夕礼拝

あなたの御名こそが

「あなたの御名こそが」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第115編 1節-18節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第11章 1節-4節
・ 讃美歌 ; 6、359

 
 1 ルカによる福音書は第11章で、主の祈りが教えられる場面を語ります。この箇所をどのように区切って説教をするのか、正直に言って少し戸惑いました。いっきに13節までをひとまとまりとして説き明かすか、もっと小さい区切りを設けつつ読むべきか、思案致しました。けれども結論的には、これから数回にわたって、この主の祈りの祈りを、一つ一つ取りあげていくことにいたしました。何よりもこの主の祈りを一回で通り抜けていくことは、私にはもったいないと思えたからです。そこに含まれている恵みの宝を一つ一つ掘り起こし、味わってみたい、一つ一つの祈りに深く聴いていきたい、そう願ったからです。そういうわけで、これから数回は新約の聖書箇所は同じ箇所に留まることになりますことをご了解願いたいと思います。

2 主イエスがある所で祈っておられる、その場面から今日の箇所は始まります。一人向こうで祈られている主イエスを、少し遠巻きにしながら、弟子たちが見つめているのです。弟子たちはこれまでにも、主イエスが祈られるお姿を目にすることがあったでしょう。けれども、そのたびにある違和感を持っていたのです。自分たちには簡単には入っていけない、何か特別な世界が、主イエスの祈りの中には広がっている、そのことを感じ取っていました。何かは分からないけれども、自分たちがいい加減な気持ちで、ずかずかと入り込んでいってはならない世界がそこには秘められている、そこに「おそれ」のようなものを感じたのでしょう。しかしまた、そこにはおよそこの世に生きている者が知らないような、とても落ち着いた、平安があることをも、弟子たちには伝わってきていたはずです。主イエスの祈りの姿の奥に、何ものによっても妨げられない静けさがあり、平安があり、喜びがあり、讃美がある、誰によっても奪われることのない自由がある。自分も、その中に入っていきたい、そう願わずにはおれないような喜びの世界が、そこに秘められている。弟子たちはそのことを思いめぐらしつつ、主イエスが祈り終わるのを静かに待っていました。
 やがて、祈りが終わると、弟子たちを代表して一人が主イエスに語りかけます、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」(1節)。実はこの求めは意外なものであります。何で今更、弟子たちはこんなことを尋ねるのだろうか、といぶかられるような質問です。というのも、この弟子たちこそは、毎日よく祈っていたに違いない、熱心な祈り手だったからです。彼らはもともと、熱心なユダヤ教徒です。神に祈ることにかけては、いわばプロです。エジプトのサダト大統領は毎日欠かさずひざまずき、地面に額をこすりつけて祈りを捧げていたゆえに、額に祈りダコがあった、という話を聞いたことがありますが、そういう意味ではこの弟子たちも、祈りが板に付いている人々であるはずです。ところが、そういう祈りに熱心だったはずの弟子たちが、主イエスの祈るお姿を見つめていると、それまでの自らの祈りのあり方を悔い改めないわけにはいかなくなった。これはどうしたことだろう、今までの自分たちの祈りは何だったのだろう。あれは本当の祈りなどではなかったんじゃないか。本当の祈りは、主イエスにきちんと教えていただかなければ分からないんじゃないか。そういう強い思いを抱かざるを得なくなった。自分たちはそもそも本当の意味で祈ることなんかできやしない、そのことを思い知らされたのであります。
 日本で普通、祈るということをするのは、何か実現して欲しい自分の願望があり、神様がそれをかなえてくれるのを期待する時です。表面上は丁寧にお願いをするかもしれませんが、結局は神様に自分の言うことを聞かせよう、ということが先に立っています。ですから、突き詰めればどんな神であってもよい。自分の今の願いを叶えてくれるものがあれば、それが何であれその人の神になるのです。あの弟子たちも、自分たちのそれまでの祈りは、そんな祈りでしかなかったのだ、ということを思い知らされたのではないでしょうか。本当の祈りを、主イエスから教えて頂かなくてはならない。祈り得ない者がいったいどうしたら本当の祈りに生きる者とされるのか、それがここでの問題です。祈ることを知らない全人類を代表して、弟子たちが主の御元に集まった。そこに今、主イエスの祈りの秘密が開き示されるのです。主が教えてくださった主の祈りにのっかって、主イエスと父なる神との命の交わりが、私たちの中にも入ってくるのです。

3 主イエスは弟子たちの求めに応えて祈りの言葉を示された時、まず主なる神に向かって「父よ」、と呼びかけるよう教えてくださいました。神に向かってこのように呼びかける、ということ自体が革命的なことです。そんなふうに神を「父」と呼ぶことは、あまりにもなれなれしい、神に礼儀を欠いたような話ではないか、弟子たちも一瞬そう思ったかもしれません。けれども主イエスはそう祈りなさい、そう祈ってよいのだ、とおっしゃるのです。では私たちの「父」としてご自身を現してくださる神はどのようなお方なのでしょうか。今日の箇所より先、11節から13節にそのことが示されています。こんな父親はいないだろう、という例が挙げられます。子供が魚をほしがっているのに、子供をかんで毒をまわしてしまうかもしれない蛇を与える父親、子供が卵を欲しがっているのに、子供を毒針で刺してしまうかもしれないさそりを与える父親、そんな意地悪で、冷酷な父親はいないだろう、というのです。しっかりと受け止めなくてはいけないのは、ここで「あなたがたは悪い者」(13節)だ、とはっきり言われていることです。そんなどうしようもない悪い者、罪人であっても、自分の子供には良い物を与えることを知っているではないか。ならばすべての善きものの源であられる父なる神は、ご自分の子供たちにどんなものが必要で、それをいつ、どのように与えたらよいのかに至るまで、すべて最もよいように取りはからってくださるに違いない。この確信を聖霊が与えてくださるのです。あなたは確かに「悪い者」であるに違いない、しかしわたしはその悪い者であるあなたをこそ、「自分の子供」とし、あなたに聖霊を与え、わたしに向かって「父よ」、と呼びかける者とするのだ、そういう恵みの御心が、ここに込められています。

4 以下に続く祈りはすべて、この「父よ」、と神に呼びかけ、祈ることが許されているという一点から泉のように湧き出してくる祈りといってよいと思います。その初めに来るのが、「御名が崇められますように」という祈りなのです。もとの言葉で直訳的に訳すなら、「あなたのお名前が聖とされますように」、という祈りです。「聖書」の「聖」です。「聖とする」、ということは特別なものとして取り分ける、区別するということです。それはほかの名前よりも小さな名前として、あるいはほかの名前と並ぶようなものとして取り扱われてはならない。私たちの中で特別なお名前とされなければならないものなのです。
 けれども神の名前は、このように私たちによって特別なものとされなければ、特別なままでいることはできなくなってしまうのでしょうか。神のお名前が聖であるかどうかは、私たちがそのお名前をどのように受け止めるかによってもってかかっているのでしょうか。そうではありません。宗教改革者のルターという人は、親子の間での問答形式でこの主の祈りを解き明かしておりますけれども、この第一の祈りについてこう語ります。「神さまの名はそれだけで聖いものだ。しかしこの祈りで私たちは、み名が私たちのあいだでも聖くなるようにと祈るのさ」。神のお名前は、私たちがそれをどのように受け止めようが、それだけで聖いものであります。それは聖なる名前です。極端なことを言えば、私たちがこの世界にいようがいまいが、私たちの存在が吹き飛んでしまっても、そのお名前そのもので聖いのです。けれども主イエスは、そのお名前が、なおこの私たちの間で、私たちの毎日の歩みの中においても、同じように聖いものとされることを願い求めなさい、とおっしゃいます。
 それはとりもなおさず、私たちの間でこの神のお名前が聖いものとされ続けることは、たやすいことではなく、難しいことであるからです。神のお名前が聖とされるということは、一方でほかの名前は排除されなければならない。自分の上司の名前、敵対関係にある相手の名前、先生の名前、先輩の名前、恋人の名前、自分の立場を表す名称、自分が得たい地位の名称、そして何よりも自分自身へのこだわり、そういうものすべてから解き放たれて、ただ父なる神のお名前だけが聖なるお名前としてほめたたえられるように、私たちの名ではなく、あなたの御名こそが、特別なものとされ、ほめたたえられるように、そう願い求めるのです。それは生まれながらの私たちが簡単にできることではなく、いつも願い求められなければならない、戦い取られなければならない事柄であるのです。自分の名前の方にこだわってしまう私たち自身の傾向にあらがって、抵抗して、主の御名にこそ、眼差しを向ける、向け続ける、それが信仰に生きる者の姿なのです。その意味でこの祈りは、主の御名を本当に聖いものとすることにいつも失敗している私たちを悔い改めに導く祈りであります。しかしまた、いつも新しく主の御名を呼び求める一筋の心に生きるように、と招く祈りの言葉でもあるのです。
 今日の箇所のすぐ前には、マルタとマリアの話が語られておりました。そこであれも終わっていない、この準備もまだだ、と苛立ち、心を失ってしまっているマルタに対して、あなたが必要なことはただ一つ、今ここにいるわたしの言葉、神の言葉に耳を傾けることだ、主はそう語りかけられました。この語りかけは言い換えるなら、ほかのもろもろの名前の虜から彼女を救い出し、ただ一つの名、主の御名のもとにマルタをとらえてくださる、という主の招きなのです。この祈りは悔い改めの祈りに留まらず、マルタのような私たちの中にある分裂を克服する祈りなのです。

5 先日、牧師・伝道師・長老や教会員の方々がある方のもとを訪ね、教会として、主の御名による病床での洗礼を授けました。洗礼を受け、教会の肢とされた方は、涙ぐみつつ、「もうみんな、すべてを神さまにお委ねしていこう」、静かにご自分に語りかけられるようにそうおっしゃいました。洗礼を受ける、それはこの主のお名前を刻まれた者となる、ということです。神のもの、神にとらえられたもの、神の子供とされることです。それまでは、突き詰めれば自分の名前、自分へのこだわりに生きていた人生から、目を上に上げて、今自分をとらえ、眼差しを注ぎ、愛し、慈しみ、守り、支え、どこまでも主のものとして導いて行かれる神の御名にこそ、すべてをゆだねていくことへと方向転換をするのです。それまで自分の名前を中心に回っていた世界が、神の御名を中心にして回り始める、そういう回転軸がまるっきり変わる、大転換をする出来事なのです。自分の名ではなく、「主の御名こそが」重大になる、それは私たちの中に起こる大きな革命なのです。主の御名を大きくし、自分自身は小さくする、小さくされる、かつては嫌がっていたかもしれないこのことが、実は最もうれしいこと、この上ない平安を得ることに変わるのです。主の御名を特別なものとする、ということはどこか特別な場所に主の御名前をしまっておくことではありません。そうではなく、生活のすみずみまで、どこにでも、この御名前が記され、その栄光が現れ出る、その人の生きる様に消されない主の御名が刻まれているのが見えてくる、ということなのです。
 この主の御名が、人の形を取って私たちの前に現れた出来事、それが主イエス・キリストなのです。主イエスにおいて、父なる神がご自身を現してくださいました。ご自身の祈りを口ずから私たちに与え、主イエスと同じように、父よ、と主に呼びかけ祈る者としてくださっています。私たちも神の子とされているからです。私たちは主イエスと結ばれることによって神の子とされます。この私たちが神の子とされるためにこそ、主イエスは十字架におかかりになったのです。そのままでは主の御名よりも自分の名前にこだわってしまう、主にとらえられるよりも、自分の人生を自分の管理下に置いておきたい、自分のことは自分のいいようにしていたい、そのこだわりによって自由になれず、平安を失い、マルタのように多くのことに思い煩い、心を乱し、隣り人との関係も歪んだものとなってしまっている。それが私たちです。神との関係が歪んでしまったがゆえに、すべてのことにわたってきしみが生じてしまっているのです。主イエスは十字架の上で、私たちのこの歪み、罪をご自身に一手に引き受け、取り除いてくださいました。死の中から甦られて、その復活の命に今生き始めることができるようにしてくださっているのです。私たちはこのお方により頼んでこそ、初めて主の御名を呼ばわることができるのです。詩編の詩人と同じように、主の御名を呼び求める、一筋の心が与えられます。「わたしたちではなく、主よ わたしたちではなく あなたの御名こそ、栄え輝きますように あなたの慈しみとまことによって」(115:1)。

6 主の御名を「父よ」と呼ばわる者とされた時、実は不思議なことが起こります。私たちではなく、主を見つめる、つまり自分の有り様ではなく、神がこの惨めな私たちにどんなに心をかけてくださっているかに注目する時、実は私たちは新しく自分自身をも捕らえ直すことができるのです。受け止め直すことができます。もはや人生の焦点が定まらず、心を乱している存在ではありません。主イエスにおいてご自身を現してくださった神に信頼し、神の御言葉に聴き、神の眼差しを受けつつ歩むのです。その時思わされるのは、神が自分をどんなに心をかけてくださっているか、どんなに主イエスの愛が自分に注がれているか、このことなのです。主イエスを通して新しく受け止め直された自分の存在を、私たちは喜ぶことができるのです。自分の存在を肯定し、受け入れ、喜ぶことができます。私が学んだ大学の初代の総長は湯浅八郎というキリスト者ですが、この人にまつわるエピソードとして、学生が自己紹介をする時、「佐藤です」、とか「小林です」とだけ言うと、「君は佐藤大介だろう、小林ゆかりだろう。同じ佐藤の中でも大介くんだ、同じ小林の中でもゆかりさんだ。世界に一人あって二人といない存在なんだから、ちゃんと下の名前まで言いなさい」、よくそうおっしゃったというのです。そのようにして自分の存在を個性ある、大事なものとして受け止めることができるのも、自分自身へのこだわりから解放され、主イエスと結ばれた存在として、自分自身を新しく受け止め直すことができるからなのです。主の御名が、自分の名前の上に刻まれている、主のものとされている、このことを喜ぶ時、私たちもまた、一人あって二人といない自分の存在を喜んで受け入れることができるのです。消されることなき主の証印を押された者として、主の御名に受け止められている者として・・・

祈り 主イエス・キリストの父なる神さま、あなたに「父よ」と呼びかける祈りを、主は私共に与えてくださいました。どうか私たちの名前が小さくされ、ただあなたの御名こそが大きくされますように。消されることのないあなたの御名を刻まれ、救いに与り、死をも超えてあなたに担われることを確かにされていることに、深い感謝を覚えます。この世の営みの中から押し寄せてくるあらゆる名前があります。それは時に私共を惑わし、時に恐れさせ、時に脅かすような名でありますが、どうかそんなときこそ、「あなたの御名こそが」、と繰り返し祈ることができますように。あなたのものとされ、神の子とされている自分自身を新しく受け止め直し、主の御名を押された存在として、喜んで自分自身を受け入れることのできる恵みに生かしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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