夕礼拝

主よ、とんでもないことです

「主よ、とんでもないことです」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第52編10節
・ 新約聖書:使徒言行録 第10章1-33節
・ 讃美歌:155、528、77

 本日の、コルネリウスという人へキリストの福音が宣べ伝えられた物語は、使徒言行録の中でもとても長い分量を割いて記録されています。それは、キリストを信じる教会が、さまざまな人々へ、さまざまな地域に伝道をしていく、ということにあたって、とても重要な出来事だったからです。

 主イエス・キリストは、十字架で死なれ、復活されて、旧約聖書に預言されていた救い主であることを示されました。主イエスが十字架に架かられる前から従っていた使徒たちは、確かに主イエスの十字架の死を見届け、そして確かに復活された主イエスと出会いました。そして、主イエスは天に上げられました。その時、このように約束をなさいました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」
 主イエスが成し遂げて下さった救いの御業は、ユダヤ人がいるエルサレムばかりではなくて、もっと広いユダヤの地域、そしてユダヤ人ととても仲が悪かったサマリア人の地域、そして、地の果てに至るまで、世界中に主イエスの救いが宣べ伝えられる、と約束されたのです。
 そして、聖霊が降り、主イエスを信じる者たちの群れ、教会が誕生し、主イエスの救いを証言し、宣べ伝え始めました。エルサレムのユダヤ人たちにこの福音はどんどん宣べ伝えられ、ユダヤ人のキリスト者が多く生まれました。

 しかし、使徒たちをはじめ、ユダヤ人は、心にとても分厚い壁を持っていました。それは、ユダヤ人ではない者たち、つまり異邦人に対する壁です。ユダヤ人は、自分たちが割礼というしるしを受けた、選ばれた神の民であることをとても大切にし、誇りにしていました。自分たちが正しく、清い神の民であり続けるために、神に与えられた律法を厳格に守っていましたし、異教の神を拝んだり、乱れた風習を持つ異邦人を遠ざけて、付き合わないようにしていたのです。ユダヤ人にとって異邦人は汚れた者たちで、神の救いには与れない者たちでした。軽蔑し、見下す思いすら持っていたでしょう。

 神の御子である主イエスは、ユダヤ人として人となってお生まれになり、ユダヤ人が旧約聖書の時代からずっと待ち望んでいた救い主として来られました。ユダヤ人たちにとっては、神が自分たちのために遣わして下さった救い主が、とうとう来て下さった。神が、自分たち神の民であるユダヤ人への約束を果たして下さり、自分たちための救いを成し遂げて下さった。主イエスを救い主と信じた者たちは、そのような思いだったでしょう。
 しかし、その待ちに待って与えられた救いが、ユダヤ人ではない者にも、自分たちと同じように与えられる。割礼を受けていない、神の民ではない、汚れているはずの者にも与えられるのだと言われたら、どうだったでしょうか。それは彼らにとって、とんでもないことだったのです。

 神は、ユダヤ人を、ご自分の救いの御業を行うために選ばれ、神の民となさいました。けれど、その御心は、すべての、全世界の人をお救いになることだったのです。
 それは今日お読みした旧約聖書のイザヤ書にも預言されていたことです。
「主は聖なる御腕の力を 国々の民の目にあらわにされた。
 地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ。」
 地の果てまで、すべての人が、主イエスの救いを信じ、皆が、新しい神の民となる。これが、神が望んでおられることなのです。

 そして、この神の御計画は、使徒言行録のこれまでの箇所においても、着実に進められていました。エルサレムでキリスト教会が迫害されると、人々が散っていって、ユダヤとサマリアに行き、そこで福音を宣べ伝えました。また、エチオピアの宦官、つまりユダヤ人ではない、異邦人である者に、フィリポという弟子が遣わされて、聖書を説き明かして主イエスのことを伝え、洗礼を授けるということがありました。

 しかし、使徒たち、ユダヤ人のキリスト者たちの教会の中では、深く染みついた、自分たちが選ばれた神の民であるという意識、そして異邦人は神の救いに与れない、汚れた者たちだという意識を、すぐに拭い去ることは出来なかったと思います。遠い先祖の時代から、何代も何代も受け継いで、守ってきた精神だったのです。

 神の御心が行われるために、地の果てまで福音が宣べ伝えられるために、ユダヤ人のキリスト者たちは、変わらなければなりませんでした。
 今日の箇所は、そのために、異邦人であるコルネリウスと、ユダヤ人であるペトロに、聖霊なる神が豊かに働かれて、異邦人へもキリストが宣べ伝えられた、その第一歩の場面なのです。
 このコルネリウスという一人の異邦人への救いの知らせが、異邦人もユダヤ人と同じようにキリストの救いに与る確かな第一歩となり、そしてここから、すべての異邦人に、全世界に救いは広まって、今この日本に地にいるわたしたちにも、救いの知らせが届けられ、ここに教会があるのです。

 わたしたちは、主イエスを伝えてもらった異邦人コルネリウスの立場でもあり、また主イエスを伝える側のペトロの立場にもなります。
 しかしどちらにおいても、主イエスの福音が語られ、聞かれ、宣べ伝えられるところで、力強く働いておられるのは神ご自身である、救いの御業をなさるのは神ご自身であるということが、今日の箇所に示されています。

 さて、わたしたちはコルネリウスとペトロの両方の立場から、起こった出来事を辿ってみたいと思います。
 まずは、コルネリウスです。彼はカイサリアという町にいた、「イタリア隊」と呼ばれる部隊の百人隊長であった、とあります。カイサリアというのは、カエサル、つまりローマ皇帝の名前を冠した町であり、当時ローマ兵がユダヤ一帯を支配するために要所としていた町でした。そこに駐留していた軍隊の百人隊長であったのが、このコルネリウスという人です。

 この人は、ローマの軍人であり、異邦人でありながら、2節にあるように「信仰にあつく、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし、絶えず神に祈っていた」とあります。
 彼は割礼を受けていませんが、ユダヤ人と同じように、唯一の神を信じ、家族ともども神を畏れていました。そしてその信仰が、生活や行動にしっかりと結びついていました。民に多くの施しをし、絶えず神に祈る、そのような人でした。
 彼の部下と召使は、あとの場面でコルネリウスのことを、「正しい人で神を畏れ、すべてのユダヤ人に評判の良い人です」とペトロに紹介しています。
 彼は敬虔な信仰を持ち、救いを神に求め続けていた人でした。そして、神はその願いと祈りを確かに聞き届けて下さいました。この一人の異邦人、コルネリウスが主イエスの十字架と復活の救いに与るために、あらゆる手を尽くして御業を行われたのです。

 神は天使を遣わして、幻で「コルネリウス」とその名前を呼び、語りかけられます。神は救おうとされる者、一人一人の名前を呼び、召し出されます。
 彼は怖くなりますが、「主よ、何でしょうか」とお答えします。すると天使が、ヤッファへ人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい、と命じます。天使が立ち去ると、コルネリウスは、ペトロがどこの誰だかも知りませんが、このことに関して問うたり、疑ったりせず、すぐに二人の召使いと、信仰のあつい部下の兵士を呼んで、ペトロがいると示されたヤッファへと送り出しました。そして、ペトロがやってきてくれるのを待っていたのです。しかも、ただ待っていたのではありませんでした。彼は、親類や親しい友人を呼び集めて、皆でペトロの話を聞こうと準備を整えて待っていたのでした。
 救いを求めていたコルネリウスは、神の呼びかけに答え、御言葉に素直に従って、愛する者たちと共に、神がなさること、語ろうとしておられる御言葉を受け入れる準備をしたのです。

 さて、その一方、コルネリウスが幻を見た翌日に、今度は使徒であり、ユダヤ人であるペトロに幻が示されました。天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りてくる幻です。その中にはあらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていたと言います。そして、「ペトロよ、身を起こし、屠って食べなさい」という声がしました。
 しかし、ペトロは言います。「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません。」
 ユダヤ人は律法の規定に従って、食べて良いもの、食べてはいけないものを守っていました。例えばレビ記の11章には、「地上を這う爬虫類はすべて汚らわしいものである。食べてはならない」とあります。大きな布の中には、他にも律法に定められた、汚れているとされて食べてはいけない、様々な生き物が入っていたのでしょう。律法を守ってきたペトロは、神の仰ることに「主よ、とんでもないことです」と抵抗をしたのです。
 しかし声は「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と言います。こういうことが三度もありました。
 ペトロはこれまでユダヤ人として、神の民であるための律法をしっかり守ってきたし、そのようにして自分を汚れないように、清くしていることは、自分の救いのためにとても大切なことでした。これは、ユダヤ人たちがずっと先祖代々守り続けてきたものでした。そう簡単に止められることではありません。ペトロは神が求めておられることを理解できず、これまで自分が守ってきたことを何とか守り続けようとしたのです。
 そして、ペトロはこの幻について思いめぐらせ、思案に暮れます。

 するとそこに、コルネリウスの使いが、ペトロが滞在している家を幻に従って探し当て、声をかけ「ペトロと呼ばれるシモンという方が、ここに泊まっておられますか」と尋ねました。
 それでもなお、ペトロが幻について考え込んでいると、「霊」が、つまり聖霊が、ペトロに語りかけ、促すのです。「三人の者があなたを捜しに来ている。立って下に行き、ためらわないで一緒に出発しなさい。わたしがあの者たちをよこしたのだ。」
 聖霊なる神ご自身が、尋ねてきた異邦人はわたしがよこしたのだと、言うのです。そうして、ペトロはコルネリウスの使いと会い、翌日ヤッファを立って、コルネリウスが親類や友人たちと共に待っているカイサリアに到着したのでした。

 ペトロは自分が見て、思いめぐらし続けていた幻と、聖霊ご自身が語り促したこと、そして、こうして異邦人のコルネリウスが、神の幻によって自分を迎えに来て、家に招いたという状況に置かれて、やっと神の御心が明らかにされてきました。
 大きな布の中の汚れた物とは異邦人のことです。しかしそれを今や、神ご自身が清めたと仰る。神が清めた物を、ペトロが清くないなどと言ってはいけない、異邦人も神によって清くされ、主イエスの救いに与り、清い者として神の民に加えられるのだということを、ペトロは示されたのです。
 ですから、コルネリウスたちに会った時に、ペトロはこのように言うことが出来ました。
 「ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人も清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです。」

 ペトロが、これまで異邦人に対して心の中に築き上げてきた壁や、体にしっかりと染みついてしまった思いは、このように神の働きかけ、聖霊の導きによって、丁寧に丁寧に、しかししっかりと打ち壊されていきました。
 主イエスの救いに与ることは、ユダヤ人であることや、律法を守っていることが条件なのではなくて、ただ神が「清い」とされること、神の恵みだけによるのです。ですからもはや、ユダヤ人も異邦人も関係ない。そのことをペトロは示されました。
 罪を赦されて、救われた者となり、主イエス・キリストの新しい命に生きるということは、ただ神が一方的に与えて下さる恵みを受けることなのです。
 ペトロは、コルネリウスに主イエスの福音を告げるにあたって、これまでの自分の思いや大切にしてきたことを捨てて、神が思っておられること、なそうとしておられることを受け入れ、従っていくことを求められました。

 特に伝道において、今日の聖書の箇所は、受ける側より、伝える側の方が、より変えられることを必要としていると語ります。伝える者は、まだ救いを知らない者より優れているのではありません。また伝道は相手を自分が説得して変えてやろう、とすることではありません。むしろ自分自身が、神の御言葉によって、古い自分を打ち砕かれ、新しく変えられていく。そうした中で、神の思いを知らされ、聖霊に導かれ、用いられていくのです。
 ペトロは自分の意志や計画で、カイサリアで伝道したいと思っていたのではありません。神の幻に導かれて、聖霊に促されて、とうとうカイサリアに来たのです。

 このように、主イエスの救いが宣べ伝えられる時に、そこで働かれるのは徹底的に神ご自身です。
 その神のお働きのもとで、受ける側のコルネリウスも、神に祈り求め、幻が示され、御言葉に従いました。また、ペトロも、「主よ、とんでもないことです」と言いつつも、幻を心に留め、聖霊の導きに従い、思いを変えられて、遣わされていきました。
 神がなさることは、わたしたちからすると、とんでもないことです。この「とんでもない」という言葉の原語は「決してない、断じてない」という言葉です。人の思いにおいては、決してないと思われるようなことを、神は救いのためになさるのです。
 罪人をお救いになるために、神の御子が人となり、十字架にかかり、復活されました。そこからして人の思いを超える御業です。そしてその福音を一人に届けるために、聖霊が働いて下さり、あらゆることをして導いて下さるのです。わたしたちの思いを超え、理解を超え、すべての者に救いをもたらす大いなる力で、神は一人一人の罪人の名を呼び、救おうと働きかけて下さいます。その神の大いなる力の中で、主イエスの福音を受ける側も、宣べ伝える側も、神の御言葉に従い、受け入れていくことが大切なのです。

 このようにして、一人の異邦人、コルネリウスへ主イエスの救いが伝えられたことは、ここから全異邦人、つまり、地の果てへと、そして、異邦のさらに果ての地にあるような、日本にいるわたしたちにも、主イエスの救いが宣べ伝えられるための、大きな一歩であったのです。ユダヤ人も異邦人もなく、すべての人々に、主イエスの救いが与えられたのです。

 「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない。」
 人が、だれだれは汚れているとか、清い者だと定めるのではありません。人が罪を定めたり、赦したりするのではありません。ただ神だけが、罪を審く方であり、罪人を清くして下さる方です。
 コルネリウスがペトロを迎えてひれ伏した時、ペトロは26節で「お立ちください。わたしもただの人間です」と言ってコルネリウスを立たせました。ここは、口語訳聖書だと、「わたしも同じ人間です」と言っていました。これまで異邦人は汚れており、神の救いに与れない者だとしていたユダヤ人のペトロが、「わたしも同じ人間です」と、神の御前では、わたしもあなたも同じなのだと、言いました。
 神の御業に従っていく時、人の思いや隔たりは消え去って、ただ神に救われた同じ人間として、共に神の御前に立つのです。

 わたしたちも、他の何者でもない、皆ただの同じ人間、同じ罪人です。
 そして神は、主イエスの十字架と復活の救いの御業によって、罪人であるわたしたちを「清い」と言って下さいます。だから今、わたしたちは共に神の御前に立ち、共に神を礼拝し、御言葉を聞き、神の国の食卓に与ることができるのです。

 神がコルネリウスのためにあらゆる方法を通して救いを示して下さったように、ここにいる一人一人の救いのためにも、神は名前を呼び、色々な人を遣わし、御言葉を聞かせて、主イエスの救いを知らせて下さいます。そしてまたその一人から、救いは広がってゆきます。
 また、わたしたちはペトロのように遣わされます。ある一人の救いのために、神によって変えられ、新しくされ、キリストの救いを伝える者とされていきます。
 そうして神ご自身がなさって下さる御業を受け入れ、従い、共に神の御前に立つとき、人の心の壁や隔たりは取り除かれて、そこに主イエスを救い主と告白する、まことの新しい神の民が造られていきます。そして、「地の果てまで、すべての人が わたしたちの神の救いを仰ぐ」という神の御心が実現していくのです。

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