夕礼拝

恵みの分配

「恵みの分配」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第31篇 15節-25節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 10節-17節
・ 讃美歌 ; 442、375、76

 
1 主イエスから遣わされた使徒たちが戻ってきて、自分たちの伝道の旅の報告をするところから今日の物語は始まります。この第9章の1節から6節には、主イエスがこの十二人を遣わされた時のことが語られていました。6節にあるように、「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」のです。けれどもこの十二人たちは、自分たちが誰の権威に基づいてこのようなことを行っているのか、一応のわきまえは持っていました。十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能を授けられたのは、ほかならぬ主イエスであり、ほかの誰でもないのです。十二人は、彼らの行うことすべての権威の源は主イエスにあることを知っていたのです。ですから、帰るべきところを知っていました。自分たちのしたことを報告すべきお方がいらっしゃることをわきまえていました。
 主イエスはその一つ一つの報告につぶさに耳を傾けられた後、この十二人を連れてベトサイダという町に退かれました。「ご苦労様、さあ、私のもとでしばらく休みなさい」、そんな主イエスの労わりの声が聞こえてくるようです。十二人は初めて自分たちだけで伝道の旅に出かけてきたのですから、たいへんな緊張と疲れを覚えていたに違いありません。主イエスのお言葉をいただいて、ほっとしたのではないでしょうか。
ところが群衆は主イエスがベトサイダに退かれたと聞いて、こぞってその後を追ってきました。たくさんの人々が主イエスの教えを聞くため、また病気を治していただきにやってきたのです。人々は主イエスをほかにして、誰も頼ることのできる方を見出さなかったのです。ただ主イエスだけが頼りだったのです。この人たちは長い間打ち捨てられ、ローマ帝国の支配のもとで虐げられ、ユダヤ教の宗教指導者たちからは汚れた者たちとして、その配慮の対象から外されてきた人々です。この方が初めて、そしてこの方だけが、誰からもかまわれることのなかった罪の女性を赦し、誰もがどうしようもできずにいた、死んだ少年を生き返らせ、そばにあって奉仕する女性たちの働きを喜んで受け入れられ、神の言葉を聞いて行う人たちは皆、わたしの母、わたしの兄弟であるとおっしゃってくださったのです。群衆はこのお方だけを頼りにしてひたすらこのお方の後に従っていたのです。
けれども、あの十二人は今、このことを喜んで受けとめることができません。彼らは疲れ切っているのです。休みたいのです。せっかく主イエスと自分たちだけでゆっくり過ごせると思っていた時間が台無しになってしまいました。たまったものではない、という思いがあったでしょう。
 一方で主イエスはこの人々を喜んで迎えられました。今、私たちは休みに来ているんだからあなた方の相手はできない、などといって追い返してしまうことなどせず、神の国について語り、治療の必要な人々を癒されたのです。神の国とは、神のご支配を意味します。神の支配は、今はお休みです、後でまた来て下さい、というようなことはありません。「本日の営業時間は終わりです、また明日のお越しをお待ちしております」、といったアナウンスは神の国にはあり得ないのです。それはいつでもどこでも、「今、ここで」の出来事であるのです。

2 使徒たちは、神の国について語り、いやしを行っておられる主イエスをどんな気持ちで見守っていたのでしょうか。正直言って早く終わらないかなあ、と思って見ていたのではないでしょうか。主人が働いている限り、自分たちも休むことはできません。やがて日も傾きかけてきました。元々寂しい町の郊外です。周りが次第に暗がりに包まれてきます。それと同時に、使徒たちの心の中にも影が差してきます。不安が頭をもたげてきます。「今晩の彼らの宿はどうなるのだろう。もう夕食の時間なのに食事の世話は誰がするんだろう。群衆の中にはお腹を空かせた表情の人々やそわそわし始めた人々が出てきているではないか。主はどうなさろうとしておられるのだろう。ひょっとしたらそんなことへの配慮は忘れておられるのだろうか」。使徒たちの目にはもはや神のご支配が見えなくなっていました。さっきまでこのご支配の源は主イエスであることをわきまえ、自分たちの伝道旅行の報告をしていた使徒たちです。けれども今は彼らはこう思っているのです。主に早くこの群衆を解散させてほしい、もう限界だ、自分たちは疲れていて休みたい。家を訪ねてきて長居をしている人に心の中で苛立っている家族のような思いで、使徒たちは群衆をながめていたのでしょう。腹立たしさに、心がいらいらしてきたでしょう。ついに業を煮やして十二人みんなで主のおそばに近寄っていって言ったのです、「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」。ところが主イエスのお答えはこうです、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。ある人の個人的な翻訳では、「あなた達が自分で食べさせてやったらよかろう」、となっています。十二人の唖然とした表情が目に浮かんでくるようです。驚きあきれる余りの一瞬の沈黙がただよいます。その後、堰を切ったように十二人の抗弁、反論が始まります、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」。もっともなことです。なにせこの時この場所には男が五千人ほどもいたからです。もちろん他に女性や子供たちもいたことでしょう。この五千人以上の人々を養うような力、材料、お金、資源が十二人にあるわけがありません。「このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かない限り」―五千人以上の人々に食べ物を買うことなど端(はな)からできもしないのに、わざと主イエスに向けて無理に決まっていることを言うのですから、これは当てこすりです。彼らは自分たちの持っているものの少なさ、貧しさを知っているのです。それゆえにそこに留まろうとします。その弱さと貧しさの中にだけ自分の目を向け、その中に居座り続けてしまうのです。神の支配を見失い、一見群衆のために配慮のある行動を取っているように見えながら、実際には主イエスの御業を中断させようとする傲慢な行動を取っています。こうして気持ちが萎え、いじけかけている十二人に、しかし主イエスは「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われます。十二人が差し出した、なけなしの五つのパンと二匹の魚を、それで十分だ、と言わんばかりに取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせたのです。

3 「使徒」という言葉は主イエスの十字架での死と墓の中からの復活の後、聖霊が降って教会が歩み出してから、弟子たちが呼ばれるようになった呼び名です。そういう意味では、この十二人には、既に後の教会の姿が映し出されているわけです。教会は主イエスの教会として歩んでいく最中にも、あの十二人と同じように疲れを覚えます。自分の力のなさに絶望しかけます。現実の世界を圧倒する戦争や災害、流血の災いの数々に無力を感じます。教会などなくても平気で毎日生きていけるような顔をしている社会を目の当たりにして足がすくみます。あるいはそうやって生きていけるものなのかもしれない、などと自分でも思いかけてしまいそうになります。この圧倒的な現実に向かってしかし主は、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」、そうおっしゃる。ご自分で直接群衆に命令するのでなく、弟子たちに「人々を組にして座らせなさい」、とお命じになる。ご自分で増えたパンと魚をお配りになるのではなく、弟子たちに渡しては群衆に配らせたのです。主は必ず弟子たちを用いておられます。私が必要なものを用意して渡すから、あなたがたはそれをそのまま配りなさい、とおっしゃっておられるのです。
 先日、クリスマス伝道実行委員会が行われ、クリスマスの諸集会について振り返りの時を持ちました。そこで知りましたことは、ティールームのためのケーキが当初はやっと二つしか用意できず、いったいどうやって分けたらよいのかと気をもんでいたところ、実際にはみんなが食べてなお余るほどのケーキを多くの方が持ち寄ってくださったということです。「教会はパンだけでなくケーキも増える所なんですねえ」、という感想が印象的でした。主イエスのおっしゃるままに教会が生きる時、そこにはすべての人が食べて満腹し、なお余るほどの出来事が起こるのです。なお満ち溢れる恵みに驚いて、自分たちに与えられている恵みはこんなに大きかったのか、と思わず籠の中を覗き込んでしまうような出来事が起こります。聖書のさまざまな出来事を絵に描いた宗教画はたくさんあります。五千人の人々に弟子たちがパンと魚を分ける光景も描かれていると思いますが、しかし残ったパンの屑が山盛りになった籠の中を覗き込んでまだこんなにあるのか、と目を丸くして驚いている弟子たちの姿は描かれていない、と聞きます。けれどもそんな絵もあっていいのではないでしょうか。十二という籠の数は、イスラエルの十二部族、また十二人という弟子たちの数を意味するだけでなく、「新しいイスラエル」、「現代の十二弟子」である今の教会の姿をも現します。自信を失い、気落ちして、いじけかけていた教会が、力の源はただ主イエスにのみあることを、再発見した姿がそこにあります。自分自身には何の自信もない、自分の手許にあるものを見ればその貧しさに絶望してしまうほかはない。けれども、主イエスにすべての糧の源があり、このお方が自分たちの持っていたなけなしのものを祝福して豊かにしてくださる、その主の手許を見つめる時、私たちは、教会は、主の恵みをもう一度見出せるのです。神のご支配がここに始まっていることを思い出すのです。満ち溢れる恵みが手渡されていることに目を開かされるのです。

4 パンと魚を祝福される主イエスのお姿、「取り」、「天を仰いで」、「賛美の祈りを唱え」、「裂いて」お配りになるそのお姿は、あの最後の晩餐の時の主イエスのお姿を思い起こさせます。あの晩も主イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちにお与えになったのです。そこで主はおっしゃったのです、「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」。最後には私たちの罪と汚れ、私たちのどうしようもない貧しさを引き受け、ご自身の豊かさでもって覆うために、十字架の上にまで上られたお方がこのお言葉をくださっているのです。
 それだけではありません。主イエスが十字架におかかりになった後、失意のうちにエマオへと向かって歩いていた二人の弟子は、復活の主イエスの食卓に与かったのでした。この福音書の24章が語るところによれば、あの時も「もう日も傾いて」いる夕暮れ時でした。弟子たちの心を暗く影が覆い、神の恵みのご支配が見えなくなっている時、主は恵みの食卓へと招くことで、ここに神の支配が始まっていることを知らせてくださるのです。あの晩も主イエスは一緒に食事の席に着かれ、パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになったのです。
 教会が力を失い、不安になり、無力感に襲われる時、また私たちが過大な人生の重荷を前にして途方に暮れる時、主イエスはその只中で恵みの食卓を準備されるのです。「あなたが今見失っているものがここにある。あなた方が何によって立っているのか、何によって生かされているのか、それをもう一度見つめ直しなさい。わたしを食し、わたしを飲むのだ。この世の何ものも与えることのできない深い喜びに、今あなたを与からせよう」、主の語りかけが聞こえてきます。

5 あの「使徒」と呼ばれていた「十二人」は、ここでは「弟子たち」と言い換えられています。「使徒」とは「遣わされた者」という意味でした。けれどもここでルカはわざわざ、彼らを「弟子たち」と言い直している。ここでこの十二人は、ただ遣わされる者であるだけではなく、まず何よりも弟子として主イエスのおそばに置いていただいている者であるのです。主イエスと共にある恵みに生き、主イエスの恵みによって日々養われている弟子たちです。私たちが食卓を用意しなければ、と慌て惑うことはない。かえってそうすることが、主イエスのお働きを中断させ、邪魔することになるのです。そうではなく、今おそばに置いていただき、命の糧をいただいている私たちが、それをそのまま人々に配っていく。そこに静かな、しかし力強い喜びが満ち溢れるのです。それは頭で理解する喜びではありません。食し、味わうことで、体全体にしみわたり、広がっていく喜びです。
 今日の箇所はヘロデが主イエスの正体を見定めることができず、「いったい、何者だろう」とつぶやき、弟子のペトロが主イエスを「神からのメシアです」と告白する、その間に置かれています。つまり今日の出来事は、主イエスをどなたであると告白するのか、このことが鋭く問われている只中で起こっているのです。その意味でこの出来事は、第一に十二人の弟子たちのために、また私たち教会のために起こっているのです。この出来事を見て、あなたがたはわたしを誰というのか、それを主イエスは問われているのです。弟子たちが見失っていた神の国の権威の出所が、主イエスであったことを改めて、新しく確認するのです。与えられている恵みをそのままに分配していく。罪の赦しも、永遠の命の希望も、神の国の始まりもこの営みの中にあるのだ、教会はこのことを弟子たちと共に、新しく発見するのです。
 今日も主イエスの備えてくださった恵みの食卓が広げられています。弟子たちでもない、わたしたちでもない、教会でもない、主イエスが備えられた食卓です。この食卓に与かる時、教会は自分たちが何によって生きているのかを再発見し、自分たちが置かれている恵みの大きさを見つめ直し、詩編の詩人と共に喜びながら歌うのです、「御恵みはいかに豊かなことでしょう。 あなたを畏れる人のためにそれを蓄え 人の子らの目の前で あなたに身を寄せる人に、お与えになります」と!

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、あなたのご支配が見えなくなってしまうことしばしばの私たちを御前に恥ずかしく思います。さっきまであなたに伝道の報告をしていたかと思ったら、次の瞬間には主イエスの説教を中断させようとするような傲慢さがこみ上げてきます。しかしあなたはご自身が恵みの食卓を備え、貧しい私たちの業を、何十倍も何百倍も豊かに祝福して用いてくださいます。満ち溢れるあなたの恵みを再発見し、ただ救い主イエス・キリストの命に与かり生かされている者であることを今深く味わわせてください。あなたが手渡してくださるものをそのまま配っていく時、そこに喜びが満ち溢れます。どうか今ここにも、私たちが携えて出で行くべき、恵みと豊かさと喜びを満ち溢れさせてください。
 御子イエス・キリストの御名により祈り願います、アーメン。

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