主日礼拝

ナルドの香油

「ナルドの香油」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第23編1-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第12章1-11節
・ 讃美歌:336、567

過越祭の六日前
 ヨハネによる福音書の第12章に入ります。冒頭の1節に、「過越祭の六日前に」とあります。この過越祭の時に、主イエスの十字架の死と復活が起ったのです。その六日前のことがこの12章に語られています。主イエスの地上のご生涯の最後の一週間に、ここから入るわけです。
 これまで読んできた第11章には、主イエスのなさった最後最大のしるし、奇跡である「ラザロの復活」のことが語られていました。本日の箇所もその続きと言えます。1、2節からそれが分かります。「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた」。ラザロとその二人の姉妹マルタとマリアが住んでいたベタニアは、エルサレムの近くであり、エルサレムに上る道筋にありました。ラザロを復活させた主イエスを、ユダヤ人の最高法院が殺そうと企むようになったので、主イエスは逃れて荒れ野に近い地方のエフライムという町に行った、と11章54節にありました。しかし過越祭の六日前に、もう一度ベタニアに来られたのです。それは過越祭をエルサレムで迎えるためです。エルサレムへと向かう主イエスと弟子たちを迎えたラザロの家で、夕食が用意されたのです。

ヨハネにおけるマルタとマリア
 この食事の場で、マルタは給仕をしていました。ルカによる福音書第10章の「マルタとマリア」の話でも、マルタはもてなしのために忙しく立ち働いていました。それに対してマリアは、主イエスの足もとに座ってその話に聞き入っていた、とあります。あの話において主イエスは、そのマリアこそ本当に必要なただ一つのことを選んだと語っておられます。もてなしに心を奪われているマルタの姿は否定的に語られているわけですが、ヨハネ福音書はマルタをそのように見てはいません。マルタは11章において、主イエスの「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」というお言葉に対して、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と信仰を告白しました。このマルタの信仰告白を受けて主イエスはラザロを復活させて下さったのです。つまりマルタは11章においてとても大事な役割を果たしていたのです。一方マリアについては、兄弟ラザロの死を嘆いて涙を流していた、ということしか語られていませんでした。しかし12章に入って本日の箇所においては、今度はマリアの信仰にスポットライトが当てられています。マルタは主イエスへの信仰を言葉で告白しましたが、マリアはここで一言も語っていません。彼女は一つの行為、行動によって、主イエスへの信仰を表しました。マルタは言葉で、マリアは行いによって、主イエスへの信仰を表したのです。そしてそのことが、ラザロの復活という主イエスのなさった最後にして最大のしるし、奇跡を挟んでその前と後に語られています。マルタの信仰告白に応えて主イエスがラザロの復活という救いのみ業を行って下さった。それを受けて今度はマリアが、主イエスへの信仰と献身の思いを行為によって表した、というストーリーをヨハネは語っているのです。

マリアの信仰と献身
 マリアがした主イエスへの信仰と献身の行為、それは3節にあるように「純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」ということでした。一リトラは約326グラムだそうです。こういうものは普通はほんの少しずつしか使わないものでしょうが、マリアはそれを一気に全部、主イエスの足に注いだのです。そして香油でびしょびしょになった主イエスの足を自分の長い髪の毛で拭ったのです。そのために「家は香油の香りでいっぱいになった」とあります。この香油は三百デナリオンで売れる価値があったと5節のユダの言葉にあります。一デナリオンが当時の一人の人の一日分の賃金ですから、三百日分の賃金、つまり一人の人のほぼ年収に相当するぐらいの高価なものです。おそらくそれはマリアにとって財産と言うことができる唯一のものだったでしょう。なけなしの全財産を彼女は主イエスにすべて捧げたのです。それはまさに自分自身を献げる献身のしるしです。兄弟ラザロを死者の中から復活させて下さり、悲しみのどん底にあった自分たち姉妹を喜びをもって新しく生かして下さった主イエスへの言い尽くせない感謝と愛と信頼を、そして自分の全てを主イエスにお献げする信仰を、彼女はこの行いによって表したのです。「家は香油の香りでいっぱいになった」。それは彼女の信仰の香り、真実な献身の思いがこの場に満ち溢れた、ということを現しているのです。

献身の行為への批判
 しかし彼女のこの献身の行為にいちゃもんをつけた者がいました。それは「弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダ」でした。「弟子の一人で」とあることに注目しなければなりません。イスカリオテのユダは十二人の弟子の一人です。主イエスに招かれて弟子となり、共に歩んでいる人です。この時もラザロたちの家で共に食事の席に着いていたのです。つまり私たちで言えば、共に教会に連なっている信仰の仲間の一人、ということです。そのユダが、マリアの信仰と献身の行為を見て、それを批判したのです。彼は「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」と言いました。一人の人の年収に当るほどの価値のある香油を全て主イエスの足に塗ってしまうなんて無駄遣いだ、それだけのお金があれば、どれだけの貧しい人たちを助けることができたと思うのか、ということです。このユダの言葉は間違っていません。正論です。マリアのこの行為によって、三百デナリオンの香油は一瞬にして失われました。そのお金は、貧しい人、困っている人を助けるという愛の業のためにこそ用いるべきだったのではないか、この香油は意味のない、無駄なことに使われてしまったのではないか、その言葉にはある筋が通っています。しかしヨハネ福音書は、この言葉には裏があったのだと語っています。6節「彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである」。ユダは弟子たちの一行の金入れを預かっていた、つまり会計係だった、そして不正を行って皆のお金をちょろまかしていたのだ、というのです。ユダが会計係で不正をしていた、ということを語っているのはヨハネ福音書だけです。そこには、主イエスを裏切ったユダは元々悪人だったのだ、ということを語ろうとする意図が感じられます。しかし自分が不正をしていることと、マリアの献身の行為に文句をつけることは必ずしもつながりません。この話はマルコ福音書とマタイ福音書にもありますが、マルコではこの文句を言ったのはユダではなく「そこにいた人の何人か」であり、マタイでは「弟子たち」が文句を言ったとなっています。つまり、自分が不正をしている悪い人だからこのような文句を言うわけではないのです。マリアの、自分の全てをささげる純粋な献身の行為を見る時に、そのような献身に生きていない、全てをささげることなどできないと思っている私たちの心の中に、このような文句、いちゃもんをつけようとする思いが生じるのです。それは自分が感じている「後ろめたさ」から来るものです。純粋な信仰と献身の行為がなされる時、それができないでいる者は自分が責められ、批判されているように感じてしまって、その信仰と献身の行為を喜ぶのではなくむしろ批判し、攻撃するということが、共に主イエスに従っている弟子たちの群れである教会においても起るのです。

正論をふりかざして
 またこのように人を批判しようとする時に私たちはしばしば、論理的に正しい、反論しにくい正論を持ち出します。「信仰者はこうであるべきだ」と言って人を批判し、責めるのです。そのように正論を振りかざせば、自分の後ろめたさは棚上げにして人を責めることができます。しかしそこで決定的に見失われているのは「愛」です。「こうであるべきだ」と言って人を批判する時、私たちは愛を失ってしまう、そのことによくよく気を付けたいと思います。特に今のように、新型コロナウイルスの影響が長引く中で、世の中全体が不安や恐れにとりつかれ、ストレスがたまっていると、「自粛警察」のようなことが起りやすくなっています。そのような思いに飲み込まれることなく、愛を失わずに歩みたいと思います。

費用対効果
 またこのユダの言葉を私たちにあてはめるならば、イエスさまを礼拝しているだけでは、教会は世の中の役に立っていない、貧しい人を助けるという愛の業にもっと力を注くべきだ、ということにもなります。その方が世の人々の理解が得られる、とユダも考えたのかもしれません。ファリサイ派を中心に、主イエスに対する敵意が募ってきており、最高法院ではイエスを殺そうという企みが始まっています。本日の箇所の9節以下には、多くの人々がラザロを見るために押し寄せていたので、祭司長たちはラザロをも殺そうと謀ったと語られています。自分たちの置かれた状況はこのように厳しいのだから、三百デナリオンのお金があったらそれを貧しい人を助けることに用いるべきだ。そうすればそのお金は、民衆の共感や支持につながり、最高法院も手を出し難くなるという効果があがる。主イエスへの愛と献身のために使うのはよいことかもしれないが、そのために三百デナリオンの香油を一気に使ってしまうのは、何の効果も生まない無駄遣いだ。「費用対効果」という考え方に基づけばまさにそういうことになるでしょう。そういう意味でもユダの言葉は、金入れの中身をごまかしている悪い奴の言葉というよりも、私たちが普通に考えていること、常識と感じていることなのです。

信仰と献身を受け止めて下さる主イエス
 このユダに対して主イエスがお語りになった7、8節のお言葉が、当然ながら本日の箇所の中心です。主イエスはこうおっしゃいました。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない」。このお言葉が基本的に示しているのは、主イエスが、マリアの信仰と献身の行為を喜んで受け止めておられる、ということです。マリアのしたことに対していろいろな批判や、そんなことは無駄だ、という声があっても、主イエスはそれをご自分への信仰と献身の行為として喜んで受け入れて下さっているのです。貧しい人々のための愛の業が大事だ、という正論を主イエスは否定してはいません。「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが」というお言葉は、主イエスに従う者は貧しい人々への愛の業をいつも心がけているべきであることを示しています。しかしそれは、主イエスへの信仰と献身の思いでマリアがしたことを批判したり責めたりする理由にはならないのです。三百デナリオンをどう用いれば最大の効果をあげることができるかと考えるなら、彼女のしたことは何の効果もない無駄なことかもしれません。しかし主イエスは、そういう論理や計算とは関係なく、ご自分に対する信仰と献身の行為を喜んで受け止めて下さるのです。つまり主イエスが喜ばれたのは、マリアの献げ物が三百デナリオンという高額だったからではありません。それが三百デナリオンになると言っているのはユダであって、主イエスはこの香油がいくらするか、などということを見てはおられないのです。私たちが主イエスを救い主と信じて、主イエスに自分自身をお献げしてなす信仰と献身の行為は、まことにつたないものです。いろいろいちゃもんをつけようと思えばいくらでもつけられる、批判されたら反論できない、そんなことが何の役に立つのか、無駄なことだと言われてしまったらぐうの音も出ない。私たちの信仰も献身もそういうものでしかありません。しかし主イエスは、「この人のするままにさせておきなさい」とおっしゃって、私たちのつたない信仰と献身を受け止めて下さるのです。そこには愛があります。主イエスは私たちが主イエスを愛しているその愛をしっかり受け止めて下さり、その私たちを主イエスも愛してくださって、私たちのまことにつたない信仰と献身を受け止め、生かして用いて下さるのです。私たちが主イエスを愛し、従っていく信仰の歩みは、この主イエスの愛によって支えられているのです。

主イエスの葬りのための備えとして
 主イエスのお言葉のもう一つのポイントは、「わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから」ということです。マリアの行為を主イエスは、「わたしの葬りの日のため」の備えとして受け止めて下さったのです。「わたしの葬りの日のために、それを取って置いた」というのは、マリアがそう思っていたということではないでしょう。マリアは、兄弟ラザロを復活させ、自分たちを悲しみから解放して下さった主イエスに心から感謝して、自分の一番大切なものをお献げしようという献身の思いからこのことをしたのです。しかし主イエスはそれを、ご自分の葬り、つまり十字架の死のための備えとして受け止めて下さったのです。まもなく迎えようとしている過越祭において主イエスは捕えられ、十字架につけられて殺されます。そのことによって主イエスは、「世の罪を取り除く神の小羊」となられるのです。過越の出来事において、過越の小羊が殺され、その血が注がれたことによってイスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されたように、主イエスの十字架の死によって世の罪が取り除かれ、罪の奴隷状態からの解放が実現するのです。また主イエスの十字架の死によって、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という主イエスのみ言葉が実現するのです。主イエスが命を捨てることによって私たちの良い羊飼いとなって下さる、これこそが主イエスによる救いです。主イエスはこのことのためにこの世に来られたのです。主イエスはマリアの信仰と献身を、彼女自身の思いを越えて、ご自分の十字架の死によって実現する救いのための備えとして下さったのです。

足に注がれた油
 この関連でもう一つのことに目を止めたいと思います。マリアがナルドの香油を主イエスの足に注いだと語っているのはヨハネ福音書だけです。マタイとマルコ福音書においては、いずれも主イエスの頭に注いだとなっているのです。なぜヨハネだけ足になのでしょうか。そのことは、この後の13章1節以下に語られていることと関係していると思います。そこには、主イエスがいわゆる「最後の晩餐」において弟子たち一人ひとりの足をお洗いになったことが語られています。これもヨハネ福音書のみが語っていることです。ヨハネは、マリアが主イエスの足に香油を塗ったことと、主イエスが弟子たちの足を洗ったことを関係づけていると思うのです。主イエスが弟子たちの、つまり私たちの足を洗って下さった、それは神の独り子である主イエスが、私たちの僕となって仕えて下さったということです。具体的には、主イエスが私たちのために、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったということです。神の独り子である主イエスが徹底的にへりくだって、私たちの最も汚れているところである足を洗って下さったのです。つまり私たちが自分ではどうすることもできない罪が赦されるために、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったのです。主イエスの十字架による救いは、主イエスに足を洗っていただくことに喩えることができるのです。この恵みを受けた私たちはそれに応えて、自分自身を主イエスにおささげして生きる、それが私たちの信仰です。ナルドの香油を主イエスの足に塗ったマリアの姿にヨハネは、主イエスに足を洗っていただいたことに応えて生きる弟子たちの、教会の信仰を見ているのです。主イエスは十字架の死によって、私たちの罪にまみれた足を洗って下さいました。その恵みに応えて私たちもマリアと共に、主イエスを愛し、自分自身を主イエスにお献げして生きるのです。その私たちの献身、奉仕はまことにつたない不十分なものですけれども、主イエスは私たちを愛して下さり、私たちの献身、奉仕を喜んで受け入れて下さり、それをご自分の十字架の死による救いに仕えるものとして生かして下さるのです。

礼拝の恵み
 そういうことが起る場が教会の礼拝です。主イエスを中心として共に食事がなされる、それは礼拝における聖餐を思わせます。その礼拝において私たちは主イエスへの愛と献身の思いを表します。それがどんなにつたないものであっても、主イエスはそれを喜んで下さり、主イエスの十字架による救いに仕えるものとして用いて下さるのです。礼拝の場は、この主イエスの愛と私たちの信仰と献身の香りで満ちています。私たちはその良い香りによって癒され、勇気づけられ、そしてその香りを携えてこの世へと出て行き、キリストによる救いの良い香りを人々に伝えていくのです。そのような恵みの時である礼拝が、今新型コロナウイルスによって奪われてしまっているのは本当に悲しいことです。しかし礼拝は近い内に必ず再開されます。今は忍耐して、その日を待ち望みつつ歩みましょう。

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