主日礼拝

主が心を開かれたので

「主が心を開かれたので」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 列王記下、第 6章 15節-17節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第16章 6節-15節
・ 讃美歌 ; 337、443、521

 
第二回伝道旅行
 パウロの第二回伝道旅行への出発のことを、私たちは先週の礼拝において、使徒言行録15章36節以下から読みました。この旅行の出発に際してパウロは、同僚であったバルナバとの対立による別れという悲しみを体験しました。しかしこの旅の途上で、テモテという若者との出会いが与えられました。それは第一回伝道旅行において彼が福音を宣べ伝え、教会が生まれた小アジア地方の町リストラを再び訪れた時のことでした。パウロは以後、このテモテを伝道旅行に同行させます。テモテはパウロの助手となり、パウロのもとで、キリストの福音を宣べ伝える伝道者として育てられていったのです。テモテとの出会いは、バルナバとの別れによる悲しみを癒し、新たな力、勇気を与えてくれたに違いありません。

テモテの割礼
 ところで先週読んだ3節には、パウロがこのテモテを伝道旅行に連れて行くに際して、「その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた」とあります。先週の説教においてはこのことに全くふれませんでしたが、早速ある方から質問を受けました。「パウロは何故テモテに割礼を受けさせたのだろうか」ということです。割礼を受けるというのは、異邦人がユダヤ人になるための儀式です。パウロは、15章に語られていたエルサレム使徒会議において、異邦人がキリスト教会に加えられる時に、割礼を受ける必要はない、ということを強く主張しました。つまり私たちの救いは、ユダヤ人になることによって与えられるのではなく、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じることによって与えられるのだ、ということです。このことがエルサレム会議において確認されました。ですから、4節に「彼らは方々の町を巡回して、エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定を守るようにと、人々に伝えた」とありますが、「エルサレムの使徒と長老たちが決めた規定」は第一に、異邦人は割礼を受けずに教会に加わることができる、ということを語っていたのです。また、これも先週申しましたように、パウロはアンティオキアの教会で、ペトロが割礼を受けていない異邦人との食事の交わりから身を引いてしまうということがあった時に、それはキリストの福音にもとることだとして厳しく批判した、ということがガラテヤの信徒への手紙に語られています。ユダヤ人と異邦人を区別する印である割礼にこだわることに対してパウロはそのように徹底して批判的だったのです。それなのに何故テモテに割礼を授けたのか。しかも「その地方に住むユダヤ人の手前」というのは、ユダヤ人たちに気兼ねして、という感じです。それは、私たちがこれまで見てきた、福音の真理を一ミリたりとも曲げようとしないパウロの姿とは違うのではないか、パウロらしくないのではないか、そういう疑問が当然起ってくるのです。
 これは大事な疑問ですので、本日は先ずそれに触れておきたいと思います。テモテは、1節にあるように「信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ」人でした。つまりユダヤ人と異邦人のハーフだったのです。パウロが彼を伝道に伴おうとしたのは、2節に「彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった」とあるように、彼の信仰や人となりがすばらしいものであった、ということがあるでしょう。しかしそれだけではなく、彼がこのようにユダヤ人と異邦人との間に生まれた人だったことも、その理由の一つだったのではないかと思うのです。パウロは、旧約聖書の時代の神の民の歴史を担ってきたユダヤ人のキリスト信者たちと、主イエス・キリストを信じて新しく神様の民に加えられた異邦人のキリスト信者たちとの間の架け橋となろうとした人です。そのことは使徒言行録における彼の伝道の歩みからも分かりますし、パウロ自身が書いた手紙を読んでも分かります。つまり彼はユダヤ的な伝統を否定したのではなくて、そこに神様の救いの歴史があることを前提としつつ、主イエス・キリストにおいて神様がその歴史を新しく前進させ、異邦人をも含めて救いを推し進めておられることを見つめているのです。そういう意味で、教会の歩みは、旧約聖書、ユダヤ人たちの歴史と決して切り離されてはならないものです。そこが切れてしまうと、教会の信仰は根無し草となり、あるいは糸の切れた凧のようになってしまうのです。それゆえにパウロは、教会において、ユダヤ人の信者と異邦人の信者とが一つとなること、一致協力していくことを大切に考えました。彼自身は異邦人への伝道を使命として与えられていることを自覚していましたが、その伝道がユダヤ人たちと無関係になるようなことは決してしようとしなかったのです。そのことは、本日の個所からも分かります。そしてこのことが、テモテを伝道旅行に伴うに際して割礼を授けた理由だと思うのです。それはまさに「ユダヤ人の手前」なされたことです。それは「気兼ねして」と言うよりも、テモテが今後、異邦人にもユダヤ人にも伝道をし、両者の関係を結びつけていく働きをすることができるために、ということです。もっと具体的に言えば、パウロとテモテの伝道とそれによって生まれる異邦人の教会が、ユダヤ人の信者たちにも受け入れられ、共に歩むために少しでも障害になることを取り除こうということです。ここには、パウロの驚くほどの柔軟さが現れています。彼は、キリストによる救いという福音の根本においては決して妥協せず、そこに堅く立ち続けました。しかしそのことによって彼は、具体的な伝道の仕方、人との関わり方においては、驚く程自由に、柔軟になることができたのです。コリントの信徒への手紙一の9章19節以下に、「ユダヤ人に対してはユダヤ人のようになった」ということから始まって、「全ての人に対して全てのものになった」と語られ、「福音のためなら、わたしはどんなことでもする」と言われている、その自由さ、柔軟さの中で、伝道旅行に伴っていくに際してテモテに割礼を授けた方がよいと判断したのだと思うのです。

聖霊に禁じられて
 さて話を本日の個所に戻しますが、テモテとの出会いに力づけられ、希望を持って伝道旅行を続けて行こうとしたパウロでしたが、6節には、「アジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられた」とあります。「アジア州で」というのは、具体的には、その中心都市であったエフェソでということだと思われます。アジア州での伝道において拠点となるのはエフェソの町です。パウロは先ずそこへ行って伝道しようと計画したのだと思うのです。ところが、そのことを聖霊によって禁じられた。それはどういうことだったのでしょうか。そのことは少し後に廻して、そのため彼らは「フリギア・ガラテヤ地方を通って行った」とあります。これは、聖書の後ろの付録の地図8「パウロの宣教旅行2、3」を見ていただくとわかりますが、エフェソに向かうには真っすぐ西へ行くところを、北に向きを変えたということです。そして7節には「ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」とあります。さらに北に向かい、黒海の沿岸地方にまで行こうとしたのが、今度は「イエスの霊」がそれを許さなかったのです。ここに語られているのは、パウロらが、「このように歩み、伝道しよう」と立てた計画を二度までも変更させられた、ということです。聖霊が禁じたとか、イエスの霊が許さなかったというのは、天から聖霊や主イエスの声が聞こえた、というよりも、何らかの事情によって計画を変更せざるを得なかった、ということだろうと思います。そのことを後から振り返って見た時に、あれは聖霊が禁じておられたのだ、主イエスの霊が別の道に向かわせようとしておられたのだ、ということに気づいた、ということだと思うのです。パウロたちが計画を変更しなければならなかった事情とは何でしょうか。それははっきりとは分かりません。ただ一つ、もしかしたら手がかりになるかもしれないのは、この時計画を変更してガラテヤ地方を通って行った、その歩みの中で、今日残されている「ガラテヤの信徒への手紙」が書き送られた教会が生まれたのではないか、ということです。「ガラテヤの信徒への手紙」の宛先の教会はどこなのか、ということについては学者の間で説が分かれています。一つの説は、第一回伝道旅行で生まれたイコニオン、リストラ、デルベといった教会が宛先だとする説です。これらの町々も、ローマ帝国の行政区分では「ガラテヤ州」に属するのです。しかしもう一つの説は、今読んでいる第二回伝道旅行で、エフェソに向かう計画が変更されて北に向かったことによって生まれた教会が宛先だとするものです。その根拠は、ガラテヤの信徒への手紙4章13、14節に、パウロがそこで伝道することになった事情がこのように語られていることです。「知ってのとおり、この前わたしは、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、わたしの身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、わたしを神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」。ガラテヤ伝道は、パウロの「体が弱くなったことがきっかけで」なされた。これは、第一回伝道旅行の様子とは合いません。むしろ、本日の個所にある、計画を変更せざるを得なかったということがそれに当たると思われるのです。つまりパウロはここで、何らかの病気になったのではないだろうか、それによって、エフェソまで行く計画を変更せざるを得なくなった、それが「聖霊によって禁じられた」ことの内容だったのではないかと推測することができるのです。これは推測ですし、その後ビティニア州に入ろうとした時にイエスの霊がそれを許さなかったというのがそれと同じ事情なのかは全く分かりません。しかしその事情を細かく知る必要はないでしょう。とにかく、パウロらは、何かの事情で計画を変更せざるを得なくなる、ということを繰り返し体験しつつ、当初行こうとしていたエフェソよりずっと北の、港町トロアスへと導かれたのです。

挫折の中で
 ここに描かれているパウロの歩みは、要するに、人間の計画や思いがその通りにいかない、いろいろな事情によって変えられてしまう、ということです。その事情が先程の推測のようにパウロの病気だったとするならば、それは彼にとって大きな苦しみであり、挫折だったでしょう。先程のガラテヤの信徒への手紙の言葉によれば、パウロの病気は、「あなたがたにとって試練ともなるようなこと」であり、そのような病気をかかえているパウロを「さげすんだり、忌み嫌ったりせず」に迎えてくれたと感謝しているわけですから、これはパウロの伝道者としての信用を失墜させることもあり得るような病気だったらしいことが分かります。そのような病気を負ってしまったことは、パウロにとって大きな苦しみ、挫折だったでしょう。主イエス・キリストの福音を宣べ伝えるために召され、派遣されて今まさに伝道旅行の途上にある自分が、何故このような病気になってしまうのか、神様はせっかく私に伝道の使命を与えて下さったのにどうしてそれを妨げるようなことをなさるのか、そのように彼は嘆かずにはおれなかったでしょう。コリントの信徒への手紙二の12章7節以下で、パウロは、自分の身に一つのとげが与えられたと言っており、それを取り去って下さるように、「三度主に願った」と言っています。その「とげ」とはこの病気のことを言っているのだと思われます。それを取り除いて下さるように三度主に祈ったというのは、彼が深い苦しみの中で、本当に真剣に、いやしを求めて祈ったことを意味しているのです。
 私たちも、人生の歩みにおいて、自分の思いや計画がその通りに行かないことを体験します。いろいろな思いがけないことが起ってきて、せっかくこうしようと思っていたことを変更せざるを得ないことがあります。しかも決して自分勝手な、自分のための計画ではなくて、神様の栄光を表し、人々に仕えるための、意味のある、良いことを計画し行なおうとしているのに、それが妨げられ、できなくなってしまう、ということがあるのです。そういうことによって私たちは大きな苦しみ、挫折を経験します。そして、神様は何故このようなことをなさるのだろうか、と神様を恨みたくなることがあるのです。

思いがけないみ心
 このような挫折を覚えつつトロアスに着いたある夜、パウロは幻を見ました。一人のマケドニア人が、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と願ったのです。マケドニアは、地図の8には出ていませんが、9「パウロのローマへの旅」の方には書かれています。ギリシャの北の方です。小アジアとギリシャの間にあるのがエーゲ海です。そこを渡ってギリシャに来て、助けてくださいという訴えを、パウロは幻によって見たのです。10節にこうあります。「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」。この時初めてパウロは、これまでの歩みにおいて、自分が思い計画したことがうまくいかず、変更に変更を重ねなければならなかったことの意味を、理由を悟ったのです。神様が、自分の思いや計画とは別のことをさせようとしておられ、そこへと導くために、自分の歩みを妨げるようなことをなさったのだ、そのことを知った時に彼は、自分の思い通りにならなかったことは、聖霊が禁じておられたのだ、主イエスの霊が許さなかったのだ、ということが分かったのです。つまりこれらのことは、その時には分からなかった神様のみ心が、後になって分かってきた、ということです。せっかくの計画が思いがけないことによって妨げられてしまうという苦しみ、挫折を私たちも味わいますが、そのような中で、やけを起したり絶望するのではなく、自分としては不本意な道を、しかしみ心を求めながら歩み続ける時に、神様の思いがけないみ心に気づかされる、ということを私たちは体験するのです。キリストの福音はこのようにしてヨーロッパに第一歩を記したのです。

「わたしたち」
 ところで、使徒言行録の記述は、この10節において突然「わたしたちは」という一人称になります。この後そのような語り方が断続的になされていくのです。これらの「わたしたちは」と語られている部分は著者であるルカが直接に体験したことを語っているのだと考えるならば、パウロはトロアスでルカと出会い、ルカはその後パウロの伝道旅行に同行した、ということになります。パウロが幻において見たマケドニア人はルカだったのだ、という説もあります。しかし実際のところはよくわかりません。臨場感を高めるために「わたしたち」という文学的手法が用いられているだけだ、という説もあります。しかしこの後のフィリピでの伝道の記述が、直接の目撃者の話だと考えることは心躍ることです。

フィリピにて
 エーゲ海を渡って彼らが先ず行ったのは、「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピ」でした。「ローマの植民都市」というのは、ローマ帝国の退役軍人たちが住み着いて造った町、ということです。そういう意味でこのフィリピは、ギリシャの町であると同時に非常にローマと密接な町でもあります。ローマ帝国の中に、とりわけその本国イタリア、ローマに福音を宣べ伝えていくための足がかりとして相応しい町であると言えます。ヨーロッパ伝道の最初の楔がこのフィリピに打ち込まれたのです。
 フィリピにおける伝道は、ある安息日に、ユダヤ人たちの祈りの場所を捜してそこで話をすることから始められました。パウロの伝道はたいていこのように、先ずその町のユダヤ人たちに対して語りかけ、それから異邦人たちへと対象を広げていく、という仕方でなされました。そこに、最初に触れました、ユダヤ的伝統とキリストの福音の関係についてのパウロの考え方が現れています。祈りの場所を捜したのは、フィリピにはユダヤ人の会堂がなかった、会堂を造るほど沢山のユダヤ人が住んでいなかったということです。祈りの場所があると思われる川岸に行ったというのは、きよめの儀式のために、安息日の祈りは水辺で行われることが常であったからです。こうしてパウロは、フィリピのユダヤ人たちにみ言葉を語り始めました。それを聞いていたのは婦人たちでした。その中に、リディアという人がいました。「神をあがめるリディア」とあります。「神をあがめる」という言い方は、異邦人で、しかしユダヤ教に帰依し、その教えを聞いていた人のことを意味しています。この女性は「ティアティラ市出身の紫布を商う人」でした。紫布というのは当時の高級な布地です。リディアは、高価な品物を商う裕福な商人である女性、今日で言えば、キャリア・ウーマンだったのです。この人がフィリピ伝道の最初の実りとなりました。彼女は家族と共に洗礼を受け、パウロたちを家に招き入れ、滞在させて伝道の根拠地としたのです。フィリピの教会は、このリディアの家に集まる群れとして誕生しました。16章の最後の40節に「牢を出た二人は、リディアの家に行って兄弟たちに会い、彼らを励ましてから出発した」とあることからもそれが分かります。後にパウロが、獄に捕われている中から、しかし喜びと感謝に満ちた手紙を書き送ったフィリピ教会がこうして生まれたのです。

主が心を開かれたので
 このフィリピにおける伝道、リディアが信仰を与えられ、洗礼を受けてその初穂となった時のことを、使徒言行録は、「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」と記しています。彼女が信仰を得たのは、パウロの話を注意深く聞いたからです。彼女は熱心に、パウロの語る主イエスの福音に耳を傾けたのです。信仰は、み言葉を熱心に聞くところに与えられます。今皆さんがこうして、私の語る説教に熱心に耳を傾け、聞いておられる、そのような所にこそ、信仰の生まれる場があるのです。けれども、リディアにしても私たちにしても、み言葉を熱心に注意深く聞くことができるのは、私たちの熱心さや真剣さ、真面目さ、求める気持ちによることではありません。あるいはそれは、パウロの語る言葉が、あるいは私の説教が、弁舌巧みに人の心を引き付けるものだからでもありません。「主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた」のです。私たちがみ言葉を熱心に聞くことができるのは、実はそこに主なる神様が働いて下さって、心を開いて下さっているからです。主が私たちの心の扉を開き、み言葉を私たちの心の中に響かせ、私たちの心を揺さぶり、それまで見えなかったこと、主イエスにおける神様の救いの恵みを見つめさせて下さるのです。そこに、信仰が与えられます。信仰とは、神様によって心を開かれて、主イエスによる救いの恵みを見つめることなのです。本日共に読まれた旧訳聖書の個所、列王記下第6章15節以下には、神様によって目を開かれることによって、それまで見えなかった恵みの現実を見つめることができたある人のことが語られていました。敵の大軍に包囲されるという目に見える現実の中で、もうだめだとうろたえるエリシャの従者は、主に目を開かれて、神様の軍勢、火の馬と戦車が自分たちを守っていることを見ることができたのです。私たちはこのように、主が心を開いて下さることを体験します。パウロが、自分の思いや計画の変更を余儀なくされた苦しみや挫折の中で、マケドニア人の幻を示された時に体験したのもそういうことだったでしょう。失敗や挫折、思い通りにならない現実を嘆いていた彼が、主によって心を開かれることによって、自分の前に主の備えて下さった広い道が開かれていることに気づいたのです。主イエス・キリストの福音は、そのようにしてギリシアへ、ヨーロッパへと伝えられていったのです。そしてパウロがその道を歩んで行く中で、主が今度はリディアの心を開いて彼の語るみ言葉に耳を傾けさせ、彼女に信仰を与えてフィリピ教会の礎として下さったのです。
 主が心を開かれた、この開かれたという言葉は、使徒言行録の前編に当たるルカによる福音書の24章31節を思い起させます。主イエスが復活された日の夕方、エマオへと向かう二人の弟子たちに主イエスが現れ、共に歩み、聖書を説き明かして下さいましたが、彼らの目は遮られていて、それが主イエスだと分かりませんでした。しかし共に夕食の席に着き、主イエスがパンを取って賛美の祈りをささげ、パンを裂いて渡して下さった、その時に、彼らの目が開け、それが復活された主イエスであることが分かったのです。祈ってパンを裂き、お渡しになる主イエスのお姿、それは最後の晩餐の時のお姿であり、私たちがこれからあずかろうとしている聖餐を思わせます。礼拝においてみ言葉を聞き、そのみ言葉の見えるしるしとして主イエスが定めて下さった聖餐にあずかることにおいて、私たちも、目を開かれ、心を開かれて、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを、その主イエスが今私たちと共にいて下さることを、はっきりと示されるのです。パウロの伝道旅行はそのような体験の連続でした。神様はそのようにして、私たちの思いや計画をはるかに超えて、救いのみ業を推し進めて下さるのです。来週私たちは、特別伝道礼拝を行おうとしています。主が今先ず私たちの心を開いて下さり、私たちを伝道のために、救いのみ業の前進のために、私たちの思いや計画を超えて用いて下さることを体験させていただきたいと願います。そしてリディアの心を開いて下さった主が、この礼拝に集う人々の心をも開いて下さることを信じて祈り求めながら、この週を歩みたいと思います。

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