主日礼拝

響き渡るみ言葉

「響き渡るみ言葉」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第19篇1節-11節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第1章 4節-8節

響き渡るみ言葉
 9月の初めにこの教会に着任してから、私が主日礼拝の説教をする時には、テサロニケの信徒への手紙一を連続して読み、み言葉に聞いています。これまでにもお話ししましたように、テサロニケの教会は、生まれたばかりの小さな群れでした。小さなと申しましたが、何人ぐらいの人々が共に礼拝をしていたのか、はっきりしたことはわかりません。最初の教会には勿論教会堂などはありません。個人の家に集まって礼拝をしていたのです。何軒かの家に分れてしていたのかもしれません。その総数はどれくらいだったのか、わかりません。小さなと言ってもひょっとしたら横浜指路教会と同じぐらいの人たちが既に信者になっていたのかもしれません。しかしいずれにしても誕生してまだ数カ月の、いろいろな面で整わない教会です。そして、この教会の土台を据えた伝道者パウロたちは、反対者らによる騒動のために心ならずもこの町を去らなければなりませんでした。彼らに福音を宣べ伝えた伝道者たちも今はいない、言ってみれば牧師がいない、無牧の教会です。そういう、大きな困難をかかえた、弱さだらけの群れがテサロニケ教会だったのです。けれどもパウロは8節でこの教会についてこう言っています。「主の言葉があなたがたのところから出て、マケドニア州やアカイア州に響き渡ったばかりでなく、神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」。主の言葉が、この教会から、マケドニア州やアカイア州に響き渡っている。マケドニア州は今日のギリシャの北部で、テサロニケがその州都です。アカイア州というのは、アテネ、コリントを中心とするギリシャ南部です。今パウロはそのコリントに滞在しており、そこからこの手紙を書き送っています。ギリシャ地方全域に、テサロニケ教会から、主の言葉が響き渡っている。テサロニケ教会は、主の言葉の力強い発信地になっているのです。生まれたばかりの、伝道者パウロももういない、そういう弱さと困難をかかえた群れが、主の言葉が広く宣べ伝えられていくための力強い働きをなしている、伝道の拠点となっているのです。

み言葉の発信地
 主の言葉の発信地と申しました。今日は、そういうことを可能にする様々なメディアがあります。私のいた富山県の西部に小矢部という町があり、そこに、石が動くと書いて「いするぎ」と読む、石動教会という小さな教会があります。その教会の現在の牧師の、マタイによる福音書についてのお話しが、今、FEBC(キリスト教放送局)の番組として流れています。その放送が始まった時に、その教会の役員さんが言ったことを私は印象深く覚えています。「私たちの教会は小さな教会で、外に向かって何かをすることなどできないと今まで思ってきたけれども、この放送によって、日本全国に、み言葉を発信することができるようになって、本当に嬉しい」と言われたのです。教会は、自分たちの間でみ言葉を聞いて、慰められ支えられているだけ、言ってみればみ言葉を消費しているだけでは、本当に喜びに満たされることはないのです。み言葉を外に向かって発信していくことにこそ、教会としての喜びがあるのです。そのために今大変便利な手段はインターネットです。私の前任地の富山鹿島町教会のホームページには、私の毎週の主日礼拝説教の完全原稿が何年か分全部載っています。それは全世界どこででも、いつでもすぐに読むことができるのです。それを丹念に読んでいる人がけっこういます。皆さんの中にもそういう方がおられると聞いていますし、全く知らない遠くの教会の人から時々、「説教を読みました」というメールをもらうことがあります。「先生の説教をプリントアウトして集会で配りました」とよその教会の牧師に言われたこともあります。今はそのように、教会の枠を越えて、説教が、み言葉が発信されていく時代なのです。けれどもこれらのことは皆、牧師の説教やお話しが放送されたり読まれたりということです。そういうことは、特に今は比較的簡単なのです。しかしテサロニケ教会がみ言葉の発信地になったのは、パウロ先生の言葉がこの教会からあちこちに発信された、ということではありません。パウロはもういないのです。それでも、残された信徒、教会員たちから、主の言葉が出て、響き渡ったのです。それは、8節の後半の、「神に対するあなたがたの信仰が至るところで伝えられているので、何も付け加えて言う必要はないほどです」ということによってでしょう。テサロニケ教会の人々の、神様に対する信仰の様子が至るところで伝えられているのです。彼らが主なる神様とその独り子イエス・キリストを信じて生きている、その生活の姿が伝えられているのです。彼らの信仰生活は、6節に「あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」とあるように、何の苦しみもない平穏無事な生活であるどころか、ひどい苦しみの中にあったのです。伝道者パウロがテサロニケに留まることができなくなるほどの反対があり、この信仰に敵対する者たちが沢山いたのです。その苦しみの中で、しかし彼らは「聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ」、信仰に生きる喜びを証ししたのです。その教会員たちの生活そのものが、主の言葉を発信していきました。彼らの、主イエスを信じて喜びに生きる有り様によって、主の言葉がギリシャ全土に響き渡ったのです。主のみ言葉が本当の意味で響き渡っていくのは、放送やホームページによってではなく、このようなことを通してなのだと思います。

模範的な信仰
 この8節を読むと私たちは、テサロニケの教会はすごいな、と思います。彼らの信仰生活によって、主の言葉がその地方全体に響き渡っていく、そんな信仰に生きている者たちの群れがここにある。私たちにはとても真似できないことだ、と思います。7節には「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至ったのです」ともあります。テサロニケ教会の人々の信仰は、みんなの模範となるような、模範的な信仰だと言われているのです。そうなるとますます、そんな模範的な信仰など、とても私たちは持つことができない、テサロニケ教会は特別な教会なのだ、と思ってしまうのです。けれども先程も申しましたように、テサロニケ教会は、きちんと整った、完璧な欠けのない教会などではありません。誕生してまだ数カ月の、伝道者も今はいない、小さな群れなのです。ひょっとして横浜指路教会と同じぐらいの規模があったのかもしれないけれども、おそらくはもっと少数の群れだったのだろうと思います。129年の伝統を持ち、牧師と伝道師がおり、隠退されたベテランを含めた何人かの教師が出席しておられ、長老、執事が立てられており、主事さんまでおられるという横浜指路教会とは比べものにならないような弱い貧しい群れだったのです。こんなことを申しますのは、指路教会はもっとしっかりしなければだめだ、と皆さんのお尻をたたくためではありません。どんなに叱咤激励されても、それでこのテサロニケ教会のようになることができるわけではないでしょう。テサロニケ教会の人々がこのように主の言葉の力強い発信地となることができたのは、彼らが頑張ったから、熱心に努力したからではないのです。私たちは本日のこの箇所から、テサロニケの人々がなぜ、どのようにして、すべての信者の模範となるような、主の言葉が彼らから響き渡っていくような教会を形作ることができたのか、ということを正しく読み取っていかなければなりません。そしてそれを正しく読み取るならば、テサロニケ教会に起ったことは決して特別な、私たちと無関係なことではなく、私たちにおいても起る、私たちにも与えられる恵みなのだということを知ることができるでしょう。

神に愛され、選ばれている
 そこで4節に戻ります。「神に愛されている兄弟たち、あなたがたが神から選ばれたことを、わたしたちは知っています」とあります。前回、先々週の礼拝において、この4節までを読みました。その時は、テサロニケの人々が、3節にあるように、信仰によって働き、愛のために労苦し、主イエス・キリストに対する希望を持って忍耐していることをパウロが感謝していることを見つめました。そして彼らがそのような信仰と愛と希望に生きることができるのは、4節にあるように、神に愛され、選ばれているからだ、という流れでお話ししたのです。4節はそのように3節とつながっています。しかし同時に4節は次の5節ともつながっているのです。原文においては5節の冒頭に、「なぜなら」という言葉があります。「なぜなら、わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによったからです」というのが5節です。つまり5節は、4節の、あなたがたは神に愛され、選ばれている、ということの理由、根拠を語っているのです。「あなたがたがなぜ選ばれたか」という理由ではなくて、「あなたがたが選ばれていることが何によってわかるか」という理由です。
福音が伝えられた
 その理由とは、「わたしたちの福音があなたがたに伝えられたのは、ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによった」ということです。テサロニケの人々に福音が伝えられた時のことが見つめられています。ここで注意しなければならないのは、「わたしたちが福音をあなたがたに伝えたのは」とは言われていないことです。福音の伝道は、パウロたちが伝えたと言うよりも、「あなたがたに伝えられた」と受け身の形で言い表されているのです。「伝えられた」と訳されている言葉は、直訳すると「起った、出来事となった」という意味です。「福音があなたがたの間で出来事となったのは」、と訳してもよいのです。つまりそこで見つめられているのは、パウロたちが何をした、ということではありません。神様ご自身が、テサロニケの人々に福音を伝え、み言葉の出来事を彼らの間で起して下さったのです。伝道者の働きではなく、神様ご自身のみ業が見つめられているということに、まずしっかりと目を向けなければなりません。そしてその神様のみ業が、「ただ言葉だけによらず、力と、聖霊と、強い確信とによって」なされた。パウロはそこに、テサロニケの人々が神様に愛され、選ばれていることのしるしを見ているのです。

力と聖霊
 「ただ言葉だけによらず」というと、私たちはすぐに、言葉だけで福音を語ってもだめだ、行動、行いが伴わなければ何にもならない、という意味だと思ってしまいます。しかしここで言われているのはそういうこととは違います。見つめられているのは今申しましたように、伝道者の業ではなくて、神様のみ業なのです。神様は、言葉だけではなく行動をもって、ではなくて、「力と聖霊と強い確信」をもって福音の出来事を起して下さったのです。福音を告げる言葉は、伝道者たちによって語られます。その言葉が語られる時に、そこに、神様ご自身が、力と聖霊をもって働いて下さる、それによって、み言葉は私たちの間で出来事となるのです。出来事となるとは、私たちがみ言葉を本当に悟り、それによって自らの罪を示され、またその赦しの恵みを与えられ、慰められ、喜びを与えられるということです。み言葉を語る説教において起ることは、単なる情報の伝達ではありません。説教は、聖書の教えを語る言葉です。しかしそれがどんなに正確に、正しく教えを語っていたとしても、それだけで福音の出来事がそこに起るわけではないのです。聖霊なる神がそこで力をもって働いて下さり、私たちの心を動かし、出来事を起して下さらなければ、それはただ「言葉だけ」のことになってしまうのです。

聖霊が力をもって働く
 このことの一つの実例を、ヨハネによる福音書第8章の、姦通の場で捕えられた女性が連れて来られ、律法に従って彼女を石で打ち殺すべきか、と問われた時の主イエスのお答えに見ることができると思います。主イエスはあそこで、「あなたがたの中で罪のない人が先ず石を投げなさい」と言われました。するといきり立っていた人々は皆去っていってしまったのです。この話を私たちは、なるほど主イエスはうまいことを言われたものだ、というふうに読んではなりません。もしも私たちがその場にいて、同じことを言っても、こういう結果には決してならなかったでしょう。なぜなら主イエスのこのお言葉に対して、反論はいくらでもできるからです。「しかし罪を犯した者を律法に従って裁かなければこの社会は無法状態になるではないか」とか、「自分も確かに罪を犯してはいるが、それはこの女のした姦淫の罪などとは比べものにならないくらい小さい」とか、何でも言えるのです。あそこで人々が黙って立ち去ったのは、なるほど主イエスの言葉は正しいと納得したからではありません。主イエスの言葉の、言わば迫力に圧倒されたからです。その迫力とは、主イエスご自身が本当に何の罪もない方であられ、その方が、この女の姦淫の罪をも含め、全ての人々の罪を背負って十字架にかかって死のうとしておられる、そのようにして罪人に赦しを与えようとしておられる、その迫力です。それに圧倒されて人々は、自分の主張している理屈を越えた世界があることを、そしてそちらの方が本物だということを感じ取ったのです。聖霊が力をもって働くとは、そういうことが私たちの心に起ることです。聖書の語る福音に対しても、それを説き明かす説教に対しても、私たちはいろいろと理屈を言うことはできます。あらを捜して反論しようと思えばできます。けれどもそういうことを越えて、やはりこれが本当だ、ここにこそ自分を本当に生かす神の言葉がある、このみ言葉によって生きていきたい、という思いが起されていく、それが、聖霊が力をもって働いて下さることによって起る出来事なのです。そしてそういう出来事が起る時、私たちは、自分が神様に愛され、選ばれていることを知るのです。

強い確信
 「力と聖霊と、強い確信とによった」とパウロは言っています。「強い確信」、これは、福音のみ言葉を語ったパウロたち伝道者が、強い確信をもってそれを語ったということです。そのことも、聖霊が力をもって働いて下さったことによることです。伝道者が福音のみ言葉を語る、それは、学んで得た知識を右から左へ伝達する、というようなことではありません。説教が、「ただ言葉だけ」のものではなく、力あるみ言葉の説教になるためには、語る者の中にこの強い確信がなければなりません。それがなくて、ただ本で勉強したことを語っているだけの説教というのは、まことにつまらない、退屈なものになります。これは教会学校の説教においても言えることです。み言葉は強い確信をもって語られる時に、迫力あるものとなるのです。そしてその強い確信は、聖霊のお働きの中でこそ与えられます。それは努力して得るものと言うよりも、祈り求めていくべきものなのです。

伝道者のあり方
 この「強い確信」ということにおいて注目すべき大事な点は、パウロがここで基本的には、神様のみ業、聖霊が力をもって働いて下さり、福音の出来事を起して下さることを見つめているのだけれども、その中で、伝道者の強い確信ということをとりあげている、ということです。つまり福音の出来事は神様のみ業によって起るけれども、そこにおいて、伝道者のあり方、伝道者がどのようにみ言葉を語るかということは無関係ではないのです。そのことが、5節後半の、「わたしたちがあなたがたのところで、どのようにあなたがたのために働いたかは、御承知のとおりです」ということにつながっていきます。パウロ、シルワノ、テモテといった伝道者たちが、テサロニケで、どのように歩んだか、どのようにふるまい、み言葉を語ったか、そのことは2章に語られていきますが、テサロニケの人々が信仰を与えられ、それによって生きる者となったのは、その伝道者たちの姿と無関係ではないのです。福音の出来事を起して下さるのは主なる神様であり、聖霊のお働きですが、そこにおいて、伝道者のあり方が大切な意味を与えられている、このことは伝道者が心していなければならないことです。

み言葉を受け入れる
 同じことは信仰者一人一人においても言えます。それを語っているのが6節です。「そして、あなたがたはひどい苦しみの中で、聖霊による喜びをもって御言葉を受け入れ、わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり」。福音の出来事が神様によって、聖霊の働きのもとで私たちに起る。それはただ待っていればいつか起るというものではありません。「御言葉を受け入れる」ということがなければそれは起らないのです。それは私たち一人一人に求められていることです。伝道者がその生き方を問われ、強い確信をもってみ言葉を語ることを求められているように、み言葉を聞く者たちも、それを受け入れるという決断を求められているのです。それによってこそ、福音の出来事が私たちの内に起るのです。しかもそれは、いつか環境が整ったら、というものではありません。テサロニケの人々は、「ひどい苦しみの中で」み言葉を受け入れたのです。み言葉を受け入れるのによい環境などというものはありません。み言葉を受け入れるべき時とは、いつか、ではなく、常に今この時なのです。しかしそれは苦しみの中で、悲壮な決意をして、ということではありません。「聖霊による喜びをもって」です。み言葉を受け入れ、主イエス・キリストの福音を信じることは、喜びです。ひどい苦しみの中にあっても、み言葉には喜びがあり、その喜びによって苦しみに耐え、打ち勝って行く力が与えられるのです。私たちはそういう喜びをもってみ言葉を受け入れます。その喜びは聖霊による喜びです。「喜ばなければならない」という義務感で喜ぶのではありません。聖霊の働きによって、み言葉を喜ぶ思いを与えられる、その時が、み言葉を受け入れるための今この時なのだと言えるでしょう。

主に倣う者
 そして、み言葉を受け入れるとは、「わたしたちに倣う者、そして主に倣う者とな」ることです。伝道者に倣う者となる、それは主に倣う者となることです。つまり伝道者も、主イエス・キリストに倣う者として生きているのです。それが主の弟子となることであり、信仰者は全て主の弟子です。聖霊の力強いお働きによって、私たちが、み言葉を喜びをもって受け入れ、主イエス・キリストの福音が私たちの内で出来事となる時に、私たちは、主イエス・キリストの弟子、主イエスに倣う者となるのです。それによって、主イエスの愛と恵みが私たちを生かし、私たちをその愛と恵みの器として造り変えていって下さるのです。テサロニケの人々は、そのように主イエスの愛と恵みによって造り変えられていきました。そのことによって彼らは、「マケドニア州とアカイア州にいるすべての信者の模範となるに至った」のです。「模範」と訳されている言葉は、英語の「タイプ」という言葉のもとになったもので、「形、ひな型」という意味です。それは、ものすごく立派だから模範的だ、というのではなくて、主イエス・キリストの愛と恵みがそこに形をなしている、主イエスの福音の出来事が彼らの内に起っており、その福音によって生かされている者の姿がそこにある、ということなのです。それは、彼らテサロニケの教会のみの特別なことではありません。私たちも、同じ恵みに生かされているのです。私たちも、福音のみ言葉を聞き、そこに聖霊が力をもって働いて下さって、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと永遠の生命の約束を信じる者とされることを体験します。私たちの礼拝においても、み言葉が、強い確信によって語られ、私たちの思いや理屈を打ち破って心が揺り動かされることが起るのです。そして私たちも、苦しみの中にあっても、聖霊による喜びをもってみ言葉を受け入れたいという願いを与えられます。そして、主イエス・キリストに倣う者となり、その愛と恵みが私たちの内で形となり、私たちを支え、生かして下さることを体験するのです。テサロニケの人々に起った福音の出来事は、私たちにも起るし、起っているのです。

響き渡るみ言葉
 それゆえに、主の言葉が彼らのところから出て、その地方全体に響き渡ったということも、特別なことではありません。本日は、共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第19編を選びました。その2?5節に、「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜は夜に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくてもその響きは全地に、その言葉は世界の果てに向かう」とあります。神様はみ言葉をこのように、全地に、世界の果てにまで、響き渡らせて下さるのです。そのために、とるに足りない私たちを愛し、選んで、聖霊の力強い働きによって、主イエス・キリストの福音の出来事を私たちの内に起し、喜びをもってみ言葉を受け入れ、その喜びに生きる者として下さっているのです。この恵みのみ業を受け止める時に、私たちのところからも、主の言葉が響き渡っていくのです。

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