主日礼拝

神が味方であるなら

「神が味方であるなら」牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:列王記下 第6章8-23節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第8章31-39節
・ 讃美歌:276、431、455、74

2017年の元旦に
 主の2017年を迎えました。その元日を主の日として迎え、まさにこの礼拝をもって新しい年を歩み出すことができることを喜んでいます。この礼拝においてご一緒に読む箇所として、ローマの信徒への手紙第8章31節以下が与えられました。11月の最後の、アドベントの第一主日まで、ローマの信徒への手紙を礼拝において読み進めてきておりまして、8章30節まで来ていました。12月中はクリスマスを覚えるために中断しており、本日からその続きに戻ったのですが、この2017年の元旦に読むのにまことに相応しい箇所が与えられたと思い、神の導きに感謝しています。

キリストによる福音のまとめ
 ローマの信徒への手紙の第8章は、この手紙の第一部の最後の章です。第一部においてパウロは、主イエス・キリストによって私たちに与えられている救いとはどのようなものかを語っています。つまり、教会が信じている福音の内容を語っている部分の締めくくりが第8章なのです。31節以下はその第8章のさらに締めくくりです。31節の冒頭には「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか」とあります。「これらのこと」は、この手紙においてこれまで語ってきたことの全てを指していると言うことができます。キリストによる救いの福音とは要するにこういうことだ、というまとめがここでなされているのです。

神が味方であるなら
 そのまとめにおいてパウロが最初に語っているのは、31節後半の、「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」ということです。神が私たちの味方である、キリストによる救い、福音を一言でまとめるならこういうことなのです。この「もし神がわたしたちの味方であるならば」という言い方は、もしもそうであると仮定するならば、という意味ではありません。パウロが言っているのは、神が私たちの味方なのだから、誰も私たちに敵対することはできない、という確信です。誰も敵対することのできない神が自分の味方であることを確信すること、それがキリストの福音の根本なのです。

私たちのために
 宗教改革者カルヴァンはこの言葉について次のような意味のことを言っています。「この『神が味方である』ということこそ、私たちの唯一の支えである。これがなければ、どんな幸福の中にあっても私たちに確かな支えはないが、これがあれば、どんな苦しみ悲しみ逆境の中にあっても私たちは支えられる」。このカルヴァンの言葉から教えられるのは、神が味方である、というのは、私たちの人生が順風満帆で、願いが適い、幸せであることとは違うということです。自分の望みや願いが適っている世間的に見て幸せな人生においても、神が味方ではないということがあるし、逆に不幸のどん底にあると思われるような人生においても、神が味方であることがあるのです。つまり神が味方であるというのは、神が私たちの願いや計画の実現のための手助けをしてくれる、神が援軍となって自分の望みを達成させてくれる、ということではありません。そういう意味では「味方」という訳は相応しくないとも言えます。ここは原文をそのまま訳すと、「神が私たちのためにあって下さる」となります。神が私たちのためにあって下さる、それは私たちの願いを適えて下さるとか力を貸して下さるということではありません。神は私たちの思いや願いを超えた仕方で私たちのための救いを与えて下さるのです。ですから私たちは自分の願いへの手助けを神に求めるのではなくて、神が私たちのために何をして下さるのかを見つめていかなければなりません。神が私たちのためにして下さっていることは何か、それが次の32節に語られているのです。「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」。この「わたしたちすべてのために」の「ために」が31節において「味方である」と訳されていたのと同じ言葉です。神が私たちのためにして下さったのは「御子をさえ惜しまず死に渡された」ということだったのです。つまり神が味方であることは、神の独り子イエス・キリストの十字架の死においてこそ見つめられているのです。私たちがどれだけ幸せな人生を送っているか、自分の願いが適っているか、という所で神が味方であるかどうかを決めるのは見当違いなことなのです。
 神が私たち全てのためにその御子をさえ惜しまず死に渡して下さった、パウロは、クリスマスに始まり十字架の死に至る主イエスの地上のご生涯をそのように言い表しています。そこに神の大いなる恵みを見ているのです。神はそのようなことをする義務や義理は全くないのに、私たちの救いのためにそれが必要なので、恵みのみ心によってそうして下さったのです。私たちの救いのためにこのことが必要だったのは、私たちが罪人だからです。主イエスの十字架の死は私たちの罪を全て背負っての、身代わりとしての死でした。神の独り子である主イエスが、私たち罪人のために、身代わりとなって死んで下さったのです。先ほどの、私たちの「ために」という言葉は「代って」と訳すこともできます。神は私たち罪人を救うために、私たちに代って御子を死に渡して下さったのです。そのことによって、神に背き逆らい、隣人を傷つけてばかりいる私たちの罪を赦して下さったのです。御子キリストの十字架の死による罪の赦しこそがキリストの福音の根本です。それこそが「神が私たちの味方である」ことの具体的な内容なのです。

御子をさえ惜しまず
 32節の「御子をさえ惜しまず」という言葉は、旧約聖書、創世記第22章の話を思い起こさせます。神の民イスラエルの最初の先祖アブラハムが、年をとってからようやく与えられた独り息子イサクを「焼き尽くす献げ物」として献げなさい、という命令を神から受けた話です。アブラハムにとってイサクはまさに「独り子」であり、神の祝福の生きた印でした。そのイサクを自分の手で殺して献げよと神はお命じになったのです。アブラハムがその命令の通りにイサクを殺そうとした時に神が彼に語りかけた言葉が22章12節にこのように記されています。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」。本日のところの「その御子をさえ惜しまず死に渡された方」はこの神の言葉を受けています。私たちはあのアブラハムの物語を読む時、こんなことを命じてアブラハムの忠誠を試そうとする神ひどい、と思いますが、この話の本当の意味は、神の独り子主イエスの十字架の死によってこそ示されたのです。神ご自身が、このアブラハムと同じ立場に身を置いて下さったのです。アブラハムの場合には、神はイサクの代りに献げる小羊を用意して下さっていました。しかし神の独り子イエス・キリストの場合には、まさに主イエスご自身が犠牲の小羊として死に渡されたのです。アブラハムが最後には免れた苦しみを、神はご自身で負われたのです。そのことによって、本来死ななければならない罪人である私たちが救われ、生かされたのです。「その御子をさえ惜しまず死に渡された」は、私たちの救いのために御子の命を犠牲として下さった神の愛を語っています。このことこそ、「神が私たちの味方であられる」ということなのです。

義として下さる神
 このように御子をさえ惜しまず死に渡して下さった神なのだから、御子と一緒に全てのものを私たちに賜らないはずはない、と32節後半は語っています。神が味方であるとは、神が全てのものを与えて下さるということです。これも「私たちが望むものは何でも」ということではありません。神は、私たちの救いのために本当に必要なものを全て与えて下さるのです。救いのために本当に必要なものとは何か。それが33節に語られています。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです」。神が私たちを義として下さる、これが私たちの救いのために本当に必要なものです。「義として下さる」とはどういうことでしょうか。ここには「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう」とあり、34節にも「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」とあります。訴えられ、罪に定められるという、法廷、裁判の場面が見つめられているのです。これは神の前での、神による裁きです。神による裁きの前に立つことが意識されているのです。それは将来、この世の終わりの時の最後の審判において、というだけではありません。私たちの日々の歩みは常に神の目の前にあります。私たちはいつも、神のまなざしの中を生きているのです。その神のまなざしに耐え得る生き方をしているでしょうか。自分は神に対しても隣人に対しても罪を犯していない、潔白だ、無罪だ、と主張することができるでしょうか。それはできません。私たちを訴え、罪に定める証拠は神の前にうず高く積まれています。私たちがどれだけ神に背き、隣人を傷つけ、悪い思いを抱き、なすべき正しいことを怠っているか、そのことを一つ一つ持ち出されたら私たちはぐうの音も出ません。しかしパウロはここで、それらの全ての不利な証拠にもかかわらず、もはや私たちを訴えて罪に定めることができる者は誰もいない、裁き主である神が私たちを義として下さる、つまり無罪を宣言して下さるのだ、と言っているのです。それは、神が私たちのために御子をさえ惜しまず死に渡して下さったからです。御子イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って身代わりになって死んで下さったからです。罪人である私たちが、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しによって、神のみ前で義とされ、救いを与えられる、神が私たちの救いのために本当に必要なものを全て与えて下さるとはそういうことであり、それが、神が味方であるということなのです。

「ハイデルベルク信仰問答」問60
 求道者会で学んでいる「ハイデルベルク信仰問答」の問60はこのことを印象深い言葉で語っています。「どのようにしてあなたは神の御前で義とされるのですか」という問いです。その答えは、「ただイエス・キリストを信じる、まことの信仰によってのみです。すなわち、たとえわたしの良心がわたしに向かって、『お前は神の戒めすべてに対して、はなはだしく罪を犯しており、それを何一つ守ったこともなく、今なお絶えずあらゆる悪に傾いている』と責め立てたとしても、神は、わたしのいかなる功績にもよらずただ恵みによって、キリストの完全な償いと義と聖とをわたしに与え、わたしのものとし、あたかもわたしが何一つ罪を犯したことも罪人であったこともなく、キリストがわたしに代わって果された服従をすべてわたし自身が成し遂げたかのようにみなしてくださいます。そして、そうなるのはただ、わたしがこのような恩恵を信仰の心で受け入れる時だけなのです」。神の前で私の罪を責め立て、訴えるのは誰か他の人ではありません。私の良心が、つまり自分自身を見つめている心の中のもう一人の自分が、お前は罪人だ、人には隠しているがお前の心の中にはこんなどす黒い罪があり、悪い思いがあり、お前の生活にはこんな問題があり、なすべきことが出来ていない現実があるではないか、と訴えるのです。そしてその訴えは正しいのです。反論の余地はないのです。しかし、私たちを裁き、判決を下す神は、その全ての訴えを却下して、私たちを義として下さる、無罪を宣言し、救いを与えて下さるのです。それは、御子イエス・キリストが十字架の死によって私たちの全ての罪の償いを成し遂げて下さっているからです。御子イエス・キリストの十字架の死によって、神が私たちを義として下さっているのだから、もはや私たちを訴えて罪に定めることは誰も出来ない、この救いが、私たちの良い行いによってではなく、イエス・キリストを神の子、救い主と信じる信仰によってのみ与えられている、パウロがここで福音のまとめとして語っているのはそのことなのです。

宗教改革500年
 この新しい年、2017年は、ルターの宗教改革から500年目に当る記念の年です。つまり私たちプロテスタント教会の誕生から500年ということです。宗教改革は、様々な社会的な要因によって時代が変わろうとしていた中で必然的に起ったという面もありますが、しかしその引き金となったのは、マルティン・ルターがこのキリストによる神の義を聖書の中に再発見したことでした。彼は修道士として日々修行に励んでいましたが、どんなにつらい修行を積んでも、自分が神の前で義とされるとはどうしても思えずに苦しんでいました。その彼が聖書との格闘の中で示されたのが、義は自分の良い行いによって獲得するものではなくて、神が、御子をさえ惜しまず死に渡して下さったその大いなる恵みによって与えて下さるものだ、ということでした。自分の心、良心が、お前は罪人だとどんなに責め立てても、神はキリストによる贖いによって私を義として下さっている、だから私を訴えて罪に定めることができる者はもはや誰もいない、その信仰による義を与えられた時、彼は新しく生き始めたのです。彼だけが新しく生き始めたのではなく、彼が語るこの福音によって多くの人々が新しくされていき、教会が生まれ変わり、新しい時代が拓かれていったのです。

神の前に個人として立つ
 罪人である自分を神がキリストによって義として下さっている、そのようにして神が味方であって下さる、この神の義の福音は、一人一人の人間を、神の前に個人としてしっかりと立たせます。一人一人の人間が、神のまなざしの前で、勿論自分が罪深い者であることを恐れをもって自覚しつつ、しかしその罪を神がキリストの十字架によって赦し、義として下さっていることを信じる喜びと感謝の中で、悔い改めつつ、神に従って生きる者となるのです。そのように神に義とされた感謝に生きる一人一人が共に集い築いていく共同体として教会が再建されていきました。それまでは、教会とは聖職者たちがやっているものであり、そのままでは地獄に行くしかない罪人である一般の人々は、聖職者によって与えられる救いを様々な儀式によって意味も分からずに受ける、教会とはそういう所だったのです。このように、ルターによる神の義の再発見は、神の前で生きる個人が確立していく土台となりました。このことが、教会を新しくすると共に、中世から近代へと社会が変わっていくことの基礎ともなったのです。
 神の前で、恵みによって義とされた者としてしっかりと立つことができた人間は、人々の前でも、この世を支配する人間の権力の前でも、それに飲み込まれることなくしっかりと立つ者とされます。ルターはカトリック教会による査問を受けた時に、「私はここに立つ」、この福音にこそ立つとはっきり宣言しました。神に義とされた者は、人間による訴えや、権力によって罪に定められることを恐れることはなくなるのです。本日の箇所の最後のところに語られているように、この世のどんな被造物も、キリスト・イエスによって示された神の愛から私たちを引き離すことはできないからです。これがキリストによる救いの福音の神髄であり、宗教改革、プロテスタント教会の信仰の神髄でもあります。2017年の年頭にこの箇所を与えられたことはその意味でまことに相応しいことなのです。そしてそれは私たちの大きな課題でもあります。宗教改革500年を迎える私たちは、ただ500周年記念のお祝いをすればよいのではありません。ルターが再発見した神の義の福音によって私たち自身が生かされ、神のまなざしの前で義とされた個人としてしっかりと立ち、人を恐れず神のみを恐れて生きる者となり、そのような信仰による共同体として教会を築いていくことが、特にこの年の私たちの大事な課題なのです。そしてその課題は、私たちが自分の力や努力、正しさによって実現していけるものではありません。神が味方であって下さる、御子イエス・キリストによって私たちを義として下さっている、そのことに本当に目を開かれていくことによってこそ、私たちはこの課題を実現していくことが出来るのです。

目を開かれるなら
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記下第6章8節以下はこのことにおいて私たちに励ましを与えてくれます。預言者エリシャによってイスラエルへの攻撃をいつも失敗させられていたアラムの王は、大群をもってエリシャのいる町を取り囲みました。エリシャの召し使いはそれを見てうろたえ、「ああご主人よ、どうすればいいのですか」と言いました。しかしエリシャは「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願ったのです。すると彼の目が開かれ、火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちていることが見えたのです。敵の大群に取り囲まれている、それが私たちの目に見えるこの世の現実です。私たちはそのことしか見えなくてうろたえ、もうだめだ、救いはない、と思ってしまうのです。しかし本当に目を開いて見るなら、私たちを取り囲んでいる敵よりもはるかに多い、はるかに力強い神の軍勢が私たちを守っていることが見えるのです。信仰の目を開かれることによって、神が味方であることが本当に分かってくるのです。信仰の目が開かれるとは、神が私たち全てのために、その御子をさえ惜しまず死に渡して下さり、御子イエス・キリストが私たちの罪の赦しのために全ての罪を背負って死んで下さったことを信じ受け入れることです。その時、神が私たちの本当の味方であって下さることがはっきりと分かるのです。

聖餐にあずかりつつ
 これから、今年最初の聖餐にあずかります。聖餐は、御子イエス・キリストが私たちの救いのために十字架にかかり、肉を裂き血を流して私たちの罪の赦しのために死んで下さり、神の義を与えて下さった、その救いの恵みを心と体の全体で味わい、私たちが主イエスと一つとされて歩むために備えられている恵みの食卓です。聖餐にあずかることによって私たちは、神が味方であって下さることを、愛する御子をさえ惜しまず死に渡して下さった方が、御子と一緒に全てのものを賜らないはずがない、という恵みを味わうのです。聖餐にあずかりつつ歩むキリスト信者は、「誰が私たちを訴えるでしょう、人を義として下さるのは神なのです。誰が私たちを罪に定めることができましょう。十字架にかかって死んで、復活して下さった主イエスが、神の右に坐して執り成して下さっているのです。キリストによって示された神の愛から私たちを引き離すことができるものはこの世に何もないのです」という喜びと確信の内にこの年を生きることができるのです。

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