主日礼拝

まことの礼拝

「まことの礼拝」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第19章19-25節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章16-30節
・ 讃美歌:297、1、453

サマリアの女の事情  
 先週に続いて、ヨハネによる福音書第4章の1節以下の、主イエスとサマリアの女の出会いの箇所を読んでいきます。主イエスはユダヤからガリラヤへの旅の途中、サマリアのシカルという町の近くの「ヤコブの井戸」のところで、水を汲みに来た一人のサマリアの女性に、「水を飲ませてください」と頼みました。そのように語りかけることをきっかけとして主イエスは、ご自分こそが、生きた水、もはや渇くことのない水、永遠の命に至る水を与える方であることを彼女に示していかれたのです。彼女は15節で主イエスに、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と願いました。先週はそこまでの所を読んだわけです。  
 この彼女の願いを受けて主イエスは、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言いました。彼女は「わたしには夫はいません」と言います。すると主イエスは「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ」と言ったのです。ここで一気に、この女性がこれまでどのように生きてきて、今どのような生活をしているのかが明らかになっています。そしてそれと同時に、主イエスが彼女のこれまでの歩みと、今どのように生きているのかをはっきりと知っておられることも明らかになっています。主イエスは彼女と元々知り合いだったわけではありません。独り子である神として、彼女の全てをお見通しなのです。彼女には五人の夫がいた、それは勿論一時にということではありません。五人の男と結婚しては別れてきたのです。そして今は六人目の男と連れ添っている、共に暮らしている、でもそれは夫ではない、つまり結婚はしていないのです。現代ならば、「そういう人もいるのね」ぐらいで済んでしまうでしょうが、当時としては、これはとんでもないことだったでしょう。彼女は、とんでもなくふしだらな、汚らわしい女として、人々から軽蔑され、つまはじきにされ、おそらく口もきいてもらえなかったのでしょう。主イエスが彼女と出会ったのは正午ごろのことだったと6節にあります。正午ごろに彼女はこの井戸に水を汲みに来たのです。普通、井戸に水を汲みに来るのは明け方か夕方です。こんな真っ昼間に来る人はいない。だから今この井戸のところには他の人は誰もいないのです。彼女がこの時間に水を汲みに来たのは、人々の目を避けるためでしょう。他の女たちがいたら、汚らわしいものを見るような目で見られ、悪口を言われ、意地悪をされるのです。だから、誰もいない頃合いを見計らって、正午ごろに水を汲みに来たのです。そういう彼女の事情が、主イエスの言葉によって明らかにされているのです。

愛に絶望している女  
 それにしても、当時の社会で、五人の男と結婚と離婚を繰り返し、六人目と同棲しているというのは、よほど強い思いがなければ出来ません。異性関係においてだらしがない、ということでは説明できないものが彼女にはあると思います。彼女は、真実な愛を求めていたのでしょう。本当に愛し、愛される関係を築きたいと強く願っていたのだと思います。そしてそこにおいて、妥協することができなかったのでしょう。これは自分の求めている愛ではない、自分が願っている愛し合う関係はこうではない、と思って別れ、この人となら本当の愛の関係を築けるのではないか、願っているように愛し合うことができるのではないか、と思って次の男と結婚する、そういうことを繰り返して来たのでしょう。そういうことを五回繰り返したあげく、彼女は結婚に幻滅を覚え、もう期待しなくなっています。だから今の男とは、とりあえず一緒に暮らして見るだけにしているのです。期待しては失望し、幻滅の挙句希望を失っているという彼女の姿が見て取れます。このサマリアの女のことを、東京神学大学の元学長であられた松永希久夫先生が、著書の中でこのように語っています。「五人も夫をとりかえて、なおも真実の愛を見つけ得ず、仮の夫と同棲している人間。人を愛そうとし、人に愛されたいと願いつつ、果さずして、真実の愛を求めると言えば聞こえがよいが、その美名の下での男性遍歴の結果、愛することにも愛されることにも期待は失われ、身も心もボロボロになってしまった人間、恐らくは、他者の愛に依存し、他者の愛を受けようとはしても、自分では与えようとはしたことのない人間。真剣に愛し愛されることについては、もはや無資格・無能力と自他ともに決めこんでいた人間。他から遮断されたことをよいことにして、自分を愛し、自分が愛されることにのみ、つまり自分の生活にのみかまけていた人間」。  
 松永先生も言っておられるように、彼女は、相手が自分を、自分の願ったように愛してくれることだけを求めていたのです。愛されることを人一倍求めながら、自分が愛すること、つまりは相手のために配慮したり犠牲を払うことは全く考えていない、それでは夫婦の関係は破綻します。そこに彼女の抱えている深い闇があるのです。その闇はしかし、私たちの誰もが抱えているものではないでしょうか。この人のように極端なことはないかもしれませんが、相手に自分を愛してくれることを求めるばかりで、自分が相手を本当の意味で愛することができていないということには、誰もが心当たりがあるのではないでしょうか。お互いがそういう思いで生きているために、不満やストレスが溜まり、関係がぎくしゃくするということを、私たちも体験しているのではないでしょうか。

まことの水への渇き  
 主イエスは彼女が抱えている闇をはっきりと知っておられます。主イエスが「水を飲ませてください」と彼女に語りかけたのは、彼女をその闇から救い出すためでした。このことについて、松永先生はこう書いておられます。「この一言は、この女性に、これまで考えてもみなかった、少なくとも長く忘れてしまっていた機会を提供する。他者に愛を注ぎ、水を汲み与える機会が与えられたのである」。つまはじきにされ、軽蔑されていた彼女に「水を飲ませてください」などと頼む人は一人もいなかったのです。人から何かを頼まれることなど、彼女は長い間全く経験していなかったのです。主イエスに「水を飲ませてください」と頼まれたことによって、彼女の生活に新しいことが起り始めた、澱んでいた心が動き始めたのです。そして主イエスとのやりとりの中で彼女は逆に主イエスに、「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と願っていったのです。それは単に毎日この井戸に水を汲みに来るのは面倒だからということではないでしょう。自分を汚らわしい罪人と軽蔑し、冷たい視線を向ける周囲の人々の目を避けて、誰も来ない真昼にこそこそと水を汲みに来るような生活、愛を求めた結果愛に破れ、交わりを失い、孤独に陥っている自分の生活を何とかしたい、新しい生き方を得たい、という願いがそこには込められています。つまり彼女の心の中の、まことの水への渇きがここに現れ出ているのです。

罪を明るみに出す主イエス  
 主イエスは、そのように渇きを覚えている彼女に、渇くことのない生きた水を与えようとしておられます。飲む人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る、そういう水を与えて下さるのです。しかし、主イエスからこの生きた水、永遠の命に至る水をいただくためには、自分の渇き、言い替えれば自分がかかえている闇を、主イエスの前にさらけ出さなければなりません。主イエスはとうにそれをご存知です。でも私たちの方も、それを主イエスの前で認め、主イエスとそれを共有することが必要なのです。そのために主イエスは彼女に、「あなたの夫をここに呼んで来なさい」とおっしゃったのです。ここで突然夫の話を持ち出すのは唐突です。けれどもそれこそが彼女の人生の最大の問題なのです。そこにこそ、彼女の抱えている深い闇、つまり罪があり、それが彼女の渇きを生んでいるのです。彼女がかかえている罪の闇を主イエスは明るみに出し、彼女との間で確認しようとしておられるのです。それは彼女の罪の闇を暴露して責めるためではありません。その罪を、主イエスが共に背負って下さるため、いやむしろその罪の重荷を主イエスが代って背負って下さり、十字架にかかって死んで下さることによって、彼女をその重荷から解放し、彼女が赦されて新しく生きることができるようにするためです。主イエスはそのために彼女に「水を飲ませてください」と語りかけたのです。

礼拝すべき場所  
 初対面の主イエスが、自分のこれまでの歩みの全てを、また自分が今何に苦しんでいるのかを全て知っておられることを知らされたこの女性は、「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言いました。預言者とは神から遣わされた人、それゆえに神の力が宿っている人です。この人は預言者だから自分のことを全てお見通しなのだと思ったのです。そのように思った彼女が続けて主イエスに語ったことも、やはり私たちには唐突に感じられます。彼女は「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています」と言ったのです。これは、サマリア人とユダヤ人との対立についての話です。「わたしども」とはサマリア人のことであり、「わたしどもの先祖」というのは、ソロモン王の後イスラエル王国が南北に分裂してできた、北王国イスラエルのことです。その先祖たちが礼拝した「この山」とはゲリジム山のことであり、シカルの町はその近くにあったのです。南王国ユダは、ダビデの町でありソロモンが神殿を築いたエルサレムこそが礼拝すべき場所であると主張していました。それに対してエルサレムを失った北王国イスラエルの人々は、ゲリジム山に聖所を築き、そこを礼拝の場と定めました。その北王国がアッシリアによって滅ぼされた後、アッシリアによってこの地に移住させられて来た諸民族と北王国のユダヤ人が混じり合って生まれたのがサマリア人です。彼らも、先祖に従ってゲリジム山において主なる神を礼拝していました。ユダヤ人とサマリア人の対立の一つの要因は、礼拝すべき場所はエルサレムか、ゲリジム山か、ということにあったのです。

愛への渇きと礼拝への渇き  
 しかし、どうしてこの女性はここで突然礼拝の場所の話をし始めたのでしょうか。自分の自堕落な生活ぶりを主イエスにずばりと指摘されたので、話を逸らそうとしたのでしょうか。そうではないと思います。彼女のこの言葉には、彼女の心の叫びが現れているのだと思います。自分の抱えている闇と、それによる自分の深い渇きを全てお見通しである預言者に、彼女は聞きたいことがあるのです。それは、まことの礼拝はどうしたらできるのか、ということです。サマリア人とユダヤ人はそのことを巡って対立していました。神さまを本当に礼拝することができるのはどちらか、という対立です。それはつまり、生きておられる神さまと本当に交わりを持ち、共に生きることができるのは何によってなのか、という問いです。それはこの女性がかかえている闇、渇きと一見何の関係もないことのように思えます。彼女は人間どうしの愛を追い求めてきたのです。本当に愛し合って共に生きる相手を求めて遍歴する中で、多くの人を傷つけ、自分自身も深く傷つき、もはや愛することも愛されることもできないと感じている。愛されることばかりを求め、誰一人をも本当に愛することが出来なかった自分の人生は大失敗だったと苦しんでいるのです。その彼女の苦しみ、渇きの根本にあるのは、実は神さまとの交わりの喪失です。自分に命を与え、常に共にいて下さり、愛をもって導いて下さる神さまとのつながりを失っていること、つまりまことの礼拝を失っていることこそが、彼女の苦しみの中心にあるのです。なぜなら、神さまとの間に愛し合う関係があることと、人との間で愛し合う関係を持つことは不可分に結びついているからです。神さまに愛されることの中でこそ私たちは、人に愛されることばかりを求める思いから解放されて、人を愛することができるようになるのです。神さまに愛され、神さまを愛することを知っている人は、人との間にも、愛し、愛される関係を築くことができるのです。神さまを礼拝するというのは、神さまを愛し、神さまに愛される関係に生きることです。まことの礼拝において神に愛されていることをはっきりと感じ取り、その愛に応えて自分も神を愛して生きるならば、人をも愛し、愛される喜びに生きることができるのです。だから、まことの礼拝は何によってできるのか、ということと、人と愛し合うことを失っている苦しみ、渇きとは、関係がないどころか、最も深いところで結びついているのです。この女性自身が、そのことをはっきりと意識していたわけではないでしょう。しかし、愛を激しく求めていながらも本当に愛し合うことができず、罪を重ねつつ生きている自分のことを全てお見通しである主イエスと出会った時に、サマリア人とユダヤ人が対立しているまことの礼拝のことを語った彼女の思いには、無意識の内に、生きておられるまことの神さまと愛し合う良い交わりを求める思いが、まことの礼拝への渇きがあったと言うことができると思うのです。

まことの礼拝を与える主イエス  
 主イエスはこの彼女の心の叫び、はっきりとは意識されていない渇きをしっかりと受け止め、それに応えておられます。21節です。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」。これは、あなたが無意識の内に求めているまことの礼拝があなたに与えられる、という約束です。「父を礼拝する時が来る」、それは、あなたは、私の父である神を、あなた自身の父として礼拝するようになる、ということです。つまり、あなたはあなたのことを本当に愛しておられ、あなたを守り導こうとしておられる父である神と出会い、その方を礼拝することができるようになるのだ、その父である神との愛の関係に生きる場であるまことの礼拝があなたに与えられるのだ、と主イエスは言っておられるのです。そのまことの礼拝は、「この山でもエルサレムでもない所で」与えられます。つまり、ユダヤ人とサマリア人の対立はもはや意味がなくなる。そういう人間の違い、対立を超えて、まことの礼拝が与えられるのです。その礼拝はどのようにして与えられるのでしょうか。「わたしを信じなさい」と主イエスは言っておられます。主イエスを信じることによってこそ、まことの礼拝が与えられるのです。主イエスを信じるとは、独り子なる神主イエスが肉となって私たちの間に宿り、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦して下さり、私たちを主イエスと共にご自分の子として下さった、その父なる神の救いの恵みを信じることです。主イエスを信じることによってこそ、罪人である私たちは神の子とされ、父を礼拝するまことの礼拝を与えられるのです。

今がその時である  
 このまことの礼拝こそ、主イエスが与えて下さる水です。その水を飲む者は決して渇くことがなく、その水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る、と言われていたのはこの、主イエスを信じることによって与えられるまことの礼拝なのです。その礼拝において、常に新しく、生きた水である神のみ言葉が与えられ、それによって私たちは渇きを癒され、潤されて、永遠の命に至る道を歩み続けるのです。罪の闇の中にあり、愛を失い、自分の人生は失敗だったと絶望している者の魂の渇きを本当に癒す水は、主イエスによって父となって下さった神を礼拝することの中でこそ与えられるのです。23節で主イエスは、「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」と言っておられます。21節では、父を礼拝するまことの礼拝が与えられる時が来る、と将来への約束が語られていました。しかしここでは、「今がその時である」と言われています。今、それは主イエスが彼女と出会い、語りかけて下さっている今です。主イエス・キリストと出会った時、それが誰にとってもこの「今」なのです。生きた水、永遠の命に至る水の泉であるまことの礼拝に生き始める時なのです。「父はこのように礼拝する者を求めておられる」。父なる神さまご自身が、私たちが礼拝する者となることを求めておられるのです。私たちが父を礼拝し、神さまとの間に父と子との愛の交わりを与えられ、それによって尽きることのない命の水に潤されていくことを、父なる神さまご自身が願っておられ、独り子主イエスによって私たちをまことの礼拝へと招いておられるのです。

霊と真理による礼拝  
 24節には、「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」とあります。これは、まことの礼拝のための心構えを語っているのではありません。まことの礼拝を成り立たせるのは、私たちが自分の心を整え、悪い思いを捨て去り、心の波風を自分で静めるというような、私たちの側の心構えではありません。霊である神が私たちの礼拝を求めておられ、そのためにご自身の霊である聖霊を送って下さって、私たちに語りかけ、まことの礼拝へと招いて下さるっているのです。その聖霊のお働きによって、罪の闇の中におり、悪い思いで満たされており、苦しみや悲しみによって心が荒れ狂っている私たちが、メシア、救い主であられる主イエスと出会い、主イエスを通して神がこの私の父となって下さったという救いの真理を示され、父を礼拝するまことの礼拝を与えられるのです。そして生きた水によって渇きを癒され、新しく生かされるのです。

証しする者として新しく生き始める  
 救い主メシアであられる主イエスと出会ったこの女性は、水がめをそこに置いたまま、つまり井戸の水を汲むことを忘れて町に行きました。まことの礼拝において与えられる生きた水、渇くことのない水によって彼女は潤され、満たされ、そして新しく生き始めたのです。町の人々の目を避け、交わりを断ち、そのために真昼に水を汲みに来ていた彼女が、町に入って行って人々に積極的に語りかけ始めたのです。そして人々を主イエスのところに連れて来たのです。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」。これは、私たちが主イエス・キリストを証しする言葉の模範です。「私のかかえている罪の闇を、渇きを、全てお見通しであられる方が、私に出会って下さり、生きた水、渇くことのない水を与えて下さった。その方のところにあなたも来てほしい、あなたにもその方と出会ってほしい、そのために私と一緒に来てください」。そのように語っていくことを「証し」と言います。この女性は、救い主イエス・キリストを証しする信仰者として新しく生き始めたのです。

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