主日礼拝

同じ思いで

「同じ思いで」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第135編1-3節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第2章1-11節
・ 讃美歌:13、378、411

 このフィリピの信徒への手紙は、パウロという伝道者が、フィリピの教会に宛てて書いた手紙です。つまり、これは「教会」に、今のわたしたちにも語りかけられている手紙です。
 パウロは2節で、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と語りかけます。
 同じ思いとなる。それは中々難しいことです。友人でも、恋人でも、夫婦でも、家族でも、中々思いが一致しないということはよくあります。
 わたしたちは、たった一人の隣の人とも、同じ思いとなることが困難です。ある一つのことで同意できるところはあるけれど、この人のこの考え方には同意できない。この部分は気に入らない。結局、一緒にいても、違う思いをお互いに抱いています。
 もし複数人いるチームだったら、もっと大変です。同じ目標や、同じゴールがあるなら、それに向かって、一致して、同じ思いで行動しようとするかも知れません。でも、誰かが、全体のために、自分の意見を少し我慢しているかも知れません。または、誰かリーダーが仕切れば、みなが同じ方向を向くかも知れませんが、「思い」は本当に同じではないかも知れません。同じ思いとなるのは難しい。
 では、教会が、「同じ思いとなりなさい」と言われた時、どのようにして、同じ思いになることが出来るのでしょうか。
 わたしたちは、今ここで、「同じ思い」でいるでしょうか。
 何となく、そのような気持ちでいるかも知れません。毎週、教会に一緒に集まっている。ここにいる人たちは、自分も含めて、同じ思いを持っている。そうかもしれません。
 でも、同じ思いとなる、というのは、実際にはどういうところから、同じ思いになっているのでしょうか。そして、もしかすると、そう「思っている」というだけではないでしょうか。同じ思いになって、そこから、どうなるのでしょうか。
 パウロは「同じ思いとなりなさい」と述べた後に、3節でこのように言っています。
 「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。」
 教会の人々が同じ思いになる、ということは、このように行動するようになることだ、相手や他人がいる中で、自分がへりくだって、生きることだとパウロは言っているのです。
 しかし、わたしたちは、これが中々出来ていない自分を発見します。現実は、ここに書かれていることとまったく逆ではないでしょうか。
 「何事も利己心や虚栄心から行い、高ぶって、互いに自分を相手より優れた者と考え、めいめい自分のことばかりに注意を払って、他人のことには注意を払わない。」
 わたしたちは、結局いつも自分のことばかり思っているのではないでしょうか。
 ちっとも、へりくだっていないのです。
 どこかで、自分の損得を考えてしまう。誰かに褒めてもらいたい。認めてもらいたい。自分はあの人より少しはましだ。そのような思いが、わたしたちの中にないとは言えません。
 また、へりくだる、というのは、社交的な方便を言うことではありません。ほめられた時に、「いえいえ、わたしなんて、大したことないですよ。」と相手に傲慢だと思われないようにすることが、へりくだるということではないのです。
 また、へりくだる、ということは、自分はダメだ、虫けらだ、と自分を卑下することでもありません。そこには、自分と誰かと比べたり、自分を認めてもらえないという不満や、本当の自分はこうではない、というような、それこそ虚栄心があるかも知れません。
 本当に「へりくだる」というのは、相手がいて、その人を敬い、自ら自分を低くするところに、成り立つことなのです。
 パウロは、これを、個人の心がけや意志によってではなく、信仰によって、「同じ思いとなる」ことによって、そのようにしなさい、と言っているのです。
 人は一人ぼっちで生きているのではありません。何かしらの他者との関係の中で生きていきます。さらに、信仰を与えられた者は、一人で信仰生活をしていくのではありません。共に救われた兄弟姉妹がいる。その共同体の中で、教会で、共に生きていきます。
 その時、わたしたちはそこで、本当に同じ思いでいるか。同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしているかを、問われているのです。
 教会は、わたしたちは、どのようにして「同じ思い」となることができるのでしょうか。
 同じ思いとなりなさい、と言うに当たって、パウロは1節でこのように言います。
 「そこで、あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心があるなら、(2節)同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つに」。
 ここで、少し衝撃的なことがあります。パウロは、「あなたがたに『幾らかでも』、これらのことがあるなら」というのです。パウロは、現実を見た時に、中々わたしたちが自分自身の心を明け渡さないこと。「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり、それに慈しみや憐みの心」を置く心の場所を、他のもので占領してしまっていることを、よく知っていたのかも知れません。
 ここで述べられている、「キリストによる励まし、愛の慰め、霊による交わり」というのは、とても重要なことを示しています。
 これは、毎週耳にする、礼拝の最後の祝福の言葉とよく似ています。
 「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように。」
 この礼拝の祝福は、コリントの信徒への手紙Ⅱの13:13にある言葉ですが、フィリピの信徒への手紙と同じ著者、パウロが書いたものです。これは、三位一体の神の祝福です。コリントの教会、フィリピの教会、そしてわたしたちの教会、世界中の教会が受けている神の祝福です。
 何気なく当たり前のように、毎週この祝福を受けているかも知れませんが、わたしたちが、祝福を受けるということは、本当は簡単なことではありません。
 わたしたちは、この祝福、それは神の愛そのものですが、それを受けるための資格や、条件を、何も持っていません。ただ、神に背き、神から離れ、自分を中心にして傲慢になり、自分が自分を支配し、そして他人をも支配しようとするような者です。
 そのような罪の中にいるわたしたち人間は、神の御顔を見ることも、声を聞くこともできません。そのような者が祝福されるためには、神の愛を受けるためには、神ご自身が天から降ってこられ、わたしたちがいる地に足をつけ、身をかがめ、語りかけ、手を取り、握りしめている指を開いて下さり、愛を手渡してくださらなければ、ならなかったのです。
 そこまでして下さった神のお姿が、主イエス・キリストの十字架のお姿です。わたしたちは、主イエス・キリストによってのみ、神の愛、神のみ心を知ることが出来ます。
 それで、この祝福は、神ご自身を啓示して下さった子なる神、そして父なる神、聖霊なる神の順なのだ、という説明もあります。
 主イエスが教えて下さった父なる神の愛、この箇所で言えば1節の「愛の慰め」とは、神との関係を壊し、罪によって滅びる者であったわたしたちを赦して、神の子どもにして下さる、ということです。神が、わたしたちの父となって下さる、そのような愛です。
 それは、神の独り子が、わたしたちと同じように肉を取り、苦難を受け、十字架に架けられ、血を流し、わたしたちを罪から贖って下さったことによって、成し遂げられました。神の御子がそこまでして下さらなければ、わたしたちのもとに低く降って、しかも罪人のために、呪われた死である十字架の死をも受け入れて下さらなければ、わたしたちは神の愛を知ることが出来なかったし、また神の子どもとしていただくことが出来なかったのです。
 神の御子が、どれだけ低くへりくだって下さったかは、6節以降の「キリスト賛歌」と呼ばれる部分で表されています。このキリスト賛歌の部分は、次回に詳しく内容を見ていきたいと思っていますが、その箇所を読んでみます。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
 こうやってわたしたちは、キリストによる励ましを受けました。この「励まし」は慰め、という意味もあります。誰かを励ます、慰めると言う時、そこには他者との関係があります。誰かが誰かのところへ行き、共にいて、励まし、慰めるのです。キリストはわたしたちのもとに来られ、罪の中で滅びに至ろうとしていたわたしたちに、神の愛を教え、励まし、慰めて下さいました。ご自身の十字架によって、新しい命を与え、神の子どもとして、神との交わりの内に生きる、どんな悲しみや苦しみをも、死をも乗り越えることができる、永遠の励ましと慰めを与えて下さったのです。
 また、そこには霊による交わりがあります。聖霊なる神様がわたしたちの目を開き、十字架と復活のキリストにわたしたちを結びつけて下さらなければ、わたしたちはこのことを信じ、永遠の命を生き、終わりの日の復活の約束にあずかることは出来ません。わたしたちが神と共に生きること、キリストに結ばれることは、この霊の交わりによって、聖霊の働きによって実現することなのです。
 ここにいる、たった一人のわたしが、あなたが、祝福されるために、神の愛を受けるために、キリストが、父なる神が、聖霊が、これだけ豊かなお働きをして下さいました。  
 わたしたちは、それだけのことを神がなさって下さるほどに、神に愛され、慈しまれ、憐れまれた者なのです。
 1節に出てくる「それに慈しみや憐みの心があるなら」の「慈しみ」という言葉は、同じフィリピの1:8の「キリスト・イエスの愛の心で」というところに出てきた「愛」と訳されている言葉と同じ言葉です。もとの意味は「はらわた」というような、腹の底からの激しい思いや愛、心からの憐み、時には怒りを指す言葉です。そのような激しい熱情をもって、わたしを救うために、神ご自身が救いの御業を行って下さったのです。
 三位一体の神の祝福を受ける、という時、わたしたちはまず一人一人が、神の愛を示して下さったキリストの十字架の御前に立たされます。人の誰よりも、低くへりくだられた、この神の御子によって、わたしは罪を赦され、神の愛を知り、生きることをゆるされたのです。
 わたしたちは、与えられた神の祝福を、神の愛を計り知ることが出来ません。神の愛は、大きすぎるのです。しかし、わたしたちが受けた、この神の愛を「幾らかでも」知ったのなら、神の慈しみや憐みを受けたのなら、わたしたちはなお高ぶっていることが出来るでしょうか。低くへりくだられた主イエスの十字架を前にして、誰も自分を優れた者だなどと考えることはできないのです。わたしたちの傲慢な思いや、自分には何かできるという思いや、他人を自分の正しさで批判するような思いは、神の愛と神の正しさが現された、主の十字架の御前で砕かれます。そして自分はただ、神に愛され、慈しまれ、憐れまれた者以外の何者でもないのだと知るのです。神の恵みの前に、ただ憐れんで下さいと、求めるしかないのです。
 それでもなお、主の十字架の御前に立っても、自分の傲慢さを捨てられず、へりくだることが出来ない自分の罪深さに、わたしたちはどうしたら良いのか、立ち尽くしてしまうかも知れません。
 しかしそれでも、主の十字架は、わたしたちの罪の赦しを宣言して下さっています。主の御前に立つ時、わたしたちにはすでに、子なるキリストと、父なる神と、聖霊なる神の祝福が、豊かに注がれているのです。その恵みにすがるしかありません。
 中世の神学者が「ざんげと告白」のための、このような祈りを残しています。
 「ああわたしの主キリストよ。すべての私の能力は無であり、すべての私の賢さは盲目で、途方もない愚かさでしかなく、すべての私の敬虔さも生活も地獄に落ちるにふさわしいだけです。ですから私は、自分自身をあなたの恵みにゆだねます。どうかあなたのみ霊に従って私を支配してください。私が自分で自分を支配し、賢明であろうとするいっさいのことを空しくし、私の分別や理性をただもう全く愚かなものとしてください。そして私をあなたのふところの中に保ってください。アーメン」
 わたしたちが思いを一つにするところは、主イエス・キリストの十字架の御前においてです。十字架のキリストを見上げ、この方だけがわたしの救い主、罪を赦し、神の子としてくださった、わたしの主であると告白する、そこで「同じ思いとなる」のです。神だけを神とし、ほめたたえ、礼拝する。それが、わたしたちの「同じ思い」です。
 2節には「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにしなさい」と書かれています。
 「同じ愛を抱く」とは、同じ神の愛を受け、同じ神の愛に生かされているということ、そしてその愛を共有しているということです。
 「心を合わせ、思いを一つにして」は原語のまま訳すと、「一つになった霊を持ち、思いを一つにして」という言葉です。わたしたちの霊を一つに結び合わせるのは、聖霊のお働きによってです。わたしたちは、同じ一人のキリストの救いにあずかり、同じ一つの霊を受けたのです。お一人のキリストに、聖霊によって結ばれる時、わたしたちは互いも、聖霊によって一つの交わりに結ばれ、一つの体、一つの思いとなります。
 そうして「同じ思い」となったなら、共にキリストのみが主であると告白するのなら、わたしたちは、「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分より優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払」う者へと、新しく変えられていくでしょう。
 それは自分の努力や我慢によってではなく、信仰から、つまり神の恵みから来るものだからです。
 隣にいる人も、自分も、最も低くへりくだられたキリストが慈しみ、憐れんで下さった者であること。神の愛を受け、共に一つの霊の交わりの内に生きている者だと知ることができるからです。
 キリストの体に結ばれ、一つとなった者たちが、「同じ思い」となる時、ただキリストのみを主とし、神をほめたたえる時、そこに、神のまことのご支配が現実のものとなります。人の支配や、人の思いではなく、神の恵みのみが支配するキリストの体が、まことの教会が、造り上げられていくのです。
 パウロはそのようにして、「同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。」と言います。
 このように教会が「同じ思い」で歩んでいくことは、パウロの喜びだと言うのです。これは、ただ単に、みんなが仲良くしていることが嬉しい、ということではありません。
 パウロの喜びは、神の福音が前進するのなら、救いが完成するのなら、牢獄に捕えられても、死を前にしていても、喜んでいる、と言える喜びです。
 パウロが喜ぶのは、教会が「同じ思い」で、キリストに従い、福音の前進のために仕え、共に一つの体を造り上げていく時、それは神の御国の完成にむかって確実に歩んでいる、ということだからです。救いの完成が近づいているからです。
 主の恵みのご支配が世に行きわたるように、神の恵みだけが支配する、まことのキリストの体なる教会が作り上げられていくように、神の愛と祝福によって、世界が喜びで満ちるように、わたしたちは「同じ思いで」歩んでまいりましょう。

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