夕礼拝

聖霊で洗礼を授ける方

「聖霊で洗礼を授ける方」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:イザヤ書 第42章1-9節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章1-11
・ 讃美歌:56、441

<イエスさま登場>  
 3月に入ってから、マルコによる福音書の御言葉を共に聞いていますが、本日、やっと9節に、イエスさまご本人が登場します。
 マルコ福音書では、マタイによる福音書やルカによる福音書のように、イエスさまのご降誕、つまりクリスマスの物語が語られていません。すでに大人になっておられるイエスさまが、突然現れます。  

 マタイ福音書やルカ福音書は、それぞれ、イエスさまのご降誕によって、預言されていた神の約束が実現したことを告げています。
 そして、それぞれ初めに語られるクリスマスの出来事は、イエスさまが、どのような方かということを物語っています。聖霊によって処女が身ごもった、という出来事は、イエスさまが神の力によって宿られた、まことの神の子である、ということを示しています。また、マリアという一人の女性からイエスさまがお生まれになったということは、その神の子は、まことの人間となってお生まれになった、ということを示しています。
 このことによって、イエスさまがどのような方か。それは、預言されていた「救い主」であり、まことの人となられた、まことの神であるということが、はっきりと示されているのです。

 一方、マルコ福音書は最初に、旧約聖書において「主が来られる前に、その道を準備する者が神から遣わされる」という預言があったことを語ります。そして、その通りに、主より先に遣わされた者として「洗礼者ヨハネ」が荒れ野に現れました。
 そしてこの洗礼者ヨハネは、「わたしよりも優れた方が、後から来られる」と述べ、まさに後から、その通りに、イエスさまが来られたのです。
 こうしてマルコは、ガリラヤのナザレから来られたイエスという方こそ、すべての預言が指し示している、神が遣わされた「救い主」であることを指し示します。  
 そして、ご降誕の物語とは違う仕方で、つまり、イエスさまが洗礼者ヨハネの悔い改めの洗礼を受けられたこと、また聖霊が降って、天からの声が聞えたことを通して、この方がどのような方であるか、どのような「救い主」か、ということを指し示そうとしているのです。

<ヨハネの悔い改めの洗礼>  
本日お読みしたところの4節には「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていた」と語られています。ヨハネはヨルダン川で、水によって、人々に悔い改めの洗礼を授けていました。

 「悔い改め」とは、人が、今まで神の方を向かず、神を忘れ、神から離れていた自分勝手な歩みをやめて、神のもとに立ち帰ること。神の方に方向転換し、神の方を向く、ということです。ですから聖書が語る「罪」というのは、わたしたちが思うような、犯罪を犯すことや、規則を破ることではなく、神から離れることを意味します。神に良いものとして創造された人間は、神と向かい合って、神と共に生きることを望まれていますが、その神との正しい関係を壊して、神から離れてしまうことを「罪」と言うのです。

 さて、洗礼者ヨハネのもとには、ユダヤの全地方とエルサレムの住民が皆やってきて、この悔い改めの洗礼を受けたと書かれています。
 人々は荒れ野に現れたヨハネの姿や、その語ることを聞いて、いよいよ旧約聖書の時代から先祖代々待ち望んでいた「救い主」が現れるのだ、ということを知りました。
 そしてヨハネは、悔い改めを呼びかけます。神の方を向かず、そっぽを向いたままでは、神が差し出して下さる恵みを受け取ることは出来ません。ヨハネの悔い改めの洗礼は、人々の心を神に向けさせました。そして、これから神が与えて下さる罪の赦しを得させるために、備えをさせたのです。

 そうして洗礼者ヨハネは、来たるべき方をこのように告げ知らせました。7節「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」

 後から来られる方は、ヨハネより優れた方であり、ヨハネはその方の履物のひもを解く値打ちもない、というのです。履物のひもを解くのは、奴隷がする仕事です。つまりヨハネは、自分はその方の奴隷になる価値もない、それほどの方が来られる、と言っているのです。しかも、その方は水ではなくて、聖霊で洗礼をお授けになる、といいます。

 これを聞いた人々は、これから来られる方は、きっと神の威厳に満ち溢れており、偉大な力のある、輝かしい、立派な救い主が来られるのだろう、と、大いに期待をしたのではないでしょうか。

<ヨハネの洗礼を受けるイエスさま>  
 ところが、イエスさまはどのようにして人々の前に現れたでしょうか。イエスさまは、ガリラヤのナザレという田舎町から出て来られて、多くの人々と一緒に列に並んで、大勢の一人として、ヨルダン川で、このヨハネから、悔い改めの洗礼をお受けになったのです。  

 イエスさまのことを知っているわたしたちは、このことに疑問を持ちます。イエスさまは、神の御心に従い、神のご計画を行なうために、神から遣わされた神の御子なのですから、悔い改める必要のない、罪のないお方です。この方が、どうしてまるで罪人のように、悔い改めの洗礼をお受けになったのでしょうか。しかも、「授ける」のではなく、履物のひもを解く値打ちもないというヨハネから、「受けられた」とは、どういうことなのでしょうか。  

 悔い改めの洗礼を受けるということは、悔い改めるべき罪人である、ということです。イエスさまは、そこに立たれました。多くの悔い改めるべき罪人と同じところに、ご自分の身を置かれた、罪人と同じになられた、ということなのです。  

 これは、決して簡単なことではありません。正しい人が、罪人の一人に数えられるということは、本来とても屈辱的なことであり、耐え難いことであるはずです。
 わたしたちだったら、少しの濡れ衣を着せられることも我慢できないのではないでしょうか。自分は悪くないのに、悪者にされたり、不当な評価をされたりすることは、決して受け入れられないし、申し開きをせずにはおれません。プライドも傷つきます。ましてや、人の罪を、代わりに何の落ち度もない自分が負うなど、そんなに不利益で、損をすることはありません。

 しかし、イエスさまは、ただ静かに、多くの罪人たちと共に、悔い改めの洗礼をお受けになったのです。これは、単なるパフォーマンスではありませんし、甘んじて受けてやろう、と簡単に出来ることでもありません。この正しい方が罪人と同じように悔い改めの洗礼をお受けになったことは、重大な意味があります。
 なぜなら、まことに正しい方であるイエスさまが罪人と同じところに身を置かれたのは、すべての罪人の罪を代わりに担われるためだからです。そのために、神の栄光をお捨てになり、罪人にまでご自分を低くされたのです。悔い改めの洗礼をお受けになるということは、ご自分が罪人となり、罪人として裁かれ、十字架に磔になる、その苦しみと死に至る歩みを、受け入れるということなのです。十字架の上で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばなければならない、神から見捨てられたと嘆かなければならない、罪人の最も深い苦しみの中に、わたしたちの代わりに、ご自分の身を置いて下さるということなのです。

 罪人であるわたしたちは、もはや自分の罪を自分で償うことすらできません。神から離れ、神に背く罪は、それほど重いものなのです。このお一人の正しい方が、全く清いいけにえとなり、ご自分の命を献げて下さらなければ、わたしの罪を償って下さらなければ、わたしたちは自分の罪によって、苦しみ、死に捕らえられ、絶望し、もはや滅びるしかない者なのです。  

 しかし神は、そのようなわたしたちをも愛し尽くして下さいます。簡単な愛ではありません。ご自分の御子を、わたしたちを生かすために世に遣わし、すべての罪を負わせること、御子の十字架の死によって、わたしたちに罪の赦しを得させて下さることで、示してくださる愛です。  

 このことは、確かに、神ご自身の御心でした。わたしたちの救いのために、ご計画して下さっていたことでした。旧約聖書のイザヤ書53:11~12には、主の僕が苦難を受け、神の望まれることを成し遂げるということ。それは、僕の死によって、多くの人の過ちを担い、多くの人を正しい者とするということであると、語られています。  
 「彼は自らの苦しみの実りを見/それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った。それゆえ、わたしは多くの人を彼の取り分とし/彼は戦利品としておびただしい人を受ける。彼が自らをなげうち、死んで/罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」

 このように、本日の9節に「そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた」とたった一節で語られた出来事は、イエスという方がどのような方か、わたしたち罪人のためにご自分をどれだけ低くなさったか、どのようにして救いの御業を成し遂げようとして下さっているかが、示されているのです。

<聖霊と天の声>
 こうして、イエスさまが悔い改めの洗礼を受けられるところから、神のご計画がいよいよ本格的に動き出すのです。旧約聖書の時代が終わり、神による新しい救いの歴史が、神の子イエス・キリストによって始まります。

 イエスさまが洗礼をお受けになり、ヨルダン川の水の中から上がられると、すぐ、天が裂けて、霊が鳩のようにご自分に降ってくるのをご覧になった、とあります。そして「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。
 これはイエスさまご自身が、見て、聞かれたことだと語られています。

 天が裂けるというのは、神がご自分を現されるときの表現です。そして、霊、つまり神の霊である聖霊がイエスさまに降られた、というのは、この時イエスさまが、神の御業を行なう務めに召し出されたことを示していると考えられます。

 旧約聖書の時代には、神から特別な務め、つまり王や、祭司や、預言者の働きを与えられる者は、任命の時に油を注がれました。油は、神の霊の象徴であり、神の霊が注がれることでその特別な任務に与り、またそのための力が与えられたのです。
 この「油注がれた者」というのが「メシア」、「救い主」という言葉です。まさにこの時、神の霊がイエスさまに注がれて、イエスさまは「救い主」として立てられたのです。

 それから、イエスさまは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声をお聞きになりました。この「適う」という言葉は、喜ぶ、選ぶ、定める、という意味を含んでいます。そして、この声は、本日お読みしたイザヤ書42章と響き合っています。
 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ/彼は国々の裁きを導き出す。」
 こうして、いよいよイザヤ書に示された救いを実現する「主の僕」が、神の御業を実現なさる時が来たのです。
 天の父なる神が、イエスさまはご自分の愛する子、神の子であること。そして、心に適う者、つまりご自分の御心、思いを実現する者だ、ということをお告げになりました。
 霊が降るのをご覧になり、声をお聞きになって、イエスさまは、いよいよここから、神の御心を実現するために、救いの御業を成し遂げるために、苦難の僕として、歩み出されるのです。

 悔い改めの洗礼をお受けになり、罪人と同じ、わたしたちと同じになることから始めて下さったイエスさまは、聖霊を受けて、救い主としての道を歩み通して下さいました。わたしたちの罪をすべて担い、ご自身が罪人となって裁かれ、十字架に架かることで御業を成し遂げて下さいました。それは神の御心に適ったことでした。そして神はイエスさまを復活させられ、救いの御業が実現したこと、この方こそまことに「救い主」であり、罪も死も打ち破られ、すべてに勝利されたことを明らかにされたのです。わたしたちは今、この勝利を知らされており、この恵みへと招かれているのです。

<聖霊による洗礼>
 ところで、8節で洗礼者ヨハネが「その方は聖霊で洗礼をお授けになる」と告げたことは、どうなるのでしょうか。このことは、イエスさまが十字架の苦しみを受け、死んで、罪の赦しの御業を成し遂げて下さったことによって、実現しました。神の救いの新しい歴史が始まり、洗礼の意味も、与えられる恵みも、大きく、新しくなりました。

 父なる神は、十字架の死に至るまで従順に従い、御業を成し遂げられた御子イエスさまを復活させ、そして天に上げられました。その後、弟子たちに聖霊が降るという、ペンテコステの出来事が起こりました。このことは使徒言行録の2章に語られています。聖霊によって、神が召し集められた、新しい神の民である「教会」が誕生した出来事です。
 この時、弟子たちは聖霊の力を受けて、神の御業を語り始めました。弟子の一人、ペトロはペンテコステの説教で、このように語っています。
 「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

 洗礼者ヨハネの洗礼は、悔い改めと、罪の赦しを求める「しるし」としての洗礼でした。
 しかし、主イエス・キリストが、十字架と復活によって救いの御業を成し遂げて下さった今や、ペンテコステの後に聖霊によって生まれた教会が、イエス・キリストの名によって授ける洗礼は、キリストの救いを信じる「しるし」であり、「賜物として聖霊を受ける」のだと言われています。

 この洗礼においては、聖霊なる神が働いて下さいます。悔い改め、イエスさまによる罪の赦しを信じる者を、復活して天におられるイエスさまご自身と、一つに結び合わせて下さるのです。そのことによってわたしたちは、罪のために自分が死ななければならなかった死を、イエスさまの十字架の死によって死ぬことになり、また、イエスさまの復活の命に結ばれて、わたしたちもイエスさまと共に永遠の命を生きることになるのです。
 そして、神の子であるイエスさまと結ばれることによって、わたしたちも神の子とされます。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天の父なる神の言葉を、わたしたちも聞くことができ、また聖霊なる神に力を与えられて、神の御心を尋ね、神と共に、神に従って生きる者へと変えられていくのです。

 わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した、この聖霊による洗礼を受け、イエス・キリストの正しさも、勝利も、永遠の命も、この方が持っておられるすべてが、わたしに与えられるのだ、と言うことができます。
 しかし、このことは、イエス・キリストが悔い改めの洗礼をお受けになり、わたしの苦しみも、罪も、死も、すべてをご自分のものとして下さったことによって、実現したことなのです。

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