「私たちの間で実現した事柄」伝道師 川嶋章弘
・ 旧約聖書:詩編 第20編1-10節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第1章1-4節
・ 讃美歌:127、405
ルカによる福音書と使徒言行録
新しい年度も一か月が過ぎました。受難節、受難週の歩みを経て、イースターの喜びの中で5月を迎えています。夕礼拝では、本日からルカによる福音書を読み進めて行きます。この福音書が始めから終わりまで告げる喜びの知らせに目を向けていきたいと思います。
本日の聖書箇所はルカによる福音書の序文にあたります。3節に「敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」とあります。このようにルカによる福音書は「敬愛するテオフィロさま」に献呈するために書かれたのです。ここに出てくるテオフィロという名前は、この箇所のほかには使徒言行録1・1、2にのみ現れます。1・1、2には、「テオフィロさま、わたしは先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指図を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました」とあります。ここで言われている「第一巻」がルカによる福音書です。つまりルカによる福音書は一つの本の上巻であり使徒言行録は下巻であるといえるのです。聖書の順序では、ルカと使徒言行録の間にヨハネによる福音書があるため、使徒言行録がルカによる福音書の続きであることが分かりにくくなっていますが、私たちはルカによる福音書と使徒言行録を一体のものとして読む必要があるのです。この二つを合わせると新約聖書の四分の一以上にもなり、福音書では主イエスの誕生、ガリラヤでのイエスの活動、ガリラヤからエルサレムへの旅、エルサレムでのイエスの活動、そして十字架と復活、弟子たちへの顕現が語られています。続く使徒言行録では、復活の主イエスが弟子たちに40日間現れてくださったこと、主イエスの昇天と聖霊の降臨、エルサレムの原始教会について、そしてペトロによる異邦人伝道とパウロの宣教活動が語られています。このようにルカ-使徒言行録は、ほかの福音書よりも、時間的にも地理的にもより広い視野をもって語られていて、主イエスの誕生から使徒たちの異邦人伝道までを壮大なスケールで物語っているのです。ですから私たちは、福音書と使徒言行録が一体として告げているメッセージに目を向けていきたいのです。
ルカ
ルカ-使徒言行録の著者の名前は、ルカによる福音書にも使徒言行録にも記されていません。しかし使徒言行録には、著者が唐突に自分のことを語り出す部分があります。たとえば、パウロの二回目の宣教旅行のことを語っている16章10節に、「パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした」とあります。それまで、パウロの伝道旅行を外から、客観的に語っていた著者が、ここでは自分が一緒に体験したこととして語り始めるのです。このように著者が「私たち」と語っている箇所がほかにもいくつかあります。パウロがローマへ向かったことを語っている27・1-28・16もそのような箇所です。このことからルカ-使徒言行録の著者がパウロの伝道旅行に同行していたこと、パウロのローマへの最後の旅にも同行したことを窺い知ることができるのです。そしておそらく彼は、ローマに着いたあと獄に入れられたパウロとともに生活していました。獄中のパウロのそばにいた人たちの名前がコロサイの信徒への手紙の4章に記されていますが、14節に出てくる「愛する医者ルカ」こそ、ルカ-使徒言行録の著者であると考えられているのです。パウロが「愛する医者ルカ」と記していることからも分かるように、ルカ-使徒言行録の著者ルカは、パウロの同労者であり彼と親しい関係にあったのです。
献呈の言葉
本日の聖書箇所は、「敬愛するテオフィロさま」に向けた献呈の言葉です。ルカによる福音書の続きである使徒言行録の冒頭には、第一巻の内容がまとめられていますが、そこには使徒言行録執筆の動機は書かれていません。おそらくルカは、元々二巻からなる書物を書くことを構想していて、その全体の執筆の動機を本日の箇所の献呈の言葉に記したのです。そもそも「ルカによる福音書」という呼び方は後の時代につけられたものです。ですからルカは福音書と使徒言行録を分けて考えていたのではなく、二巻からなる福音を告げる一体の書物として書いたのではないでしょうか。そうであるなら、テオフィロへ献呈されたこの書は「テオフィロへの福音書」と呼んでも良いかもしれません。
テオフィロ
さて、ルカがこの福音書と使徒言行録を献呈したテオフィロという人物ですが、彼がどのような人物であったかはよく分かっていません。「敬愛するテオフィロさま」と呼ばれていることから、身分の高い人だと考えられることもありますが、テオフィロは一般的な名前であり必ずしも身分の高い人に限られるわけではないようです。しかしテオフィロについて分かることもあります。4節に「お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたい」とあるからです。このようにテオフィロはすでにキリストの福音に触れていたと思われます。彼はキリストの福音についてなんらかの教えを受けていたけれど、その教えが確実であるかどうか悩んでいる求道中の人物であったかもしれません。あるいは洗礼を授かっていたけれどキリストの福音がまだよく分かっていない人物だったのかもしれません。つまり私たちの教会で言えば求道者会に出席しているような人物だったのではないでしょうか。「確実なものであること」とは「信頼できること」、また「真実であること」をも意味します。テオフィロは自分が受け取った福音が信頼に値するのか、真実であるのか確信を持てずに心が揺れていたのです。
しかしこのように心が揺れるのは、求道者や受洗後まもない方々に限ったことではありません。どんなに信仰の歩みが長かったとしても、私たちはなかなか福音に堅く立つことができません。いつも弱さのゆえに心が揺れ、教えられたキリストの福音よりもこの世の誘惑に目を奪われているのが、私たちの姿なのです。日曜日に恵みと喜びに満ち溢れてこの世へ遣わされても、月曜日には様々な思い煩いによって信仰がぐらつくのです。テオフィロだけでなく私たちも受け取った福音が確実なものであり、信頼に値し、真実であることを繰り返し告げられる必要があるのです。
あなたへ語られる福音
心が揺れているテオフィロに向けて、ルカは福音書と使徒言行録を記しました。しかしここで私たちは疑問に思います。なぜルカはテオフィロという一人の人にだけ向けてこの書を記したのでしょうか。より多くの人に福音を宣べ伝えるためには、テオフィロだけでなく心揺れている多くの者たちに向けて書いたほうが良かったはずです。しかしこの書は、テオフィロ一人に献呈されているのです。この疑問に答える説明がいくつかあります。たとえば、テオフィロは「神を愛する者」という意味なので、ルカはテオフィロという実在の人物に向けて書いたのではなく、すべての「神を愛する者たち」に向けて書いたというものです。あるいはテオフィロに献呈したのは、彼がこの書物を出版する出資者、スポンサーになってくれることを期待したためであるというものです。しかしこれらは私たちの疑問に答える説明にはなりますが、その説明によってこの書は私たちとは関係のないものになっていきます。むしろルカは、実在するテオフィロという一人の人に福音が確実なものであることを伝えたいと思って書いたのだと考えるべきなのです。教えられた福音こそ、あなたが生きるにしても死ぬにしても真の支えなのだ。そのことをルカはなによりも伝えたかったに違いないのです。なぜなら福音はいつも一人に向けて語られ、届けられる喜びの知らせであり、ほかならぬあなたに救いを告げるものであるからです。礼拝において、会衆の皆さまにみ言葉が語られます。たとえどれほど多くの方がいらっしゃるとしても、み言葉はそこにいる一人一人に向けて語られているのです。お一人お一人の名を呼んで、その方を生かす言葉として語られているのです。ルカがテオフィロ一人に向けて書いたからこそ、この福音書は私たち一人ひとりに語りかけてくるのです。テオフィロと同じように受けた教えが確かなものか分からなくなり、不安になっている私たち一人ひとりへの語りかけがここにあるのです。
私たちの間で実現した事柄
ルカはテオフィロに向けて「わたしたちの間で実現した事柄について」、この福音書と使徒言行録を書きました。「わたしたちの間で実現した事柄」とはなにを指しているのでしょうか。「事柄」という言葉は広い意味を持ちますが、ここでは口語訳のように「出来事」と訳すのが良いと思います。ルカがここで語っている「事柄」とは、主イエスによる救いの「出来事」にほかならないからです。「実現した」というのは、単に起こったという意味ではありません。神さまが意志されたことが成就したという意味です。旧約聖書で預言され、約束されていた救いの出来事が、主イエスにおいて成就したとルカは語っているのです。
その救いの出来事は、ルカにとって単に過去に起こったことではありません。「わたしたちの間で実現した」出来事なのです。ルカはパウロの伝道旅行に同行しましたが、地上を歩まれた主イエスに出会ったことはありませんでした。主イエスとともに生活した使徒たちが第一世代であるとすれば、ルカは第二、第三世代となります。ですから彼は主イエスの十字架に立ち会ったわけではありません。そして主イエスの十字架は確かに過去にたった一度起こったことです。しかしその一度きりの十字架が、ルカにとって自分たちの間で実現した出来事であり続けているのです。「実現した」という言葉は、過去に起こったことがルカの「今」になお現実性を持った、リアリティのある出来事であることを表しています。主イエスによる救いの出来事は「今、ここで」生きるルカたちの間で実現した出来事なのです。
私たちにとって、主イエスによる救いの出来事はルカよりもさらにずっと過去のことです。それにもかかわらず、それは「今、ここで」生きる私たちの間で実現した出来事なのです。キリストによる救いは、私とは関係のない誰かのための救いではなく、この私のための救いにほかなりません。時間的に遠く離れているからといって、私たちが救いから遠く離れていることにはなりません。主イエスは、「今」を生きる私たちのために十字架で死なれたのです。
もう一つ目を向けたいのは、ルカが「私に実現したこと」ではなく「私たちの間で実現したこと」と語っていることです。自分だけに起こったこととしてルカは救いを語っているのではなく、私たちの間で実現したこととして語っているのです。この「私たち」にテオフィロも含まれています。テオフィロが求道者であったとすれば、ルカは、あなたもこの救いの出来事に招かれているのだと告げているのです。あるいはテオフィロの信仰が揺らいでいたのであれば、あなたもすでに私たちの間で実現したことに加えられているのだと告げているのです。この夕礼拝には、求道中の方も、すでに洗礼を受けた方もいらっしゃいます。ルカは、ここに集っているすべての方に、主イエスによる救いが「私たちの間で実現した」と告げているのです。
最初から目撃した者たち
ルカがこの福音書を書く前に、すでに多くの人が物語を書くことに手をつけていました。ルカはその人たちの書いた物語を参考にしつつこの福音書を書いたのです。この人たちもルカと同じように、主イエスのご生涯を目撃した人たちではありません。この人たちは「最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに」書いたのです。「最初から目撃して御言葉のために働いた人々」とは使徒たちです。ここは原文では「初めからの目撃者たちで、み言葉に仕える者となった人たち」となっています。使徒とは「初めからの目撃者たち」なのです。使徒言行録1:21、22でユダの代わりに使徒を選ぶときペトロは次のように言っています。「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」つまり使徒とは、主イエスの復活の証人であるだけでなく、主イエスの全生涯の証人でもあるのです。
御言葉のために働いた人々
「初めからの目撃者たち」は、主イエスの復活の後、「み言葉に仕える者」となりました。使徒たちは、彼らが実際に目撃したことを宣べ伝える者となったのです。この「仕える者」という言葉は、元々は「漕ぎ手」という意味です。漕ぎ手は言われるままに船を漕ぐしかありません。しかし船は彼らによって前に進むのです。逆風のときは、懸命に漕いでもなかなか前に進みません。ときには押し戻されることもあるかもしれません。それでも漕ぎ手によって船は前進するのです。使徒とは、み言葉の漕ぎ手になった者たちです。み言葉も漕ぎ手によって前進していきます。ときには妨げがあるかもしれません。どちらに進んだらよいか分からないこともあるかもしれません。それでも聖霊に導かれた漕ぎ手によって神の言葉は広まっていくのです。この歩みこそ使徒言行録が私たちに伝えていることです。使徒たちは逆風のときもみ言葉の漕ぎ手として仕え、エルサレムから始まり異邦人の地へいたるまで、神の言葉は広まっていったのです。船の漕ぎ手の名前が記録され残されるということはありません。み言葉の漕ぎ手も同じではないでしょうか。使徒言行録に記されているパウロやペトロといった偉大な伝道者たちですら、その人生について多くのことは分かっていないのです。この二人がいつどのように死んだかすら明らかではありません。またルカ-使徒言行録のどこにも名前が記されていない著者ルカもみ言葉の漕ぎ手であったに違いないのです。
順序正しく
すでに多くの人が物語を書くことに手をつけていたのに、ルカもまた新たに物語を書こうとしたのは、先輩たちが書いたものに不満があって、批判したり修正したりしようとしたというわけではありません。ルカもまた多くの人たちの後に続いて、使徒たちから伝えられたとおりに物語を記していこうとしているのです。しかしルカには彼なりの視点があることも確かです。ルカの視点が現れているのは、3節の「順序正しく」という言葉です。彼は使徒から受け取ったことを時間的に「順序正しく」物語ろうとしているのです。ここでルカが見つめているのは、神の救いの物語の時間的な順序です。ルカは、旧約の預言と約束の成就として主イエスの出来事を語っています。そして福音書と使徒言行録を通して、主イエスの誕生と生涯、十字架と復活、昇天、そして聖霊の降臨と教会の誕生、さらに使徒たちの伝道までを物語るのです。ルカは、神の救いの壮大な物語を「順序正しく」語ろうとしているのです。
救いの物語を聞き、語る
ルカは、テオフィロへこの福音書を献呈しました。しかし先ほども申しましたようにルカが記す救いの物語は、この私に、そして私たちに語られているものでもあります。私たちはこの救いの物語を通して、教えられた福音が確実であることを告げられるのです。その意味で、私たち一人ひとりはテオフィロであるといえます。ある説教集には「敬愛するテオフィロさま」のところに自分の名前を入れて良いのだと書かれていました。ルカは「敬愛するあなたへ」この福音書を書いたのだと言うのです。とても印象深かったのですが、まさにルカによる福音書は、あなたへ語りかけている救いの物語なのです。「私たちの間で実現した事柄」について、ルカは私たち一人ひとりへ語りかけているのです。ルカ-使徒言行録は「テオフィロへの福音書」であると同時に、ほかならぬ「あなたへの福音書」なのです。
しかしまた私たちはルカであるともいえます。テオフィロが福音書を献呈され、その後どうしたかは分かりませんが、もしテオフィロが福音書を読んで、これは良い話だと思うだけで誰にも読ませず隠しておいたならば、この救いの物語は誰にも伝わらなかったでしょう。テオフィロは受け取った救いの物語を誰かに伝えたのです。そしてテオフィロからこの救いの物語を受け取った人も、また別の誰かに伝えたのです。そのようにして、この福音書は今日の私たちにまで伝えられて来たのです。私たちも、ルカが私たち一人ひとりに語る救いの物語を自分だけのものにしておくことはできません。救いの物語が一人でも多くの人へ届くように、私たちもまたみ言葉の漕ぎ手となるのです。ルカとともに、すでに「私たちの間で実現した事柄」を伝えていくのです。
私たちは、この夕べからルカによる福音書が語る救いの物語に耳を傾け始めました。そして私たちは、この夕べからルカとともに救いの物語を語るようにと招かれているのです。