主日礼拝

主イエスによる義

「主イエスによる義」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 詩編、第16編 1節-11節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第13章 13節-41節
・ 讃美歌 ; 19、288、449
・ 奉唱  ; 24

 
パウロの伝道旅行
 先週の礼拝において私たちは、パウロの第一回伝道旅行の始まりを語っている使徒言行録第13章の始めのところを読みました。先週申しましたように、これを「パウロの伝道旅行」と呼ぶのは適切ではありません。出かけたのはバルナバとパウロであって、中心となっていたのはむしろバルナバです。最初の伝道地として選ばれた所も、バルナバの故郷であるキプロス島でした。さらにこの伝道旅行は、バルナバやパウロ個人の志によることではなくて、聖霊の示しと導きによるものであり、それを受けてアンティオキア教会が彼らを派遣したのです。ですからパウロの伝道旅行と言うよりも、アンティオキア教会の外地伝道と呼んだ方が適切なのです。しかしこのキプロスにおける伝道の中で次第に、パウロの果す役割が重要なものとなっていったようです。先週読んだように、バルイエスという魔術師の偽預言者と対決して勝利したのはパウロでした。パウロはこの伝道において、力強い語り手として頭角を現していったのです。本日の最初の13節では、「パウロとその一行は」となっています。使徒言行録はこのあたりから、もっぱらパウロの活動に焦点を当てて語るようになっていきます。そういう意味では本日の個所以降は、「パウロの伝道旅行」と言っても差し支えないような記述になっているのです。

小アジアへ
 さて一行はキプロスから船出して北へ向かい、パンフィリア州のペルゲという港に入りました。聖書の後ろの付録の地図7を見ていただきたいと思います。現在のトルコ、いわゆる小アジア地方に足を踏み入れたわけです。13節には、このペルゲで、彼らが助手として連れていたヨハネが一行と別れてエルサレムに帰ってしまったとあります。ヨハネは先週申しましたようにバルナバといとこで、バルナバが伝道旅行に伴ってきた人です。このことが、後にバルナバとパウロのいさかいの原因となるのですが、それについてはその個所で触れることにします。

会堂での礼拝
 14節では、「パウロとバルナバは」、とパウロの名前の方が先になっていますが、ここは実は原文では「彼らは」ですので、この順序は訳した人の判断によることです。とにかく彼らはペルゲから北へ、小アジアの内陸へと向かい、ピシディア州のアンティオキアに着きました。この地図では分かりませんが、ペルゲとアンティオキアの間には山脈があり、山越えのかなり困難な道だったようです。そのようにして到着したアンティオキアは、彼らが出発したシリアのアンティオキアと同じ名前の町ですが、こちらはピシディア州のアンティオキアですから間違えないようにしなければなりません。そこでの伝道はまず、安息日に、ユダヤ人たちの会堂に入ってその礼拝に出席することから始められています。これはキプロスでも同じでした。パウロらの伝道は先ず会堂に集うユダヤ人たちに対して語りかけることから始められたのです。会堂における安息日の礼拝では、律法と預言者の書が朗読されたと15節にあります。律法とは、旧約聖書の最初の五つの書物、創世記から申命記までのことです。預言者の書とは、大雑把に言えばヨシュア記以降の歴史書と預言書の全体です。この当時、聖書として確立していたのはこの律法と預言者の書でした。そこからの朗読がなされたということは、礼拝において聖書が朗読された、ということです。その後会堂長たちがパウロらに、「何か会衆のために励ましのお言葉があれば、話してください」と依頼したとあります。「励ましの言葉」の「励まし」は「慰め」とも「勧め」とも訳せる言葉です。励まし、慰め、勧めの言葉、それは今の私たちで言えば「説教」です。当時はかなり自由にいろいろな人が礼拝で説教を語っていたようで、主イエスもナザレの会堂で求められてみ言葉を語られたことが福音書にあります。この会堂の礼拝における説教から、パウロの伝道が始まったのです。この説教は、使徒言行録が伝えるパウロの最初の説教であるという点で大変興味深いものです。パウロはどのように、主イエス・キリストの福音を語っていったのでしょうか。

ステファノとパウロ
 ここでパウロが先ず語っているのは、イスラエルの民の歴史です。先ず17節に、「この民イスラエルの神は、わたしたちの先祖を選び出し」とあります。これは、アブラハム、イサク、ヤコブというイスラエルの最初の先祖たちのことです。次に「民がエジプトの地に住んでいる間に、これを強大なものとし、高く上げた御腕をもってそこから導き出してくださいました」、これが出エジプトの出来事です。18節にはエジプトを出た後の四十年間の荒れ野での放浪の生活のことが、19節にはカナンの地への定着のことが、20節には「裁く者たち」、即ちいわゆる士師たちが任命されたことが、21節にはサウルが最初の王として立てられたことが、22節にはサウルが退けられ、ダビデが王とされたことが語られていきます。このようにイスラエルの民の歴史をなぞっていく語り方は、7章にあったあのステファノの説教を思い出させます。ステファノはエルサレムの議会の裁きを受けている中で、イスラエルの歴史を通して、主イエスこそキリスト、救い主であられると語り、そのために殉教の死を遂げたのです。パウロはその時、その説教を聞いていたと思われます。ステファノに石を投げつけて殺した人々の上着の番をしていたのです。彼もまた、ステファノの説教に怒り、教会への迫害を始めたのです。そのパウロが今、回心して伝道者となり、ステファノの説教を受け継ぐような語り方をしていることは感慨深いものがあります。

神様の導き
 けれどもステファノの説教とパウロの説教には違いもあります。ステファノは、イスラエルの歴史を語ることを通して、イスラエルの民がいつも聖霊に逆らってきたこと、そしてついに神様の独り子主イエスをも殺してしまったことを厳しく追求しているのです。それは彼がこの説教を、主イエスを殺したまさにそのユダヤ人の議会によって自分も裁かれている中で語っているからでしょう。しかしパウロは今、裁かれているわけではありません。礼拝において、信仰の勧めを語っているのです。そこにおいてパウロがイスラエルの歴史を通して語っていくのは、イスラエルの民に対する神様の導きです。神様がイスラエルの民の歴史を常に支え導いてこられたことを彼は振り返っているのです。そのことを語る言葉がここには並べられています。「わたしたちの先祖を選び出し」から始まり、「これを強大なものとし」、「導き出し」、「荒れ野で彼らの行いを耐え忍び」(ここは別の写本では「はぐくみ」となっており、口語訳聖書はそちらの訳になっていました)、また、カナンの地を相続させてくださった、裁く者たちを任命した、サウルを王として与えた、そのサウルを退けてダビデを王の位につけた、これらの言葉は全て神様が主語であり、神様のイスラエルへの導きを語っているのです。イスラエルの歴史は神様の導きの歴史だった、ということをこの説教は先ず語っているのです。

主イエスの福音と旧約聖書
 そしてその導きが、ダビデ王においてある頂点に達しています。22節にこうあります。「それからまた、サウルを退けてダビデを王の位につけ、彼について次のように宣言なさいました。『わたしは、エッサイの子でわたしの心に適う者、ダビデを見いだした。彼はわたしの思うところをすべて行う』」。ダビデは、神様のみ心をすべて行う者として立てられたのです。これはダビデ個人のことと言うよりも、むしろダビデの家、その子孫に与えられた約束です。その約束の成就、実現として、主イエス・キリストが遣わされたのです。それが23節です。「神は約束に従って、このダビデの子孫からイスラエルに救い主イエスを送ってくださったのです」。パウロはこのようにして、イスラエルの民への神様の導きの歴史が、ダビデへの約束を通して、主イエス・キリストにおいて成就、実現したことを語っているのです。このことによってパウロは、主イエス・キリストによる救いの福音は、イスラエルの歴史と切り離すことのできないものであることを語っているのです。イスラエルの歴史を、言い換えれば旧約聖書を無視して主イエスによる救いを考えることはできません。パウロの説教は主イエスの福音と旧約聖書の結び付きを明らかにしているのです。

約束の成就
 けれども、それと同時にこの説教が語っているのは、イスラエルの歴史と主イエスによる救いとを結び付ける絆は、神様の導き、あるいは約束なのであって、ユダヤ人の民族的、宗教的伝統ではない、ということです。そのことを示しているのが、27、28節の、「エルサレムに住む人々やその指導者たちは、イエスを認めず、…罪に定め…、死に当たる理由は何も見いだせなかったのに、イエスを死刑にするようにとピラトに求め」たということです。ユダヤ人の民族的、宗教的伝統を担っていた人々は、その伝統に固執したために、主イエスにおいて成就している神様の導き、約束を理解することができなかったのです。これはステファノが厳しく追及していたユダヤ人たちの罪です。しかしパウロは、この出来事そのものが、なおも神様の導きの下に置かれており、それによって神様の約束が実現したことを見つめています。29節の「こうして、イエスについて書かれていることがすべて実現した後」という所にそれが示されています。主イエスが罪に定められ、ピラトに引き渡されて十字架につけられて殺されたことは、「イエスについて書かれていること」の実現だったのです。旧約聖書の預言者たちが、様々な仕方で、救い主の死を前もって預言していたのです。つまりこのことは神様の救いのご計画だったのであり、彼らはそれを実現したのです。29節のこの訳は、イエスについて書かれていることが自然に実現したような言い方になっていますが、口語訳聖書ではここは「イエスについて書いてあることを、皆なし遂げてから」となっていました。こちらの方が適切な訳です。ユダヤ人の指導者たちは、主イエスを十字架につけることで、イエスについて書かれている神様のご計画を自ら成し遂げる結果になったのです。そして30節「しかし、神はイエスを死者の中から復活させてくださったのです」。先程、ここには神様のイスラエルの民への導きを語る言葉が並べられていると申しましたが、その神様の導きはこの30節の、「神はイエスを死者の中から復活させてくださった」ということにおいて本当のクライマックスに達しているのです。そのことをパウロは32節から33節にかけて、このように語っています。「わたしたちも、先祖に与えられた約束について、あなたがたに福音を告げ知らせています。つまり、神はイエスを復活させて、わたしたち子孫のためにその約束を果たしてくださったのです」。神様のイスラエルへの導きのみ業は、ダビデに与えられた約束を通して主イエス・キリストへとつながり、その復活において成就したのです。

朽ち果てることのない者
 そしてこの導きのみ業は、今もなお続いています。そのことを語っているのが、34節の、主イエスが死者の中から復活させられ、「もはや朽ち果てることがないように」されたということです。36、37節には、ダビデと主イエスとの対比がなされていますが、そのポイントは、ダビデは彼の時代に神の計画に仕えた後、死んで葬られ朽ち果てたが、主イエスは、復活させられ、朽ち果てることのない者となり、つまりその時代においてのみでなく、その後も、今も、生きて働いておられる、ということです。主イエスの復活を信じるとは、過去にそういう不思議な出来事が起ったことを信じると言うよりも、主イエス・キリストが、朽ち果ててしまったのでなく、今も生きて、神様の導きのみ業をなし続けていて下さることを信じることなのです。パウロはそこに、イスラエルの歴史と教会の歩みとの連続性を見ています。キリスト教会は、イスラエルの民族的伝統を受け継ぐものではなく、主イエス・キリストにおいて頂点に達し、今も続いている神様の導きの歴史を受け継ぐものなのです。私たちもこの点において、イスラエルの歴史とつながっています。古代のイスラエルの民の歴史と、現代を生きる日本人である私たちとの間には、人間的には何の連続性もありません。旧約聖書に書かれていることは、私たちにとっては、他所の国の昔話です。しかし、主イエス・キリストを信じ、主イエスの十字架の死と復活によって、神様が私たちのための決定的な救いのみ業を実現して下さったことを信じるなら、その主イエス・キリストを通して私たちは、イスラエルの歴史につながる者、旧約聖書に語られている神様の導きの歴史を受け継ぐ者とされるのです。

罪の赦しの歴史
 神様の導きの歴史の中身をもっとよく見つめておく必要があります。これは決して「何事も神様のお導きなのだ」というような、ある意味投げやりな、力のない話ではありません。そうではなくてこれは喜びと感謝に満ちた、将来への希望の源となるようなことです。それは、この神様の導きの中心に、罪の赦しがあるからです。イスラエルの歴史は、罪の赦しの歴史でした。アブラハム、イサク、ヤコブという先祖たちも、様々な罪を犯した人々でした。その彼らを神様が赦して、神の民の先祖として下さったのです。エジプトの奴隷状態からの解放の後、四十年の間民が荒れ野をさまよわなければならなかったのは、彼らが神様のみ言葉に従わなかった罪のためでした。しかし神様は「荒れ野で彼らの行いを耐え忍び」、約束の地へと導いて下さったのです。裁く者たち、つまり士師の時代にも、民は度々神様に背き、そのたびに敵に打ち負かされて苦しみました。そこからの救いのために神様が遣わして下さったのが士師たちでした。士師の派遣は神様の赦しの恵みの現れです。サムエルの時代に人々が王を求めたのも、神様のみ心に反することでしたが、神様は彼らを赦してサウルを王として与えて下さったのです。ダビデ王は「わたしの心に適う者」として立てられましたが、そのダビデがどんなに大きな罪を犯したか、それはあのバト・シェバの話を読むだけで十分です。ダビデは神様の大いなる赦しの恵みの下で、神様のご計画に仕えたのです。このように、イスラエルへの神様の導きは、民の罪を赦して下さり、なおも恵みを与えて下さったということの連続です。そのような導きの頂点として、主イエス・キリストが遣わされたのです。主イエスの十字架の死は、罪のない神様の独り子が私たちの罪を全て背負ってその償いを成し遂げて下さったという恵みでした。父なる神様はこの主イエスを復活させて、私たちが罪を赦された者として、主イエスと共に新しく生きることができるようにして下さったのです。神様の導きは、この主イエスの十字架と復活による罪の赦しにおいて成就、実現しているのです。パウロの説教の結論はそこです。38、39節、「だから、兄弟たち、知っていただきたい。この方による罪の赦しが告げ知らされ、また、あなたがたがモーセの律法では義とされえなかったのに、信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。主イエス・キリストによる罪の赦しが告げ知らされ、この方を信じることによって、誰でも皆、神様による罪の赦しの恵みにあずかり、義とされる、それが、イスラエルの民に与えられた神様の導きの歴史の目的であり、成就なのです。それゆえに、神様の導きは私たちを喜びと感謝の内に新しく、力強く生かすものです。この主イエス・キリストが復活して朽ち果てることのない方として、今も、これからも共にいて下さり、み業を行っていて下さるのですから、そこには将来への確かな希望もまた与えられているのです。

私たちへの問いかけ
 この罪の赦しの福音の宣言は、それを聞く者に対する問いかけです。あなたがたは、この福音をどう受け止めるのか、神様からのこの恵みのみ言葉に対してどう応答するのか、福音を聞く者はそのことを問われるのです。「だから兄弟たち、知っていただきたい」というパウロの呼びかけはそういう問いとなっています。私たちが根本的に問われているのは、「あなたがたは何によって義とされるのか」ということです。義とされる、それは神様の前に正しい者となる、ということであり、救いにあずかるという意味でもあります。私たちにとって身近な言い方に置き換えるならば、「あなたがたは何によって、本当に喜びをもって、確かな希望を持って、感謝しつつ生きることができるのか」ということです。それは、自分の力、人間が生まれつき持っている能力によってはできない、それが「モーセの律法では義とされえなかった」ということの意味です。律法を守り行う、つまり、このように生きるべきだという掟、戒めを自分の力、努力で守っていく、律法という言葉に馴染みがないならば、自分の心、良心に従って、正しいことをしていく、良心に恥じない生活をしていく、と言ってもよいでしょう、そのように自分の心と生活を整えていくことによって、あなたがたは本当に喜びと希望を持って、感謝の生活を送ることができるのか、そのように私たちは今、問われているのです。

主イエスによる義  神様は私たちに今、そのように問うと共に、私たちを招いて下さっています。「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。義とされるために、本当に喜びと希望と感謝の内に生きるために必要なのは、ただ信じることです。この方、主イエス・キリストが、自分のために十字架にかかって死んで下さり、罪の赦しの恵みを与えて下さったこと、その主イエスを復活させられた父なる神様が、私たちをも、この主イエスと共に、新しい命に生かそうとしておられることを信じること、そして何よりも、私は自分の力で本当の喜びを得ることも、肉体の死を乗り越える希望を得ることも、その喜びと希望に支えられた感謝の生活を送ることもできない罪人であり弱い者であることを認めることです。そのことによって、私たちは神様の前に義とされるのです。罪を赦され、新しい命に生かされるのです。イスラエルの民への神様の罪の赦しの恵みを受け継ぐ教会、主イエスによって罪を赦された者たちの群れに加えられるのです。

洗礼と聖餐の恵み
 これから聖餐にあずかります。聖餐は、私たちが主イエスを信じる信仰によって義とされ、イスラエルの民の歴史を受け継ぐ神様の民の一員として生かされていることを、私たちの心と体に刻みつけるために主イエスが定めて下さった恵みの食卓です。聖餐のパンと杯は、私たちの罪の赦しのために十字架につけられた主イエス・キリストの体と、私たちの救いのために流された血とを表しています。このパンを食べ、杯を飲むことによって、私たちは、主イエスによる罪の赦しの恵みと、そこに与えられる主イエスによる義とを、体全体で味わい、復活して天に昇られた主イエス・キリストのもとに心を高く上げつつ、喜びと希望に生きていくのです。聖餐はもう一つの聖礼典、主イエスを信じてその救いにあずかり、神様の民である教会の一員とされることを表す洗礼と一つに結ばれているものですから、洗礼を受けておられない方はこれに与ることができません。しかしそれは、洗礼を受けておられない方が主イエスの恵みから排除されているということではありません。「信じる者は皆、この方によって義とされるのです」。主イエスによる義は、皆に、誰にでも与えられています。私たちは、自分の相応しさによってではなく、ただ主イエスにおける神様の恵みによって、義とされるのです。救いにあずかるのです。この、誰にでも、無償で与えられている救いの恵みを、本当に大切にしたいのです。信仰を言い表し、洗礼を受けるというのはそういうことです。世間では、ただで、誰にでも与えられるものは安っぽいもの、あまり価値のないものです。もしも聖餐のパンと杯が、洗礼を受けていなくても与えられるようになったら、主イエスによる義もそのような安っぽいものになってしまいます。関内の駅でよく配られているポケットティッシュのような、鼻をかむのに多少の役には立つがそれだけのものになってしまうのです。主イエスによる救いはそのようなものではありません。これは神様が、その独り子の命を犠牲にして私たちのために成し遂げて下さった恵みなのであり、私たちに本当の喜びと希望を与え、感謝の内に生かすものなのです。信仰を言い表し、洗礼を受けてそれにあずかることは、この恵みを本当に自分に与えられた恵みとして認め、受け入れ、大切にするということです。本日共に読まれた旧約聖書の個所、詩編第16編の2節の言葉を用いるならば、「あなたはわたしの主。あなたのほかにわたしの幸いはありません」と、私たちが心から主に申し上げることです。そのことを通して、主イエスによる義が、神様の大いなる救いの恵みが私たちに与えられます。詩編16編の詩人は、「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」と歌っています。さらに、「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず命の道を教えてくださいます。わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い、右の御手から永遠の喜びをいただきます」と歌っていきます。主イエスによって義とされ、洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きる者は、このように歌いつつ歩むことができるのです。神様はこの恵みへと、私たち全ての者を招いておられるのです。

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