主日礼拝

主イエスの昇天

「主イエスの昇天」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編 第110篇 1節-7節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第1章 6節-11節

 
主イエスの昇天
 先週の礼拝から、使徒言行録の連続講解説教を始めました。先週は、この使徒言行録が、ルカによる福音書に続く第二巻として、同じ著者によって書かれたものだということをご一緒に確認し、この両者の関係、続き具合を、聖霊の働きという点に注目してお話ししました。いささかややこしい、難しい話になってしまったかと反省しているのですが、本日の説教においても、ルカによる福音書と使徒言行録の続き具合ということが一つの大事なテーマとなります。本日特に注目したいのは、主イエスの昇天、復活された主イエスが天に上げられたことです。ところで、「昇天」という言葉は日本語で、死ぬことを意味する言葉として用いられることがあります。しかし主イエスの昇天はそれとは全く違う意味ですから、間違えないようにしなければなりません。主イエスの昇天とは、復活した主イエスが結局はまた死んでしまったということではなくて、体をもって復活し、もはや死ぬことのない新しい命を生きておられる主イエスが、その生きた体のままで天に昇られたということです。週報の後ろにある使徒信条の言葉で言うならば、「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」ということです。復活された主イエスは、昇天して、今は、この地上にではなく、天におられ、父なる神様の右の座に着いておられる、それは本日共に読まれた旧約聖書、詩編第110編1節の成就でもあるわけですが、そのように、復活して今も生きている主イエスのおられる所が変わったこと、それが主イエスの昇天なのです。
 本日の箇所、1章9節以下に、その主イエスの昇天のことが語られているのですが、このことは実はルカによる福音書の最後にも語られていました。24章50、51節です。そこを読んでおきたいと思います。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。ここに、主イエスの昇天はベタニアの辺りで起ったと語られています。使徒言行録の本日の箇所には、昇天の場所については記されていません。しかしベタニアはエルサレムの東側のオリーブ山にあったと言われるので、次の12節の「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」という記述とつながるのです。このようにルカは福音書の最後と使徒言行録の最初に、主イエスの昇天のことを語っています。第一巻である福音書と第二巻である使徒言行録を結び付ける連結器のような役割を、主イエスの昇天が果しているのです。ルカはなぜ主イエスの昇天を両方で語ったのか、そこで彼が見つめていることは何か、そのことを本日ご一緒に考えていきたいのです。

弟子たちの問い
 さてルカはこの使徒言行録において主イエスの昇天を語る前に、復活された主イエスと弟子たちとの問答を記しています。弟子たちは6節で主イエスにこう質問をしたのです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」。それに対する主イエスのお答えが7、8節に語られ、9節は「こう話し終わると、イエスは彼らの見ているうちに天に上げられ…」と昇天を語っています。6節以下の問答と昇天とは密接に結び付けられているのです。主イエスの昇天の意味を考える上で、この問答の内容はとても大事です。
 弟子たちはここで主イエスに、「イスラエルのために国を建て直して下さるのは、この時ですか」と尋ねています。イスラエルのために国を建て直す、それは旧約聖書に預言されていたメシア、救い主が現れる時に実現すると期待されていた救いです。長く国を失い、あるいは一応国はあっても外国の支配下にあって本当に独立しているとは言えない状態に置かれてきたイスラエルが、救い主の出現によって力を盛り返し、外国、敵の支配から脱して自分たちの国を、メシアの王国、神の王国として確立する、そういう救いをイスラエルの民は待ち望んでいたのです。弟子たちは、今こそ主イエスによってその救いが実現するのではないか、と期待しています。それは、彼らが、主イエスの復活を体験し、十字架につけられて殺され、葬られたけれども復活して現にこうして生きておられる主イエスとの出会いを与えられたことによって抱いている期待です。死に勝利して復活された主イエスこそ、まことのメシア、救い主であり、この主イエスならイスラエルの国を再興することがお出来になる、と彼らが考えたことはある意味当然のことだと言えるでしょう。しかも復活された主イエスは先週読んだように、まもなくあなた方に父の約束して下さった聖霊が降る、と言われたのです。聖霊によって彼ら弟子たちに力が与えられる、その時こそ、主イエスを中心とした弟子たちの群れがイスラエルのために国を建て直す働きを開始する時なのではないか、と彼らは思ったのです。

時と時期
 主イエスは弟子たちのこの期待を込めた問いに対して、7節でこうお答えになりました。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」。このお答えは、イスラエルのための国の再興という救いが、今すぐに、もう間もなく実現する、という弟子たちの期待に対する否定です。「時や時期は、父なる神様がお決めになることなのであって、あなたがたの知るところではない」。それは、救いの完成の時期は神がお決めになるのだから、それが今すぐにとか、もう間もなく起る、などということを考えることは、父なる神様の権威を侵害することになり、なすべきではない、ということです。それゆえに弟子たちは、イスラエルのための国の再興という救いの実現がもう間近に迫っている、ということを前提にして歩むべきではないのです。そもそもそれが何時実現するか、ということを考えること自体が、正しいあり方ではないのです。「いつ」ということは父なる神様にお委ねして、今与えられている信仰の生活、主イエスに従う歩みを続けていくことが求められているのです。従ってこの問答に込められている含蓄は、主イエスが復活なさったことによって、神様の救いが完成してしまうと考えるべきではない、ということです。神様の救いのみ業は、まだ継続しているのです。先があるのです。弟子たちは復活された主イエスとの出会いによって、何かもうこれで終わりになると思っています。めでたしめでたしのハッピーエンドがもうすぐだと思っているのです。しかし主イエスは、そうではない、と言われるのです。あなたがたはこの先もなお道を歩み続けていくのだと言っておられるのです。

使徒として
 弟子たちに与えられているこの先の道、彼らがなお歩み続けていかなければならない道とはどのようなものでしょうか。それは、主イエスによって使命を与えられて遣わされていく道です。弟子たちのことが使徒言行録では「使徒たち」と呼ばれています。その意味は先週も申しましたように、「遣わされた者」ということです。復活された主イエスと出会った弟子たちは、その主イエスによって使命を与えられて遣わされていくのです。その使命を語っているのが8節です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」。彼らに与えられる使命とは、主イエスの証人、証し人としての使命です。主イエスのことを宣べ伝え、主イエスによって父なる神様が成し遂げて下さった救いのみ業を伝える、そのために彼らは派遣されていくのです。

イスラエルの再興
 これは、弟子たちが期待していた、救い主である主イエスが「イスラエルのために国を建て直してくださる」ということとはかなり違うことです。弟子たちは主イエスの復活によって、神の民イスラエルの王国が目に見える仕方で確立し、主イエスがその王となって下さるものと思っていました。しかし主イエスがお示しになったのは、そのようなイスラエルの王国の建設ではなく、主イエスのことを宣べ伝える証人、証し人の群れの成立だったのです。それは即ち、教会の成立です。そのことが、弟子たちの上に聖霊が降ることによって実現する、それがこの後第2章の聖霊降臨、ペンテコステの出来事において起ることです。8節の言葉はペンテコステにおける教会の誕生を予告しているのです。主イエスの復活によって実現していくのは、イスラエルのための国の再興ではなくて、教会の誕生です。いや、正確に言うならば、神様が救い主によって実現して下さるイスラエルのための国の立て直しとは、主イエス・キリストの教会の誕生とその歩みだったのです。ですから、彼ら弟子たちが使徒として、主イエスの証人として派遣されていくこと自体が、イスラエルのための国の建て直しなのです。弟子たちは、それは復活なさった主イエスがして下さることだと思っていました。しかし主イエスは、そのことを彼らに、弟子たちに、使命として与え、委ねようとしているのです。
地の果てまで
 弟子たちが、救い主メシアによる救いの完成として思い描いていたのは、「イスラエルのための」国の再興でした。つまり彼らの思いにおいて主イエスによる救いの及ぶ範囲は、イスラエルの民、旧約聖書以来の、神様に選ばれた民であるユダヤ人に限定されていたのです。けれども主イエスはここで、彼らが聖霊の力を受けて、「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」と語っておられます。これは、ユダヤ人、イスラエルの民という範囲を越えて、ユダヤ人と敵対関係にあったサマリア人にも、そして全世界の異邦人にも、主イエスのことが宣べ伝えられ、彼らも主イエス・キリストの救いにあずかり、教会に加えられていく、ということを示しています。使徒たちがこの主イエスのお言葉の通りに、聖霊によって力を与えられ、キリストの証人となり、ユダヤとサマリアの全土に、そして地の果てにまで主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていった、そのことをこの使徒言行録は語っていくのです。主イエスのこのお言葉は、使徒言行録全体の内容の予告であると言うこともできます。神様が主イエスによって打ち立てて下さる新しいイスラエルの国、即ち教会は、異邦人を巻き込みつつ、全世界に広まっていくものなのです。

主イエスの不在
 主イエスは弟子たちの問いに答えて、このように、彼らに使命が与えられ、遣わされることをお語りになりました。つまり教会が誕生し、歩んでいくことを語られたのです。この主イエスのお言葉には、一つ、前提となっていることがあります。それは、弟子たちの、教会の歩みにおいて、主イエスは少なくとも目に見えるお姿においては、そこに共におられない、ということです。弟子たちが力を受け、主イエスの証人として遣わされるのです。そのことによって、神様の民イスラエルの再興がなされていくのです。それをしていくのは弟子たちであって、復活された主イエスが陣頭指揮を取ってそれをしていくのではありません。そもそも、証人という言葉は、そこにいない人のことを証しし、その人のみ業やみ言葉、その人によって成された救いを証言することを意味しています。現に目の前にいる人のことを「証言」する必要はないし、そうであれば証人などいらないのです。弟子たちが主イエスの証人として遣わされることは、主イエスが共におられないことを前提としているのです。つまり、今弟子たちの目の前におられ、語りかけておられる主イエスは、彼らの前からいなくなるのです。そのことが起ったのが、主イエスの昇天です。9節に語られている主イエスの昇天の記事は、昇天をそういう事柄として語っています。注意深く読んでみるとそれが分かるのです。「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」。ただ天に上げられたと語られているのではありません。「雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」のです。その前に「彼らが見ているうちに」とあることも大事です。「見る」とか「目」という言葉を用いつつ、主イエスの昇天が語られているのです。弟子たちは主イエスを見ていた、するとその主イエスが天に上っていかれ、雲がそのお姿を覆い、もはや弟子たちは主イエスを見ることができなくなった、それが昇天において起ったことなのです。

祝福
 ここで、第一巻であるルカによる福音書の最後のところの、先程読んだ主イエスの昇天の記事を比べてみたいと思います。福音書ではこうなっています。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。ここには、主イエスのお姿が見えなくなったということは全く語られていません。代りに何が語られているかというと、主イエスが弟子たちを祝福され、その祝福のお姿のままで天に上げられたということです。福音書においては、主イエスの弟子たちへの祝福ということに強調を置いて昇天が語られているのです。つまり、ルカは第一巻の福音書と第二巻の使徒言行録の両方で主イエスの昇天を語っていますが、それぞれにおいて別の意味を見つめつつ語っているのです。福音書においては、主イエスの生涯の締めくくりとして、弟子たちへの祝福の姿が描かれています。主イエスの地上のご生涯全体の帰結、そこで成し遂げられたことは、私たちに対する祝福だった、ということが語られているのです。それに対して使徒言行録では、復活された主イエスが、弟子たちに使命を与え、彼らのもとを去り、目に見えない存在になる、ということを語っているのです。

聖霊の働き
 主イエスが去っていく、目に見えない存在になる、それは大変心細い、不安なことです。けれどもそこに、代って与えられるものがあるのです。それが聖霊です。天に昇り、去っていく主イエスに代って、聖霊が弟子たちに降り、与えられるのです。その聖霊が彼らに力を与え、彼らを全世界へとキリストの証人として遣わしていくのです。つまり彼らは聖霊によって使徒として立てられていくのです。教会はそのようにして生まれ、成長し、歩んでいきます。そこに神の民イスラエルの再興が実現していくのです。教会こそ、新しいイスラエル、新しい神の民です。再興されたイスラエルは、主イエスが天に昇り、弟子たちの目の前から去っていかれた後に与えられる聖霊のお働きによって生まれ、キリストの証人の群れとして歩んでいくのです。この新しいイスラエル、教会の歩みにおいて、主イエス・キリストによって実現した神様の救いのみ業がなお前進していきます。使徒言行録はその有り様を語っていくのです。

昇天の恵み
 私たちは今、この新しいイスラエルである教会に連なり、教会の礼拝を守りつつ歩んでいます。聖霊によって生まれ、聖霊の導きのもとに歩む教会において、神様の救いのみ業が前進していく、そのただ中に今私たちはいるのです。その私たちは、復活された主イエス・キリストのお姿をこの目で見たり、手で触れることができません。それは何故か。主イエスがもう二千年も前の方だからではありません。主イエスはもはや死ぬことのない方として復活し、目に見えるお姿をもって弟子たちに出会われたのです。そのままだったなら、二千年後の私たちも、復活された主イエスをこの目で見ることができたはずです。今そうでないのは、主イエスが天に昇られたからです。この地上を去って天に昇り、目に見えない方となられたからです。昇天において主イエスのお姿が雲に覆われて見えなくなった、それゆえに今私たちも、主イエスのお姿をこの目で見ることはできないのです。そしてその主イエスの代りに、今私たちに働いておられるのが、聖霊なる神です。弟子たちに降り、力を与え、彼らを主イエスの証人として立て、遣わした聖霊が、今私たちにも働いて、力を与え、私たちを主イエスの証人として立て、遣わし、教会を、即ち新しい神の民イスラエルをここに興し、救いのみ業を前進させて下さるのです。この聖霊のお働きの内にある私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることができないことを嘆いたり、心細く思う必要はありません。使徒言行録は、即ち教会の歴史は、主イエスの昇天から、つまり主イエスのお姿が見えなくなったことから始まったのです。主イエスが天に昇り、見えない方になられたからこそ、その天から聖霊が与えられ、神様の力が豊かに注がれて主イエスのことを証しする人たちが立てられたのです。主イエスが天に昇り、私たちの目に見えない方となられたことは、神様の救いの恵みの前進なのです。何故なら、このことによってこそ私たちは、いつでも、どこにいても、復活された主イエスと共に歩むことができるからです。仕事をしている時も、学校へ行っている時も、家庭にいる時も、外出している時も、起きている時も寝ている間も、目には見えない主イエスが、聖霊のお働きによって私たちと共にいて下さるのです。また、今この時間に、この国の全土で、様々な教会において礼拝が捧げられています。時差はあるにせよ、この主の日、全世界の教会で礼拝が捧げられていきます。その全ての礼拝に、主イエス・キリストは、聖霊のお働きによって、ご臨在下さるのです。礼拝を守る者たちと共にいて下さるのです。また私たちは礼拝において、様々な妨げによってここに来ることができず、共に礼拝を守ることができない多くの方々のことを覚えて執り成し祈ります。それらの方々に、それぞれの置かれた所で、主イエスが共にいて慰めと癒しと支えを与えて下さるように祈るのです。その祈りを神様は聞き届けて下さるのです。私たちはそういう神様の恵みを信じています。そのように主イエスがいつでも、どこでも、誰とでも共にいて下さることを私たちが信じることができるのは、肉体をもって復活された主イエスが、天に昇り、私たちの目には見えない方となられたが、その代りに聖霊が降って今私たちの中で働いていて下さることによるのです。ですから、ルカが、福音書に続いて、教会の歩みを語っていく使徒言行録を書くに当たって、主イエスの昇天から語り始めたのは大変意味深いことです。主イエスの昇天は、聖霊が降って教会が誕生し、それが全世界に広がっていくための不可欠な準備であり、主イエスの救いのみ業の前進のための欠くことのできない前提なのです。

再臨を待ちつつ
 使徒言行録において主イエスの昇天はこのように、主イエスがこの地上を、弟子たち、信仰者たちのもとを離れ、目に見えない存在となられたこととして描かれています。そしてそこには、10節以下のことが共に語られているのです。「イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。『ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる』」。弟子たちは、主イエスが昇っていき、見えなくなった天をいつまでも見上げていました。するとそこに白い服を着た二人の人、つまり天使が現れ、主イエスが「またおいでになる」ことを告げたのです。天に昇られた主イエスは、またおいでになる方です。まことの神としての権威と力とをもって、主イエスが天から再び降って来られる日がいつか来るのです。その時、今は隠されている主イエスの、そして父なる神様のご支配があらわになり、完成するのです。それによって今のこの世は終わり、神の国が完成するのです。昇天は、主イエスについて語られるべき最後のことではありません。「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」の後には、「かしこより来りて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」が続いているのです。主イエスの昇天を見つめ、思う時に、私たちは、同時にその主イエスがまたおいでになること、主の再臨を見つめさせられ、思わされるのです。教会の歩みは、主イエスが天に上げられてからまたおいでになるまでの、昇天と再臨との間の歩みです。この間の時、私たちは、主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。主イエスは天に昇り、私たちの目からは隠されているのです。しかしこの間の時、私たちは聖霊のお働きを受けて歩みます。昇天と再臨の間の時代を、聖霊の導きによって歩むのが教会なのです。その教会に連なって生きる私たちは、目には見えないけれども、しかし復活して永遠の命を生きておられる主イエス・キリストと共に生きることができます。復活された主イエスの証人として、主イエスのことを証しし、宣べ伝えていく力を与えられます。そしてその主イエスがいつかもう一度、目に見えるお姿で来られ、そのご支配があらわになり、私たちの救いが完成することに究極の希望を置いて歩むことができるのです。そのような信仰の生活を私たちに与え、力強く導き、支えて下さる聖霊が、今私たちに働きかけていて下さるのです。

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