主日礼拝

キリストによる自由

「キリストによる自由」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第30章8-9節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙 第5章1-12節
・ 讃美歌:160、270

4章と5章の橋渡し
 ガラテヤの信徒への手紙を読み進めてきました。本日から第5章に入ります。週報に刷り込まれている聖書箇所を見ただけでは分からないのですが、新共同訳聖書を開いてみると、5章1節と2節は別の段落になっていて、2節の前には「キリスト者の自由」という小見出しがついています。新共同訳聖書では5章1節は2節以下ではなく、その前の4章21節から31節と結びつけられているのです。確かに5章1節前半の「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくだったのです」は、4章31節の「要するに、兄弟たち、わたしたちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」と結びついています。しかし他方で、これから見ていくように、2節以下を1節と切り離して読むこともできません。小見出しに縛られるより、むしろ5章1節が4章21節から31節の「終わり」であると同時に、5章2節以下の「始まり」であることに目を向けたいと思います。つまり5章1節は、4章と5章の橋渡しであり5章2節以下の土台なのです。

キリストによって与えられた自由
 その土台である1節の前半に「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです」とあります。直訳すれば「自由へとキリストがわたしたちを自由にした」となります。文の最初に「自由へ」とあり最後に「自由にした」とあることから分かるように、「自由」が強調されています。この「自由」は4章31節で語られていたキリスト者に与えられている自由な身分にほかなりません。「キリスト者の自由」という言葉はよく知られています。しかし私たちは「キリスト者の自由」を漠然と受けとめているように思うのです。私たちに与えられている自由とは、どのような自由なのでしょうか。この手紙でパウロが語りかけているガラテヤの諸教会の人たちは、まさに自分たちに与えられている「自由」が分からなくなっていたのです。
 「キリストがわたしたちを自由にした」と言われているように、この自由はキリストの十字架によって与えられた自由です。私たちが自分の力で獲得した自由ではなく、神さまがキリストにおいて私たちに与えてくださった自由です。それは、律法の行いによって義とされようとする生き方からの自由であり、律法の奴隷からの自由です。キリストによる救いに与って生きるとは、善い行いを積み重ねることによって救いを獲得しようとすることから自由にされて生きることにほかなりません。しかしガラテヤの人たちは自分たちに与えられているキリストによる自由の重みを十分に受けとめていませんでした。ですからパウロは彼らにこのように命じています。「だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」「しっかりしなさい」とは、「かたく立ちなさい」ということであり、キリストによって与えられた自由に踏みとどまりなさい、ということです。この自由が失われ再び律法の奴隷となりかねない危機的な状況の中にガラテヤの人たちはいたのです。

ガラテヤの諸教会の危機的状況
 彼らの危機的な状況の背景は7節以下から窺い知ることができます。7節でパウロはガラテヤの人たちにこのように言っています。「あなたがたは、よく走っていました。それなのに、いったいだれが邪魔をして真理に従わないようにさせたのですか。」かつてガラテヤの人たちは、パウロが告げ知らせた福音を信じキリストの十字架による救いによって与えられた自由を生きていました。しかしそのような彼らの歩みを妨げ、彼らを福音の真理から引き離そうとする人たちが現れたのです。この人たちが誰なのか、私たちははっきりと知ることはできません。しかしこの手紙を通して分かるのは、彼らが信仰のみによる救いではなく信仰と行いによる救いを主張したということです。パウロは、この人たちのことを10節では「あながたを惑わす者」と言い、12節では「あなたがたをかき乱す者」と言っています。ガラテヤの人たちは彼らの「誘い」に惑わされ、かき乱されたのです。パウロは8節でそのような「誘い」は、「あなたがたを召し出しておられる方からのものではありません」とも言っています。「あなたがたを召し出しておられる方」とは神さまにほかなりません。ガラテヤの諸教会の危機的な状況は、自分たちを召し出してくださった神さまのみ心に目を向けるのではなく、人の思いに惑わされ、かき乱されることによって引き起こされたのです。このことは、9節のパウロのたとえによれば「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」ような出来事でした。パン種を入れなければ、練り粉全体、つまりパン生地全体が膨らむことはありません。わずかなものが全体に対して大きな影響を与えることをこのたとえは語っています。ですから信仰と行いによる救いをわずかでも受け入れるならば、福音の真理が壊され、ガラテヤの諸教会全体の破壊につながる危機的な状況が引き起こされる、とパウロは警告しているのです。

十字架のつまずき
 救われるために信仰に加えて行いを求めることの根本には、「キリストの十字架」に対する拒絶があります。この拒絶によって、ガラテヤの諸教会に現れた人たちは信仰に加えて行いを求めたのです。パウロは11節でこのように言っています。「兄弟たち、このわたしが、今なお割礼を宣べ伝えているとするならば、今なお迫害を受けているのは、なぜですか。そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていたことでしょう。」「そのようなことを宣べ伝えれば、十字架のつまずきもなくなっていた」とは、要するに、信仰のみによる救いではなく、信仰と行いによる救いを宣べ伝えていれば、「十字架のつまずき」はなくなっていたということです。十字架はローマ帝国における処刑の道具であり、3章13節で「木にかけられた者は皆呪われている」と言われていたように、十字架にかけられて殺された者は神に呪われていると考えられていました。そのようなキリストの十字架の死に救いがあることこそが、「十字架のつまずき」です。弱さと屈辱の極みであるキリストの十字架の死に救いがあるとは到底思えません。ガラテヤに現れた人たちは信仰に加えて行いを求めることで、この「十字架のつまずき」を取り除こうとしました。自分の行いによって、自分の力によって救いを獲得することは、十字架にかけられて殺されたイエスが救い主であることより、よっぽど納得できることであり、また満足できることだからです。

「十字架のつまずき」を取り除いてはならない
 ガラテヤに現れた人たちはユダヤ教の影響を受けていた人たちであり、「十字架のつまずき」を取り除くために律法の行いを求めることは自然なことであったと思います。しかしガラテヤの諸教会の人たちはそうではありませんでした。彼らの多くは異邦人からキリスト者になったいわゆる異邦人キリスト者であり、もともとユダヤ教の影響を受けていたわけではありません。それにもかかわらず、彼らが信仰と行いによる救いを受け入れようとしたのは、彼らにとってもキリストの十字架がつまずきであったからにほかなりません。自分の行いに頼るのはユダヤ人やユダヤ教の影響を受けた人たちだけではないのです。むしろ自分の力や行いに頼って生きようとするのが、生まれながらの人間の姿です。ガラテヤの人たちはパウロが告げ知らせた福音を信じ、洗礼を受け聖霊によって新しくされて歩み始めていました。しかしその歩みにおいてなお「十字架のつまずき」を取り除きたいという誘惑は、決して小さなものではなかったのです。この誘惑に私たちも晒されています。せっかく救いと自由を与えられたのにガラテヤの人たちはなんて愚かなのだろう、などと他人事で済ますことはできません。私たちはキリストの十字架が救いであると信じています。その一方で「十字架のつまずき」を取り除くために、自分が善い人、立派な人になることによって救いを得たいという誘惑に駆られます。その方が受け入れやすいし分かりやすいからです。しかしキリストの十字架による救いは、受け入れやすいことでも分かりやすいことでもなく、むしろ「つまずき」となるものなのです。私たちは、つまずきに満ちたキリストの十字架をこそ信じ、宣べ伝えなければなりません。パウロがそうであったように、教会が福音を宣べ伝えるのは「十字架のつまずき」を宣べ伝えることであり、そこには困難が伴います。つまずきを取り除くために分かりやすくしたいという誘惑が絶えずあります。もちろん伝えるために分かりやすい言葉や語り方を模索し続ける必要はあるでしょう。けれども福音の真理を薄めてはならないのです。「十字架のつまずき」を取り除くとき福音は福音でなくなります。人々に福音を伝えるどころか、福音の真理に従わないようにさせてしまうのです。ですから「十字架のつまずき」は取り除かれてはなりません。つまずきに満ちたキリストの十字架にこそ、私たちは神さまの愛を見ます。罪によって滅ぶしかなかった私たちを救うために、神さまは独り子を遣わしてくださり十字架に架けてくださったのです。弱さと辱めの極みである十字架の死おいて神さまの愛が極まります。そこにだけ私たちの救いがあるのです。

キリストの十字架と割礼は両立しない
 ガラテヤに現れた人たちは信仰に加えて行いを求めましたが、具体的には割礼を受けることを迫ったようです。5章1節でパウロはガラテヤの人たちに、キリストによる自由が与えられたことを告げ、その自由に踏みとどまりなさいと命じましたが、続く2節~6節では割礼について語っています。彼らの中には割礼を受けることを考えつつあった人たちもいたのではないでしょうか。しかし救われるために割礼を受けることは、キリストが与えた自由を手放して再び律法の奴隷の軛につながることです。パウロは2節で断言しています。「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります。」「何の役にも立たない」とは、救いのために役に立たないということです。割礼を迫った人たちは、救われるためにはキリストの十字架も必要だけれど、割礼も必要だと言っていました。しかしキリストの十字架と割礼を受けることとは両立しないのです。今を生きる私たちは割礼が救いに必要だと考えることはありません。しかし本当にキリストの十字架にしか救いがないと信じているでしょうか。キリストの十字架以外にも拠りどころとしているものがもしあるとしたら、それがなんであれ、キリストの十字架とは両立しないのです。3節では割礼を受ける人は「律法全体を行う義務がある」とも言われています。律法の行いによる救いは、神さまの一方的な恵みによる救いと対極にあります。自分の力によって救いを得ようとすることと、ただ神さまの愛と憐れみに委ね、救いに与ることは両立しようがないのです。もし自分の力を頼みとするのであれば、それに頼りきる以外に道はありません。つまりもし割礼を受けることを頼みとするなら、それを命じている律法全体を行うしかないのです。一旦行いによる救いを求めたならば、どこまでも行いを積み重ねていくしかないのです。割礼を受ける人は「律法全体を行う義務がある」とはこのことを意味しています。
 さらにパウロは4節でこのように言います。「律法によって義とされようとするなら、あなたがたは誰であろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います。」「キリストとは縁もゆかりもない者とされる」とは、信仰によって律法の支配から解放されたのと真逆のことが起こるということであり、神さまの恵みの支配から解かれて、キリストと関わりのない者とされることです。また「いただいた恵みを失う」は、直訳すれば「恵みから落ちる」となり、律法によって義とされようとするなら、神さまの恵みからこぼれ落ちてしまうことが見つめられています。私たちは福音を聞いて信じることによって、行いによって救いを得ようとする生き方から自由にされ、神さまの恵みの下に生かされています。しかし行いによって救われようとするならば、もとの生き方に戻ることになり、キリストによって与えられた自由を失うことになるのです。

「主をよりどころとして」いる期待と信頼
 5節でパウロは、「わたしたちは、義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んでいるのです」と言っています。「わたしたち」とは、4節の「あなたがた」に対応しています。しかしパウロは、ここで「わたしたち」と「あなたがた」を区別しているのではありません。むしろ「あなたがた」と語りかけているガラテヤの人たちを含めて「わたしたち」と言っているのです。パウロは、割礼を受けることを考えつつあったガラテヤの人たちが信仰にとどまり、キリストによる自由に踏みとどまることを期待していました。だからこそパウロは1節で、「しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」と言っているのです。このパウロの期待の根拠はどこにあるのだろうかと思います。ガラテヤの諸教会の危機的な状況に対するパウロの厳しい言葉を聞くとき、果たして本当にパウロはこのような期待を持っていたのかと疑いたくなります。しかし本日の箇所の10節でもパウロはガラテヤの人たちにこのように言っているのです。「あなたがたが決して別な考えを持つことはないと、わたしは主をよりどころとしてあなたがたを信頼しています。」あれだけ激しい言葉を投げかけていたのに、パウロはガラテヤの人たちを信頼していると言うのです。それは「主をよりどころとして」いるからです。パウロのガラテヤの人たちに対する信頼と期待は、人間的な親しさなどではなく、「主をよりどころとして」いることによるのです。
 パウロの期待は私たちにも向けられています。私たちもまた「義とされた者の希望が実現することを、“霊”により、信仰に基づいて切に待ち望んで」生きることに踏みとどまるように「主をよりどころとして」期待されているのです。キリストの十字架によって義とされ救われた私たちは、地上の死で終わらない、復活と永遠の命の約束が実現するのを待ち望みつつ歩んでいます。自分の力に頼って歩むならば、そのような希望を抱くことはできず、そこには不安と恐れが溢れているでしょう。しかし「信仰に基づいて切に待ち望んでいる」ならば、ひたすら神さまに委ね信頼して歩むならば、そこには神さまだけが与えくださる希望が溢れているのです。「“霊”により」ともあります。私たちは、聖霊の導きと支えなしに復活と永遠の命の約束を待ち望みつつ歩むことはできません。キリストによって与えられた自由に生きるとは、聖霊によって導かれ希望を抱きつつ待ち望む歩みのです。

キリストなしに愛と自由はない
 6節で「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」と言われています。十字架による救いに与りキリストと結ばれ、律法の支配から神の恵みの支配へと入れられることによって、割礼があるかないかはもはや問題ではなくなりました。大切なことは、「愛の実践を伴う信仰」と言われています。これは、誤解を生みやすい言葉でもあります。「愛の実践を伴う信仰」が大切であるならば、信仰に加えて愛の実践つまり愛の行いが必要だ、と受けとめられてしまうかもしれないからです。そうなると、信仰のみではなく、愛の行いもなければ救いに与れないということになり、救われるために愛の行いを積み重ねよう、ということになってしまいます。割礼の有無ではなくて、今度は愛の行いの有無が問題になってしまうのです。しかしそうでは決してありえないのです。キリストの十字架による救いを信じて、それに応えていくところに私たちの「愛の実践」があります。私たちは本来、神さまを愛することも隣人を愛することもできない罪人です。その私たちが、ただ神さまの一方的な恵みによって救われたことを信じ、聖霊の導きによって生かされるとき、そこに「愛の実践」が生まれるのです。「愛の行い」が先にあるのではありません。「信仰のみ」に生きるとき、自分の力によってではなく聖霊の働きによって「愛の行い」が実を結んでいくのです。信仰なしに愛はありません。言い換えるならばキリストなしに愛はないのです。同じことが自由にも当てはまります。5章1節にもう一度立ち返りたいと思います。キリストの十字架による救いなしに、私たちに「自由」はありません。「愛」と同じく、私たちは本来「自由」を持っていません。罪の力にがんじがらめになっているからです。自由という言葉は世の中に溢れていますが、それは、「何者にも縛られない」という意味の自由です。しかしキリスト者の自由は、キリストに結ばれて生きるところに与えられている自由なのです。神さまとの交わりの中を生きることによって、あらゆる恐れや不安から自由となり、希望を持って生きることができるのです。キリストの十字架なしに「愛」も「自由」もありません。キリストの十字架というつまずきを取り除くとき、「愛」も「自由」も失われます。私たちは、キリストの十字架の死において極まる神さまの愛によって生かされ、キリストの十字架による救いによって与えられた自由を生きているのです。私たちは、その愛と自由に踏みとどまって希望を持って歩んでいくのです。

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