主日礼拝

教会の頭

「教会の頭」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第110編1節
・ 新約聖書:エフェソの信徒への手紙 第1章19-23節
・ 讃美歌:298、392

神の力とご計画によって
 本日も先週に続いて、「使徒信条」の中の「全能の父なる神の右に坐したまへり」というところについてみ言葉に聞きたいと思います。ここは使徒信条の第二の部分、神の独り子イエス・キリストへの信仰を語っているところです。十字架につけられて死んで葬られた主イエスが、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、そして今は全能の父なる神の右に座しておられる、と使徒信条は語っています。およそキリスト教会であればどの教派でも信じている信仰の内容の中に、主イエス・キリストが復活して天に昇り、今は全能の父なる神の右に座しておられる、ということがあるのです。
 主イエスが復活したことも、天に昇って父なる神の右の座に着いたことも、全て父なる神のみ業でした。そのことが、先程朗読されたエフェソの信徒への手紙第1章19、20節に語られています。そこには「また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ」とあります。主イエス・キリストの死者の中からの復活も、天において神の右の座に着いたことも、神の絶大な力によることだったのです。主イエスがご自分の力で復活したのでも、天に昇ったのでもなくて、父なる神が主イエスを復活させ、天においてご自分の右の座に着かせたのです。つまりそれは父なる神のみ心、ご計画によることでした。そのみ心が預言されていたのが、先週も読んだ詩編第110編です。その1節に「わが主に賜った主の御言葉。『わたしの右の座に着くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう』」とあります。これはダビデの詩とされています。ダビデ王すらも「わが主」と呼んでいる救い主に、主なる神が、「わたしの右の座に着くがよい」と言っておられるのです。主イエスこそこの「わが主」です。ここに語られている神のみ心によって、主イエスは天に昇り、父なる神の右の座に着いたのです。

全ての支配や権威、勢力、主権を従えておられる主イエス
 主なる神は「わが主」に対して、「わたしはあなたの敵をあなたの足台にしよう」と言っておられます。それは「わが主」が全ての敵に勝利して支配する者となる、ということです。神の右の座に着くというのはそういうことです。つまり、神は天において王としてこの世界の全てを支配しておられる、主イエスはその右の座に着いて、父なる神の王としてのご支配を担い、司っておられるのです。そのことが、先ほど読んだエフェソの信徒への手紙第1章の続きである21節に語られています。天においてご自分の右の座に着かせたキリストを、神は「すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました」とあります。父なる神の右の座に着いた主イエスは、今や天において、この世界の全ての支配や権威、勢力、主権を従えておられるのです。要するに主イエス・キリストこそが、天においてこの世界を今、王として支配しておられるのです。「全能の父なる神の右に坐したまへり」とはそういうことです。このキリストのご支配を教会は、私たちは、信じているのです。

目に見えない神のご支配を信じる
 先週も申しましたように、このキリストのご支配は、私たちの目には見えません。主イエスが天に昇られたので、地上を生きている私たちは今そのお姿をこの目で見ることができないのと同じように、主イエスが天において父なる神の右に座っていて、この世界と私たちとを支配しておられることも、地上を生きている私たちの目には見えないのです。この地上の目に見える現実においては、全く別の力が支配しているように思われます。人間の力、権力が我が物顔にこの世を支配し、その下で多くの人々が苦しみ、悲しんでいます。人間の罪によって正義が踏み躙られ、人々が傷つき、命を失っている、ウクライナにおいて今まさにそういうことが起っています。この戦争による悲惨な現実のどこにキリストのご支配などあるのか、と思わずにはおれないのです。また私たちはもう二年にわたって、新型コロナウイルスによる苦しみの中に置かれています。世界全体が、そして私たちの日々の生活も、教会の営みも、このウイルスによって大きく変ってしまいました。主イエス・キリストではなくて新型コロナウイルスこそがこの世を支配しているのではないか、そう感じてしまうこともあります。しかし聖書は、主イエス・キリストは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着いて、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれている、と語っています。私たちの目には見えないこのことを信じることが、主イエス・キリストを信じる信仰なのです。信仰とはそもそも、目に見えない神を信じて生きることです。目に見えていることだけが現実だとするところには信仰は成り立ちません。目に見えない神のご支配を信じるところに、目に見える現実を超えた、また目に見える現実のみを見つめる中では得られない希望が与えられるのです。

執り成して下さっている主イエス
 しかし、キリストが天において父なる神の右の座に着いておられ、神のご支配を担っておられる、この世界の全ては、目には見えないけれども今やキリストのご支配の下に置かれている、そう信じなさいと言われても、すぐに「わかりました」というわけにはいきません。そう信じた方が希望が持てるからといって、無理やりそのように信じようとしても、それでは本当に希望を持って生きることはできないでしょう。ここで私たちがなすべきことは、このことを信じることができるとかできないとかを考える前に先ず、聖書が語っていることをよく聞くことです。天において父なる神の右の座に着いておられるキリストが担い司っておられる神のご支配とはどのようなご支配なのか、要するに父なる神の右の座において主イエス・キリストは今何をしておられるのか、そのことを聖書がどう語っているのかを、先ずはしっかり聞くことが大切なのです。そのための一つの大事な箇所を先週の礼拝において読みました。それはローマの信徒への手紙第8章34節です。そこには、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです」とありました。父なる神の絶大な力によって復活させられ、天に上げられた主イエスは、父なる神の右に座において今、私たちのために執り成して下さっているのです。執り成すとは、関係が悪くなっている二人の間に立って仲を取り持つことです。主イエスは神と私たちの悪くなってしまっている仲を取り持って下さっているのです。私たちは、神によって造られ、命を与えられ、生かされているにもかかわらず、神を神としてあがめず、従わず、自分の人生は自分のもの、自分こそが主人だと思って生きています。そういう罪によって私たちと神との関係は壊れています。自分が思い通りに生きようとすることを神は妨害している、と私たちは思っているのです。その私たちのために、主イエスは今父なる神のもとで執り成して下さっています。神と私たちの間を取り持って、私たちが神によって罪に定められ、滅ぼされてしまうことがないように、罪を赦されて神との良い関係を回復して生きることができるようにして下さっているのです。それは父なる神のみ心によることです。父なる神は、愛する独り子主イエスを、この執り成しをする者としてこの世に遣わして下さったのです。主イエスはその父のみ心を受け止めて人間としてこの世を生きて下さり、私たちの罪とそのもたらす苦しみを全てご自分の身に負って、十字架にかかって死んで下さいました。罪のない神の独り子が私たち罪人のために、私たちに代って十字架にかかって死んで下さったのです。それによって私たちの罪は赦されました。そして父なる神はその主イエスを死人のうちよりよみがえらせ、永遠の命を生きる者として下さいました。主イエスを救い主と信じ、洗礼を受けて主イエスと結び合わされる者は、罪を赦され、主イエスと共に神の子として、新しい命を生き始めることができるのです。それが、主イエスによる執り成しです。この主イエスの執り成しのおかげで私たちは、罪深い者でありながら、「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」と言うことができるのです。つまり周りの人々が、「お前のように神に逆らってばかりいる罪人は神の恵みを受けて救われる資格などない」と責め立てたとしても、そしてそれは決して濡れ衣なんかではなくて本当のことですけれども、その私のために十字架にかかって死んで復活して下さった主イエス・キリストが、今や神の右に座っていて、私のために執り成し、「わたしがこの人のために十字架にかかって死んだことによって、この人の罪はもう赦されています」と言って下さっているので、この主イエスの執り成しのおかげで、私は神の子として、神に愛されている者として生きることができるのです。父なる神の右の座に着いておられる主イエスは、この執り成しによって今私たちを支配しておられるのです。天において、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれている主イエスが、私たちのために執り成して下さっているのだから、この世のどのような力も、もはや私たちを罪に定め、滅びに至らせることはできないのです。

教会の頭として
 神の右の座に着いておられるキリストが今私たちをどのように支配しておられるのかを語っている大事な箇所がもう一つあります。それが本日の、エフェソの信徒への手紙第1章22節以下です。父なる神がキリストを復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれたと語った上で、22、23節にはこう語られています。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。キリストは、父なる神によって、全てのものを足もとに従わせる支配の座に着いておられる、そのことが語られているわけですが、それと共にここには、神がそのキリストを、すべてのものの上にある頭として教会にお与えになった、と語られています。キリストが天において神の右の座に着いておられることを語ると共に、そのキリストが教会の頭であることが語られているのです。これはどういうことなのでしょうか。

神の右の座に着いたキリストは教会の頭であられる
 ここには、神がキリストを教会にお与えになった、と語られていますが、これを誤解しないようにしなければなりません。これは、元々あった教会に父なる神が天に昇った主イエスをプレゼントした、ということではありません。教会は、23節に語られているように「キリストの体」です。つまり教会はキリストのものであり、キリスト無しに教会は成り立たないのです。だから、神がキリストを教会にお与えになったというのは、それまではキリスト無しだった教会にキリストが与えられたということではなくて、神がキリストを頭として、キリストの体である教会を築いて下さったということです。キリストをご自分の右の座に着かせ、全てのものをその足もとに従わせた神は、そのキリストを教会の頭として下さり、その頭のもとに人々を召し集めて、キリストの体である教会を築いて下さったのです。全てのものの上にある頭とされたキリストは、同時に教会の頭ともされているのです。キリストは今、父なる神の右の座に着いて、この世界に対する神のご支配を担っておられると同時に、キリストの体である教会の頭でもあられるのです。この二つは別々のことではありません。つまりキリストは、世界を支配する働きと、教会の頭としての働きを兼任しておられるのではありません。キリストがこの世界に対する神のご支配を担っておられることと、教会の頭であられることは実は一つです。言い換えれば、キリストは教会の頭であられることによって、この世界全体に対する神のご支配を行使しておられるのです。つまり、神がキリストをご自分の右の座に着かせたことと、キリストを頭として教会を築いて下さったことは、切り離すことができないのです。先週も申しましたように、キリストが天に昇って神の右の座に着いた、その昇天の十日後に、ペンテコステの出来事が起りました。弟子たちに聖霊が降り、彼らが力を与えられて、主イエス・キリストこそ神の子、救い主であると宣べ伝え始め、主イエスを信じた人たちが洗礼を受けて、教会が誕生したのです。キリストが天に昇ったことと、聖霊の働きによって教会が誕生したことは繋がっています。父なる神が、ご自分の右の座に着かせたキリストを頭として、キリストの体である教会を地上に築き、そこに人々を召し集めて下さったのです。そしてそのみ業は今も続いています。神は今も私たちを頭であるキリストのもとに召し集めて、キリストの体である教会を築いて下さっています。キリストは今、天において父なる神の右に座しておられますが、そのキリストが、聖霊によって召し集められて地上を歩むキリストの体である教会の頭となっておられるのです。

目に見えないご支配を見える仕方で示して下さるために
 キリストが天において父なる神の右に座し、神のご支配を担っておられることは、私たちの目には見えません。しかし、頭であるキリストのもとに召し集められて地上を歩んでいるキリストの体である教会は、私たちの目に見える、体をもって体験できるものです。神は、天において、目には見えない仕方で確立しているキリストのご支配を、見える仕方で示し、体験させて下さるために、地上に、キリストの体である教会を築き、そこに私たちを召し集めて下さっているのです。私たちは、頭であるキリストのもとに集められ、キリストと結び合わされて、キリストの体である教会に連なって生きることによって、天において、目には見えない仕方で既に確立している神のご支配を体験するのです。その神のご支配は、キリストの執り成しによるご支配です。罪ある私たちが、キリストの十字架と復活によって赦され、神の子とされて新しく生きることができる、その執り成しによるご支配に私たちは、キリストの体である教会においてあずかり、その恵みを体験しているのです。23節の後半には、教会は「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」と語られています。これは説明の難しい文ですが、しかし言おうとしていることは分かります。教会にこそ、神の恵みが満ち溢れている、キリストが天において神の右の座に着いて世界を支配しておられる、そのキリストのご支配は、言い換えれば神による救いの恵みは、教会においてこそ満ちているし、教会においてこそ私たちはその恵みにあずかることができる、と語られているのです。

教会においてこそみ言葉を聞くことができる
 もちろん地上の目に見える教会は、罪ある人間の集まりであり、そこには様々な欠けがあり、弱さがあります。教会に集っている人はみんな罪のない清く正しい人だ、などということはないことは、そこに集っている私たち自身を見れば明らかです。だから教会イコール神の国などということはありません。教会にもいろいろな問題が起こり、対立があったり、傷つけ合ってしまうことがあります。そういう意味では、教会においても、キリストのご支配が目に見える仕方で明らかになっているわけではありません。地上を歩んでいる限り、教会においても、キリストが担い司っておられる神のご支配は目に見えないままであり続けるのです。しかし、教会は、父なる神が、ご自分の右の座に着かせた独り子主イエス・キリストを頭として、そのもとに私たちを召し集め、築いて下さっているキリストの体です。教会においてこそ私たちは、キリストが天において、父なる神の右の座に着いておられること、そのキリストこそが今神のご支配を担っておられることを告げているみ言葉を聞くことができます。またそのキリストのご支配は、私たちのために執り成して下さることによるご支配であること、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったキリストが、今天において、罪人である私たちが赦されて神の子として生きることができるように執り成して下さっていることも、教会においてこそ聞くことができるのです。

洗礼と聖餐にあずかりつつ
 それらのことは聖書に書いてあるのだから、自分で聖書を読めばみ言葉を聞くことができる、と思う人がいるかもしれません。しかしそうではないのです。神がキリストを頭として地上に築いて下さっているキリストの体である教会に、神によって召し集められて連なることによってこそ私たちは、主イエス・キリストの執り成しによる神のご支配にあずかることができるのです。そのご支配をただ知識として知るのではなくて、体をもって体験し、味わうことができるのです。頭(かしら、あたま)であるキリストの下に結び合わされて、その手足となることによって、私たちはキリストの体の部分となります。それが洗礼を受けて教会に加えられることです。そして洗礼を受けて教会に加えられた者は、もう一つの聖礼典である聖餐において、主イエス・キリストの体と血であるパンと杯に体をもってあずかり、キリストの体の部分として、頭であるキリストの下で、他の部分である兄弟姉妹と共にこの世を歩んでいくのです。洗礼を受けて教会に連なり、聖餐にあずかりつつ生きるという目に見える具体的な歩みの中でこそ私たちは、天において父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストの目に見えないご支配を信じることができます。なぜなら教会は、復活して天に昇り、全能の父なる神の右に座しておられる主イエス・キリストを頭として、そのもとに神が召し集めて下さっているキリストの体だからです。天において、目に見えない仕方で既に確立しているキリストのご支配を、私たちが味わい知り、感じ取り、そして世の終わりにそのご支配が完成して目に見えるものとなることを待ち望む希望に生きるために、神はキリストの体である教会に私たちを召し集めて下さっているのです。

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