主日礼拝

道、真理、命であるキリスト

「道、真理、命であるキリスト」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第30章18-21節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第14章1-11節
・ 讃美歌:

心を騒がせられている私たち
 ヨハネよる福音書第14章の冒頭に「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」という主イエス・キリストのお言葉があります。これは主イエスがまさに今私たちに語りかけて下さっているみ言葉でもあるのではないでしょうか。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。私たちは今、否応なしに心を騒がせられています。平穏でいることが難しくなっています。新型コロナウイルスが私たちの生活に影響を及ぼすようになってもう半年が過ぎようとしていますが、なお終熄の見通しは立っていません。今はなんとか感染拡大が抑えられているようですが、秋から冬にかけてまたどうなるか心配です。ワクチンもいつ完成するのかまだ分かりません。社会全体がこのウイルスへの対処の仕方にだんだん慣れてきたという面もありますが、病気をかかえている方や高齢の方々にとっての不安は当分なくなりません。何をするにしても、おっかなびっくり、不安の中で手探りの状態です。仕事においても学校においても、いろいろなことが変わってしまっています。ウイズコロナあるいはアフターコロナの新しい生活はどのようなものになるのか、分からない中で心穏やかではいられない日々です。教会においても、三回に分かれての礼拝が三ヶ月目に入ろうとしています。聖餐にもあずかれておらず、讃美歌も歌えず、違う時間の礼拝に出席している人とは顔を合わせることもできず、皆とゆっくりお話をすることもできません。来週からは教会学校の礼拝が五ヶ月ぶりに再開されます。それは喜ばしいことですが、時間も内容も以前と同じというわけにはいきません。またそのためにこの主日礼拝の時間を変更しなければなりませんでした。礼拝の時間がこのように変わるというのは本当に落ち着かないことです。しかし今は出来る範囲内で最善を尽くしていくしかない時ですから、共に忍耐していきたいと思います。しかしこれらのことによって私たちの心が騒ぎ、平安を失い、不平不満が募ってしまっていることは確かです。その私たちに主イエスは今、「心を騒がせるな」と語りかけておられるのです。
 主イエスはそのために「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と言っておられます。私たちは、心を騒がせないようにしよう、と思うことによって自分で自分の心を静め、平安を得ることはできません。神さまを信じ、主イエス・キリストを信じることによってこそ、心を騒がせずに生きることができるのです。つまり自分の心に不安や恐れを引き起こしている事柄ばかりを見つめ、それに対する対策をいろいろ考えても、それで心を落ち着かせ静かにすることはできないのです。心を騒がせていることからはむしろ目を離して、神さまに目を向け、主イエス・キリストを見つめることによってこそ、私たちの心は静まっていくのです。神さまはそのために、ご自分の独り子である主イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。主イエスこそ、私たちの心を静かにして下さる方なのです。

心を騒がせて下さった主イエス
 その主イエスご自身は、心を騒がせつつこの世を歩まれました。「心を騒がせる」という言葉はこれまで二回出て来ましたが、いずれにおいても心を騒がせているのは主イエスです。最初は11章33節です。ラザロの墓の前でその姉妹マリアやユダヤ人たちがその死を悲しんで泣いているのを見た主イエスが、「心に憤りを覚え、興奮して」と語られています。その「興奮して」が「騒がせる」という言葉です。愛する兄弟ラザロの死の悲しみによってマリアは心を騒がせられ、泣いています。そのマリアの悲しみを見て、主イエスご自身が心を騒がせたのです。35節には「イエスは涙を流された」ともあります。愛する者の死によって平安を失い、涙を流している人間の悲しみに主イエスは心から同情し、ご自分も心を騒がせ、涙を流されたのです。主イエスのこの深い憐れみによって、ラザロの復活の奇跡が行われていったのです。
 もう一つの箇所は12章27節です。そこには「今、わたしは心騒ぐ」という主イエスのお言葉がありました。その「今」とはどのような時でしょうか。少し前の12章23節には「人の子が栄光を受ける時が来た」とあります。人の子つまり一人の人間として歩んで来られた主イエスが、神の子としての栄光をお受けになる時がいよいよ来たのです。そのことはどのようにして実現するのか。次の24節には「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と言われています。死ぬことによってこそ豊かな実を結ぶことができる。つまり主イエスは十字架にかかって死ぬことによって、神の子としての栄光をお受けになるのです。主イエスは私たちの罪を全てご自分の身に背負い、十字架の死によって罪の赦しを実現して下さいます。父なる神はその主イエスを復活させ、死に勝利する永遠の命を与えて下さいます。十字架の死と復活によって神の子としての栄光を受ける、その時がいよいよ来たことを意識して主イエスは、「今、わたしは心騒ぐ」と言われたのです。十字架の死を前にして主イエスも不安を覚え、心を騒がせておられるのだろうか、と私たちは思います。しかし主イエスは、十字架にかかって死ぬことによって罪人である人間を救うために、父なる神が自分をこの世にお遣わしになったのだということをはっきりと意識しておられ、その父のみ心に従われたのです。それは主イエスご自身が、ラザロの墓の前で心騒がせ、涙を流されたように、罪と死の力に支配されている私たち人間のことを深く憐れみ、心を騒がせ、涙を流すほどに愛して下さっているからです。つまり主イエスが心を騒がせておられるのは、ご自分のためではなくて、私たちのためなのです。主イエスが父なる神のみ心に従って歩み、私たちのために心を騒がせ、涙を流し、十字架にかかって死んで下さったことによって、父なる神と独り子主イエスによる救いが実現しました。私たちのために心を騒がせつつ十字架の死へと歩んで下さった主イエスを信じることによって、私たちは心を騒がされずに生きることができるのです。

私たちのための場所を用意して下さっている主イエス
 父なる神と独り子主イエスによる救いを信じるとは、具体的にはどのようなことなのでしょうか。2、3節にこうあります。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所にあなたがたもいることになる」。これが、父なる神と独り子主イエスによる救いです。主イエスは今、この世から父なる神のもとへ行こうとしておられます。そのことは13章1節にも、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り」と語られていました。十字架の死と復活によって主イエスはこの世から父なる神のもとへと移ろうとしておられるのです。そのことによって、この世を生きている弟子たちは、そして私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできなくなります。しかしそれは、あなたがたのために場所を用意するためなのだ、と主イエスは言っておられます。主イエスがこの世を去って父なる神のもとに行かれるのは、父の家、父なる神のもとに私たちのための場所を用意して下さるためなのです。私たちは今も申しましたように、この地上において、主イエスのお姿をこの目で見ることができません。神の独り子である主イエスが私たちの救い主であり、聖霊のお働きによっていつも共にいて下さるのだと言われても、そのことは目には見えず、はっきりと感じることができません。主イエスなんて本当におられるのだろうか、昔そういう人がこの世を生きていたことは確かだとしても、今も生きて私たちの救い主であられるなどということは本当にあるのだろうか、と思うのです。このお言葉はそのような私たちに、あなたがたは今この地上において主イエスを見ることができないが、主イエスは父なる神のもとで今、あなたがたのための場所を用意して下さっているのだ、そこにあなたがたの希望があるのだ、ということを示しているのです。ですから、様々なつらいこと、悲しいことによって心が騒ぎ、主イエスは共にいて下さらないのではないか、自分から離れ去ってしまわれたのではないか、と思うようなことがあっても、決して失望することはないのです。神を信じ、主イエスをも信じることによって私たちは、将来の救いの約束を信じて生きることができるのです。

将来に約束されている救い
 その将来の救いとは、主イエスが私たちを父なる神の家へと迎えて下さり、主イエスのおられる所に私たちもいるようにして下さる、ということです。それは私たちが父なる神のもとで、主イエスと共にいる者となるということ、父なる神が主イエスに与えて下さった復活と永遠の命を私たちも与えられ、私たちも永遠の命を生きる者となるということです。主イエスは今、父なる神のもとで、私たちをその救いにあずからせるための準備をして下さっているのです。将来に約束されているこの救いを信じるなら、私たちは、この世の歩みにおいて苦しみや悲しみがあっても、それによって決定的に心を騒がせられてしまうことなく、父なる神と主イエスに信頼して生きることができるのです。

主イエスが戻って来る
 この将来の救いはどのようにして実現するのでしょうか。「あなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」と主イエスは言っておられます。父なる神のもとに行かれた主イエスが、戻って来られるのです。戻って来て、私たちをご自分のもとに迎えて下さるのです。主イエスが戻って来られることによって救いは実現する。それは、この世の終わりに主イエスがもう一度来られること、いわゆる「再臨」を指しています。主イエス・キリストは、十字架にかかって死に、三日目に復活し、そして四十日目に天に昇り、今は全能の父なる神の右の座に着いておられます。でもそれで終わりではありません。将来そこからもう一度来て下さるのです。そして私たちをご自分のもとに迎えて下さり、主イエスと共にいる者として下さるのです。私たちにも復活と永遠の命を与えて下さるのです。それによって私たちの救いは完成するのです。それは同時に神の国の完成でもあり、この世の終わりでもあります。罪と死の力が支配しており、苦しみ悲しみによって心を騒がせられずにはおれないこの世は、主イエスが戻って来られ、神の国つまり神のご支配が完成することによって終わり、私たちは罪と死の力から解放されて、もはや死に支配されることのない永遠の命を、主イエスと共に生きる者とされるのです。

主イエスからの語りかけ
 主イエスが戻って来られることによって与えられるこの将来の救いは、主イエスが十字架の死と復活によってこの世を去って父のもとに行くからこそ実現します。今まさにそのことが目前に迫っているのです。この14章は、主イエスがいわゆる「最後の晩餐」において弟子たちにお語りになったみ言葉です。この後主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられるのです。そして三日目に復活し、天に昇り、父なる神のもとに行かれるのです。そのようにして今主イエスは弟子たちの目の前から去って行こうとしています。それによって弟子たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができなくなります。主イエスが今も生きてみ業を行っておられるのかどうかよく分からない中を生きていくことになるのです。その弟子たちのために主イエスはこの最後の晩餐において、私は去っていくが、あなたがたのための場所を用意しに行くのだ、用意が出来たら戻ってきてあなたがたを私のもとに迎える、という将来の救いの約束をお語りになったのです。
 新型コロナウイルスの脅威の下で今まさに私たちも、恐れや不安を覚えています。主イエスは本当におられるのか、主イエスの父なる神は本当に救いを与えて下さるのか、という疑いが私たちの心を騒がせているのです。その私たちに、主イエスは今日このみ言葉を語りかけて下さっています。「わたしは今、父なる神のもとで、あなたがたのための場所を用意している。そして用意が整ったら、あなたがたのところに戻って来て、あなたがたを私のもとに迎える。あなたがたは将来、私のもとで、私と共に、永遠の命を生きる者となるのだ。その時には、今あなたがたを支配している罪と死の力は滅ぼされ、苦しみや悲しみは取り去られる。だから心を騒がせずに、私と、私を遣わされた父なる神を信じて待っていなさい」。

「分からない」
 この語りかけに続いて4節で主イエスは「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」とおっしゃいました。このみ言葉は5節のトマスの言葉を引き出しています。トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言いました。主イエスから先程の語りかけを受けた私たちの心にも、このような思いが起って来るのではないでしょうか。主イエスが父なる神のもとへ行って私たちのための場所を用意して下さると言うけれども、それはいったいどういうことなのか、父なる神のもとってどこなのか、場所を用意するってどういうことなのか、分らない、主イエスに従っていく信仰において私たちも主イエスの道を歩むことが求められているのだろうけれども、それはどんな道で、どのように歩んでいったらよいのか分からない、要するにトマスは「あれもこれも分らない」と言っているのです。私たちもそう感じているのではないでしょうか。主イエス・キリストを信じて従っていくことが信仰だと教えられるけれども、その信仰とは具体的にどういうことなのか分からない、信仰者として生きるとはどういうことなのか分からない、信仰のことは分からないことだらけだ、と私たちも感じています。トマスはそういう私たちの代表なのです。

道、真理、命であるキリスト
 そのトマスに主イエスは「わたしは道であり、真理であり、命である」とおっしゃいました。それが私たちに対する答えでもあります。トマスは、「道が分からない」と言いました。主イエスがどこへ行かれるのか、また自分たちがどこをどのように歩めばよいのかが分からない、と言ったのです。私たちも同じように、信仰において、どこをどう歩めばよいのかが分からない、もっと具体的に、ここをこのように歩めと教えてほしい、と思います。しかし主イエスはそれに対して、「わたしは道であり、真理であり、命である」とお答えになります。それはつまり、どの道をどのように歩むかではなくて、主イエスのもとに留まることこそが大事なのだ、ということです。主イエスこそが道なのです。それは、主イエスの生き方を私たちも見倣って同じような道を歩もう、ということではありません。主イエスの歩んだ道を歩めと言われているのではなくて、主イエスこそが道なのです。主イエスのもとに留まり、主イエスによって救われ、生かされ、導かれるところに、私たちの歩むべき道が示されていくのです。それは主イエスこそ真理であるからです。その真理とは、神の愛の真理です。神がその独り子をお与えになったほどに私たちを愛して下さっている、という真理です。主イエスのもとに留まることによってこそ、私たちはその神の愛の真理を知り、それによって生かされるのです。それゆえに主イエスこそ命でもあります。主イエスのもとでこそ、私たちは神の愛によって新しく生かされるのです。主イエスの十字架と復活による救いにあずかり、罪を赦され、死の支配から解放されて、新しい命を生きることができるのです。私たちは、自分はどう生きるか、どのような道をどのように歩むか、といくら考えても迷うばかりです。「わからない」のです。特に今のように、目に見えないウイルスの脅威にさらされ、この先どうなっていくのか見当がつかないような事態の中ではなおさら「わからない」ことばかりです。しかし私たちは、道であり、真理であり、命である主イエスのもとにいます。主イエスを遣わして下さった父なる神の愛の下にいます。主イエスのもとにいるからこそ父なる神のもとにいるのです。神の独り子であられる主イエスを通してこそ、私たちは父なる神を知ることができるし、父の愛を受けることができるのです。父の家に主イエスが用意して下さっている将来の救いの約束を待ち望むことができるのです。ご自身が道であり、真理であり、命である主イエスのもとに留まることによって私たちは、主イエスの父である神が、私たちの父ともなって下さり、私たちを子として愛して下さっていることを信じて生きることができるのです。そこにおいては、自分の道を自分で見極めようとして結局迷ってしまい、道が分からなくなってしまうようなことはなくなります。イザヤ書30章21節にあるように、背後から語りかける「これが行くべき道だ、ここを歩け。右に行け、左に行け」というみ言葉を聞きつつ生きることができるのです。私たちは、自分の歩む道を先まで見通すことはできません。これからどうなるのかをはっきり見定めることもできません。しかし道であり、真理であり、命である主イエス・キリストのもとにいるなら、その主イエスが私たちをその都度導いて下さるのです。だから私たちは、心を騒がされることの多いこの世を、いろいろ迷いながらも、しかし主が用意して下さっている救いの完成に向かって、希望をもって歩んでいくことができるのです。

関連記事

TOP