「走り寄る神」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書: イザヤ書 第55章1-7節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第15章11-24節
・ 讃美歌: 247、256、268
家を出る息子
クリスマスを喜び祝う礼拝を、皆さんと共に守ることができますことを神様に感謝します。この礼拝では、ルカによる福音書第15章11節以下の、いわゆる「放蕩息子のたとえ」をご一緒に読みます。このたとえ話は、「ある人に息子が二人いた」と語り始められています。二人の息子たちの物語です。本日読む24節までのところに弟息子の話が、そして来週はその先の32節までを共に読むのですが、そこには兄息子のことが語られています。本日は、前半の部分だけを読むわけです。24節までのところに語られている弟息子、これがいわゆる放蕩息子です。彼は父親に、「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」と言いました。それは、父が死んだら相続することになっている自分の分の遺産を前もってくれ、ということです。それだけでも父に対して随分と礼を失する、愛のない物言いです。要するに、自分にとってあなたはもう死んだも同然の存在だ、さっさと本当に死んで財産を遺してほしいと思っている、ということです。しかしこの父は、彼の望み通りに財産を分けてやります。すると弟息子は、何日もたたないうちに、それを全部金に換えて、遠い国に旅立ったのです。これが彼の願いでした。彼は父の家を出たかったのです。父親の、家族の束縛から自由になり、自分の好きなように生きたかったのです。しかしそれにはお金がいります。その元手を父からせしめた彼は、もうこんな家に用はないとばかりに、自由な世界へと飛び出して行ったわけです。
私たちの姿
この弟息子は、とんでもない親不孝なドラ息子ですが、しかし私たちはここに自分自身の姿を見るのではないでしょうか。私たちは基本的に、自分の人生は自分のものだ、自分の思い通りにして何が悪い、と思いつつ生きています。しかし私たちが自分のものだと思っている人生、そこで自分の思い通りにしている様々なものは、自分で獲得したのではなくて、神様から与えられたものではないでしょうか。そもそもこの命と体、また生まれ育った家庭環境などがそうです。こういう体をもって、この時代に、この家庭に生まれよう、と思って生まれてくる人はいません。また人生を営んでいくための元手となる能力、才能、資質も、与えられたものだと思います。自分で努力して技術や能力を身に付け、資格を得る、ということも勿論ありますが、それを身に付けるための基本的な資質は神様から与えられたものだし、またその力を生かすためのチャンス、機会も、与えられたものだと思います。私たちの人生は、神様によって与えられた条件や機会によって左右されている部分がとても多いのであって、自分の努力によってどうにかできる部分というのはそう多くはないのではないでしょうか。つまり私たちはこの弟息子と同じように、自分で稼いだのではない、父親から、つまり神様から与えられた元手によって人生を歩んでいるのです。
しかしこの息子はそのことをありがたいとは思っていません。彼にとって父は、自分の自由を奪い、束縛する邪魔な存在でしかないのです。だから一日も早く父のもとを去って、自分の思い通りに歩みたいのです。しかしそのように父のもとを飛び出して一人で生きていくことも、やっぱり父が与えてくれるものなしにはできません。神様によって与えられた命と体、能力やチャンスを用いて生きていながら、それを与えて下さった方のことをとんと意識せずに、ありがたいとも思わずに、すべてもともと自分のものであるかのように思い込み、好き勝手に歩んでいる、そういう私たちの姿をこの弟息子は見事に描き出しているのではないでしょうか。
自由を失い、孤独に陥る
遠い国に旅立った彼はそこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いし、すっからかんになってしまいました。悪いことは重なるものでそこに飢饉が起り、食べるにも困りはじめた彼は、ある人のもとで豚の世話をするようになります。豚はユダヤ人たちにとっては汚れた動物で、豚飼いというのは最も忌み嫌われる、絶対にしたくない仕事の代表です。つまり彼はこれ以下はないというどん底にまで落ちぶれてしまったのです。自由に生きるというのはなかなか難しいことです。好き勝手に生きることを自由と勘違いしてしまった結果、むしろ自由を失い、奴隷のような生活に落ち込んでしまった、それが彼の姿です。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった、とあります。ここにもう一つ、彼の陥った姿が描かれています。誰も、困っている彼を助けてくれないのです。「まさかの時の真の友」と言いますが、彼には本当の友達が一人もいないのです。彼がお金を沢山持っていた時には、多くの人々が周りに集まって来ていたでしょう。自分こそ君の友だという男や、あなたを愛しているわという女がぞろぞろいて、そういう人たちと共に彼は放蕩の限りを尽くし、財産を無駄遣いしたのです。しかし金の切れ目が縁の切れ目で、何もかも使い果たした時、そこには一人の友も残ってはいない、彼のことを親身になって心配し、助けてくれる人は一人もいないのです。これは彼が、父に与えられた財産、人生の元手の使い方を間違ったということです。財産は、それによって隣人とよい関係を築き、支え合っていく友を作るためにこそ用いるべきものです。ところが彼は財産を、自分のため、自分の楽しみのためにのみ使ってしまい、その結果、一人の友も得ることができず、孤独の中で行き詰まっているのです。自由を求めつつその意味を勘違いしてかえってそれを失い、財産やその他の人生の元手の用い方を誤って人との関係、交わりを失い、孤独に陥っている彼の姿は、やはり私たちの姿なのではないでしょうか。それらのことの根本にあるのは、私たちに命と体とを与え、人生の元手を整えて下さったのが神様であることを忘れ、自分の力で、自分の思い通りに生きることができるし、そうすることこそが幸せだと勘違いをしてしまっていることなのです。
自分の姿に気づく
飢えと孤独の苦しみの中で彼は「我に返った」とあります。原文を直訳すれば、「自分自身へと来た」となります。「我に返った」と言うと、それまで夢の中にいたのが目が覚めた、という感じですが、確かにそのようにも言えるでしょうが、肝心なことは、ここで彼が、自分の本当の姿に気づいた、ということです。具体的には17節の、「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ」ということに気づいたのです。「わたしはここで飢え死にしそうだ」というのは、気づくまでもない現実です。しかしその現実とは対照的な、「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがある」という事実に彼は気づいたのです。「父のところ」、それは彼がもともといた所です。彼はそこが嫌で嫌で仕方がなかった、早くそこを出て自由になりたいと思っていたのです。しかしそこは、大勢の雇い人が有り余るほどのパンによって養われていた所でした。雇い人ですらそうなのですから、息子であった彼はなおさら豊かに育まれていたのです。ところが自分は、そのことが分からずに、「こんな所にいるのは嫌だ」と言ってそこから飛び出してきてしまった。その結果このように雇い人以下の生活に陥り、飢え死にしそうになっている、そのことに彼は気づいたのです。それは、自分が取り返しのつかないことをしてしまった、という思いです。自分が本当に生きることのできる場はあの父の家だったのに、それが分からず、自分からそれを捨ててしまったために、今のこの苦しみ、絶望に陥ってしまったのです。
神と隣人に対する罪
そのことに気づいた彼は、父の所に帰ろう、と決意します。そう言うと何か立派な決断をしたように感じられますが、そうではありません。もう自分の力ではどうにもならないのです。どこにも生きることのできる場がないので、父のもとに身を寄せるしかないのです。しかし、今さら「ただいま」と帰ることはできません。もう父など死んだ者と思うから遺産をくれ、と言って飛び出して来たのです。今さら帰れた義理ではない。だからこう言うしかないのです。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」。彼は、自分が罪を犯したことに気づいています。罪というのは、神様に生かされ、養われ、育まれているのに、そのことを感謝せず、むしろ不自由な束縛と思い、神様のもとを飛び出して好き勝手に生きることです。この弟息子の姿はまさにその罪に陥っている人間の姿です。しかし彼がここで「天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました」と言っていることに注目したいと思います。「天に対して」とは、神様に対してということです。彼の姿は神様に対する人間の罪の最も分かりやすいたとえです。しかし「またお父さんに対しても」を加えることによって主イエスは、彼が自分の父親に対して罪を犯していることにも私たちの思いを向けようとしておられます。罪は常にこのように、身近におり、関わりを持つ人間に対して犯されるものでもあるのです。神様に対しては罪を犯しているが、人間に対しては犯していない、ということはあり得ないのです。むしろ私たちは、身近な隣人に対して、共に生き、関係を築いていくべき人に対して罪を犯すことを通して、神様に対する罪を犯していくのです。天に対してもまた隣人に対しても罪を犯しているのが、私たちなのです。
悔い改め
罪によって神様のもとから飛び出してしまった自分は、もう息子と呼ばれる資格はない、雇い人の一人になるしかない、と彼は思いました。つまり、もう父に、つまり神様に、愛される資格はない、せいぜいこき使われ、いろいろ働かされて、その見返りになんとか生き延びさせてもらうことしかできない、ということです。これが、私たち人間が、自分の罪の現実に直面し、自分が罪人であることを示された時に思うことです。そしてそれが、私たちのなす「悔い改め」です。ですから悔い改めには、自分の罪を嘆き悲しみ、反省し、これからは神様の雇い人の一人としてしっかり働いて生かしてもらおう、という思いが伴うのです。そして多くの宗教は、悔い改めて神様の雇い人となって働くことが信仰であると教えています。信仰に生きるとは、過去を反省して、心を入れ替えて、神様のもとでしっかり働いて養ってもらう者となることだ、と教えられているのです。それが、人間が普通に考える悔い改めであり信仰です。この息子が父のもとに帰ってこう言おうと考えたことは、人間誰しもが考える常識なのです。
常識を越える神の愛
ところがこの話は、父親が、つまり神様が、この人間の常識を乗り越える、あるいは無視する方だ、ということを語っています。弟息子が、出て行った時の意気揚々とした姿とは真逆の、ボロボロの乞食のような姿になってとぼとぼと帰って来るのを、父はまだ遠く離れていたのに見つけ、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻したのです。まだ遠く離れていたのに見つけたというところに、この父がいつも息子の帰りを待っており、一日に何度も、息子が出て行った方を見つめていたことが示されています。だから彼の目は戻って来た息子をいち早く捉えたのです。そして、あれは息子だ、と気づいたとたんに、父は走り出すのです。そして走り寄って息子の首を抱いて接吻したのです。息子の方は、「こう言おう」と思っていたことを語り始めます。しかし父はそれを遮り、皆まで聞こうとしません。そしてむしろ僕たちに「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい」と命じるのです。それは、彼を大事な息子として、愛する者として迎える、という父の意志表示です。お父さんなんか早く死んでさっさと遺産を遺してくれた方がいい、自分は自分の思い通りに、自由に生きるんだ、と言って家を飛び出し、与えてやった財産を全て浪費して失ってしまったこの息子を、一言の小言を言うこともなく赦し、愛する息子として迎え入れる、それがこの父親の姿です。それはもはや人間の常識では考えられない、あり得ない姿です。この親はどこまで甘いんだ、バカじゃないか、と世間では言われるような姿です。しかし主イエス・キリストは、神様はこのような愛をもってあなたがたを愛しておられる、この神様の愛を信じることこそが信仰なのであり、そこにこそあなたがたの救いがあるのだ、と語っておられるのです。
走り寄る神
弟息子が苦しみの中で我に返り、父のもとに帰って来たことが、人間の悔い改めです。しかしその人間の悔い改めが救いを実現するのではありません。悔い改めて以前より少しはまともになろうとすることが信仰なのでもありません。神様のもとでこそ本当に生きることができるのに、その神様に背いて飛び出してしまった罪によって、苦しみや悲惨さの中に陥っている自分の姿に気づかされた私たちが、せめて神様の軒下にでも身を寄せたいと願っておずおずと出向いていく、その私たちのことを、神様がいつも待っていて下さり、走り寄って迎えて下さり、愛する子として歓迎して下さる、そこに私たちの救いがあるのだし、この神様の愛の中で生きることが信仰なのです。先週読んだこの15章の前半のたとえ話には、神様が失われてしまった私たちを捜しに来て下さり、見つけだして連れ帰って下さる恵みが語られていました。そこに、神様の独り子である主イエスが人間となってこの世に生まれて下さったクリスマスの出来事の恵みを見ることができると申しました。本日の箇所もまた、クリスマスの恵みを語っていると言うことができます。神様の独り子である主イエスがこの世に一人の人間として生まれて下さったのは、神様ご自身が、罪人である私たちを迎え入れるために、ご自分の家を出て走り寄って来て下さったという出来事でもあるのです。
神の喜び
そしてこの話は、先週の話に続いて、罪人である私たちをご自分のもとに迎え入れて下さることを、神様ご自身が心から喜んで下さることを語っています。父は肥えた子牛を屠り、息子の帰還を祝う祝宴を始めるのです。「食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ」。息子は、父はもう死んだものと思うと言って家を飛び出したわけですが、それは父にとっては、愛する息子が死んでしまったような悲しみだったのです。しかしその息子がこのように戻って来た、それは父にとって、死んでいた息子が生き返ったような大きな喜びなのです。本日、お二人の方が洗礼を受けて私たちの教会に加えられ、幼児洗礼を受けている一人の方が信仰告白をして聖餐にあずかる者となります。洗礼を受けるとは、神様を神様として敬わず感謝せずに自分が主人になって生きようとする罪によって神様のもとから失われ、罪と死の支配下に置かれてしまっている私たちが、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しにあずかって新しい命へと生き返り、神様の恵みのもとに迎え入れられて新しく生き始めることです。また信仰告白は、親の信仰によって授けられた洗礼を、自分の信仰によって受け止め直し、幼児洗礼において既に与えられている新しい命に自覚的に生き始めることです。この三名の方々が本日、洗礼と信仰告白によってキリストの救いの恵みにあずかる者となることができるのは、クリスマスに人となってこの世に来て下さった主イエス・キリストが、三名の方々それぞれを捜し出し、見つけ出して下さり、その神様のもとで生きようという思いを起させ、そしてそれぞれのところに走り寄って迎え入れて下さったことによってです。そしてそのことを、誰よりも神様ご自身が心から喜び、祝って下さっているのです。クリスマスの夜に、天使の大軍が、主イエスの人としての誕生を喜び祝って、「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と歌いました。その喜びの歌声が、今新たに天において、高らかに響いているのです。私たちはこの天の、神様の喜びに合わせて、クリスマスを喜び祝うのです。