夕礼拝

求める者

「求める者」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: イザヤ書 第7章10-17節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第7章7-12節
・ 讃美歌 : 175、249

求めなさい
 聖書の中には多くの慰めに満ちた、また励ましを与える御言葉があります。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」。というこの御言葉もまた聖書の中で最もよく知られている言葉の一つであり、また最も慰めと励ましを与える御言葉の一つであると言えるでしょう。聖書の中でも有名な御言葉であります。受験生の机の前に貼り出されていれば、この言葉を見ながら、「よし頑張るぞ」と元気を出すこともあるでしょう。この御言葉は私たちに、積極的に生きることを教え、励ましを与えます。聖書にある主イエス・キリストの御言葉は私たちに、積極的に生きることを教えているのです。
 しかし、この御言葉は大変有名なだけに、注意をして読む必要があります。私たちの人生の歩みは本当に、この御言葉の通りに求めれば何でも与えられるのか、探せば必ず見つかるのか、門をたたけばどのような門も開かれるのでしょうか。私たちはある目的や希望を持って努力していけば必ず願い通りに叶えられるのでしょうか。「求めなさい。そうすれば、与えられる。」という御言葉は決して人間がその気になれば、どんな事でも出来るのだ、ということを語っている御言葉ではありません。私たちの歩みは、求めれば何でも与えられたり、探せば何でも見つかったり、門をたたけば必ず開かれるというものではありません。私たちは多くの経験を重ねていく中で、このことを知っていきます。また一生懸命求めているものが与えられないというだけではなく、求めていない、こんなことは絶対にいやだと思っているようなことがむしろ起こってくるのです。9、10節には、「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか、魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とあります。私たちはパンを求めていたのに、石が与えられたりします。魚を願ったのに蛇が与えられるということがあります。自分が求めていたものの違うものが与えられるということがあります。
 この御言葉を注意して見ますと「求めなさい。そうすれば、与えられる」「門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」とあります。この「与えられる」と「開かれる」という言葉は、受動態、受身の形をとっております。つまり、与える、開く方が別におられるということです。求める者に与え、門をたたく者に門を開く方の存在があるということです。「探しなさい、そうすれば、見つかる」というのは受身の形ではないのですがが、先の二つとの関連で言えば、ここでも、探す者に与え、見出させて下さる方の存在が考えられます。求める者に与えて下さる方、探す者に見出させて下さる方、門をたたく者に門を開いて下さる方の存在があるということです。

与えて下さるお方
 求める者に与えて下さるお方とは誰なのでしょうか。求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開いて下さる方とは神様です。神様が与え、見出させ、門を開いて下さるから、「求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」のです。9、10節の御言葉も、求める者に対して与えるお方は神様であるということを示しております。9、10節「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか」とあります。ここでは、あなたがたは自分の子供がパンを欲しがっている時に石を与えるか、魚を欲しがっているのに蛇を与えるか、そんなことをする親はいないはずだ、と言っております。この御言葉は次の11節を導き出す言葉です。「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」。「あなたがたの天の父」とあります。「天の父」というお方がおられるということです。その父は、子であるあなたがたに必ず良いものを下さる。あなたがたは悪い者、罪ある者、問題や欠けを多く持った者であっても、自分の子供にはできるだけ良いものを与えようとするではないか。まして、天の父であられる神様、完全であり全能であられる方が、子として愛していて下さる私たちに良いものを与えて下さらないはずはないのだ。主イエスは私たちの目をこのように、天の父なる神様に向けさせようとしておられるのです。

本当に良いものを与えて下さる
 ここで、注目をしたいのは人間の親の姿から天の父なる神様のお姿が類推されているということです。神様は天の父だ、私たちはその子どもであり、人間の親が子に良いものを与えるように、天の父なる神様は私たちに良いものを与えて下さるのだ、というのです。人間の親は子供に良いものを与えようとしていると言えるかもしれません。しかし人間の親は子供のために本当に良いものが何かを知っているでしょうか。また、それを与えることができるでしょうか。良いものを与えようと思ってはいるけれども、本当に良いものを与えることができているとは限りません。私たちは、良いとは思ってはいても、パンの代わりに石を与えたり、魚の代わりに蛇を与えたりしてしまっていることがあるのではないでしょうか。人間の親とは、人間とはそのように不完全であり、罪ある者なのです。ですから、私たちの姿を天の父なる神様にそのままあてはめることはできません。人間の親がこうだから神様もこうだ、とは言えません。人間は罪ある者ですが、神様には罪はありません。神様は天の父として、子供である私たちに良いものを与えて下さる。私たちはそのお姿に親としての本当のあり方、倣うべき手本を見出せるのではないでしょうか。私たちは悪い者であり、不十分な者であり、何よりも罪深い者であるけれども、このまことの父であられる神様を信じる時に、親としての本当のあり方を示され、教えられていくのです。

誰に求めるのか
 天の父なる神様が、私たちに本当に良いものを与えて下さる。私たちが天の父なる神様によって与えられるもの、見出すもの、開けてもらえる門とは本当に良いものなのです。神様が、天の父としての恵みのみ心によって子どもある私たちに与えようとしておられる良いものなのです。私たちはその良いものを受け取るのです。このことは私たちが自分の欲しいものを何でも手に入れることができる、ということではありません。私たちの望みや願いが何でもかなう、という話ではないのです。私たちは自分ではパンと信じ込んでいるものが、実は石であることがあるのです。主イエスはそのようなことを教えられたのではありません。むしろ主イエスがここで私たちに教え、与えようとしておられるのは、「求める者に良いものを下さるに違いない」天の父なる神様との交わりです。天の父なる神様との交わりとは、神様が私たちに本当に必要な、良いものを与えて下さる、ことを信じて、この神様の下で生きることです。主イエスはこの神様に向かって、いつも「求めつつ、探しつつ、門をたたきつつ」生きることを教えておられるのです。つまり、私たちが求め、探し、門をたたく、その相手が大事なのです。本当に求めるべき、探すべき、門をたたくべき相手を知り、その方に、求め、探し、門をたたきつつ生きるところにこそ、良いもので満たされていく人生が与えられるのです。

神との交わり
 既に6章32節で神様が天の父として、私たちに必要なもの、良いものを与えて下さる、とありました。6章32節では「何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い悩むな」と教えています。私たちの日々の生活には、このような様々な思い悩みがあります。その中で、神様は本当に私たちに必要ものをすべてご存じであります。私たちに本当に必要なものを与えて下さる天の父を信じて、その父の子として生きていくところには、思い悩みに潰されない歩みがあります。本日のところも同じことが教えられていると言えます。良いものを与えて下さる天の父のもとで、その子として生きるところに、本当に希望をもって積極的に、求め、探し、門をたたきつつ生きる歩みが示されます。
 私たちが本当に希望をもって求め、探し、門をたたきつつ生きるために必要なことは、天の父なる神様との交わりであります。この自分が神様の子どもとして愛されていることを知ることです。それでは、私たちは何によってこのことを知ることができるのでしょうか。それは、この教えを語って下さった主イエス・キリストによってです。主イエスこそ、神様の独り子であられ、神様を父と呼ぶことができるただ一人の方なのです。その主イエスが、人間となって私たちのところに来て下さり、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さりました。そして復活されて、新しい命の先駆けとなって下さいました。神様はこの独り子主イエスによって、私たちをもご自分の子として下さり、私たちの天の父となって下さったのです。主イエスがご自分の父なる神様を「あなたがたの天の父」と呼んで下さっているから、私たちも神様を父と呼ぶことができるのです。神様が私たちに与えて下さる良いもの、その第一のもの、中心は主イエス・キリストであります。ローマの信徒への手紙第8章32節に、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」とあります。神様はその御子を私たちのために死に渡して下さったのです。そのようにして私たちを子として愛して下さっているのです。それゆえに私たちに必要なものはすべて必ず与えられるのです。神様が私たちに良いものを与えて下さるとはこういうことなのです。

祈ること
 そのように神様が天の父として良いものを必ず与えて下さるのであれば、求めたり、探したり、門をたたいたりしなくてもよいのではないか、何故わざわざ「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われるのか、と思うかもしれません。確かに、神様が天の父として、子である私たちに良いものを与えて下さるというなら、それは私たちが求めたら与える、求めなければ与えない、ということではないはずです。主イエスは、「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」と言われます。そこに、この教えのもう一つの大事なポイントがあると言うことができると思います。天の父なる神様に対して、求め、探し、門をたたくことが大事なのです。それは、祈ることです。主イエスはここで、求める者に与え、探す者に見出させ、門をたたく者に門を開いて下さる方に私たちの目を向けさせようとしておられると申しました。それは具体的には、私たちがこの父なる神様に祈ることなのです。「求める、探す、門をたたく」というのは、自分の望んでいることを得るために努力をする、ということではなくて、神様に祈ることです。私たちは祈りの中でこそ、天の父なる神様に対して求め、探し、門をたたくのです。ですからこの教えは、祈りへの勧めであると言えます。神様は、私たちが祈って求めることに対して、豊かに応えて下さる方なのです。

祈ることを求めておられる
 しかし、私たちが祈れば、神様はそれに応えて何でも与えて下さるということではありません。また、祈らなければ神様は何も与えて下さらない、ということでもありません。祈りは、神様を動かすためのものではないのです。私たちは祈りによって神様から良いものを獲得するのではないのです。神様は天の父としての愛によって子どもである私たちに、良いものを与えて下さいます。それが主イエスによって示されている天の父なる神様のお姿なのです。その父なる神様が、私たちに、祈ることを求めておられるのです。私たちが神様に祈り求めることを願っておられるのです。神様が私たちの祈りを待っておられるのです。祈りとは私たちと神様との間の対話です。神様との対話、祈りによって交わりが生まれるのです。神様は私たちとの間にそういう対話、交わりを持つことを願っておられるのです。「求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい」という教えはその神様の願いの表れです。神様は私たちが求めなくても、探さなくても、門をたたかなくても、良いものを与えて下さるのです。しかし神様は、私たちがご自分に向かって求め、探し、門をたたくことを喜んで下さるのです。祈りとはそういう神様との交わりに生きることです。ですから私たちは、祈らなければならないのではありません。祈らなければ神様の恵みをいただけないのではありません。私たちは、良いものを与えて下さる天の父に祈ることができるのです。語りかけ、願い求めていくことができるのです。6章において、主の祈りが教えられたところもそれと同じ流れでした。8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」と言われています。それなら、祈らなくたってよいではないか、となるところを、「だから、こう祈りなさい」と主の祈りが教えられたのです。私たちに必要なものをすべてご存じであり、それを必ず与えて下さる天の父なる神様を見つめる時に、私たちは、祈ることができるという幸いを与えられるのです。神様が私たちの祈りを待っておられるのです。

黄金律
 主イエスは最後の12節において語ります。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。この教えは、主イエスが私たちに、日々どのように生活すべきかについて教えておられることの中心であり、まとめであると言えます。また「これこそ律法と預言者である。」とあります。主イエスは旧約聖書以来の律法や預言者の教えを廃止するために来られたのではなく、それを完成するために来られたお方です。律法と預言者の教えの本当の意味を教え、それを完成させる主イエスの教えがここでしめくくられているのです。そのような、この教えの特別性を意識して、この12節の教えは、「黄金律」と呼ばれてきました。黄金の教え、教えの中の教え、最も代表的な教え、すべての教えの中心に位置する教えということです。この教えは、主イエス・キリストを信じていなくてもよくわかる教えであると言えます。信仰を持っていないという人も、この教えはその通りだと納得するのです。そのような誰にでもわかり、納得されるという普遍的な価値を持った教えという意味で、黄金律と呼ばれるのです。しかし、この教えは主イエスが語られるときに本当の意味を持つのです。主イエスは倫理道徳の教えているのではありません。主イエス・キリストは私たちの罪を赦すために十字架へと赴かれた救い主です。この教えも、この主イエスとの交わりに生きるための教えです。この主イエスを通して、天の父なる神様の下で生きるためです。天の父なる神様の子となるということなのです。天の父なる神様が、私たちを子として愛していて下さり、養い、導いていて下さる、その父の愛と守り導きのもとに子として生きていくところに、新しい生き方が示されるのです。この御言葉を受けて「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と教えられるのです。主イエスは私たちのために全ての恵みのみ業をして下さいました。そして私たちは、天の父なる神様の愛と恵みの下で生きる者とされたのです。

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