主日礼拝

愛によって生かされる

「愛によって生かされる」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:箴言 第8章12-17節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第14章15-24節
・ 讃美歌:141、454

弟子たちのこれからの歩みのために
 礼拝においてヨハネよる福音書を読み進めていて、今第14章を読んでいます。この第14章は、いわゆる「最後の晩餐」において、主イエスが弟子たちのためにお語りになったみ言葉です。この晩餐の後すぐに主イエスは捕えられ、翌日には十字架につけられるのです。そのことによって主イエスは弟子たちのもとを離れ、去って行こうとしておられます。弟子たちはこれまでずっと主イエスと共に歩んできましたが、これからは、主イエスが目に見える仕方では共におられない中を生きていくことになるのです。主イエスはその弟子たちのこれからの歩みのことを案じつつ、このみ言葉を語られたのです。14章冒頭の、「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」というみ言葉に、主イエスのそういう思いが現れています。

父のもとに行く
 主イエスがここで弟子たちのためにお語りになったことは先ず、「私はあなたがたのもとを去って行くが、それによって父である神のもとに行くのだ」ということでした。主イエスは捕らえられ、十字架につけられて殺されようとしていますが、それは主イエスの敗北や破滅ではありません。殺されてそれでおしまいではなくて、主イエスは復活して、父なる神のもとに行かれるのです。それによって主イエスの神としての栄光が現され、父なる神が独り子主イエスをこの世にお遣わしになることによって成し遂げようとしておられる救いのみ業が実現するのです。つまり、主イエスが父のもとに行くことによってこそ、弟子たちの、そして主イエスを信じる信仰者たちの、救いが実現するのです。先週読んだ13、14節には、主イエスが父のもとに行かれることによって実現する恵みがこのように語られていました。「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。主イエスが父なる神のもとに行かれることによって、私たちの、救いを求める祈りが確かにかなえられる、という恵みが実現するのです。

あなたがたのところに戻って来る
 しかし主イエスがお語りになったのは、父のもとに行く、ということだけではありません。18節には、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」とあります。十字架と復活を経て父なる神のもとに行くとおっしゃった主イエスは、あなたがたのところに戻って来る、とも約束して下さったのです。そしてそのことは、父なる神が弁護者を遣わして下さることによって実現するのだ、と主イエスはおっしゃいました。その弁護者とは17節にあるように「真理の霊」であり、この霊があなたがたと共におり、あなたがたの内にいる、と語られています。それは聖霊なる神のことです。父なる神のもとに行かれる主イエスが、16節にあるように父に願って下さり、それに答えて父なる神が聖霊を遣わして下さるのです。聖霊が遣わされることによって、主イエスは弟子たちのもとに戻って来て下さり、共にいて下さるのです。聖霊が弟子たちに降り、彼らの内に宿って下さることによって、天におられる主イエスが戻って来て、共にいて下さることを彼らは体験するのです。主イエスが戻って来て下さるというのは、最終的にはこの世の終わりの再臨の時に起こることです。それまでは主イエスは天の父なる神のもとにおられるのであって、だから地上において主イエスのお姿をこの目で見ることはできません。しかし聖霊が遣わされることによって、弟子たちは主イエスの再臨による救いの完成を、この世の歩みの中で先取りして体験し、主イエスが戻って来て共にいて下さる恵みを味わうのです。最後の晩餐において主イエスはそのことを約束して下さいました。この約束は、弟子たちに聖霊が降って教会が誕生したことによって実現しました。つまり主イエスはここで、ご自分の復活と昇天の後、弟子たちに聖霊が降り、教会が生まれることによって実現することを語っておられるのです。それを語ることによって弟子たちのこれからの歩みのための備えをしておられるのです。

私たちのためのみ言葉
 ですから主イエスのこのお言葉は、最後の晩餐の場にいた弟子たちのためだけに語られているのではありません。これは私たちのために語られたお言葉でもあります。私たちも、聖霊のお働きによって教会へと導かれ、今こうして共に礼拝を守っています。聖霊なる神が私たちと共にいて下さり、私たちの内でみ業を行っていて下さるのです。それは弟子たちが体験したのと同じことです。私たちも今、天に昇られた主イエスのお姿をこの目で見ることはできませんが、聖霊が私たちの内に宿り、み業を行って下さることによって、主イエス・キリストが私たちを決して独りぼっちのみなしごにはしておかれずに、私たちのところに来て下さり、共にいて下さることを体験しているのです。私たちも、教会において聖霊のお働きを受け、主イエスの再臨における救いの完成を先取りして味わっています。私たちが主イエスのみ名によって祈り願うことを主イエスがかなえて下さるというのも、聖霊によって与えられている救いの完成の先取りなのです。

あなたがたはわたしを見る
 19節には「しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる」とあります。これも、聖霊によって弟子たちに与えられることの約束であると共に、私たちに今起っていることです。地上を去って父のもとに行かれた主イエスは目に見えませんから、この世の多くの人々は主イエスを見ることも信じることもできずにいます。しかし、聖霊のみ業によって私たちは、復活して永遠の命を生きておられる主イエスを信仰の目で見るのです。その主イエスが共にいて下さるので、私たちも生きることができるのです。私たちの地上の人生には様々な苦しみや悲しみがあり、今は新型コロナウイルスが私たちの命や生活を脅かし、不安や恐れを引き起こしています。そのような恐れや不安の中でも、聖霊が私たちに主イエスのお姿を見させて下さり、「わたしが生きているので、あなたがたも生きるようになる」という恵みを与えて下さるのです。

聖霊による教会の誕生
 また20節には「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とあります。「かの日」とは弟子たちに聖霊が降る日です。つまりここにも、聖霊が降ることによって弟子たちに実現する恵みの約束が語られているわけですが、それは同時に、聖霊のお働きによって今私たちに与えられている恵みでもあります。私たちも、「主イエスが父なる神の内にいる」ということを、つまり父なる神と独り子である主イエスが一体となって私たちの救いを実現して下さっていることを、聖霊によって信じさせていただくのです。聖霊はさらに、主イエスが私たちの内におり、私たちも主イエスの内にいる、ということも分からせて下さいます。お互いがお互いの内にいると言えるほどに、私たちを主イエスと一つに結び合わせて下さるのです。そのことの目に見える印として与えられているのが洗礼です。洗礼において聖霊は私たちを主イエスと結び合わせ、キリストの体である教会のえだとして下さいます。主イエスのもとに一つに結び合わされた教会がそこに築かれていくのです。聖霊が降ることによって弟子たちが体験したことを、私たちも今、聖霊によって教会に結び合わされることによって体験しているのです。

弁護者
 弟子たちに、そして私たちにも、主イエスと父なる神を信じる信仰を与えて下さり、主イエスと一つに結び合わせ、主イエスによる救いにあずかる群れである教会を築いて下さっているのは、主イエスの願いによって父が遣わして下さった聖霊です。その聖霊のことがここで「弁護者」と呼ばれていることに注目したいと思います。弁護者というと私たちは、裁判において弁護してくれる人を思い浮かべます。この場合の裁判は、神による裁きです。神による裁きにおいて、神の前で自分は無罪だ、罪などない、と主張できる人は一人もいません。私たちは神を神としてきちんと敬い従っておらず、むしろみ心に背いてばかりいる罪人です。裁かれて有罪とされ、滅ぼされるしかない者なのです。しかし聖霊なる神がその私たちの弁護者となって下さるのです。それは、私たちには罪がないと主張してくれるということではありません。そんな嘘は通らないのであって、聖霊が語って下さるのは、神の独り子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったという事実です。主イエスはそのために人となって下さり、本当は私たちが受けなければならない滅びを代って引き受けて下さったのです。その主イエスの十字架の死によって私たちの罪はもう帳消しにされている、ということを弁護者である聖霊が語って下さることによって、私たちの罪は既に赦されていることが確認されるのです。言い替えれば、神が独り子をお与えになったほどに罪人である私たちを愛し、救いを与えて下さったことを、聖霊が明らかにして下さるのです。聖霊はそのようにして私たちを、主イエスによる神の愛によって生かして下さるのです。

神の愛の中で新しく生かして下さる聖霊
 しかし聖霊がして下さっていることは神の裁きにおける弁護だけではありません。弁護者と訳されている言葉は以前の口語訳聖書では「助け主」となっていました。またこれは「慰め主」と訳されることもあります。この言葉は「傍らに呼ぶ」という言葉から生まれたものです。私たちの傍らに立って語って下さる方、それが弁護者、助け主、慰め主です。その方は神の裁きにおいて私たちのために主イエスによる罪の赦しの事実を語って弁護して下さるだけでなく、私たちに対しても、あなたが自分の罪や弱さにどれほど苦しみ、自分など生きている意味がないと絶望しているとしても、神は独り子の命を与えて下さったほどにあなたを愛し、大切に思い、主イエスの十字架の死によってあなたの罪を赦して下さっているのだ、と告げて下さるのです。聖霊なる神はそのようにして私たちに主イエス・キリストによる救いを信じさせ、主イエスと結び合わせ、私たちを助け、慰め、新しくして、神の愛の中で生きる者として下さるのです。「弁護者」という言葉だけでは言い尽くせない広く深い救いのみ業を聖霊はして下さっているのです。

新しい生き方
 聖霊によってキリストと結び合わされ、キリストの体である教会に連なる者となった私たちは、独り子をすら与えて下さった神の愛の中で新しく生きる者となります。その新しい生き方が本日の箇所に示されています。先ず15節に「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」とあります。独り子をすら与えて下さった神の愛の中で新しく生きる私たちは、私たちのために十字架にかかって死んで下さった主イエスを心から愛する者となるのです。そして主イエスを愛する者は、主イエスの掟を守るのです。つまり主イエスのみ心に従い、主イエスがお命じになった通りに生きていくのです。そのことは21節にも語られています。「わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す」。主イエスの掟を受け入れ、それを守る人こそが主イエスを愛している者です。主イエスによって実現した神の愛の中で新しく生きる者は、主イエスを愛し、主イエスの掟を受け入れ、それを守るのです。そのように主イエスを愛し、その掟を行う人は父なる神に愛され、主イエスにも愛され、主イエスがご自身を現して下さる、つまり主イエスとの親しく深い交わりに生きることができるのです。これが、聖霊によってキリストと結び合わされ、キリストの体である教会に連なる者となった私たちの新しい生き方なのです。

主イエスの掟
 この21節だけを読むと、主イエスの掟を守ることによって私たちは父なる神にも主イエスにも愛される者となることができる、というふうにも感じられます。しかしこれまで見てきたように、私たちは聖霊のお働きによって、独り子を与えて下さるほどに私たちを愛して下さった神の愛の中で新しく生かされていくのです。それによって父なる神と主イエスとを愛して生きるのです。私たちが主イエスの掟を守るから神が愛して下さるのではなくて、神の愛の中で生かされているからこそ神を愛し、主イエスの掟を守るのです。神が先ず私たちを愛して下さったので、私たちはそれに応えて生きるのです。その愛に本当に応えて生きる者は、主イエスの掟を受け入れ、それを守るのです。主イエスの掟とはどのようなものでしょうか。それは13章の34節に語られていました。主イエスはこう言っておられます。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。主イエスが私たちを愛して下さったように、私たちも互いに愛し合うこと、それが主イエスの掟です。それはつまり、主イエスによって与えられた神の愛を私たちがしっかり受け止め、その愛の中で生きること、その愛に応えて生きることです。独り子をさえ与えて下さった神の愛に応えて生きることによってこそ、私たちは人を愛する者となるのです。愛されたことに応えることは愛することによってしかできません。愛されたことに愛することをもって応えるところに、「互いに愛し合う」交わりが生まれるのです。それが主イエスの掟、主イエスのみ心、主イエスが私たちにお命じになっていることなのです。

新しく生き始めている私たち
 聖霊によって私たちのところに戻って来て下さり、共にいて下さる主イエス・キリストは、私たちを、神の愛の中で生きる者とし、互いに愛し合う者として新しく生かして下さるのです。この新しい生き方においてこそ私たちは、世の終わりの主イエスの再臨において実現する救いの完成を、この世の歩みの中で先取りして味わい、体験することができます。勿論その救いが完成するのは世の終わりの時ですから、それまでは、私たちの歩みは不完全であり、罪や弱さがそこにはまとわりついています。互いに愛し合いなさい、という主イエスの新しい掟を守り行うことにおいても欠けだらけで、むしろほんの僅かばかりそのことを始めただけに過ぎないような歩みです。しかし私たちは、自分の意志でそのように歩み始め、自分の力でその歩みを維持しているのではありません。弁護者、助け主、慰め主であられる聖霊なる神が私たちの内に宿って下さり、独り子を与えて下さったほどの神の愛を分からせ、その愛の中で生かし、その愛に応えて互いに愛し合って生きる者として下さっているのです。私たちの新しい生き方は、聖霊によって与えられ、聖霊によって導かれています。私たちは聖霊の働きによって洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされ、キリストの体である教会に連なる者となることによって、主イエスの掟に従って新しく生き始めているのです。

二つの生き方
 23節と24節には、この聖霊のみ業にあずかっている者とそうでない者との違いが語られています。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである」。「わたしを愛する人」と「わたしを愛さない者」とが対照的に語られていますが、「わたしを愛する人」とは、聖霊によって神の愛を示され、それを信じて神の愛の中で新しく生かされている人です。その人は、主イエスのみ言葉、掟を守り、神に愛され、自分も神を愛し、また隣人と愛し合って生きるのです。父なる神と主イエスがその人のところに来て、一緒に住んで下さるとあります。父と子である神との深い交わりが、聖霊によって与えられるのです。聖霊なる神は私たちをこのように新しく生かそうとしておられるます。その聖霊を拒み、主イエスのみ言葉を父なる神からの愛の語りかけとして聞こうとしないなら、そこには、主イエスを愛することなく、み言葉に従わない生き方が生まれます。そういう生き方もこの世には現実としてあります。しかし神は私たちに、この二つの生き方のどちらかを選べと言っておられるのではありません。弁護者、助け主、慰め主である聖霊なる神が私たちを、神の愛の中で互いに愛し合う者として新しく生かして下さるのです。

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