夕礼拝

神の言葉を聞いて、行う

「神の言葉を聞いて、行う」 副牧師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:詩編 第119編129-136節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第8章16-21節
・ 讃美歌:153、469

どのように神の言葉を聞くか
 先週の夕礼拝では、ルカによる福音書8章4-15節の「『種を蒔く人』のたとえ」を読みました。本日はその続きである16-21節を読んでいきますが、実は4-21節は一つのまとまりであり、本日の箇所は先週の箇所と切り離すことができません。別の言い方をすれば、4-21節は一つのテーマを持っているのです。先週読んだように「『種を蒔く人』のたとえ」では、主イエスが宣べ伝えた神の言葉をどのように聞くかが見つめられていました。主イエスによって蒔かれた神の言葉という種が落ちた四つの土地は、それぞれ神の言葉をどのように聞く人たちかを表していたのです。道端は、神の言葉を聞いても信じない人たち。石地は、神の言葉を聞いて信じても外からの試練によって信じることをやめてしまう人たち。茨の中は、神の言葉を聞いても内から湧き上がってくる「人生の思い煩い」や欲望によって信じることをやめてしまう人たち。それに対して良い土地は、15節にあるように「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」でした。しかしこのたとえは、私たちが自分の力で「良い土地」になりなさい、と語っているのではありません。私たちは道端であり石地であり茨の中であるにもかかわらず、主イエスが蒔き続けてくださる神の言葉の力によって、それらの土地が耕され、育まれ、整えられて、「良い土地」へと変えられていく。このことが語られているのです。8章1節では「イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら」と言われていました。主イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせることによって神の言葉を蒔きました。福音とは主イエス・キリストによる救いの良い知らせにほかなりません。その福音の力によって、私たちは「良い土地」へと変えられていくのです。ですからこのたとえにおいて見つめられているのは、私たちが頑張って、努力して「良い土地」になることではなく、私たちを「良い土地」へと変えてくださる神の言葉をどのように聞くかです。「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」とは、私たちが神の言葉を聞き、受け取り、手放すことなく持ち続けることなのです。そのように神の言葉を聞き続けるとき、私たちは神の言葉の力によって確かに「良い土地」へと変えられていくに違いないのです。

一つのまとまりとして読めるか?
 このことが「『種を蒔く人』のたとえ」で見つめられていました。しかし神の言葉をただ受け取り、手放すことなく持ち続けるだけで良いのか、それで十分なのかというと、そうではありません。そのことが本日の箇所で語られています。どのように神の言葉を聞くか、というテーマは先週の箇所で完結しているのではなく本日の箇所に続いているのです。この箇所は16-18節と19-21節に分けられます。聖書を見ると、16-18節の小見出しには「『ともし火』のたとえ」とあり、19-21節には「イエスの母、兄弟」とあります。ですから16-18節と19-21節は一見したところ関係がないように思えます。それだけでなく、先週の箇所のテーマが本日の箇所で続いていることもすぐには見えてきません。しかし「神の言葉をどのように聞くか」という一貫した視点で読むことによってこそ、本日の箇所のメッセージを受けとめていくことができるのです。
 まず16-18節について見ていきますが、ここでは三つのことが言われています。それぞれが言わんとすることは大体分かりますが、その三つがどのように関係しているのかと問われると、すぐには答えられないかもしれません。16-18節の「『ともし火』のたとえ」と19-21節の「イエスの母、兄弟」の結びつきが分からないだけでなく、16-18節で言われている三つのことの結びつきも謎に思えるのです。

受け取った福音を証しする
 16節ではこのように言われています。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」。なにも難しいことは言われていません。ごく当たり前のことが言われています。しかし問題は「ともし火」がなにを表しているのかです。前後の文脈から切り離してこのみ言葉だけを読んでも分かりませんが、4-15節の「『種を蒔く人』のたとえ」の文脈の中で読むならば、この「ともし火」とは私たちが受け取った神の言葉でしょう。私たちは主イエスが蒔いた神の言葉を受け取りました。主イエスによって告げ知らされた福音を受け取ったのです。ですからこの「『ともし火』のたとえ」では、「ともし火をともしたら、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置く」ように、私たちが受け取った神の言葉を隠したり、見えなくしたりするのではなく、ほかの人たちに見えるようにすることが見つめられているのです。神の言葉の力によって道端や石地や茨の中であるような私たちが良い土地へと変えられることを信じ、私たちは主イエスが蒔かれた神の言葉を受け取り、手放すことなく持ち続けます。しかし「手放すことなく持ち続ける」とは、受け取った神の言葉を自分だけのものにして隠してしまうことを意味しません。そうではなく私たちは受け取った神の言葉をほかの人にも見えるようにするのです。ともし火を燭台の上に置くように私たちは神の言葉を高く掲げます。主イエス・キリストによる救いの良い知らせを、福音を、私たちはほかの人にも見えるように高く掲げていくのです。それは、私たちが主イエス・キリストによる救いを証ししていくことにほかなりません。私たちは自分が主イエス・キリストによって救われたことを隠すのではなく、ほかの人に証ししていくのです。

生き方によって証しする
 「ともし火」は私たちが受け取った神の言葉だと申しました。しかしこのように言うこともできると思います。「ともし火」とは、神の言葉を聞き、受け取り、手放すことなく持ち続けている私たち自身である、と。受け取った神の言葉をほかの人にも見えるようにするとは、神の言葉を聞き、受け取り、持ち続けている私たち自身の生き方を見えるようにすることでもあるからです。私たちは言葉によってだけ主イエスによる救いを証しするのではありません。救いの恵みに感謝し、喜んで生きている姿によっても証しするのです。特に日本においては、主イエスに出会い、主イエスによって救われたと証ししてもなかなか聞いてもらえないことがあると思います。キリスト教や聖書を知らない方に、どこまで説明したら良いか迷ってしまうこともあります。しかし言葉によって証しすることはできなくても、苦しみと悲しみに溢れている困難な時代の中にあって、私たちがキリストによる救いの恵みに感謝し喜んで生きているならば、その私たちの姿が周りの人たちへの証しとなるのです。そのような私たちの姿を見て、周りの人たちが「なんであの人は、苦難の中にあっても喜んで生きられるのだろうか」と関心を持ってくれるかもしれません。関心を持ってもらえれば、自分が喜んで生きられるのは、自分の力によるのではなく救いの恵みによる、と証しするチャンスがあるかもしれないのです。だから私たちは「ともし火」である自分自身の姿を、自分自身の生き方を隠すことなく、周りの人にも見えるようにするのです。

救いを求めている方が入って来られるように
 ところでこの「『ともし火』のたとえ」はマルコによる福音書にもあります。4章21節でこのように言われています。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか」。本日の箇所と比べるといくつか違いがありますが、なによりも大きな違いは本日の箇所では「入って来る人に光が見えるように」と言われていることです。マルコ福音書にはこの言葉はありません。同じたとえですが、ルカ福音書ではともし火を隠さず燭台の上に置くのは「入って来る人に光が見えるように」なるためなのです。家の中にいる人が暗いと不便だから光を灯すのではなく、家を探している人たちが迷わず入って来られるように光を灯して燭台の上に置くのです。私たちが言葉と自分自身の生き方によって主イエスによる救いを証しするのも、自分たちのためではなく救いを求めている人たちのためです。この世にあって希望を持つことができずに助けを求めている方が家に入って来られるように、教会に入って来られるように、私たちは福音を高く掲げていくのです。私たちが受け取った神の言葉を独り占めするならば、私たちは本当に神の言葉を聞いたことにはなりません。受け取った救いの良い知らせをほかの人にも見えるようにし伝えていくことが、神の言葉を聞くことには必ず伴うのです。

「神の国の秘密」を告げ知らせ、公にする
 このように16節を受けとめるとき、17節は根本的に16節と同じことを見つめていることが示されていきます。17節にはこのようにあります。「隠されているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」。「『種を蒔く人』のたとえ」とその説き明かしに挟まれた9-10節で、「このたとえはどんな意味か」と尋ねた弟子たちに、主イエスは「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されている」と言われました。主イエス・キリストが来て、主イエス・キリストを通して、「神の国の秘密」が弟子たちに与えられたのです。彼らは特別に「神の国の秘密」を知ることが許されました。しかし弟子たちは、その「神の国の秘密」を、自分たちだけが知っている秘密として封印してしまったり、隠してしまってはならないのです。「秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」と言われているように、弟子たちは彼らに与えられた「神の国の秘密」をほかの人にも知らせなくてはならないし、世に対して「公」にしなければならないのです。ですから弟子たちが特別であるとは、彼らの能力が特別だとか、彼らが特別に立派な人であるとか、そういうことではなく、ほかの人に「神の国の秘密」を知らせるために特別に選ばれたということなのです。「神の国の秘密」を独り占めするためではなく、ほかの人に告げ知らせ、この世に対して「公」にしていくために、弟子たちは特別な働きを与えられたのです。私たちも同じです。私たちも神の言葉を聞き、「神の国の秘密」を与えられました。主イエス・キリストの十字架の死という弱さの極みにおいて、私たちの救いが実現したという驚くべき秘密を受け取ったのです。そして私たちもその秘密をほかの人に知らせていくために選ばれ、その働きを与えられています。日本基督教団信仰告白には「教会は公の礼拝を守り」とあります。「公の礼拝」とは、世のすべての人に開かれた礼拝であるということです。「公の礼拝」において「神の国の秘密」が、主イエス・キリストの十字架と復活による救いがすべての人に告げ知らされ、公にされていくのです。私たちが特別なのは、私たちだけが特別であるためではなく、すべての人が特別になるためです。言い換えるならば、私たちが救われたのは、私たちだけが救いに入れられるためではなく、私たちがその救いを告げ知らせることによって、証しすることによって、救いに入れられる人たちが起こされていくためなのです。私たちだけが神の言葉の力によって、道端や石地や茨の中から「良い土地」へ変えられれば良いというのではなく、すべての人が「良い土地」へ変えられていくために、教会は神の言葉を蒔き続け、私たち一人ひとりもキリストによる救いを証しし続けるのです。

常に神の言葉を新たに聞き続ける
 18節には「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」とあります。「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」という一文だけを切り取るならば、富める者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる格差社会の現実を言い表しているようにも思えます。しかし16-17節の文脈の中で、もっと言えば4節からの文脈の中で読むならば、このみ言葉も神の言葉をどう聞くべきかについて語っているのです。それは18節の冒頭で「どう聞くべきかに注意しなさい」と言われていることからも分かります。ですからここで言われているのは「神の言葉を持っている人は更に与えられ、神の言葉を持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」ということです。神の言葉を持っていない人とは、どのような人でしょうか。聖書の知識が少ない人のことではありません。むしろ自分はすでに神の言葉を持っている、み言葉をよく知っている、よく分かっていると思い込んでしまっている人のことです。それに対して神の言葉を持っている人とは、自分はすでに神の言葉を持っているから、知っているからと安心してしまうことなく、常に神の言葉を新たに聞き続ける人のことです。「持っている人は更に与えられ」とは、そのようにみ言葉を聞き続ける人に神の言葉が、その恵みがますます与えられていくということなのです。けれども多くの人は、自分がみ言葉をよく知っている、よく分かっているとは思わないかもしれません。聖書の中には読んだことがないところがあるし、読んだけれどさっぱり分からないところもある。だから自分が神の言葉を持っていると思い込むことはないはずだと思うのです。しかし、そうではありません。主の日の礼拝ごとに語られるみ言葉を、その都度、今の自分に働きかけ、今の自分を生かす言葉として聞いていないならば、私たちは自分が神の言葉を持っていると思い込んでしまっているのです。自分が新たにされ、変えられる言葉として神の言葉を聞かなくなることこそ、神の言葉を持っていると思い込むことだからです。本当に神の言葉を持っているとは、聖書を全部読んだことがあるとか、聖書の知識がたくさんあるとかではなく、神の言葉によって絶えず自分が変えられていくということです。そのような言葉として神の言葉を聞き続けることなのです。私たちは常に神の言葉を新たに聞き続けることによってこそ、そのみ言葉をほかの人に見えるように高く掲げ、ほかの人にも告げ知らせ、世に対して公にすることができます。神の言葉を新たに聞くからこそ、神の言葉をずっと昔に書かれた書物の言葉としてではなく、今、自分を生かしている言葉として、ほかの人に証しすることができるし、世に対して告げ知らせていくことができるのです。今の自分を生かしている神の言葉を伝えるからこそ、そのみ言葉は、世にあって助けを求め、救いを求めている人たちをも生かすことができるのです。

神の言葉を聞いて、行う
 このように16-18節は、「どのように神の言葉を聞くか」という一貫したテーマによって結びついています。それでは本日の箇所の後半19-21節はどうなのでしょうか。ここでは、主イエスのところに主イエスの母と兄弟たちがやって来たことが語られています。この出来事はマルコによる福音書とマタイによる福音書でも語られていますが、ルカによる福音書では「『種を蒔く人』のたとえ」の後でこの出来事が語られているのに対して、マルコ福音書とマタイ福音書ではたとえの前に語られています。つまりルカ福音書におけるこの出来事の位置づけは、ほかの二つの福音書とは異なるのです。すでに見てきたようにルカ福音書では8章4節から、「どのように神の言葉を聞くか」というテーマで語られてきましたが、この出来事はその結論部分といえます。それは21節の主イエスの言葉から分かります。「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」。マルコ福音書では「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」となっていて、「神の言葉を聞く」ことについては語られていません。マタイ福音書も同じです。ルカ福音書だけが「神の言葉を聞く」ことについて語っているのです。しかもそのことにだけ集中して語っています。マルコ福音書の文脈では、主イエスの母や兄弟たちがやって来たのは、「あの男は気が変になっている」(3:21)という噂を聞いて、主イエスを取り押さえるためでした。主イエスの母や兄弟たちは、主イエスを理解できなかったのです。しかしルカ福音書では、そのような主イエスの母や兄弟たちの主イエスに対する無理解には目が向けられていません。ここで主イエスがお語りになったのは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」だけであり、「神の言葉を聞いて行う」ことに集中しているのです。19-21節が、「どのように神の言葉を聞くか」というテーマで語られてきた4-18節の結論といえるというのは、そういうことです。
 「神の言葉を聞いて行う」の「行う」は、単に実践する、実行するということよりも、神の言葉を聞きっぱなしにしないということです。「『種を蒔く人』のたとえ」で言えば、「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ」まで、聞いた神の言葉をしっかり握りしめていることです。「ともし火のたとえ」で言えば、「入って来る人に光が見えるように」受け取った神の言葉を高く掲げることです。また、与えられた「神の国の秘密」を世に告げ知らせ、公にすることであり、神の言葉を持っていると思い込むのではなく、常に新しく聞き続けることです。4-18節で見つめられてきたこれらのことこそが、「神の言葉を聞いて行う」ことにほかならないのです。

神の家族
 そしてこのように「神の言葉を聞いて行う人たち」が、主イエスの母、主イエスの兄弟であり、神の家族にほかなりません。神の家族は血のつながりによるものではなく、神の言葉の力によるものです。道端であり石地であり茨の中である私たちを「良い土地」へと変えることができる神の言葉の力が、神の家族を築いていきます。神の言葉の力こそが、私たちを主イエスに結びつけ一つの神の家族とするのです。私たちが神の言葉を聞いて、受け取り、手放すことなく持ち続けるとき、その神の言葉の力によって私たちは一つの神の家族として導かれ、育まれ、成長させられていくのです。しかしそれだけではありません。主イエスが神の言葉を蒔き続けたのは、神の家族が広がっていくためでした。自分が神の家族に入れられたからもう良いということではなく、神の家族がより広がっていくために私たちは用いられていくのです。私たちは受け取った福音を独り占めするのではなくほかの人にも見えるようにしていきます。主イエス・キリストによる救いの良い知らせを言葉と生き方で周りの人に証ししていくのです。私たちは与えられた「神の国の秘密」をほかの人に告げ知らせ、世に対して公にしていきます。世にあって救いを求めている人たちに、本当の救いはここにある、本当の救いは教会にある、と福音という光を高く掲げるのです。なによりもそのために私たちは日々新たに神の言葉を聞き続けます。今の自分に働きかけ、今の自分を生かす言葉として神の言葉を聞き続けることによってこそ、私たちは受け取った神の言葉を、本当に人を生かす言葉として証ししていくことができるのです。このようにして神の家族は広がっていきます。主イエスによって蒔かれ続ける神の言葉の力に信頼して、私たちは神の言葉を聞いて行います。そこに神の家族が確かに築かれていくのです。

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