夕礼拝

信仰は親不孝か

「信仰は親不孝か」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 列王記上、第19章 19節-21節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 57節-62節
・ 讃美歌 ; 337、537

 
1 主イエスとその一行が、今日も旅をしています。この、主イエスが歩んで行かれる一本の道の上には、さまざまな人たちの人生が交差してきます。それぞれに真剣な思いで主イエスに心を向け、主イエスにお従いしたい思いを携えてやって来る人たちがいます。また、そばを通りかかられた主イエスが「わたしに従いなさい」とお声をかけてくださったので、自分のしていた仕事の手を休めて、主イエスの方に顔をふっと上げる人もあります。どんな形であれ、主イエスの歩んで行かれるところ、そこではいろいろな人の人生が巻き込まれていきます。けれどもどんな場合にも、主イエスから問われていることはただ一つです。「あなたはわたしに従うか」、このことがいつも主イエスの問うておられることです。しかも大変なことに、この「従う」という時の、具体的な内容、具体的な従い方は、私たち人間が自分で決めることのできる従い方ではありません。主イエスご自身が定義しておられる従い方なのです。主が望んでおられる従い方があるのであって、私たちはその通りに従うことが求められているのです。そしてその従い方は正直に言って、私たちをうろたえさせるような内容なのです。
 三人の人が出てまいります。最初の人は、主イエスに自分の決心を申し出ました。いわば、これから主の弟子として歩んでいきたいから、私を弟子としてほしい、という決意表明です。弟子となるために志願をしているのです。「どうか自分の志願を受け入れて、あなたの弟子として受け入れてください」、そういう心の声が聞こえてまいります。そしてこの人はこう叫ぶのです。「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57節)。これは無条件の服従です。真剣な主に対する忠誠の誓いであります。簡単に言える言葉ではありません。立派な心がけだ、自分もそう言える者でありたい、私たちはそう思うかもしれません。
けれども、主イエスのお返事はなんとも素っ気ない感じがいたします。いや素っ気ないというよりも、謎めいております。この人の志願表明にまともにお答えになってはいないようにも見えます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)。狐にとっての穴、鳥にとっての巣は、これらの動物たちが安心して過ごすことのできる場所です。雨や風、天敵からも守られて、ゆっくりと休むことができる場所です。この地上にあって、ホッと一息つける場所なのです。これに対して主はおっしゃいます、「そういう場所が、人の子であるわたしにはどこにもないのだ、わたしには枕する場所もない。安心して横になる場所がないのだ。わたしに従うということは、そういう歩みを共にすることなのだ。それがあなたに分かっているか」。主はそうおっしゃりたいのではないでしょうか。
確かに、今日の箇所の直前には、主イエスとその一行がサマリア人の村で歓迎されなかったことが語られていました。しかも業を煮やした弟子の一部が、天から火を降らせて、神の裁きを代行してやろうかと思っても、主イエスに叱られ、思いとどまらせられるのです。わたしに従うからには、そういう不満と忍耐を強いられる道を歩んでいく覚悟ができていなければならない。主はそのことを求めておられます。いや、それは今に始まった話ではない。これにはるかに先立つ第4章においても、主は故郷であるガリラヤのナザレで受け入れられなかったのです。会堂から追い出され、山の崖から突き落とされそうになったのです。殺されかかったのです。人々の殺意に直面されたのです。さらには、主イエスがひとりの幼な子としてお生まれになった時、地上でこの神の御子のためにふさわしい場所は、そもそも用意されていなかったのです。粗末な飼い葉おけに寝かされる形で、神の御子はこの世に来たり給うたのです。わたしに従うなら、そういう苦しみや迫害を一緒に味わうことになる。この地上に、わたしのいる場所をどんどん狭めていき、ついには十字架の上での死へと追いやっていく悪しきこの世と向き合わざるを得なくなるのだよ、そのことがあなたには分かっているか、これが主の問いかけであります。

2 二番目の人には、主イエスご自身から声をおかけになりました。「わたしに従いなさい」(59節)。主ご自身から、あなたをわたしの弟子にしよう、とお声をかけてくださっています。これは何の条件もない、主の自由な選びです。ただ主が恵みのうちにそのことをよしとされたということ、それだけが理由です。ところが、この無条件の招きに、私たちは自分たちのほうから条件をつけてしまうのです。そうは言いますが、しかしここに出てきている条件は、私たちの誰もがもっともだと言わざるを得ないものでしょう。「主よ、まず父を葬りに行かせてください」(59節)。おそらく、この人の父親は、今まさに死なんとしているか、あるいは今しがた亡くなったばかりなのです。当時のユダヤ教において、子供が父親を葬るということは、他のあらゆる義務に勝って最も大事な務めとされていたことです。その義務を守るためには、他の食物規定であれ、安息日を守る戒めであれ、免除をされたと言われているくらいなのです。この世の人間の営みにおいて、一番大事な務めと見なされていた行いであったのです。いや、ユダヤ教の場合どうであったかを語るまでもありません。私たちの間でも、忌引きと呼ばれる習慣があります。親が亡くなったとなれば、無条件で学校での学びからも、仕事からも解放されて、葬りのためにもっぱら心を傾けることが認められているのです。それは何をさしおいても認められるべき、緊急事態の中で認められる特別な権利のようなものです。
 ところが驚くべきことに、主イエスはこの人の申し出に対して、「そうしなさい。行ってきてあげなさい」というお言葉をくださらなかった。この申し出を拒まれたのです。「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(60節)。残酷だ、薄情だ、こんなつれないことがあるか、そう思われるかもしれません。
ここで主がお語りになろうとしておられることに深く身を浸していかず、語られている言葉をただ表面的に受け取るだけならば、こういう反応が出てきても仕方ないでしょう。しかし主はここで、「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」、そうおっしゃいます。死者はもはや死の世界に引き取られた。もはやあなたがどうこうできる範囲にはいない。死者をどうするかはあなたの管轄外のことだ。神にお任せしなさい。それよりも何よりも、あなたには今、他の何をさしおいてもやるべきことがある。この世の最も大事な務めさえも凌ぐ、もっと大切な務めがある。それが、今始まっている神の国、つまり神のご支配を言い広めることなのだ、そうおっしゃるのです。
 今ここでは、主イエスが来られたことと、行って神の国を言い広めることとがセットなのです。伝道者が神からご用のために呼び出されることを「召し出される」と言うことがあります。神から呼ばれた者は、神に召されて出るのです。呼ばれて、それまでいたところ、安住していた場所から出て行くのです。出て何をするのか、「行って、神の国を言い広める」のです。もはや後戻りすることのない、神の決定的なご支配が今始まった、と言って廻るのです。

3 このことは、主イエスと三番目の人とのやりとりにおいても同じように言えることです。「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」。これだって私たちの常識でいったら当然のことでしょう。主イエスにお従いするにあたってお世話になった家族にお別れを言いに行く、当然の礼儀です。
先ほどお読み頂いた旧約聖書列王記上に出てきた預言者エリヤは、畑を耕していたエリシャに自分の外套を投げかけて、彼を弟子として呼び出します。エリシャは言います、「わたしの父、わたしの母に別れの接吻をさせてください。それからあなたに従います」(19:20)。エリヤは「行って来なさい」と言ってこれを認めているのです。なぜエリシャの時は家族へのいとまごいが許されたのに、主イエスの場合はだめなのか。それはエリヤがエリシャを召し出した時よりも、緊急事態がより差し迫っているからです。あの時よりももっと切実に、もっと差し迫った形で、神の国がやってきているのです。主イエスが私たちのもとに来てくださったと同時に、神のご支配が始まっているからです。既に主が私たちの前に立って、畑仕事を始めておられます。鋤に手をかけて畑を耕し、御言葉の種まきを始めておられるのです。その時に、後に続く私たちが、この場に及んで後ろを振り返るようなことは、今やってきている神の国に対して、主イエスに対して、ふさわしい姿勢ではないのです。主イエスに従って、一緒に外に出て行って神の言葉をばらまくべき時が来ているのであり、そのことを主が求めておられるのです。

4 他のものに目を向けるな、なりふりかまわずわたしの背中を見つめてその後に従っていけ、そういう主からの呼びかけの中に真実に生きているか、そういう神の国の切迫感に生きているか、これはいつも私たちが問われていることではないでしょうか。ある聖書の訳は、今日の箇所に「従うことの真剣さについて」という標題を掲げているくらいなのです。
 かつて私が幼い時、妹と教会学校の礼拝に出ていたことがありました。そこで礼拝の後に、妹が日曜の朝起きるのが大変だ、といった意味のことを言ったのでしょう。それを聞いた教会学校の先生が少しきつい口調で次のような意味のことを言ったのを覚えています。「そんなことを言うものじゃありません。あなたはこの教会のすぐ隣りにいて朝起きてすぐに礼拝に来られるけれど、みんなは毎週大変な思いをして教会に来ているのよ」!私は今でも時々、この先生の言葉を思い起こします。そしてその言葉を妹に対してではなく、自分に対しての言葉として胸に刻みます。牧師の家庭に育ち、教会に行くのが当たり前のような感覚になっている者は、それだけ信仰が身にしみこんでいるという見方もできるかも分からないが、逆に気を付けなければならないこと、くれぐれもわきまえておかねばならないこともあるのだ、そういうことを教えられた気がするのです。神の国が今来ていることへの切迫感、緊張感、なんとしても礼拝に行く、主イエスにお従いするのだ、そういう信仰生活の真剣さ、切実さがどれだけ自分にあるのか、という問いかけです。日曜日の朝早く起きて、教会に行く備えをする。まだ一緒に礼拝に行ってくれない家族のためにお昼ご飯の準備をする。礼拝に間に合うように電車やバスに乗り遅れないようにする。いや、日曜日に教会に来るための戦いは、もっと前のウィークデイから始まっているのです。仕事を残さないように進め、家庭の細かな用事も済ませておかなくてはなりません。そういう真剣さ、ひたむきさこそが、神の国にはふさわしいのです。

5 しかしまた、こういうことが言われると、正直に言ってそんな徹底した従い方が自分にできるだろうか、という怖じ気づくような気持ち、気後れする思いが私たちの中にこみ上げてくるのも事実です。第一、亡くなった父親を葬りに行くことも認められない、家族にお別れを言いにいくのさえ弟子としてふさわしくない、というのですから。こんな親不孝、愛のない話があるでしょうか。
明治の時代に、井上哲次郎という哲学者は、今日のような聖書の箇所をあげつらいながら、これだからキリスト教は親不孝者の宗教だ、と言って教会を激しく攻撃しました。無教会の代表的指導者であった内村鑑三が、当時の第一高等学校で教師をしていた時、天皇の御真影に礼をしなかったことが取りあげられ、キリスト教が盛んに攻撃された時代のことです。キリスト教は親を大事にしない。父親の葬儀にも出席しないように勧めるとんでもない宗教だ。こんな宗教が広がると、日本の忠義を尽くし、目上の人を敬う道徳は崩壊してしまう。井上は『教育と宗教の衝突』という書物を出して、こういったキリスト教攻撃を盛んに行ったのです。
私たちが主イエスを信じ、主にお従いすることは親不孝なことなのでしょうか。もし主に従うことと親を葬ることとが矛盾するのなら、なぜ教会では葬儀を行うのでしょうか。葬儀に関する本が紹介され、教会として葬儀に対する姿勢を整えていこうとすることは意味のないことなのでしょうか。決してそうではないのです。
先日、この教会の夫婦の会の例会で「キリストの弟子」と題した説教をみんなで読みました。その説教を結ぶ祈りには、こういう言葉が記されていました。「神様、あなたに召され、あなたに従って来ることのできた生涯を覚えて心から感謝致します。あなたのことを何も知らず、ただあなたに見出されあなたに知られた者の生涯であったことを思います。すべてを捨てたと思っていましたのに何を失ったのかと思うほどにすべてにおいて恵まれた生涯であることをも改めて感謝いたします」。ここでは、主に従う者はこの世のしがらみを捨て、一度この世と断絶することが見つめられています。けれども同時に、自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従っていく歩みの中で、この世の事柄も新しく受け取り直され、「何を失ったのかと思うほどにすべてにおいて恵まれた」歩みが与えられていく、そういうことも見つめられているのです。
私事になって恐縮ですが、先日私の妻の父親が神のもとに召され、その葬儀に行って参りました。このお父さんは熱心な仏教徒であり、自分の娘がキリスト教会に通い、ついには洗礼を受けるということを、なかなか理解してくれませんでした。娘のこれからの人生を巡って、教会の牧師と激しいやりとりがあった、とも聞きます。けれどもついに洗礼を受けた日には、この父は礼拝にも出席し、自前のフルート演奏をして祝福してくれたのです。そして最後には自分自身、病床洗礼を受けて、主のものとされて召されていったのです。主イエスに従うために、ある意味親をいったん捨てることで、実は本当の意味で親を得る、ということがあるのではないでしょうか。一度失われた肉における親との関係が、新しい形で結び直される、神との関係に支えられた親子の健やかな関係が与えられるということがあるのです。いや、そのことを願いつつ、しかしなかなか難しい状況の中を、絶えることのない執り成しの祈りと忍耐をもって歩んでいる方々が、私たちの中にもたくさんおられるのです。そういう祈りと忍耐のうちに、しかし家族がいつか主イエスのもとに導かれることに望みを絶やさず歩む生き方、それもやはり主の背を見つめ続けて歩む生き方、主イエスに従う生き方ではないでしょうか。

6 「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」。「鋤に手をあけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」。この主イエスのお言葉は、私たちを新たに縛り付け、苦しめる律法主義の言葉ではありません。まして、私たちがただただ歯を食いしばって、人間の感情を捨て去り、自分の力で主にしがみついていかなければ神の国には入れないよ、そんなふうに主イエスが冷たく私たちを突き放しているようなお言葉では断じてありません。主イエスは私たちに呼びかけ、私たちを招いておられるのです。「わたしに従いなさい」、と。主イエスとその一行が今歩んでいる道、この道はエルサレムへと向かう道です。主イエスが天に上げられる時期が近づいていることをはっきりと意識しておられる中で歩まれている道です。この道はまっすぐに、十字架と復活へと通じている道です。主イエスを抜きにして、主から離れていったところで親の葬りをしても、そこには本当の慰め、確かな希望はありません。主イエスの十字架を見つめることのないところで結ばれる親子の関係は、互いを束縛し、相手をお互いに支配しようとする罪から自由ではありません。なぜ親を愛し、敬わなければならないのか、その理由さえはっきりしないままなのです。そうではない、主イエスの十字架と甦りにおいて約束されている神の国をまず求める歩みこそが、神との関係を確かにし、そのことが家族を真に愛し敬う道を打ち開いていくのです。
時に枕するところもないかに思われる、追いつめられた苦しみを経験する歩み、親の死を悲しみと絶望の中でしか受け止められないような歩み、そういう歩みを、実は主イエスご自身が、私たちに先立ち、私たちの前を歩まれながら、代わって味わってくださっているのです。そのお方が今、こうおっしゃいます。「わたしがあなたの追いつめられた苦しみ、親の死にうちひしがれる悲しみと絶望を、すべて代わって十字架の上で担う。だからあなたはそのわたしを見つめながら、わたしがあなたのために用意している道を歩め」。主が備え給う道、それは一見、怖じ気づき、気後れしそうになる道に見えるかもしれない。しかし「すべてが働いて益となった。何を失ったのかと思うほどにすべてにおいて恵まれた歩みを与えられている」、そういう発見をいつも新しく与えられる、主に感謝を捧げずにはおれない道なのです。この道の上を歩むならば、一度切り離されたかに見えた人間の関係が、思いもよらなかった形で新しく結び直される出来事が起こっていくのです。この道の上で家族の葬儀がなされるならば、それもまた、出て行って、神の国を言い広める場、御国への望みを新たにする葬儀となるのです。
 「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」、この主イエスのお言葉に、呼びかけられた弟子志願者たちがどう答えたのか、それは聖書に記されておりません。なぜなら、それは大事なことではないからです。大事なことは、今同じように呼びかけられ、招かれている私たちが主イエスにどうお応えするか、なのですから。私たちは今日、今ここから、この物語の続きを生き始めるのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、とんでもない厳しさを伴うあなたの要求の前に、恐れをなす私どもであります。また先にあれをしなければならない。これも終えておかなければならない。いろいろと言い訳をしながら、あなたに従う道を見つめることから逃げてばかりいる私どもであります。この世の営みに追われて、あれもしつつ、これもしつつ、そのついでに神を信じているような、恥じるべき信仰であります。しかしあなたが今日も私たちに呼びかけ、私たちを招いてくださいます。「わたしに従いなさい」。「あなたは行って、神の国を言い広めなさい」。御子ご自身が先んじて、私たちの悩みや苦しみ、私たちが直面する周囲の無理解、悲しみと絶望しかない死を味わい、引き受け、担ってくださっています。その向こうに、新しい命に生きる道、親しい者の死の中にも慰めと希望が備えられる道を用意してくださっています。真実に親を愛し敬う道を準備してくださっています。主の十字架が、神の国の到来を堅く約束してくださっているのです。この約束により頼み、もはや私たちの答えは明らかでありますから、あなたからの招きに、喜んで飛び込んでいくことができますように。その道を歩み通す力も忍耐も望みも、あなたが与えてくださることを信じ、この祈りを主イエス・キリストの御名を通してお捧げいたします、アーメン。

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