主日礼拝

人を活かす信仰

「人を活かす信仰」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:アモス書 第5章4-6節
・ 新約聖書:ヨハネによる福音書 第4章43-54節
・ 讃美歌:326、141、449

ユダヤとガリラヤを行き来する主イエス
 一ヶ月ぶりに、ヨハネによる福音書に戻り、読み進めたいと思います。本日は第4章43節以下を読むのですが、その冒頭の43節に「二日後、イエスはそこを立って、ガリラヤへ行かれた」とあります。「そこ」とは、サマリアのシカルという町です。その町の近くにあった「ヤコブの井戸」において、主イエスが一人のサマリアの女性と出会ったことが4章のこれまでの所に語られていました。その女性の証しを聞いたシカルの町の人々が主イエスのところにやって来て、自分たちの町に滞在するように頼んだこと、主イエスがその願いに答えて二日間そこに滞在したことが40節に語られていました。そして二日後に主イエスはそこを出発したのです。この時主イエスはガリラヤへと向かっておられる途中でした。そのことは4章3節に語られていました。「ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた」とあります。「再び」とあるように、主イエスは以前にもガリラヤに行かれたことがありました。1章43節以下にそのことが語られており、2章に入ると、ガリラヤのカナでの婚礼において、水がめの水をぶどう酒に変えるという最初の奇跡、しるしをなさったことが語られていました。これが一回目のガリラヤ行きであり、今度は二度目なのです。その途中、サマリアのシカルに二日間滞在し、そこを立ってガリラヤへ行った、というのが43節です。このように4章には、ユダヤからガリラヤへの二度目の移動が語られています。ところが次の5章1節には「その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた」とあります。エルサレムに上られたのもこれが二度目です。前回は2章13節でした。そこには「ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた」とありました。5章1節も「ユダヤ人の祭り」における上京です。ヨハネ福音書は、主イエスがユダヤとガリラヤの間を行ったり来たりしておられること、ユダヤ人の祭りのたびにエルサレムに上ったことを語っているのです。他の三つの福音書では、主イエスは専らガリラヤで活動し、生涯の最後に一度だけエルサレムに来てそこで十字架にかけられた、となっていますから、ここにヨハネ福音書の大きな特徴があるわけです。

預言者は故郷では敬われない
 このように主イエスがユダヤとガリラヤを行き来していることを描きつつ、ヨハネ福音書は44節でこう語っています。「イエスは自ら、『預言者は自分の故郷では敬われないものだ』とはっきり言われたことがある」。「預言者」とは主イエスご自身のことです。神の言葉を語り伝える預言者である自分は、故郷では敬われない、故郷の人々には受け入れられない、と主イエスは語っておられたのです。主イエスを受け入れない、敬わないその故郷とはどこなのでしょうか。主イエスはユダヤのベツレヘムでお生まれになり、ガリラヤのナザレで育たれた、ということを他の福音書は語っています。主イエスの故郷、出身地と言える場所はガリラヤのナザレであるというのは、全ての福音書が共通して語っていることです。ヨハネ福音書においても、1章45節に、イエスは「ナザレの人」だと語られています。ですから主イエスの故郷はナザレであり、ガリラヤです。そして他の三つの福音書には、故郷ナザレの人々が主イエスにつまずいたことが語られています。彼らは、自分たちの間で育ち、幼い頃から知っているイエスを救い主と信じることができなかったのです。そしてそこに「預言者は自分の故郷では敬われない」という言葉が語られています。他の福音書のこのような記述からすれば、この44節も、主イエスは故郷であるガリラヤでは敬われない、ということなのだろうと思われるのです。ところが、次の45節にはこのように語られています。「ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人々はイエスを歓迎した」。あれれ?と思います。故郷であるガリラヤの人々には敬われないはずではなかったの?預言者は故郷では敬われないというお言葉はどういう意味だったの?と訳が分からなくなるのです。この福音書を書いた人はなぜ44節をここに入れたのでしょう。43節から45節へとつなげた方が、つまり「イエスはそこを出発して、ガリラヤへ行かれた。ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した」とした方がよほどスムーズに話が流れるではないですか。なぜ44節があるのか、理解に苦しみます。しかし実はそこに、本日の箇所全体を読み解くための大事な鍵があると言えるのです。そのことをご一緒に考えていきたいと思います。

ガリラヤの人々の歓迎の理由
 45節には、ガリラヤの人々が主イエスを歓迎した理由が語られています。「彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである」。エルサレムでイエスがなさったことをすべて見ていた人々が主イエスを歓迎したのです。それは2章13節以下に語られていた、主イエスの一回目のエルサレム上京の時のことです。主イエスはその時エルサレムの神殿において、牛や羊や鳩を売っていた者たちや、両替をしていた者たちを追い出しました。「わたしの父の家を商売の家としてはならない」とおっしゃって、いわゆる「宮清め」をなさったのです。祭りのためにエルサレムに来ていた多くの人々が、主イエスがこのように神殿で商売をしている人々に対してお怒りになったことを見たのです。しかし彼らが見たのはこのことだけではありませんでした。2章23節にはこうあります。「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた」。過越の祭の間主イエスはエルサレムにおいて、いくつかのしるしつまり奇跡をなさったのです。おそらく病気の人々を癒されたのでしょう。そういう不思議な業を見た多くの人々が、主イエスを信じたのです。その人々の中に、ガリラヤから祭りに行っていた人々もいたのでしょう。彼らが、「エルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていた」というのは、この癒しの奇跡を見ていた、ということだと思われます。その人々がガリラヤに帰って、癒しの奇跡を行うイエスのことを伝え、そしてガリラヤに来られたイエスを歓迎したのです。エルサレムでしたような癒しの奇跡を自分たちの間でも行ってほしい、という期待がそこには込められていたのです。
 46節には、主イエスが再びガリラヤのカナに行かれたと語られています。「そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である」とあります。最初の奇跡をなさったカナに行かれたことで、主イエスが再び奇跡をなさることへの期待が、嫌が上にも高まったのです。その主イエスのもとに、カファルナウムにいた王の役人が訪ねて来ました。その人の息子が病気で死にかかっていたのです。どんな医者にももう見放されていたのでしょう。彼は主イエスがガリラヤに来られ、カナにおられることを聞いて、主イエスのもとを訪ね、「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ」のです。もはや主イエスの奇跡の力によらなければ息子は助からないと彼は思ったのです。

しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない
 この父親の願いを聞いた主イエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃいました。このお言葉が、この話においてとても大事な意味を持っています。主イエスは何を言われたのでしょうか。この言葉が実は、先程の、ガリラヤの人々が主イエスを歓迎した理由と繋がっています。ガリラヤの人々は、主イエスがエルサレムでなさった奇跡的な癒しの業を見たので、主イエスを歓迎したのです。つまり彼らは、しるしや不思議な業を見たのでイエスを信じた人であり、しるしや不思議な業を期待してイエスを歓迎しているのです。このカファルナウムの役人もその一人です。彼は、イエスがエルサレムでなさった癒しの奇跡のことを聞いて、自分の息子にもその不思議なみ業を行ってくれることを願って主イエスのもとに来たのです。そのようにしるしや不思議な業を期待している者、そういう思いで主イエスを歓迎している者は、「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」者でもあります。つまり彼らにとって大事なことは、自分が期待しているしるしや不思議な業を主イエスがしてくれるかどうかであって、それを見たら信じるし、それがなされないなら、期待外れだったと失望して去っていくのです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という主イエスのお言葉には、そのような人々への不信感が表されています。あなたがたが求めているのは、結局自分が期待しているしるしや不思議な業なのであって、それが与えられれば信じるし、与えられなければ信じない、つまりあなたがたは私の言葉を聞いて、私が独り子なる神、救い主であることを信じて歓迎しているのではなくて、自分の願いをかなえてくれる者を求め、期待しているだけだ、と主イエスは言っておられるのです。そのことは既に2章24節以下にも語られていました。主イエスのなさったしるしを見て多くの人がイエスの名を信じた、という23節に続く24節には「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである」と語られていたのです。つまり、しるしを見て主イエスを信じた人々は、本当に主イエスを信じて敬っているのではない、彼らはむしろ、「しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」頑なな人々なのだということをヨハネ福音書は語っているのです。そしてこれこそが、あの44節が語られていることの意味でもあります。「預言者は自分の故郷では敬われない」。それはまさに、主イエスの故郷であるガリラヤの人々の姿なのです。彼らはイエスを歓迎したとあるわけですから、表面的には主イエスを敬っているように見えます。しかし実際には、「しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」頑なな者たちなのであって、主イエスを本当に敬ってはいないのです。ガリラヤの人々の歓迎の裏にあるこの本当の思いを主イエスははっきりと知っておられた、そのことを示すために、あの44節は語られていたのです。

第二のしるしをなさった主イエス
 主イエスは息子の癒しを願い求めた父親に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃいました。それは彼の願いを拒んでいる言葉のように感じられます。しかし息子が死にかけているこの父親はなおも、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と願いました。何とかして息子を助けたいと願うこの父親の思いは真実であり、真剣です。その思いに、主イエスは応えて下さったのです。「帰りなさい。あなたの息子は生きる」と主イエスはお語りになりました。父親の願いは、息子が死なないうちに主イエスがカファルナウムに来て、癒して下さることでした。しかし主イエスは、その彼の願い通りにするのではなくて、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というお言葉のみをお与えになったのです。そのお言葉を聞いて彼はどうしたか。「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」のです。するとその帰り道で、息子の病気が癒されたという知らせが届きました。熱が下がり、癒された時刻は、主イエスが「帰りなさい。あなたの息子は生きる」とおっしゃった、まさにその時刻だったことが分かったのです。このようにして、カファルナウムの役人の息子の癒しという奇跡が行われました。最後の54節には、「これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである」とあります。ヨハネ福音書は、主イエスがなさった七つのしるし、つまり奇跡を語っています。その第一と第二は、ガリラヤのカナでなされたのです。第一は、結婚の祝宴において水をぶどう酒に変えたこと、第二がこの役人の息子の癒しです。「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」とおっしゃって、しるしを求める者たちの姿勢を批判的に見ておられた主イエスが、結局しるしを、病人の癒しという不思議な業を行なって下さったのです。

しるしを見て信じることからの脱却
 主イエスは何故、何のためにこの第二のしるし、癒しの奇跡をなさったのでしょうか。「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」頑なな人々の姿勢を批判的に見ておられたけれども、この父親の切なる願いを聞いて憐れに思い、ある意味妥協して癒しを与えて下さったということでしょうか。そうではありません。この癒しのみ業においては、「しるしや不思議な業を見たら信じる」というのとは全く違うことが起っているのです。主イエスが父親に与えたのは、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というみ言葉のみでした。そしてあの父親は、「イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」のです。つまり彼は、しるしや不思議な業を見て信じたのではなくて、それらを見ることなしに、ただ主イエスのお言葉を信じてそれに従ったのです。その結果彼は、主イエスによる息子の癒し、救いを体験することができました。つまりあの父親は、「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」というのとは全く違う信仰によって救いを得たのです。彼も最初は、ガリラヤの他の人々と同じように、癒しの奇跡をなさる主イエスを歓迎し、そのみ業を自分の息子にもして欲しいと願って、それを期待して主イエスのもとに来たのです。つまり彼も最初は「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」人の一人だったのです。その彼に主イエスは、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と語った上で、「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というお言葉を与えて下さいました。彼は主イエスから語りかけられたこの二つのお言葉をしっかり受け止め、それに応えたのです。それが、「その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った」ということです。主イエスの語りかけによって彼は「しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」という思いから脱却して、しるしを見ることによってではなく、ただ主イエスのお言葉を信じてそれに従うまことの信仰に生きる者へと変えられたのです。そしてそこに、「あなたの息子は生きる」という主イエスのお言葉の通りの救いが実現しました。それは単に病気が治ったということではありません。この父親は、「あなたは生きる」という主イエスのみ言葉が自分たちを本当の意味で生かすことを体験したのです。本当の意味で生かされるとは、罪に支配されており、神とも隣人とも良い関係を失ってしまい、喜びをもって生きることができない私たち、死の力に支配されてしまっている私たちが、神が与えて下さった祝福である命を、喜びと感謝をもって、神とも隣人とも良い関係、愛し合う関係を築いて生きる者となる、ということです。私たちがこのように本当の意味で生かされることこそが、神によって与えられる救いです。その救いは、「あなたの息子は生きる」と言って下さる主イエスの恵みの力によって実現します。しかし同時にその救いは、私たちが、しるしを見ることによってではなく、主イエスのみ言葉を聞いて信じ、それに従うことによって現実のものとなるのです。息子が癒されたのは、主イエスが「あなたの息子は生きる」とおっしゃったその時刻である、と語られています。それは同時に、あの父親が主イエスの語りかけに応えて、「イエスの言われた言葉を信じた」時刻でもあったのです。主イエスのみ言葉が彼の内にこのような応答を引き起こしたのです。み言葉に対するこのような応答こそがまことの信仰です。人を真実に生かすのはこのまことの信仰である、ということをこの第二のしるしは私たちに語り、示しているのです。
 さらにここには、この出来事によって、「彼もその家族もこぞって信じた」とあります。私たちが、しるしを見ることによって信じるという思い、つまり自分の願いをかなえてもらえたら信じる、という思いから解放されて、主イエスのみ言葉を信じて従うまことの信仰に生きる者となる時に、そこには私たちの思いをはるかに越える主の救いのみ業が実現していきます。その救いは、私たちの家族全員にまで及んでいくのです。主イエスのこの第二のしるしは、そのことをも示し、約束しているのです。

教会は主イエスの故郷?
 主イエスを歓迎したガリラヤの人々は、実は「しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」人々であって、主イエスを独り子なる神として本当に敬う者ではありませんでした。「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」というのは彼らのことだったのです。しかし彼らの一人だったこの父親が、主イエスとの出会いによって、しるしや不思議な業を見ることによってではなく、主イエスのみ言葉を聞いて信じ、それに従う信仰に生きる者となりました。主イエスを正しく歓迎する者となったのです。私たちは、教会は、ガリラヤの人々のように、主イエスを歓迎しているように見えて、実は自分の願いを第一としており、主イエスを救い主として敬っていない、ということになってしまうこともあります。教会こそが主イエスの故郷であり、そこでは主イエスは本当には敬われない、ということだって起り得るのです。しかしその教会に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」という主イエスのお言葉が響きます。そして「帰りなさい。あなたの息子は生きる」というみ言葉が告げられるのです。私たちがこの主のみ言葉によって悔い改めて、あの父親のように、主イエスのみ言葉を信じてそれに従って歩み出すところに、独り子である神主イエスによる救いが実現します。そのみ救いによってこそ、私たちは本当の意味で生きることができるのです。神が与えて下さった命を、喜びと感謝をもって、神と隣人とを愛して生きることができるのです。そのように私たちを本当に生かす信仰が、教会において、この礼拝において与えられるのです。

洗礼と聖餐において
 本日はこれから聖餐にあずかります。聖餐は、洗礼を受けた者があずかるものです。洗礼を受けるとは、目に見えるしるしを求め、自分の願いがかなうことを求めていた私たちが、「あなたは生きる」という主イエスのみ言葉を信じて歩み出すことです。その信仰によって歩んでいく私たちを、主はみ言葉と聖餐によって養い、主イエスの十字架と復活による救いの恵みを私たちに深く味わわせ、体験させ、その信仰を確かなものとして下さるのです。洗礼を受け、礼拝において与えられるみ言葉と聖餐によって養われつつ歩むことによってこそ私たちは、人を本当に生かすまことの信仰を味わい知っていくことができるのです。

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