「その心は」 伝道師 乾元美
・ 旧約聖書:イザヤ書 第29章13-21節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第7章1-13節
・ 讃美歌:149 、505
<神に従うために>
今日出て来る「ファリサイ派」や「律法学者」というのは、ユダヤ人の指導者たちで、人々が律法に従うことが出来るように指導する人々です。
ユダヤ人は、自分たちを選び、救い出して下さった神の「み言葉」に従うことを、とても大切にしてきました。神のみ言葉は、「律法」という形で与えられました。今日の聖書箇所の言葉で言うと、「神の掟」です。
それは、神に選ばれた民が、神のものとして、神との正しい関係の中で歩んでいくために与えられたものです。神との正しい関係に生きること。神の御心に従うこと。これが、神の掟、律法の目的です。
ところが、主イエスの時代のユダヤの人々は、神の掟を守ることを大事にしすぎて、いつの間にか、本来の目的や意味を見失ってしまい、掟を守ること自体が目的のようになってしまっていたと言われています。
彼らは、自分たちの国、つまりイスラエルとユダの国が滅ぼされてしまうという、大きな出来事を経験しました。そして、自分たちがそのようになってしまったのは、神に背いたためであり、また律法を守らなかったからだ。だから、さらに厳格に律法を守らなければ、と考えました。
神の律法に、熱心に従おうとしたこと自体は間違いではありません。
ところが、その律法を知らず知らず破ってしまうことのないように、その律法を守るための人間による規則をたくさん作るようになりました。それが今日のところで「昔の人の言い伝え」と言われているものです。「言い伝え」は、聖書には書かれていないことであり、聖書の律法を解釈したり、実践するために、ユダヤ人の指導者たちによって考えられ、伝えられてきたものでした。
神の民であるユダヤ人が、神に背き、御心に従って歩むことが出来なかったことは、確かな事実でした。
しかしだからと言って、律法をちゃんと守ることで、その罪が神に赦され、すべてチャラに出来るかというと、そうではありません。何をしても、人は自分で自分を清くすることはできないのです。罪の赦しは、人が神に何かを差し出すことで得ることが出来たり、自分の努力で掴み取ったりできるものではありません。ただただ、神の憐れみによって、与えられるしかないものです。神によって清くしていただくしかないのです。求められているのは、そのことを願い、神のもとに立ち帰ることです。
そして、まさに神は、人々を立ち帰らせ、罪の赦しを与えるために、ご自分の独り子である主イエスを、人々のところに救い主としてお遣わしになったのでした。
でも、ユダヤ人たちは、言い伝えで、生活も、そしてその心も、がんじがらめになっていたのです。そして、神の御心が見えなくなっていたために、神がお遣わしになった主イエスのことも受け入れることが出来ず、却って主イエスを攻撃するようなことになったのです。
<ファリサイ派と律法学者たち>
今日の箇所である7:1には、「ファリサイ派の人々と数人の律法学者たちが、エルサレムから来て、イエスのもとに集まった」とあります。
「ファリサイ派」「律法学者」とは、先ほど言いましたように、人々が律法を守る生活を送るように指導する立場の人々です。またファリサイ派は、律法学者の中でも特に厳格に律法を守るグループのことです。彼等は人々が律法に従うように教え、また自分自身が人々の模範となるように、厳格に律法に従う生活を送り、人々の尊敬を集めていました。さらに、エルサレムというのは、ユダヤ人の信仰的な中心地であり、そのエルサレムの律法学者たちというのは、特に権威のある人々でした。
ところが、主イエスが人々を教え、導き、御業を行なって評判が広まると、彼らは主イエスを邪魔に思うようになってきました。
主イエスは、神の御子です。当然、父なる神の御心を、最もよくご存知です。主イエスは、そのまことの神の御心を、人々に教えておられます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と教え、神に立ち帰り、救いに与るようにと招いておられます。
しかし、その主イエスの教えや、行なっている業が、律法学者たちからしてみると、神の律法を破っているのではないか、と思われたのです。それで、彼らは主イエスを非難したり、攻撃したりしました。しかし、主イエスを退けることは出来ず、却って自分たちの弱いところが晒されていったのです。
例えば、安息日には仕事をしてはいけない、と律法に定められているのに、主イエスは安息日に癒しの御業を行なわれたことがありました。
これは確かに、字面通りに律法を読むなら、違反であったかも知れません。
しかし、主イエスが苦しむ人を癒されることは、神の御心に逆らうことだったのでしょうか?主イエスは、「安息日に律法で許されているのは、善を行なうことか。悪を行なうことか。命を救うことか。殺すことか」と問われました。
安息日の律法は、本来、神との交わりに与り、神の救いの恵みを思い起こすために与えられたものです。しかし形式的に、ただその日に仕事をしてはならない、ということを重んじているために、なぜその律法があるのか。神が安息日を守ることで、何を望んでおられるのかが、分からなくなっているのです。
ファリサイ派の人々は、主イエスの問いに答えることが出来ませんでした。しかし、思いを改めるのではなく、むしろ、自分たちの権威を傷つけられたと思い、主イエスを殺すことを考え始めたのです。そんな彼らが、主イエスのもとに集まってきました。
<手を洗わない>
今回、律法学者たちが見つけた主イエスの攻撃材料は、主イエスの弟子たちが食事の前に手を洗っていない、ということでした。弟子たちの規則違反です。
なんだそんなことか、と思うかも知れませんが、これは、外に出かけたらばい菌が付いているから、家に帰った時や、食事の前には、手を洗って清潔にしましょう、という衛生的な手洗いの問題ではありません。これは、宗教的な「汚れ」を遠ざけ、自分を「清め」るために必要な手洗いです。
最初に申し上げた通り、ユダヤ人は、神に選ばれた聖なる民です。「聖なる」というのは、聖書の「聖」ですが、これは清らかとか、正しいというような倫理的なことではなくて、「聖なる神のものである」、「神に特別に選ばれ、分かたれたものである」という意味です。つまり、神との関係における事柄なのです。聖なる神との関係にあるからこそ、民は「聖なる民」となるのです。
神の民は、心が清く、行いが正しいから「神の聖なる民」になったのではありません。弱くて、間違いだらけで、立派ではなくても、神が選び、ご自分のものとして特別に取り分けて下さったから、「神の聖なる民」になったのです。
ですから、「聖を汚す」というのは、神との関係を破壊する、という意味だと言ってよいでしょう。
しかし、いつの間にか、その「聖」が自分たちのもののようになり、自分たちが律法を守ることで、自分の「聖」や「清さ」を保とうとするようになりました。そのために、律法に違反する「汚れ」を徹底的に遠ざけ、律法を守ることが出来ない人々との交わりも絶ち、自分たちを清いものとして区別しました。
そうすると、神に聖くされること、つまり神の「救い」は、神によって与えられるものではなく、自分自身の正しさによって、自分の清さによって、得るもののようになっていってしまいます。
努力して救いが与えられるなら、分かりやすいし、自分が完ぺきだと思える人は安心です。でももし手落ちがあったり、律法を破ってしまったら、その救いから落ちてしまうのですから、自信がない人は心配になるし、不安になります。それで、彼らの生活は潔癖なほどに汚れを遠ざけようとするものになりました。
律法を知らない「異邦人」と呼ばれる人たちと関わると、彼らの「汚れ」が自分に降りかかるから、交わらないようにしました。罪人や異邦人が触れたものに、知らずに触れてしまっただけでも、自分まで汚れてしまう、と考えられていたのです。
それで、ユダヤ人は知らない間についてしまった汚れにも対処できるように、「言い伝え」を作りました。律法に違反しそうなことも事前に回避できるように、実際には律法では禁じられていない事柄も定めて、「言い伝え」として代々守ってきました。それらの数は膨大で、人々の生活をがんじがらめにしていました。
今回のものも、その一部で、決まった作法で食事前に念入りに手を洗い、そのような「汚れ」を遠ざけようとしたのです。
市場に出たなら、お金を使いますが、それはどこかで異邦人が使ったお金かも知れません。外で食事をしたなら、そこの器は、罪人が使った器だったかも知れません。だから、食事の前には念入りに手を洗ったし、市場から帰ったら、身を清めて汚れを落としてから、食事をして、自分の清さを保ったのです。
これらを守るのは、神の民、ユダヤ人の「義務」であり、守らない者は「汚れた者」とされて、共同体のはみ出し者とされました。
これらを指導する律法学者にとっては、「言い伝え」を守ることこそ、救われる神の民にふさわしい、清く正しいことであり、それを守れない人々は彼らの裁きの対象になったのでした。
彼らは主イエスに問いました。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」
<その心は>
主イエスは、そのことを厳しく批判なさいました。律法学者たちは、本来、神が求めていることを見失ってる、と指摘したのです。
6節以下に、こうあります。「イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、/その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、/むなしくわたしをあがめている。』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」
このイザヤの預言は、今日お読みした旧約聖書の箇所から来ています。
「偽善者」という言葉は、ギリシア語では「俳優、役者」という意味があります。人の目にはよく見せようと、敬虔そうに、神に従っているように振る舞っているが、それは演技であり、心の中では本当に神に従っていない、ということです。
口先では神を敬い、あがめているが、教えているのは自分たちの思いによって作った戒めであり、その心は神から遠く離れてしまっているのです。
それは、神の掟に従うどころか、むしろ神の掟を捨ててしまうことになっている。自分たちの正しさを主張し、誇り、一方でそのことによって人を裁いている。神が望んでおられることを忘れてしまっている、と主イエスは指摘なさったのです。
わたしたちも、実は教会生活において、同じようなことがあるのではないでしょうか。神の求めておられること、神の御心を見失って、表面的、形式的なことに捉われたりする。自分の思いで人を裁いたり、批判したり、自分の正しさによって自ら立とうとしている、ということが、あるのではないでしょうか。
<父と母を敬え>
さて、さらに、主イエスは9節以下で、具体的な例によって、律法学者たちが「口先では神を敬っているが、その心は遠く離れている」という矛盾した状態を明らかにしようとされます。彼らが自分たちの「言い伝え」を固く守り、さらにはそれを利用して、「神の掟」をないがしろにしている、というのです。
それは、モーセの十戒の中の第五戒、父と母を敬え、という戒めであり、「父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである」とあるほどの、厳しい戒めです。ユダヤ人には、両親を敬い、大切にする義務がありました。
ところが、「言い伝え」によれば、両親を養ったり支えたりするためのものを、何でも「コルバンです」、つまり、「神への供え物です」と言えば、それを両親のために用いなくてもよい、とされていました。
これは一見、両親よりも、神の方をより大切にしているのです、と言っているようですが、実際には、神をダシにして、両親への義務を免れようとすることです。
主イエスは、「こうして、あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている。」と指摘なさいました。
神に対する敬虔な態度のように見せかけて、実際には、神が望んでおられることを無視している。神に言葉に従うために造られたであろう「言い伝え」が、むしろ、神との関係に正しく生きるための「神の言葉」を、まったく無にしてしまっている、というのです。その心は、神から遠く離れているのです。
神はそのようなコルバン、供え物を喜ばれません。
本当に神が喜ばれるのは、まさにその心を神に向けて、自分自身を献げることであり、神の御心を知って、それに従って生きることなのです。
<神の求めておられること>
神のみ言葉に従って生きることは、決して窮屈なことや、がんじがらめにされることではありません。ましてや、人を裁いたり、非難したりする生き方ではありません。
むしろ、神に従うことは、人をもっとも自由に生かすものであるはずなのです。
神が語って下さるみ言葉とは、神がわたしたちを愛して下さっているということ、わたしたちを救って下さるということです。
そして、わたしたちが、神に従うということは、その神の愛を受け入れ、その愛にお応えする、ということなのです。わたしたちも神を愛し、また、神が愛しておられる隣人を、わたしたちも愛して生きるということなのです。
神の律法は、このようにわたしたちが神の愛に生きるために与えられているものです。
まず神は、愛するわたしたちのためなら、何でもして下さいます。わたしたちが神のもとに立ち帰り、神の恵みのもとで、神とともに喜んで生きるためなら、神は何でもわたしたちに与えて下さるのです。
その神のわたしたちへの愛の極みとして与えられたのが、神の独り子、イエス・キリストです。この方が、わたしたちの罪を背負って十字架で死んで下さったことによって、わたしたちに罪の赦しが与えられたのです。また、十字架の死の後に復活させられたことで、わたしたちにも、罪による滅びではなく、罪を赦された者としての新しい命が与えられることを、示されたのです。
神の救いが実現した今や、わたしたちは、ただ、主イエスの十字架による罪の赦しと、復活による永遠の命を信じることによって、神のもの、神の聖なる民とされます。
わたしたちは自分の中に、清さや、正しさ、救われるための良いものを、一切何も持っていません。ただただ、神に逆らい、罪を犯すばかりです。
しかし、ただ神の愛によって、神の選びによって、神のものとされ、キリストのものとされ、罪を赦されたもの、清いものとしていただくことができるのです。
この、わたしたちに対する神の御心を知っているならば、主イエスによって神との正しい関係に生きることがゆるされるならば、わたしたちは、神のもとで、本当に自由に生きること出来るのです。
大切なことは、主イエスの十字架と復活に現わされた神の愛を、受け入れ、お応えするものであるかどうか、ということです。
そうであるならば、食事前に手を洗わないからといって、どうということがあるでしょうか。この神の愛に応えることとは、手を洗うことなのでしょうか。器や寝台を洗うことなのでしょうか。決まりごとを守り、人を批判することなのでしょうか。
そうではないのです。神の言葉に従うというのは、そのような形や決められたことを守ることではなくて、神に対して、人に対して、神からいただいた愛をもって生きる、ということなのです。
神の愛を心に留めているなら、他のことは、守っても良いし、守らなくても良いのです。それは、ルールを破って、何でも好き勝手にして良い、という意味ではありません。どんな場合でも、神に喜ばれる方、隣人を生かし大切にする方を選択していく、ということです。
時に自由は、どのように判断すればよいか難しいことがあります。でもわたしたちには、神の愛に応えるものであるかどうか、という明確な基準が与えられているのです。神を愛し、隣人を愛する。その道の中であれば、他はどんなことでも自由です。
わたしたちを聖なる神のものとして、神との正しい関係の中において下さるのは、わたしたちの正しさや、清くあることの努力によるのではありません。わたしたちを選び、一方的に恵みを与えて下さる、神の愛によるのであり、そのために、神がわたしたちの罪を清めるために遣わして下さった、神の御子イエスの十字架と復活の救いの御業によるのです。
わたしたちはこの神の愛を受けて、主イエスの御許で生きる時にのみ、まことに自由に、活き活きと、感謝と喜びをもって生きることが出来るのです。