第5章5節にはこうになります。お読みします。「すべてみだらな者、汚れた者、また貪欲な者、つまり、偶像礼拝者は、キリストと神との国を受け継ぐことはできません。このことをよくわきまえなさい。」(エフェソ5章5節)とあります。使徒言行録第19章に記されているパウロが巻き込まれた騒動は、ローマという異教の社会において、使徒パウロ、また教会が宣べ伝えていた主イエス・キリストの福音が、パウロの伝道がいかに人々の考え方や生き方を根底から揺るがしていたかということを意味しております。

挨拶
 パウロが伝えた主イエス・キリストの福音には、人々の生き方や考え方の転換を迫るものが秘められていたのです。エフェソの信徒への手紙はその福音が豊かに語られております。パウロは主イエス・キリストの福音をどのように捉えていたのでしょうか。そのことが本日の箇所において記されています。1節から2節は手紙の挨拶です。ここでは、まずパウロについて記されています。パウロの自己紹介です。パウロは先ず自分が「使徒」であると言います。それも「神の御心による」使徒であると言います。自分の願い、自分の力によるのではなく、神様がそう決められたということです。何故、そうなったのか自分でさえ分からなくても、神がそう定められた、神のご意志がそこにあったということです。そして、続けて手紙の受け取り手について書かれています。「エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。」とあります。この手紙はキリストから遣わされた使徒が、キリストによって救われ、今は信じる者となっている人たちに宛てて書かれたものです。聖書はもちろん、どなたが読んでも良い書物です。むしろ、大勢の方々に読んで頂きたいと思います。その反面、聖書は信仰をもって読みますときに、更に深い意味が示されていきます。この手紙は「キリスト・イエスを信ずる人たち」に書かれています。また、ここで「エフェソにいる聖なる者たち」とあります。「聖なる者たち」とは、神に属する者ということです。神が御自分のものとして下さった者ということです。自分には何の功も功績もないのに、神がただ一方的に私たち一人ひとりを捉えて下さり、救いへと招いて下さったのです。この手紙を与えられたのは、キリストによって救われ、キリストの者となり、キリストに固く結びつけらえている者です。  その後の2節は手紙の書き手であるパウロからエフェソの教会の人々に対しての挨拶そのものです。「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」これは挨拶というよりも、祝福の祈りです。恵みは神が値打ちのない者に、全く自由をお与えになるものです。「平和」は神様との平和、私たち一人ひとりの平和、私たちの人間関係における平和です。その「平和」とはわたしたちの父である神と主イエス・キリストからの平和です。父なる神は、その独り子であるイエス・キリストを私たちが罪から救われるためにこの世に与えて下さいました。その父なる神と救い主イエス・キリストからの平和が私たちにあるようにと、宣べています。この1、2節は挨拶の言葉であり、短いものですが豊かな信仰の内容がすべて込められています。

神、イエス・キリスト、聖霊
 このような最初の挨拶に続いて3節から6節では神様への讃美の言葉が記されています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。」(3-6節)ここも大変豊かな信仰の内容が記されておりますが、まず「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。」とあります。父なる神様への讃美の言葉です。父なる神様は私たちを罪から救って下さった、救い主イエス・キリストの父としての神です。その神への讃美が讃えられています。 また「天のあらゆる霊的な祝福」とあります。この「霊的な」という言葉は「聖霊」と言うことです。神の祝福は、すべて聖霊によって仲介されているということです。この3節は短い文の中に、父なる神、救い主イエス・キリスト、聖霊なる神という三位一体なる神への信仰が明確に示されています。

キリストにあって
 この神による救いについて、先ほどお読みした4節では「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」と私たちの救いは天地が造られる前に決定されていたということが語られています。すべてに先立ってキリストにおいてなされたことが記されています。3節では祝福で満たしてくださったこと、4節では愛してくださったこと、お選びになったこと、5節ではお定めになった下さったことが記されています。これらのことを総括して、このわたしに神は永遠から目を留めて下さり、愛してくださったということです。ここで「天地創造の前に」(4節)にそうなさったと断言をしております。天地創造の前は人間は存在していません。そこには、神しかおられませんので、この言葉は神の御心を押し量って語っているのです。既にその御心において神は私たち一人ひとりに目を留め愛しておられたのです。私たちは神の思いのもっとも深いところに存在していたということです。
 このようなパウロのはっきとした断言はなぜ可能なのでしょうか。それを可能にしているのは私たちが主イエス・キリストへの信仰において救われているという確信によることです。本日の箇所よりも少し先ですが、13節では「あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。」とあります。聖霊で証印を押されたとは、洗礼のことを指しています。今確かに、救われているということです。私たちがそれに値したからというのではありません。人間は、神に対して罪人であり、人に対して愛に乏しい人間であります。私たちは、自分自身がそのことを一番良く知っているのではないでしょうか。それでもなお、神はこの私を愛し、救って下さいました。救いの根拠は人間の側にはなく、神様の一方的な恵みです。私たちの救いのことが神様御自身の思いの中にあったから、としか言いようがないのです。それは、神が「キリストにおいて」私たちを愛しておられるということです。神は御子イエス・キリストを愛し、御子イエス・キリストも父である神を愛されました。この愛の永遠の交わりの中に私たちも入れてくださるということです。父なる神と御子イエス・キリストのこの交わりの中に私たちが既に入れているのです。それが「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して」下さったとことです。

その血によって贖われ
 神は永遠からキリストにおいて私たちを愛し、救いと祝福へと予め定めて下さいました。前もって決められたことは、どのように実現されたのでしょうか。7節から10節です。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。」(7~10節)
 神様から私たちへの愛は変わることがありません。その愛を受けて私たちもまた神を愛するのです。神を愛し、神様との交わりに生きるためには、私たちの罪が清められなければなりません。主イエス・キリストにおいて私たちの罪が清められるということが記されております。人間の罪を神は御子イエス・キリストにおいて、その血によって贖って下さったのです。罪とは、私たちの意識や認識の範囲内にしかないものではありません。私たちは自分が意識せずに、無意識にも罪を犯しています。「わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。贖うとは、買い取られるということです。主イエス・キリストの血、十字架の出来事によって私たちの罪は赦されたのです。罪の支配ではなく、まことの命に生きる者とされたのです。これは、何よりも神の豊かな恵みによるものです。」神はこの豊かな恵みを「わたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。」

神の栄光のために
 私たちは主イエス・キリストによる救いという「秘められた計画」即ち「神の救いのご計画」を知ることを赦されました。その計画の目的は「以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。」(12~14節)本日の箇所は、神が天地を造られるその前から、つまり永遠から私たちを選び愛しておられるということを力強く語っています。また、主イエス・キリストによって罪を赦された私たちが何のために生きているのか語ります。神は私たちを永遠から選ばれ、愛して下さっています。その目的も繰り返し語っております。

礼拝者とされて
 宗教改革者カルヴァンの「ジュネーブ教会信仰問答」の問2にそのことが示されています。「ジュネーブ教会信仰問答」は改革派・長老派の教会の伝統に生きる私共にとっては、大切な信仰の遺産です。この問一は、「人生の主な目的は何ですか。」と尋ね、「神を知ることです。」と答えます。問三で、「人生の最上の幸福は何ですか。」と問うて、「それも同じです。」つまり「神を知ることです。」と答えるのです。この「神を知る」というのは、神様がいるとかいないとか、そんなことを知ることではなくて、神様をほめたたえる、そういうあり方で知るということです。私共は、神様をほめたたえるというあり方で神様を知る、その為に神様に造られた、だからそれが私共の人生の目的となり、最高の幸せとなるのであります。神の栄光を表わすことこそが人間の創造された目的であるのです。言い換えますと私たちの人生の目的は「神の栄光を讃える」ことです。神が与えて下さった、私たちの人生の目的です。私たちが主イエス・キリストの救いの出来事を聞き、信じ、「約束された聖霊で証印を押され」即ち、洗礼を受け教会に加えられるということです。私たちが神の栄光を讃える者となるためです。このことが主イエス・キリストにあって選ばれ、愛された私たちの生活の目標であります。神の栄光を表すにしても、讃えるとはどのようなことでしょうか。神様がひとり一人に対してお決めになることです。ひとり一人に与えられた賜物はその目的のために用いるのです。神様は御自分の栄光を表すために私たち一人ひとりを用いて下さるのです。私たちは祈りにおいて、神様の栄光が表されますようにと祈ります。私たち一人ひとりの人生は神の栄光のためにあるのです。  私たちはこの神を畏れつつ、その神様のとの交わりの中に生きます。神との交わりは祈りであり、隣人との交わりでしょう。色々な形を通して私たちは神様と出会います。そして、その頂点は、その原点ともいえるのは神様への礼拝であります。礼拝こそこの神様との交わりが最も深められるところです。この世に教会が存在する意味はこのことです。礼拝に生き、神に一切を期待して、信頼をして従うということです。
 私たちはこの神様を一度知れば良いと言うことではありません。繰り返し、繰り返し神との交わりによって、関係を深めるのです。私たち一人ひとりが、また教会が、その伝道の歩みの中で、本当に神様を中心とする生活をしているかどうか、そのことを喜びとしているかどうか、いつも問い直していくことが大切です。神様の交わり、神様への礼拝を中心とする生活を求め、それを確立していくことが大切であります。そのような、私たちの歩みを妨げる力、誘惑する世の力は絶えず働いております。私たちは聖霊の助けと導きによって、そのような声と闘うことも求められています。私たち一人ひとりが神に選ばれ、愛された者として、キリスト者として、また教会として、神の栄光のために、また栄光が表されますようにと祈りつつ、与えられた場所において、主のみ前に共に前進していきたいと思います。

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