主日礼拝

神の霊によって

5月28日 主日礼拝 ペンテコステ
「神の霊によって」 牧師 藤掛順一
・ヨエル書第3章1-5節
・ローマの信徒への手紙第8章12-17節

聖霊のみ業は今も
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。弟子たちの群れに聖霊が降り、力を与えられた弟子たちが伝道を始め、三千人ほどの人々が洗礼を受けて、この世に教会が誕生した、それがペンテコステの日の出来事です。教会は、聖霊が降り、人々の内に宿って下さったことによって誕生しました。その聖霊が、今も、私たちにも降り、私たちの内にも宿って下さって、主イエス・キリストを信じる信仰を与え、洗礼によってキリストの体である教会に連なる者として下さっているのです。本日も一人の姉妹が洗礼を受けてこの群れに加えられます。姉妹をこの教会へと導いて下さり、信仰を与えて下さり、今日この群れに加えて下さるのも聖霊なる神です。既に洗礼を受けて教会員となっている者たちは皆、聖霊に導かれて信仰者として生きています。この礼拝に集っている、まだ洗礼を受けておられない方々も、聖霊が導いて下さっているからこそここにいるのです。ペンテコステに弟子たちに降った聖霊は、現在の私たちとこの教会にも、同じように共にいて下さり、み業を行なって下さっています。つまり私たちがペンテコステを祝うのは、二千年前に起った出来事を記念するためだけではなくて、今私たちに与えられている聖霊のみ業にあずかるためなのです。

神の子とする霊
 聖霊のみ業にあずかることによって私たちに何が起るのでしょうか。そのことを語っている聖書の箇所が先ほど朗読されました。ローマの信徒への手紙第8章の14節において、この手紙を書いたパウロは、神の霊、つまり聖霊によって導かれる者は皆、神の子なのだ、と言っています。15節には「神の子とする霊を受けたのです」とも語られています。聖霊は私たちを「神の子とする霊」です。聖霊が私たちの内に宿り、み業を行って下さることによって、私たちは、神の子とされるのです。

「アッバ、父よ」と呼ぶ
 しかし神の子とされるってどういうことなのでしょうか。神の子とされると私たちはどうなるのでしょうか。15節の後半には、「この霊によってわたしたちは、『アッバ、父よ』と呼ぶのです」とあります。これが私たちの教会の5月の月間聖句です。5月初めの昼の祈祷会でこのみ言葉についての奨励を語りました。ホームページにも載っていますし、プリントもありますので、それを合わせて読んでいただきたいのですが、聖霊によって神の子とされることによって私たちは、神に向かって「アッバ、父よ」と呼ぶ者となるのです。それは、主イエス・キリストが父である神を呼んでおられた言葉です。主イエスはそのご生涯の中で、とりわけ十字架の死を目前にした苦しみの中で、「アッバ、父よ」と呼んで祈られました。「アッバ」というのは、小さな子どもが父親を親しく呼ぶ言葉です。自分を愛してくれている大好きなお父さんに、心から信頼して「お父さん」あるいは「お父ちゃん」と呼びかける言葉です。神の独り子である主イエスは、十字架の死へと向かう苦しみの中で、父なる神に愛されている子として、神に信頼して呼びかけておられたのです。聖霊は私たちをも、その主イエスと同じように、神に愛されている子として下さり、神に信頼して、「お父さん」あるいは「お父ちゃん」と呼びかけつつ生きる者として下さるのです。

神に敵対している私たち
 しかし私たちは本来、神に向かってそのように呼びかけることができる者ではありません。そもそも私たちは主イエスのように神の子ではなくて、神によって造られたもの、被造物です。神によって造られたことを比喩的に、神が私たちの「生みの親」だと言うことはできますが、しかし被造物である私たちが、創造者である神に向かって「お父さん」「お父ちゃん」などと呼びかけることはできません。被造物である人間が創造者である神に対して本来なすべきことは、神のみ前にひれ伏して拝み、その命令に聞き従うことなのです。私たちはその本来なすべきことをしていません。私たちを造り、命を与えて下さった神を拝むことも崇めることもせず、むしろ無視して生きています。いや無視していると言うよりも、神に自分の人生を邪魔されたくない、引っ込んでいてくれ、と思っています。つまり私たちは自分の生みの親である神に敵対しているのです。そのくせ、困ったことが起こると、「神さま助けてください」などと祈ったりします。それで助かると、じきに神のことは忘れて、また自分の好き勝手に生きるようになります。あるいは願っている助けが与えられないと、神など役に立たない、と逆恨みをしたりします。そんなことを繰り返している私たちは、神の子などとはとても言えないし、「アッバ、父よ」と神に呼びかけることなど、出来ないし、しようともしていないのです。

神との関係が変わる
 聖霊はそのような私たちを、神の子として下さり、「アッバ、父よ」と呼ぶ者として下さいます。それは私たちが大きく変えられるということです。でも、私たちの持って生まれた性質や性格、つまり人格や個性が変わるのではありません。聖霊のお働きを受けて洗礼を受けたとたんに別人のように信仰深い愛に満ちた人になり、個性を失って皆画一化された、いわゆる「クリスチャンらしい」人になる、なんていうことは、見渡したところ、私も含めて起っていません。そもそも「クリスチャンらしい人」なんていうのは、世間の人々が勝手に作り出している幻想に過ぎません。聖霊によって私たちは別人になるのではないし、個性を失うのでもありません。大きく変わるのは、私たちと神との関係です。しかも、私たちの神に対する関わり方が変わるのではありません。普段は神を無視して、邪魔しないでくれ、引っ込んでいてくれと思いつつ、困った時は助けてほしい、などと身勝手なことを思っている、それが私たちの罪ですが、その罪は私たちの持って生まれた性質であって、なかなかなくなりません。罪人である、という私たちの現実は変わらないのです。しかし、私たちの罪によって捻じ曲がってしまっている神との関係を、神の方が変えて下さるのです。私たちの罪を赦して下さることによってです。神を無視し、敵対している罪人である私たちに、神は大いなる愛を注いで下さり、私たちを赦して、ご自分の子として下さるのです。そのために神は、その独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。神の子である主イエスが、私たちの罪を全て背負って、十字架にかかって死んで下さったのです。この主イエス・キリストの十字架の死による救いによって、神は、ご自分と私たちの関係を全く新しくして下さったのです。神に敵対している罪人である私たちを赦して、ご自分の愛する子として下さったのです。つまり神は、独り子主イエスの十字架の死と復活によって、私たちに、「私はあなたを子として愛している、あなたは私の愛する子だ」と語りかけて下さっているのです。その語りかけを私たちの心に届け、信じさせて下さるのが聖霊です。聖霊のお働きによって、神に敵対していた私たちが、神の子とされて、神に「アッバ、父よ」と呼びかけて生きる者へと変えられるのです。

わたしたちの霊と一緒になって
 16節には不思議な言葉があります。「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」。主イエス・キリストの十字架と復活によって神が私たちを神の子として下さったことを、聖霊が証しし、示して下さるわけですが、その聖霊が、私たちの霊と一緒に証しをする、と言われています。それはどういうことなのでしょうか。神である聖霊と私たちの霊が一緒に何かをすることなどあり得るのでしょうか。難しい箇所ですが、しかし根本的に語られていることははっきりしていると思います。それは、神の霊が「あなたは私の愛する子だ」と証ししてくれる時に、私たちの霊、つまり私たち自身も、本当にそうだ、と分かると言うか、納得すると言うか、それが腑に落ちるのだ、ということです。聖霊が証しをしても、私たちの霊はそれを納得しない、ということにはならないのです。つまり聖霊が、「あなたは神に愛され、神の子とされている」と告げて下さることによって、私たちは、「神は本当に私を愛して下さり、子として下さっている」という確信を与えられるのです。その確信を与えられるから、神に向かって「アッバ、父よ」と呼びかけて祈ることができるのです。「お父ちゃん」と呼びかけることは、愛されている確信、信頼がなければできません。神が自分を愛し、子として下さっていることを確信し、信頼して「アッバ、父よ」と祈ることが聖書の教える信仰です。その確信、信頼は、私たちが努力や決意によって獲得するのではなくて、聖霊が私たちの内に起して下さるのです。聖霊は、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が私たちを子として下さっているという神の愛を証しして下さると共に、私たちの心に、それを確信させて下さる、それが、「この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます」ということの意味なのです。

奴隷としての恐れからの解放
 聖霊が証しして下さっている神の愛の内容が15節に示されています。15節には、「あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです」と語られています。聖霊が私たちを神の子として下さることによって、私たちは「奴隷としての恐れ」から解放されるのです。奴隷は主人に支配されており、その命令を行う義務を負わされています。奴隷としての恐れとは、主人の命令をちゃんと行うことができないと、主人の怒りを招き、罰せられてしまうという恐れです。そういう恐れによって主人は奴隷を支配しているのです。宗教が、それと同じ恐れによって人を支配する、ということがよくあります。この教えに従わないと、神の怒りを受けて裁かれて滅ぼされるぞ、という教えです。それは「人を奴隷としての恐れに陥れる」教えであって、そういう教えによって私たちは奴隷とされるのです。私たちが、神に人生を邪魔されたくない、引っ込んでいてくれ、と思うのは、神がそのように自分を奴隷として支配しようとしていると感じるからです。宗教は、人を奴隷としての恐れに陥れることによって支配しようとしている、という思いを私たちはどこかで持っているのではないでしょうか。確かにそのような教えがあることは事実です。しかし聖書が語っている、聖霊によって与えられる信仰は、私たちをそのような恐れに陥れるのではなくて、むしろそこから解放するのです。神の怒りによって裁かれることを恐れて、その裁きを免れるために信じる、というのは、神の霊によって導かれる信仰ではありません。神の霊は、神が罪人であるこの自分を赦して下さり、神の子として下さっていることを私たちに確信させて下さるのです。そして私たちがその神の愛を信頼して「アッバ、父よ」と祈ることができるようにして下さるのです。私たちは、神の怒りや裁きを免れるために信じるのではなくて、独り子を与えて下さったほどに、罪人である私たちを愛して、子として下さっている、その神の大いなる愛に動かされて、その神を自分も愛して、「アッバ、父よ」と祈りつつ、神と共に生きていくのです。つまり聖霊は私たちを、奴隷としての恐れから解放して、神の子としての喜びに生かして下さるのです。

まことの親子関係
 神が私たちを子として愛して下さっている。それは、だから何をしてもよい、神は自分のどんな我儘をも聞いてくれる、ということではありません。本当に子どもを愛している父は、子どもを甘やかして言いなりになることはありません。時として厳しく子どもを叱り、「だめなものはだめ」と言うのです。私たちを子として愛して下さっている父なる神は、私たちの言いなりになる方ではありません。私たちの罪に対して、時として懲らしめをお与えになります。私たちは、神の厳しさを体験することがしばしばあります。しかし、父が自分を愛してくれていることを知っている子は、叱られてシュンとなることはあっても、それで父への信頼を失って絶望してしまうことはありません。「ごめんなさい」と謝って、赦しを得ることができるのです。つまり、厳しく叱られたとしても、それは親が自分を愛してくれているからで、「お前なんか出て行け」とか、「もう子供ではない」と言われているのではない、自分はこの親のもとに居ていいのだ、ここが、自分が安心して居ることができる場所なのだ、ということを知っている、そういう信頼関係がそこにはあるのです。それが本来あるべき親子の関係、家庭のあり方です。弱い罪人である私たちは、このような本来あるべき親子関係、家庭を築くことがなかなかできないために、親も子も共に傷つき、苦しんでいます。しかし父なる神とその独り子イエス・キリストの間には、愛と信頼によって結ばれているまことの親子関係があります。「アッバ、父よ」という主イエスの祈りはそのことを示しています。父なる神と独り子主イエスの間のこのまことの親子関係に、神は私たちも加えて下さるのです。父なる神はそのために独り子主イエスを救い主としてこの世に遣わして下さったのです。そして主イエスはその父のみ心に応えて、私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。父なる神と独り子主イエスによるこの救いのみ業によって、私たちも、主イエスと共に神の子として、父なる神を愛し信頼して生きることができます。そのことを私たちの内で実現して下さるために、神は聖霊を私たちに注いで下さっているのです。ペンテコステに弟子たちに降り、今私たちの内にも宿って下さっている聖霊によって、私たちは、父なる神と独り子主イエス・キリストによる救いにあずかり、神の子とされて、「アッバ、父よ」と祈りながら生きていくことができるのです。

肉の思い
 ところでこの15節には、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく」とあります。「再び」と言われているということは、これまでにも、人を奴隷として恐れに陥れるものがあったということです。それが何かは、この8章を最初から読むことによって分かってきます。8章の3節には「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです」と語られていました。また7節には「なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」とありました。この第8章には、律法によって実現しなかったことを、神がなしとげて下さった、ということが語られているのです。つまりかつて人を奴隷として恐れに陥れていたものとしてパウロがここで見つめているのは、律法なのです。しかし律法は本来はそういうものではありませんでした。律法とは、神がイスラエルの民にお与えになった掟であり、その中心が十戒ですが、それは、神がイスラエルの民を、エジプトでの奴隷の苦しみから解放し、救い出して下さった、その救いの中で与えられたものです。つまり律法は、神によって奴隷状態から救われた者が、その神の救いの恵みの中で、喜んで神と共に生きていくために与えられたものだったのです。ところがイスラエルの民はその律法を次第に、これを守ることによって神の救いが得られるという、自分の力で救いを得るための条件として捉えるようになってしまったのです。そうなってしまうと、律法は、これを守れば救いを得られるが、守れなければ神の怒りによって裁かれる、というものになり、人を奴隷としての恐れに陥れるものとなってしまったのです。つまり律法は、イスラエルの民を奴隷の苦しみから解放して、神の民としての喜びに生かそうとしておられた神のみ心を実現することができなくなったのです。7節に「肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです」とあるのは、そのことを言っています。つまり「肉の思い」というのは、律法を、自分の力で救いを獲得するための条件として捉え、律法を守るという自分の良い行いによって救いを得ようとする思いです。

神の子としての喜びに生きる
 本日の箇所の12、13節は、このことを受けて語られているのです。そこには「それで、兄弟たち、わたしたちには一つの義務がありますが、それは、肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務ではありません。肉に従って生きるなら、あなたがたは死にます。しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」とあります。この「肉に従って生きなければならないという、肉に対する義務」とは、先ほどの「肉の思い」、つまり律法を守るという自分の良い行いによって救いを得ようとする思いによって生きることです。そういう義務を負って生きるなら、私たちは、奴隷としての恐れに陥るのです。「律法を守っているから自分は救われる」と誇ることと、「律法を守っていないあの人は神に裁かれる」と、神よりも前に自分が人を裁くこととは裏表であり一つです。また逆に「律法をちゃんと守れていない自分は神に裁かれて滅ぼされるのではないか」と恐れてビクビクすることも、どちらも、奴隷としての恐れに陥っている姿です。この恐れによって、「あなたがたは死にます」ということになるのです。「しかし、霊によって体の仕業を絶つならば、あなたがたは生きます」。それは、清く正しい生活をすれば、ということではなくて、聖霊によって、主イエスの十字架と復活による神の愛を証しされて、自分の良い行いではなくこの神の愛によってこそ救われると信じるなら、ということです。そこでこそ私たちは、奴隷としての恐れから解放されて、神に愛されている子としての喜びに生きることができるのです。「アッバ、父よ」とう祈りはその喜びの印です。私たちは、恐れによって私たちを奴隷として支配しようとしているいろいろな力から解放されて、独り子を与えて下さったほどに愛して下さっている神の子とされて、その神のもとで喜んで生きることができるのです。神の霊、聖霊は、洗礼によって私たちを、神の子として喜んで生きる者として下さいます。その喜びのもう一つのしるしである聖餐にこれからあずかります。そこにも聖霊が働いて下さり、神の子とされている喜びを味わわせて下さるのです。

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