主日礼拝

強い者と弱い者

「強い者と弱い者」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章27-31節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第14章1-12節
・ 讃美歌:295、141、542

信仰の弱い人を受け入れなさい  
先週に引き続いて、ローマの信徒への手紙第14章1~12節よりみ言葉に聞きたいと思います。この手紙を書いたパウロはここで、キリストによる救いにあずかり、教会に連なる者とされた信仰者たちの新しい生き方を、具体的に語っています。本日の箇所の冒頭の1節に、「信仰の弱い人を受け入れなさい」とあります。これが、この部分でパウロが語ろうとしている具体的な勧めです。この勧めは3節では、「人を軽蔑してはならない、裁いてはならない」と言い換えられています。人を受け入れるとは、軽蔑したり、裁いたりしないことです。それがキリストによる救いにあずかったあなたがたが身に着けるべき新しい生き方なのだ、とパウロは教えているのです。  1節の後半には「その考えを批判してはなりません」とあります。信仰の弱い人を受け入れ、その考えを批判してはならない、と言っているわけですが、これは、何を考え、何を信じるかはそれぞれの自由なのだから、人の考えにとやかく口出しをするな、ということとは違います。以前の口語訳聖書ではここは「ただ、意見を批評するためであってはならない」となっていました。教会が、信仰の一致の下に、良い共同体を築くためには、間違った考え方や行いに対する批判や忠告、場合によっては叱責も必要です。批判や忠告をすべき時に、事を荒立てたくないからと黙ってほったらかしにしておくことは、相手を本当に愛することにはなりません。人間には罪があり弱さがありますから、間違いに陥ることがあります。そんな時にはお互いに忠告し合い、悔い改めがそこに起こることが大切なのです。しかし、私たちの批判や忠告はしばしば、「ただ、意見を批評するため」になってしまいがちです。そこには人を軽蔑したり裁いたりすることが起ります。批判や忠告の名を借りた攻撃、弱い者いじめになってしまうのです。そのような批判や忠告は何の効果も生みません。批判や忠告は、軽蔑したり裁いたりすることのない、相手を受け入れる思いの中でなされてこそ、相手に届くのです。ですから「その考えを批判してはなりません」という教えは、人は人、自分は自分で好きなようにすればよい、という個人主義を勧めているのではなくて、同じ主イエス・キリストを信じる信仰に生きる共同体である教会において、本当に良い交わりを築くための教えなのです。そのために先ず第一に必要なのは、人を軽蔑したり裁いたりする思いから解放されて、お互いに相手を受け入れることだ、と言っているのです。

信仰の強い人と弱い人  
 パウロがここで「信仰の弱い人」と言っているのはどのような人々のことだったのでしょうか。「信仰の弱い人」がいるということは逆に「信仰の強い人」がいるということです。この「強い人と弱い人」の間にはどのような違いがあるのでしょうか。2節にその具体的な内容が語られています。「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」とあります。「何を食べてもよいと信じている人」それが「信仰の強い人」です。「信仰の弱い人」は野菜だけを食べているのです。これは胃腸が強いとか弱いということではありません。信仰の問題です。信仰のゆえに野菜だけを食べている人がいる、つまり信仰者は肉を食べるべきでない、と考えている人がいるのです。それに対して、信仰のゆえに、何を食べてもよいと考えている人もいます。信仰によって私たちは、これは食べてもよい、これはいけない、という食べ物についての掟から解放されているのだ、ということです。当時の教会の信者たちの間にこのような考え方の相違があったのです。  この、肉を食べてもよいかどうか、という問題の背景には、当時、偶像の神々の神殿に一旦供えられた肉が下げ渡されて市場で売られていた、という事情がありました。偶像の神々に一旦でも捧げられた肉は、唯一の神のみを信じるユダヤ人、またキリスト信者にとっては汚れたものだから食べるべきではない、という考え方があったのです。このことについてパウロはコリントの信徒への手紙一の第8章で論じています。そこにおけるパウロ自身の結論は、偶像は木や石や金属の塊でしかないものだから、その前に供えられたことによって肉が汚れたものとなるようなことはない、だから売られている肉はその出所を詮索せずに食べてよい、ということでした。つまりパウロはここで言う「何を食べてもよいと信じている」人なのです。そしてパウロはそのような考え方をしている者を「信仰の強い者」と呼び、「肉を食べてはならない、野菜だけを食べるべきだ」と言っている者は「信仰の弱い者」だと言っているのです。

信仰による自由を得ているか  
 ここでの「信仰が強い、弱い」というのは、信仰において強い確信や信念を持っているかどうか、ということとは違います。信仰のゆえに肉を食べずに野菜だけを食べるというのは、ある意味で大変強い確信と信念に生きている姿だと言えます。しかしパウロはその人たちは「信仰の弱い者」だと言っているのです。パウロが見つめているのは、信仰者としての確信や信念が強いか弱いかではありません。主イエス・キリストによってどれだけ自由を与えられているか、神の救いの恵みをどれだけ本当に信頼して生きているか、ということをこそ彼は見つめているのです。パウロにおいて信仰とは、掟や戒律を守ることではなくて、主イエス・キリストの十字架と復活によって一切の掟、戒律から解放されて、神による自由に生きることです。つまり、掟を守るという正しい行いによって救いを獲得しようという思いを捨て去って、神が恵みによって、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えて下さった救いをいただき、それに感謝して生きることが信仰なのです。神が無償で与えて下さったこの救いの恵みに信頼して、そこに与えられる自由が生活の中にはっきりと現れている人こそが信仰の強い人です。逆にその神による救いの恵みよりも、自分の力、自分の正しさに依り頼んで生きており、それゆえに様々な掟に縛られている人が信仰の弱い人なのです。

信仰の強さ弱さは根本的な問題ではない  
 しかしパウロはそのように語ると同時に、野菜だけを食べている信仰の弱い人を受け入れることを求めています。この人々は、主イエス・キリストによって与えられている本当の自由をまだはっきりと捉えることが出来ていません。そのために、いろいろな掟や昔からの慣習に縛られています。神の恵みへの信頼が十分であるとは言えないのです。しかし彼らも、主イエスを救い主と信じて、教会に加えられた信仰者であることには変わりありません。そのことのゆえにパウロは彼らを、信仰がまだ弱い兄弟として受け入れるのです。間違えてはなりません。この人たちは、野菜だけを食べるという掟を守ることで自分の力で救いが獲得できると思っているわけではありません。そうではなくて彼らも基本的には、主イエス・キリストによる神の恵みによる救いを信じているのです。しかし、具体的な生活における信仰の実践において、肉を食べないという掟を自分に課すことによって、信仰者としての生活を守ろうとしているのです。つまり彼らにとっては肉を食べないことが、キリストによる救いにあずかった信仰者として生きるための支えとなっているのです。そこに「弱さ」があることは確かです。そういう目に見える支え、外面的な形がなければ信仰者としての生活を守れないという弱さです。そのような外面的な支えなしに、何を食べてもよい、という生活をしながら、つまり信仰を持っていない人と外見においては全く変わらない生活をしながら、主イエス・キリストによる救いを信じて、神にこそ依り頼む生活をしていくことは、より難しいことであり、そのような人の方が信仰の強い人だと言えるのです。しかし人間の側の信仰におけるこの強さと弱さは、キリストによって与えられる救いにあずかることを左右するわけではありません。信仰が強いことによって救われるわけでもないし、信仰が弱いと救われないわけでもないのです。

ある日を他の日より尊ぶか  
 「信仰の強い人と弱い人」ということでパウロがここで見つめているもう一つのことは、5節にある、「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいる」ということです。これは、キリスト信者になってからもなお、旧約聖書に語られている祭の日を尊び、その祭儀に参加している人と、主イエス・キリストによってそれらの祭儀は既に完成したのであり、もはや不要となっている、という信仰に生きている人がいる、ということでしょう。前者が「信仰の弱い人」、後者が「信仰の強い人」です。ここでも根本的な問題は先ほどと同じで、キリスト信者として生きる上でも、旧約聖書に語られている祭儀を守るという外面的な支えを求めようとする人と、キリストによって成就した救いのみ業のゆえにそれらはもう必要ない、と割り切ることができる人の違いです。先祖伝来行なって来た祭儀をやめることは大変勇気のいることであって、それを敢えてすることができるのは、主イエス・キリストによる神の救いの恵みへの確固たる信頼があるからです。その信頼に生きている人が「信仰の強い人」です。しかしそれがまだできない、信仰の弱い人も、だからといってキリストによる救いにあずかっていないわけではない。彼らも同じ救いの恵みをいただいている兄弟なのだ、とパウロは言っているのです。

お互いに軽蔑し合い、裁き合っている私たち  
 ところでパウロは、信仰の強い人は弱い人を受け入れなさい、とだけ言っているのではありません。3節の「食べる人は食べない人を軽蔑してはならないし、食べない人は食べる人を裁いてはならない」から分かるように、「食べる人」つまり信仰の強い人が「食べない人」つまり弱い人を、「あの人の信仰は不十分だ、キリストによる救いへの信頼が足りないのでこだわらなくてもよいことに捕えられている」と軽蔑しているかと思えば、「食べない人」つまりここで言うところの「信仰の弱い人」が、「食べる人」を、「あの人たちは信仰者としての自覚が足りない。あれでは信仰を持っていない人々と同じではないか」と裁いているのです。つまり両者の関係は決して、一方が強くて他方が弱く、強い方が弱い方をいじめている、というものではありません。パウロが「信仰が弱い人」と呼んでいる人々は決して自分たちは信仰が弱いとは思っておらず、むしろ自分たちの方が立派な信仰生活を送っている、その意味で「信仰の強い者」だと思っているのです。そしてパウロが「信仰の強い人」と呼んでいる人々のことを、信仰的自覚が足りない人、つまり信仰の弱い人として裁いているのです。

他人の召し使いを裁く思い上がり  
 ですから私たちが考えなければならないのは、自分は信仰の強い人だろうか弱い人だろうか、ということではありません。例えばここを読んで、「私は信仰の弱い者なのだから、周囲にいる信仰のより強い人たちは、パウロが教えているようにもっと私のことを受け入れるべきだ」などと思ったりしたら、それはパウロがここで語ろうとしていることが全く分かっていないのです。パウロはここで、私たち人間は、自分が強いと感じていようと、弱いと感じていようと、どちらの人も同じように、人を軽蔑したり裁いたりする思いを持っているのだ、ということを見つめているのです。そして人を軽蔑したり裁いたりする時、私たちは相手に対して「強い者、相手より正しい者、相手を批判する権利のある者」という立場に身を置いているのです。そういう私たちに対してパウロは4節で「他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか」と言っているのです。「あなたは、人を裁くことによってその人の主人であろうとしている。しかしその人はあなたの召し使いではない、神の召し使いなのだ。神がその人を受け入れ、ご自分の召し使いとしておられるのだ。神の召し使いを自分の召し使いのように裁くあなたは思い上がっている」ということです。このような思い上がりは、自分を強い者だと思っている人だけでなく、弱い者だと思っている人にも、同じように起るのです。

強さと弱さの逆転  
 またパウロがここで語っていることは、信仰の強さと弱さについて私たちが普通に考えていることをひっくり返します。信仰のゆえに肉は食べないという、一見いかにも信仰者らしい生活を送っている人が、実は「信仰の弱い人」なのです。私たちは、信仰が強いとか弱いということを、このような外面的なことによって判断していることが多いのではないでしょうか。例えば、毎週休まずに礼拝を守っている人は信仰の強い人、そうでない人は信仰の弱い人、という評価を下してしまうことがあります。しかしそのようなことは単純には言えないのです。信仰が強いというのはそのような外面的なことではなくて、主イエス・キリストとの交わりがしっかりと確立していることです。主イエスによる救いの恵みへの信頼と感謝が日々の生活に具体的に現れていることです。いろいろな事情で礼拝にあまり出席できなくても、主イエスへの信頼と感謝に生きているということはあるのです。そのように言うと、じゃあ礼拝なんか守らなくてもいいということか、とすぐに言い出す人がいますが、そうではありません。主イエスとの交わりの内に、神への信頼と感謝に生きている人は、その神のみ言葉を聞くことを願い求め、主イエスとの交わりに生きるために、出来る限り礼拝に集い、神のみ前に出ることを求めるのです。礼拝をないがしろにするようなことはないのです。だから礼拝は勿論、神との、主イエスとの交わりに生きるために不可欠です。しかしそれが、礼拝を守っているから自分は強い信仰に生きている、という自己満足を生み、それによって人を批判したり裁いたりすることが起るなら、それは、肉を食べない人が食べる人を裁いているのと同じことになっているのです。  このように私たちは、自分は信仰が弱い者だと思いながら実は強い者として振る舞ってしまうこともあれば、自分は信仰が強いと思っている中で実は弱い者になってしまっていることもあるのです。いずれの場合においても、人を批判し、軽蔑し、裁くことが起ります。つまり根本的な問題は、信仰が強いか弱いかではなくて、私たちの中にある、人を受け入れずに裁く思いなのです。その思いからの解放こそが、キリスト信者の生き方における重要な課題なのです。パウロが14章から15章にかけて語っているのはそのことです。

主が立たせて下さる  
 人を軽蔑し、裁く思いから私たちはどのように解放されるのでしょうか。パウロは先ほど見たように4節で、あなたが裁いているその相手は、他人の、つまり神の召し使いなのだ、と語っています。人を裁くことは、自分がその人の主人となってしまうことであって、それは私たちの思い上がりなのです。このことについては先週の説教においてもお話ししました。本日は、4節の後半に注目したいと思います。「召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます。主は、その人を立たせることがおできになるからです」というところです。主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加えられている信仰者は、主イエス・キリストのもの、主イエスの召し使いです。その召し使いが立つのも倒れるのも、主人である主イエス次第なのです。信仰者が立つとは、神との交わりの中で歩み続けることであり、倒れるとは、神との交わりを失い、つまずき倒れて神のもとから失われてしまうことです。そのどちらになるのかを決めるのは、信仰者本人がどれだけ熱心に信仰に励んでいるかではありません。つまり私たちの信仰が強いか弱いかによって立ったり倒れたりするのではないのです。私たちが信仰者として立つことができるのは、主人である主イエスの恵みによることです。そして主イエスは、私たちを立たせることがおできになるのです。私たちを信仰者として立たせようとしておられるのです。私たちがどんなに弱く、罪深い、主の召し使いとして良い働きができない者であっても、主イエスがその恵みによって私たちを立たせて下さるのです。私たち自身も、また他の信仰者たちも、この主イエスの恵みによって信仰者として立てられているのです。このことをしっかりと確認するところに、人を軽蔑したり裁いたりする思いからの解放が与えられるのです。食べる人は食べない人を受け入れ、食べない人も食べる人を受け入れて、食べる、食べないという違いがある中で、しかしお互いに、自分も相手も共に主イエス・キリストが召し使いとして立たせて下さることを信じて、良い交わりを築いていくことができるようになるのです。その交わりにおいては、食べる人も主のために食べ、食べない人も主のために食べない、そして共に主に感謝するのです。

自分のことを神に申し述べる  
 私たちがどのように弱い、罪深い者であっても、主は私たちを立たせて下さる、救いの恵みを与え、新しく生かして下さる、そのように確信することができるのは、主イエス・キリストが私たちのために苦しみを受けて十字架にかかり、またその死から復活して下さったからです。主イエスが私たちの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって下さったことによって、私たちは罪を赦されて、神の子として立てられたのです。また主イエスが復活して永遠の命を得て下さったことによって、私たちも、永遠の命へと復活する希望を与えられているのです。この十字架と復活の主イエスが私たちの主人となって下さっているから、決して強い者ではない、罪に満ちている私たちが、自分の力や熱心さによってではなく、主イエスによって与えられた神の恵みによって立つことができるのです。そして同じように私たちの兄弟である他の信仰者たちも、それぞれいろいろな弱さを持ち、罪があり、また私とは違う考えを持ち、主に仕える仕方が違っていても、その人もまた主イエス・キリストの恵みによって立つことができるのです。父なる神はその人々をも立たせるために、独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。その人を、どうして私たちが軽蔑したり裁いたりできるでしょうか。裁くことができるのは神お一人であり、私たちは皆その裁きの座の前に立つのです。そのことが12節において、「それで、わたしたちは一人一人、自分のことについて神に申し述べることになるのです」と語られています。私たちは神の裁きにおいて、神の前でそれぞれが自分のことを申し述べることになるのです。これは、神による裁きにおいて、自分の潔白を証明できなければ救われない、ということではありません。私たちは、神の前で言い開きなどできない罪人なのです。しかし私たちは、神の前で、自分のことを、ありのままに申し述べることができます。自分のありのままの罪の姿、弱い姿、恥ずかしい姿を、神にお委ねすることができるのです。その私たちを、神は裁いて滅ぼそうとしておられるのではなくて、恵みによって受け入れ、罪を赦し、神の子として立たせて下さるのです。そのために、神の独り子イエス・キリストが十字架の苦しみと死を引き受けて下さったのです。この主イエスによる罪人への救いの恵みが既に与えられていることを共に見つめていくところに、人を軽蔑し、裁く心から解放された、神の召し使いどうしの新しい交わりが生まれるのです。その交わりの中で私たちは、自分の力や強さによってではなく、主によって新たな力を得て立ち上がり、歩き出すことができます。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。主が立たせてくださるところにはそのような歩みが与えられるのです。

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