主日礼拝

キリストのとりなし

「キリストのとりなし」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第110編1-7節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
・ 讃美歌:280、479、525

神が味方である
 先週、元日の主の日の礼拝において、ローマの信徒への手紙第8章31節以下をご一緒に読みました。この箇所は、ローマの信徒への手紙の第一部、キリストによる救いの福音を語っている部分の締めくくりです。キリストの福音とは要するにこういうことだ、というまとめをパウロはここでしているのです。そのまとめにおいて彼が先ず語っているのは、31節に「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」とあるように、神が私たちの味方であって下さる、ということです。このことは、「自分には神がいつも味方として付いていてくれるから、どんなことでも思い通りになるし、決して失敗したり不幸に陥ったりはしない」ということではない、と先週も申しました。そのように思ってしまうとしたら、そこでは私たちが主人であり、神は私たちの僕であり助っ人ということになります。それは、神と私たちの関係として正しくありません。まことの神は、私たちの思いを何でも叶えてくれるアラジンの魔法のランプの精のような方ではなくて、神ご自身の恵みのみ心によって私たちに本当に必要な救いを与えて下さる方です。その救いは32節にあるように、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された」ことによって、つまり御子イエス・キリストの十字架の死において与えられました。つまり神が味方であられることは、御子イエス・キリストの十字架の死においてこそ見つめることができるのです。自分がどれだけ幸福か、自分の願いや望みがどれだけ叶っているか、ということによって神が味方であるか否かを判断してしまってはならないのです。神の御子イエス・キリストが私のために十字架にかかって死んで下さったことにおいてこそ、神が味方であって下さることが分かるのです。
 そういう意味で「味方」という訳は相応しくない、と先週申しました。ここは原文を直訳すると「神が私たちのためにあって下さる」となります。神が私たちのために必要な救いを与えて下さる、それが「味方である」の原文における意味なのです。しかしこの「味方」という訳語にも捨て難いものがあります。というのは、パウロはここで、私たちに敵対する力の存在を見つめているからです。「だれが私たちに敵対できますか」と言っていることからそれが分かります。私たちに敵対している力があるのです。私たちはその敵に取り囲まれており、このままでは打ち負かされ、滅ぼされてしまう他ないのです。その私たちのために、私たちの味方となって、神が敵と戦い勝利して下さる、だから私たちに敵対できる者は誰もいないのだ、とパウロは語っているのです。そういう意味では、「味方」という翻訳も適切です。神は私たちの味方となって、私たちに敵対する力と戦って下さるのです。

私たちに敵対する力
 私たちに敵対する力とは何でしょうか。それは私たちと対立しており、うまが合わず、一致できないあの人この人のことではありません。33節に「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」とあります。34節には「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」ともあります。パウロが見つめている敵とは、私たちと対立して計画の実現を妨げる者ではなくて、神の前で私たちを訴え、有罪を証明して罪に定め、永遠の滅びへと引きずり込もうとしている力なのです。聖書はそれをサタンとか悪魔と呼んでいます。私たちはこの本当の敵をしっかり見極めなければなりません。この敵は、外から攻めて来るだけでなく、むしろ私たちの心の中を攻撃して来ます。私たちの心に、自分の弱さ、欠点、失敗、罪深さを思い知らせることによってです。この敵は、私たちが人には見せていなくても心の中で密かに思っていることを全て知っています。そして「お前は人の前では取り繕っているが、心の中にはこんなに汚れた罪深い思いを持っているではないか」と責め立てるのです。そのようにして私たちに、自分は駄目だ、自分のような罪人は神の救いにあずかることはできない、裁かれ、滅ぼされるしかない、と思わせようとしているのです。またこの敵は外からもいろいろな仕方で攻撃してきます。私たちに苦しみや悲しみを与えることによって、神の恵みなど自分には与えられていないと思わせようとすることがその一つです。しかしその攻撃は苦しみや悲しみにおいてだけではなく、むしろ自分の願いが叶い、望んでいることが実現することの中にも潜んでいます。私たちは、幸せの中で、得意の絶頂の中で、神を忘れ、神よりも自分の力を信頼するようになり、神などいなくても生きていける、あるいは人間の努力次第で何とかなると思ってしまいます。そのようにして、神の救いなどいらない、神を信じなくてもいい、と思わせることがこの敵の狙いです。要するにこの敵は私たちを、自分は駄目だと落胆させるによせ、自分は大丈夫だと安心させるにせよ、いずれにしても私たちが神を見つめ、救いを求めて神に依り頼むことを阻もうとしているのです。それによって私たちを神の救いの恵みから引き離し、永遠の滅びへと引きずり込もうとしているのです。私たちはこのような敵に取り囲まれていることをしっかり弁えていなければなりません。神は、この敵に対して、私たちの味方となって戦って下さるのです。

御子をさえ惜しまず死に渡された
 その戦いにおいて、神が私たちの味方となってして下さったことは「御子をさえ惜しまず死に渡された」ことでした。神の独り子イエス・キリストが、私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって、神は敵と戦って下さったのです。そのようにしてしか、私たちを訴える敵と戦うことはできなかったのです。なぜなら、この敵が私たちを罪人として訴え、有罪を証明しようとしている、その訴えや証拠は正しいからです。私たちは、自分は駄目だと落胆しているにせよ、自分はこれでいいのだと傲慢になっているにせよ、いずれにしても罪に陥っており、神の裁きにおいて有罪となって滅ぼされるしかない者です。神がそのような罪人である私たちの味方となって戦って下さるその戦いは、よく法廷ドラマに出て来るような、本当は有罪である被告を無罪にしてしまおうと暗躍する悪徳弁護士のような戦いではありません。それは正しくない戦いです。そのような不正な仕方ではなく、神はご自分の独り子を私たちの身代わりとして死に渡して下さったのです。神の独り子主イエス・キリストが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、本当なら私たちが受けなければならない罪人としての死を代って担って下さったのです。この御子キリストの身代わりの死によって、私たちは罪を赦されたのです。この主イエスの十字架の死による罪の赦しのゆえに、もはや敵対する者がどんなに私たちを訴えても罪に定めることはできないのです。それが33節の「だれが神に選ばれた人たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」ということです。「義としてくださる」とは、正しい者と認め、無罪と宣言して下さるということです。敵がどんなに私たちの罪を暴き立て、私たちに不利な証拠を突きつけても、神はキリストの十字架による償いのゆえに、私たちに無罪を宣言して下さるのです。神はそのようにして私たちを訴える敵と戦い、勝利して下さっているのです。

復活した主イエスの執り成し
 34節はその戦いをさらにもう一歩深く見つめています。「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」。先ほどの32節では、神が御子を死に渡して下さったこと、つまり主イエスの十字架の死が見つめられていましたが、34節では、十字架の死のみでなく復活が、そして復活した主イエスが天に昇り、父なる神の右に座っておられることが見つめられています。神が私たちを義として下さり、罪を赦して下さる恵み、つまり神が私たちの味方であって下さる恵みは、主イエスの十字架の死によってだけでなく、復活によって、そして天に昇り、父なる神の右に座っておられる主イエスが今もして下さっている執り成しによって与えられているのです。
 私たちは、主イエス・キリストによって与えられる救いを、十字架の死においてばかり見つめようとする傾向があるように思います。勿論主イエスの十字架の死は私たちの救いにおいて決定的に大事な出来事です。しかしパウロはここで「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエス」と言っています。十字架の死よりもむしろ復活を中心に主イエスの救いを捉えているのです。しかもただ復活したという事実をではなくて、復活して今も生きておられる主イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成して下さっていることを見つめているのです。私たちのために死んで下さった主イエス・キリストは、復活して今も生きておられ、天において、父なる神の右に座って私たちのために執り成して下さっているのです。このキリストによる執り成しのゆえに、私たちを罪に定めることができるものは何一つない、と確信をもって言うことができるのです。

神の右に座しておられるキリスト
 主イエスが復活して天に昇り、父なる神の右に座しておられることを私たちは毎週の礼拝で使徒信条において告白していますが、このことにはどのような意味があるのでしょうか。「全能の父なる神の右に坐したまへり」について、宗教改革者カルヴァンはこのように語っています。「この言い方は、かれが天と地との主権を持ち、すべてをすべ治め、かつ配慮するに十分な権能をもっておられる、ということを意味しているのである。これはエペソ1・20にいわれるとおりである」。このカルヴァンの導きに従ってエフェソの信徒への手紙の1章20、21節を読んでみます。「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」。このように、「神の右に座る」ということが言い表しているのは、主イエスが父なる神のみもとで、この世の全てのものを、さらに今の世ばかりでなく来るべき世においても全てのものを支配する権威、権能を与えられたということなのです。「神の右の座につく」という表現は本日共に読まれた旧約聖書の箇所である詩編110編に基づくものですが、そこでも、「わが主」と呼ばれている人が、敵のただ中で、支配する者として立てられることが「わたしの右の座に就くがよい」と言い表されているのです。

主イエスによる執り成し
 そして本日の箇所において大事なことは、このように天に昇り、父なる神の右の座に着いて全てを支配する権威を与えられた主イエスが、そこで、私たちのことを父なる神に執り成して下さっている、ということです。その執り成しはこの場合には「弁護」と言い換えてもよいでしょう。私たちに敵対するサタン、悪魔が、神の前で私たちを罪ある者として訴えようとしています。彼らの手には、私たちがこれまでに犯してきたあらゆる罪、露わになったものも、人の目からは隠しおおせたと思っているものも、また私たちが自分では全く気づかずに犯したものも含めて、全ての罪の膨大なリストがあります。そのリストに基づく訴えに対して私たちは反論することができません。しかしその時、神の右に座しておられる主イエスが、その権威をもって、私たちのために弁護して下さるのです。その弁護は、「この人にもこんな良い所がある、こういう罪を犯したのはこんなやむを得ない事情があったからだ」というような、情状酌量を求めるような弁護ではありません。そうではなくて主イエスは、「この人の罪に対する裁きは既に終わっている。神の独り子である私が、この人の罪を全て背負って十字架にかかって死んだのだ。だからもはや誰もこの人を罪人として裁き、有罪にすることはできないのだ」と宣言して下さるのです。それが、主イエスが父なる神の右に座って今私たちのためにして下さっている執り成しです。この主イエスの執り成しのゆえに私たちは、もはや誰も私たちを罪に定めることはできない、と確信することができるのです。私たち自身はまさに罪ある者であり、裁かれ、滅ぼされるべき者だけれども、この主イエスの執り成しのゆえに、私たちを訴える敵はもはや力を振るうことができないのです。神が味方であって下さるとは、この主イエスによる私たちのための執り成しが、今、父なる神のみもとでなされているということなのです。

キリストの愛から引き離すことができるものは何もない
 それゆえにこの確信は、35節にあるように「だれがキリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう」ということでもあります。主イエス・キリストが私たちのために執り成していて下さるとは、私たちがキリストの愛の中に置かれているということです。その愛から私たちを引き離すことができるものは何もないのです。35節には「艱難、苦しみ、迫害、飢え、裸、危険、剣」が並べられています。要するに私たちに襲いかかって来るいろいろな苦しみが敵として見つめられているのです。先程は、私たちの本当の敵は、私たちの罪を暴きたて、罪人として断罪しようとする力だと申しました。つまり不幸や苦しみが即ち敵なのではない、ということです。そのことをしっかり弁えていないと私たちは、不幸な時、苦しみのある時には敵に囲まれているが、幸福な時には敵はいないと思ってしまいます。そして、幸福や満足を用いて私たちを神から引き離し、滅びに引きずり込もうとする敵の策略に陥ってしまうのです。つまり苦しみや不幸だけが敵の攻撃なのではないことを私たちは知っていなければなりません。しかし同時に言えることは、パウロがここで語っているように、人生における様々な苦しみはやはりこの敵からの攻撃であることは確かです。苦しみ悲しみの中で、私たちが神の愛、主イエス・キリストの愛、神が味方であられることを見失ってしまうことが起るゆえに、それらはやはり大変危険な敵なのです。苦しみ悲しみの中においても、神が味方であられること、神の愛、主イエス・キリストの執り成しの恵みを信じて生きるなら、そこでは苦しみ悲しみは必ずしも危険な敵ではありません。しかし苦しみの中で私たちはしばしば、神が味方であられることが分からなくなります。主イエスの十字架の苦しみと死が自分のための救いのみ業であったことを見失います。主イエスが復活して、今、父なる神の右に座っておられ、自分のために執り成して下さることが見えなくなります。そうなると、苦しみ悲しみによって私たちを神の恵みから引き離そうとする敵の思う壷なのです。パウロはそのような危険を見据えて、ここで、どのような苦しみも、私たちをキリストの愛、キリストの執り成しの恵みから引き離すことはできないのだ、と語っているのです。

神の愛の勝利
 36節は、詩編44編23節からの引用です。この引用の意味は分かりにくいですが、おそらくパウロは、信仰者が苦しみを受けること、しかも「あなたのため」に、つまり神のため、信仰のために苦しみや迫害を受けることが、既に旧約聖書において語られていたことであり、決して予定外の、あるまじきことではない、ということを示そうとしているのでしょう。信仰をもって生きる者にも、いや信仰者であるがゆえにこそ、多くの苦しみが襲って来るのです。しかし37節には「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています」とあります。これらすべてのこと、これらすべての苦しみにおいて私たちは輝かしい勝利を収めている、ここは以前の口語訳では「勝ち得て余りがある」となっていました。原文の言葉は、「勝つ」という言葉の頭に「それ以上」とか「~を越えて」という言葉がつけ加えられているものです。勝利以上の勝利、勝利を越える勝利を得ている、というような意味です。私たちは、私たちをキリストの愛から引き離そうとする様々な苦しみに対してそのような完全な勝利を得ているのです。それは私たちの力によることではありません。神の助けを得て私たちが戦って勝利するのでもありません。全ては、主イエス・キリストによって神がして下さったことです。主イエスが私たちの罪のために十字架にかかって死んで下さり、復活して天に昇り、父なる神のみもとで、私たちのために執り成しをして下さっている、私たちの弁護をして下さっている、その主イエスによる救いの恵みが、この世の全てのことに勝利して、私たちを神の愛の下にしっかりと保って下さるのです。

キリスト信者の確信
 38、39節でパウロはその確信を高らかに語っています。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。「死も命も」とあります。人間の苦しみの根本にあるのは死です。私たちを神の愛から引き離し、神が味方であることが一番見えなくなってしまうのが死の力なのです。しかしその死も、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできません。主イエスの十字架の死と復活がその根拠です。神の子である主イエスご自身が死の苦しみを味わって下さったのです。そして父なる神はその死に勝利して主イエスを復活させ、新しい命、永遠の命を与えて下さいました。そのことによって神は私たちにも、死の支配からの解放と新しい命、永遠の命を約束して下さったのです。主イエスによる神の愛の中にいる私たちは、肉体の死を越えた彼方に、復活と永遠の命の希望を見つめ、それを待ち望むことができるのです。「命も」とあります。死も苦しみですが、命もまた苦しみなのです。生きているがゆえに味わわなければならない様々な苦しみ悲しみがあります。それも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできません。私たちの人生にどのような苦しみ悲しみ困難があっても、それらの全てが主イエスの執り成しの中で、28節に語られていたように、「万事が益となるように共に働く」ことを私たちは確信しているのです。「天使も、支配するものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも」とあります。これらは皆、この世界に働いている様々な人間を越えた霊的な力を指しています。現代の私たちは、この世界や人生に起ることを霊の力の仕業と考えることはあまりなくなっていますが、それでも、様々な占いや運勢判断などは無くなりません。苦しみや不幸の原因をはっきりさせて、そこから抜け出したいという願いがそういうものを生んでいるのです。しかし、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛を知るなら、その愛の下では、どのような占いも、運勢判断や運命鑑定も必要ないのです。どのような占いも霊の力も及ばない、神の子キリストによる執り成しが私たちには与えられているからです。「現在のものも、未来のものも」とも言われています。現在起っていることが私たちを動揺させ、これから起ることへの不安があります。しかしどのようなことが起ろうとも、私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできないのです。「私たちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」これこそが福音の根本です。主イエス・キリストが今も、父なる神のみもとで私たちのために執り成して下さっているゆえに、この神の愛から私たちを引き離すことができるものは何一つない、この確信こそが、キリストの福音を信じて生きる私たちの信仰なのです。

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