夕礼拝

心を向ける

「心を向ける」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:マラキ書 第3章19-24節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第1章1-8
・ 讃美歌:202、492

<心を向けるべき方向>  
 今、わたしたちの「心」は、どこを向いているでしょうか。今、どこに自分の心が向かっているでしょうか。
 「心」というのは、聖書ではその人全体、魂も体も人格も含めた、その人そのものを表します。ですから、これは、わたしたちの人生、生きることそのものが、どこへ向いて、どこへ向かっているのでしょうか、と言いなおしても良いかもしれません。

 自分の願いや目標を実現することに向っているかも知れません。先が見えなくなって、人生が今どこに向かっているか分からない、という方もあるかも知れません。「人生の路頭に迷う」などという言葉もありますが、自分がなすべきことが分からない時は、漠然とした不安を感じたり、自分が存在している意味はなんだろう、と深刻な問いを抱いてしまいます。目標を持っていても、思いもよらない形で挫折したり、思いが叶わないこともあります。
 人はいつも、自分が向かうべき方向を探しているし、それをはっきり決めたい、と思っているのではないでしょうか。それを見つけた、と思っている人もいれば、見つからない、と悩み苦しんでいる人もいるし、波風立たなければ何でもいい、という人もいるかも知れません。

 しかし、神は、そのようなわたしたちに、いつも、わたしたちの心を神に向けるようにと、呼びかけておられます。神に向かって生きなさい、と言われているのです。自分の願いや、苦しみや、世の出来事に振り回されて、あっちこっちへ行くのではなく、あなたの造り主のもとに来なさい。あなたを愛しているわたしのところに来なさい、そこで、神と共に歩んでいきなさい、と呼びかけておられるのです。

 この神の呼びかけは、旧約聖書の時代から、このマルコの時代、そして、今のわたしたちにも呼びかけられ続けていることです。わたしたちは、この神の御声の方へと、心を向けていきたいと思います。

<旧約と新約の橋渡し>  
 さて、先週から聞き始めました、マルコによる福音書は、新約聖書の四つある福音書の中でもっとも古く、一番最初に書かれたものだと考えられています。
 マルコ1:1には、「神の子イエス・キリストの福音の初め」とあります。「福音」というのは「良い知らせ」、「戦いの勝利の知らせ」です。人々にもたらされる、そのような「良い知らせ」こそ、イエス・キリストというお方であり、福音がここから始まる、とマルコは書き始めました。

 ところがマルコは、イエスさまのご降誕や、イエスさまの出来事から語るのではありません。まず、2節にあるように「預言者イザヤの書にこう書いてある」といって、イエスさまが来られる前の、旧約聖書の時代、イスラエルの民に、神が預言者を通してお与えになった約束から書き始めたのです。
 それは、このように書かれています。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
 そして、「そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」、と記します。つまり、神が与えられた「主が来られる前に使者が来て、道を整える」という預言、約束が、洗礼者ヨハネという人物が現れることによって実現した、ということです。
 そして、「主」より先に遣わされる使者である「洗礼者ヨハネ」が登場したということは、この後にいよいよ「主」が来られるのだ、ということを人々に示します。
 その「主」こそ、福音である方、神の子「イエス・キリスト」なのです。

 この洗礼者ヨハネのことを預言しているのは、マルコの1:2では「預言者イザヤ書の書」と書かれていましたが、厳密に言うと、2節の部分はマラキ書3:1と出エジプト記23:20からの引用で、3節がイザヤ書40:3の引用になっています。

 マラキ書というのは、本日お読みした旧約聖書の、一番最後に納められている書物です。まさに、旧約聖書の時代の最後の預言です。
 先ほど、引用されているとお伝えした、マラキ書の3:1をお読みすると、「見よ、わたしは使者を送る。彼はわが前に道を備える。あなたたちが待望している主は/突如、その聖所に来られる。あなたたちが喜びとしている契約の使者/見よ、彼が来る、と万軍の主は言われる。」と書かれています。この「見よ、わたしは使者を送る」と預言されているのが、洗礼者ヨハネである、とマルコは言っているのです。

 また、この最後の書物の最後の部分には、主の日、裁きの日が来る、ということが述べられています。本日お読みしたところですが、マラキ書の3:23にはこのようにあります。「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」
 預言では、大いなる恐るべき主の日の前に、預言者エリヤが遣わされる、と言われていました。

 預言者エリヤというのは、旧約聖書で、イスラエルの国が南北に分かれていた時代に、北王国に遣わされた、偉大な預言者です。彼は、神から離れ、他の虚しい神を拝もうとするイスラエル王国に、まことの神に立ち帰るようにと語り続けました。そして、最後は生きたまま、天に上って行った、と聖書に記されています。(列王下1:11)
 ですから、主の日、主が来られる前に、エリヤは民を神のもとに立ち帰らせるために再び現れる、と預言されていたし、また人々にもそう信じられていたのです。

 そして、マルコ1:6では、洗礼者ヨハネは「らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた」とあります。この独特のスタイルがまた、エリヤと全く同じでした。
 旧約聖書の列王記下1:8には、王さまが、家来に「あなたたちが会ったのはどんな男か」と尋ね、彼らが「毛衣を着て、腰には革帯を締めていました」と答えると、「それはエリヤだ」と言った、という場面があります。つまり、この毛衣と革帯というスタイルを聞いただけで、だれもが「それはエリヤだ」と分かったのです。

 ですから、この旧約聖書の最後のマラキ書の、道備えをする者、預言者エリヤの登場の預言は、最初の福音書の冒頭に登場する、洗礼者ヨハネをまさに指し示し、旧約聖書の神の約束の時から、新約聖書の約束の実現の時への橋渡しをしているのです。こうして、民に与えられた預言、神の約束がいよいよ実現し、神の救いのご計画が新しく動き出すのだ、主の日が来るのだ、ということを明らかにしているのです。

<罪の赦しのための悔い改めの洗礼>  
 さて、そのように、神のご計画がいよいよ実現する時に、主の道を整えるために、洗礼者ヨハネが行ったこととは、一体何だったでしょうか。
 1:4には、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。

 まず、「罪の赦しを得させるため」とあります。この「罪」は、わたしたちが普段ニュースなどで触れるような犯罪を犯すことや、ルールを破ること、良心が痛むことをしてしまうこと、などを指しているのではありません。もしそういう意味であれば、多くの人が、「わたしは罪を犯したことはない、罪人などではない」と、言うことが出来るでしょう。

 しかし、聖書に出て来る「罪」という言葉は、「的を外す、それる」という意味です。つまり、本来向かうべきところに向いていない、外している、ということです。
 そして、これは神さまとの関係において的を外す時、「罪」と言われるのです。

 神さまは、ご自分が呼びかければお応えすることが出来る、そのようなものとして、人間を造って下さいました。神との関係を持つものとして、人は創造されたのです。そして、そのような神さまとの関係に生きることこそ、もっとも人間らしく、もっとも自然で、もっとも幸いな人間の姿です。
 しかし人は、神に従うより、自分自身の思いに従おうとし、神から離れて自分を神のようにしたり、神ではないものを神としたりして、本来まことの神だけを見つめるべき眼差しを、外してしまっています。神から反れている、それが、すべての人間が陥ってしまっている「罪」なのです。また、そうして神との関係が壊れ、自己中心的になっていることによって、隣人、人間同士の関係もまた、壊してしまうのです。

 ですから、人の中の一体誰が、「わたしは罪人ではない」などと言えるでしょうか。誰しもが、神を忘れ、神に背を向け、自分の思いばかりを叶えようと、自分にばかり思いを寄せているのです。それが神に対する人の罪です。

 その「罪の赦しを得させるために」、ヨハネは「悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあります。ここに「悔い改め」という言葉が出てきます。聖書の「悔い改め」というのは、またわたしたちの普段の使い方のように、失敗したことなどを後悔して、反省して、心を改める、という意味ではありません。これは「方向を変える」という意味です。「回心」とも言いますが、「心を改める改心」ではなく、心がくるっと回る、回転するという意味の「回心」です。

 どこからどこへ、心の方向を変えるのでしょうか。それは、それぞれが、自分勝手な様々な思いに向かい、神からそれてしまい、的を外してしまっているところから、正しく、神の方へと方向を向き直ることです。神の方をしっかり向く、ということです。ヨハネは、そのしるしのための「洗礼」を宣べ伝え、多くの者たちに授けたのです。

 これが、主が来られるための準備であり、道備えでした。
 人々の心を、しっかりと神の方向へ向けるのです。
 そこに、神の子イエス・キリストの福音が始まるのです。神との正しい関係に招くために、十字架の死と復活による、すべての人の罪の赦しの出来事、御業が起こるのです。
 神の方を向かずして、この神の救いの御業を受け入れることは出来ません。そっぽを向いて、他の虚しいものを神として慕っているまままで、自分が神のように振る舞っているままで、まことの神を神として拝むことなどできません。また、まことの神がご自分の御子の命によって背いたわたしの罪を赦して下さった、などということを信じることは出来ないのです。
 ですから、罪の赦しを得るために「悔い改める」ということと「福音を信じる」「主イエス・キリストの救いを信じる」ということは切り離すことが出来ません。
 主イエスご自身も、このあと宣教に出られる時に、マルコ1:15にあるように「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と宣べ伝えられたのです。

<神との関係>
 この「悔い改める」ことは、旧約聖書で言えば「立ち帰る」という言い方になりますが、神は、旧約聖書の時代から、ご自分に逆らう民が、裏切っても、背いても、反逆しても、愛をもって、忍耐を持って、民が悔い改め、ご自分のもとに立ち帰ることを求め、待っておられました。

 神はご自分の民を、またお造りになったすべての人を、深く深く愛しておられます。
 神と民との関係は、時に旧約聖書において、結婚にたとえられました。神は、民と契約を結び、神との交わりの中、神の祝福と愛を受けて、神と共に生きる者として下さいました。しかし民は不義を重ね、夫である神への裏切りを繰り返すのです。それでも神は、ご自分の愛に立ち帰るように、契約に立ち帰り、神との交わりの中に戻ってくるようにと、呼びかけ続けて下さいました。
 また、神と民は、父と子の関係にたとえられました。父は、子を教え、養い、保護する存在として語られています。父なる神は、無力で何もできない子である民に、いつも愛の眼差しを注ぎ、心にとめ、一方的に、生きるために必要なすべてを備え、与えて下さる方なのです。

 神に逆らうということは、そのような神の愛を無視すること、結んで下さった関係を破壊するということです。神はそのような民の背き、そしてわたしたちの裏切りに対して、激しくお怒りになります。そのために滅ぼされてしまう、死をもってしても償えないほどの罪なのです。

 しかし神は、ただただ、愛と憐れみによって、わたしたちをお見捨てにならず、人が契約に誠実ではなくても、神が徹底的に誠実になって下さり、結んだ契約をお忘れにならずに、人が悔い改めて、神のもとに立ち帰ることを、心から望んで下さるのです。

 そのために、神は罪の赦しを与える新しい契約を立てて下さいました。それが、イエス・キリストによる救いです。人々が神に立ち帰って、滅びないで、救いにあずかることが出来るように、神と共に、正しい、喜びの関係の中を生きていくことが出来るようにと、神は御自分の独り子の命によって、わたしたちの罪を完全に贖い、新しい命に生かして下さろうとするのです。

 わたしたちの神とは、このような方です。熱烈な愛を持って、向かってきて下さる方なのです。わたしたちのために、何でもして下さる方です。ですから、神は、わたしたちも、その愛にお応えして、愛を受け取って、神に向かうことを求めておられます。罪を犯してしまったご自分の愛する民が、わたしたちが、ご自分のもとに帰ってくるのを、忍耐強く、愛を持って、招き、促し、求めて下さるのです。この神の愛が最も現わされているのが、神が遣わして下さった救い主、神の御子、主イエス・キリストというお方であり、そのご生涯なのです。

<キリストは神の愛>
 本日読みました、マラキ書の冒頭、1:2を見てみて下さい(旧1496頁)。「わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と」というように始まっていきます。

 神は、イスラエルの民を、先ほどお話ししたように、深く熱烈に愛し、守り、導いて来られました。それなのに、民は、自分たちの現状や、世界の情勢や、思い通りにいかない現実の中で、生かして下さっている神の愛を見つめず、むしろ神に不信感を持ち、神のご支配に疑いを抱き、神に従順に仕えることは意味がないのではないか、という思いを抱いているのです。神に対して、この現実の中ではあなたの愛が分かりません、と言うのです。現実の厳しさ、苦しみ、虚しさに目がすっかり覆われて、まっすぐ神を見つめることが出来なくなり、神の語りかけに、ああ言えばこう言う、という感じで反論していくのです。

 なんと傲慢で、恩知らずな民だろう、と、これを読んでいるわたしたちは思うかも知れません。しかし、このような神へ疑いや不信を、わたしたちも厳しい現実を目の当たりにした時には、抱いてしまうのではないでしょうか。
 それは、自分自身や、身近な人の危機だったり、失敗だったり、挫折だったり、わたしたちの人生を動揺させ、不安定にさせる様々な出来事のときです。また、今日はちょうど東日本大震災から7年になりますが、大きな災害など、思いもよらないことにあったとき。自分の力ではどうすることも出来ないことに遭遇するとき。わたしたちは、神は本当に世界を支配しておられるのだろうか。神は守って下さらないのだろうか。神を信じることは、虚しいことなのだろうか。そんな風に思ってしまうことが、あるのではないでしょうか。
 神から心が離れるのは、自分自身の罪もありますが、このような外的な危機によっても、わたしたちの心はすぐに動揺し、神を疑い、壊れそうになってしまいます。

 このようなわたしたちの問いは、解決したり、納得する答えが与えられるものではありません。でも、わたしたちは、そのような疑問でも、怒りでも、悲しみでも、すべてを神に向けて良いのです。
 わたしたちは、この世に神がおられないのではなく、わたしの力を超え、理解をこえている方が、わたしに相対しておられる、ということを知っています。そしてこの方は、ひたすらわたしを愛し、癒し、慰めて下さる方であり、またその力をお持ちです。この方のもとにしか、本当の癒しも慰めもないのです。

 マラキは、神に不信を訴え、疑い、反抗し、つまずく民に、神の預言を伝えました。
 「見よ、わたしは/大いなる恐るべき主の日が来る前に/預言者エリヤをあなたたちに遣わす。彼は父の心を子に/子の心を父に向けさせる。わたしが来て、破滅をもって/この地を撃つことがないように。」
 驚くべきことに、まず心を向けて下さるのは、父の方です。父の心が子に向けられ、無条件に、一方的に、愛の眼差しが注がれる中で、はじめて子は、顔を上げて、心を父に向けることができるのでしょう。

 そうして、この預言の実現として、民には洗礼者ヨハネが遣わされ、ヨハネは神の方へと心を向けさせました。そうして心を向けた先に、このヨハネが来たるべき方として示したのは、どなただったでしょうか。
 それは神の子イエス・キリストです。神の裁きを、破滅をもって地を撃つ、そのような神の怒りを、わたしたちの罪を、一身に負って下さり、十字架に架けられ、苦しみ、血を流し、死なれた方です。罪の赦しをご自分の命によって与えて下さった方です。ヨハネは「悔い改めよ」と叫びつつこの方を指し示します。

 父なる神の愛は、このキリストのお姿にすべて現わされています。わたしたちは、どのような時も、喜びの時も、嘆きの時も、いつも目の前に立って下さっているこの方のみを見つめるべきです。主イエス・キリストに心を向ける時、わたしたちは、苦しみも嘆きも悲しみも全て代わりに担い、すべての罪も、死も、滅びも担い、人を愛し抜いて下さる神の愛に触れることが出来ます。ただわたしたちが神のもとに立ち帰り、神の愛のもとに生きるために、この方が、すべての苦しみを担い、完全に罪を贖って下さったのです。
 この方にわたしたちの心が向かうなら、わたしたちは、人生の中で自分の思い通りにならないことや、耐えられないと思うようなことに出会っても、人の力ではない、すべてを支配される神の力に支えられて、神の愛に支えられて、絶望せず、死にも飲み込まれず、立ち上がって、歩んでいくことができるのです。
 いつもこの方に心を向けなさい、この方を見なさいと、わたしたちも呼びかけられているのです。

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